Kの理論 「華麗なるブレイクアウト」 Breakout Magnificent.

脱走・・・ただ道は一つ。いつも道に一人。万人は来ない。脱線し続けるサイボーグ社会からの脱出。

ジャスト・ロード・ワン  No.32

2013-10-12 | 小説








 
      
                            






                     




    )  狸谷  ②    Tanukidani


  窓ガラスの夜景のなかで御嶽の精子が踊りはじめた。
「 京都人の口に戸は立てられぬもので村人達が実(まこと)しやかに語るように、秋一郎は石川の真言宗寶泉寺ほうせんじの修験道光雲に拾われた捨子なのだ・・・・・ 」
  そう和歌子が聞いてをり、修治も改めて確認したからであろうか。すると比江島修治の眼に蜃(しん)が泛かび上がってきた。
  阿部家の龍田丸は龍田神に由来する。この龍田神を阿部家では「蜃(しん)」という。
「 蜃は気を吐いて楼を顕し蜃気楼を示現させるのだ・・・・・ 」
  阿部家伝によると、蜃とは角(つの)、赤いひげ、鬣(たてがみ)をもち、腰下の下半身は逆鱗であるとする。そしてこの蜃の脂を混ぜて作った蝋燭(ろうそく)を灯して幻の楼閣が見られるといゝ、さらに蜃の発生について、蛇(じゃ)が雉(きじ)と交わって卵を産み、それが地下数丈に入って竜(たつ)となり、さらに数百年後に天に昇って蜃(しん)になると伝えた。
  つまり蜃は蛇と雉の間に生まれた神気楼なのであった。
  阿部秋一郎という男は、まさしくこの蜃気楼なのだ。
                           


  高野山真言宗寶泉寺は、金沢市の東茶屋街から卯辰山(うだつやま)のふもと子来坂(こらいざか)を上がると右に山号を摩利支天山とする山門がある。修験道光雲は幕末のころ清国(しんこく)に渡って修行を積んだ人で、少林寺拳法の達人でもあった。
  秋一郎は一歳半で拾われた時から、この光雲に拳法と学問と修験道を叩たたき込まれた。
  そんな秋一郎が阿部家の第二十四代目として養子に迎え入れられた経緯(いきさつ)はやや複雑である。
  このころ朝鮮半島をめぐる大日本帝国と大清国の戦争が熾おころうとしていた。
  当時の朝鮮では、明治のザンギリ頭に浮かれ、これを文明開化と謳歌(おうか)する日本人には、到底想像すら出来得ない日本敵視の民衆心理が三百年以上にも及び根付き続いていた。それは西郷隆盛らの征韓論によって蒸し返されるが、朝鮮民衆は、豊臣秀吉の朝鮮侵略によって受けた民族的苦痛と屈辱が長く人民の間に記憶されている。その上に当時、朝鮮政府の重税政策、官僚たちの不正腐敗の横行、日本人の米の買い占めによる米価騰貴とうきなどに苦しみ、打ち続く旱魃(かんばつ)において未曾有(みぞう)の飢饉に悩まされていた。
  これらに耐えかねた朝鮮の農民らが、日本への米の流出防止、腐敗する官吏かんりの罷免、租税の減免を要求して立ち上がることになる。1894年6月、朝鮮史上最も大規模な農民蜂起であった。この農民蜂起は、東学(とうがく)の信徒が主導して地方官の悪政に対する抵抗に始まるのであるが、東学とは西学(キリスト教)に対し儒教、仏教、道教を折衷した新興宗教で、先導する朝鮮政府への抵抗が多くの農民を蜂起させた。これが甲午(こうご)農民戦争という内乱である。
  朝鮮政府は、自力解決は困難と判断して清国に救援を求めた。清国は直ちにこれに応じ、清国軍第一陣約一千名の牙山上陸を開始した。清国が日本に送った通知には「 属邦保護のための出兵 」だとある。これだけを切り取ると清国の行為は明らかに天津条約違反であった。この日清間で交わされた天津条約は1885年4月(明治18年)に締結したものであるが、これと期を同じくして、当時一歳半の秋一郎が甲斐駒ケ岳の山小屋で光雲に拾われていた。そこには出生を物語るかの手紙一状が添えられていて、秋一郎は籠(かご)の中で真っ白な正絹(しょうけん)に包まれていたという。



「 昔から、甲斐の駒ケ岳ェいうお山は、摩利支天の座りはるお山やさかいに・・・・・ 」
  人伝(ひとづて)に聞き覚えた秋一郎の出生秘話を、和歌子はあらためて静かにひも解いていた。
「 秋一郎は石川県の某士族の七男として生まれている・・・・・ 」
  明治維新で父親は家禄かろくを失い、公債証書七百円の年収でもって一家九人を養わねばならなかった。今の年収で150万円ほどの暮らし向きとなる。公債700円など年50円足らずの利子しかないのであるから九人ともなると、暮らしぶりは甚(はなは)だ酷(ひど)いものであったようだ。当時の記録に、普通の大工が7円、村巡査が10円の月給とあるが、これらからして生活の水準が非常に低い。しかも家禄を奪われ、食い扶持を失くした士族らの多くが満足な仕事さえ無く、流浪に等しい難儀な身の上で、裏面の明治維新とはそういう時代でもあった。国民が右往左往するそんな最中に拾われた赤児の籠に添えられて「 出でて去(い)なば主なき山と成りぬとも 軒端(のきば)の鳥よ雲を忘るな 」という歌が遺されていた。
  これは、あたかも光雲に宛て、光雲が拾ってくれることを予知して詠んだような歌である。たとえ我が身は滅びても、この歌だけは是非(ぜひ)とも残し、歌はやがて我子が生きることを証してくれるだろう、という武士(もののふ)の静かな諦めを光雲はこの歌に認め、注がれた親の熱い願いを光雲はおもんばかった。しかと承る辞世として、光雲はこの歌は悪い出来ではないと思った。
「 お母さま・・・・・ 」
  和歌子の胸に、長い間忘れていた慕情がこみ上げてきた。
  実母お華(はな)は、和歌子が4歳のころに他界した。母と慕う秀代とは後添えの人である。その実母の、飼い馬のうしろ肥爪(ひづめ)で顔面を蹴り上げられた非業の死は、享年20歳であるから夭折といえる。潰された顔さえも分からぬまゝ死別した若き躯(むくろ)には、和歌子が泣きながら追い求め慕い続けながらも心の中に培ってきた母の温もりが今もある。
  非業の死とはかくもあるものだ。

                               

  秋一郎を抱え松明たいまつで足元を照らしながら駒ケ岳の闇道を下ったという光雲の厚情が和歌子に伝わると、顔さえ泛かばぬ亡き母の無念さが慕われ、我乳飲み子を間引くとは自分を呑み込む地獄の境地のように思え、あの世の雪をかぶって立ち尽くし彷徨(さまよ)っているように感じられた。戦争の影に覆われた日々にあって、和歌子の人生の半分もまた同様の日々であった。
  しかし野の色、海の色だけは今よりもっと鮮やかな藍か青だったと記憶している。
  諸国の下級藩士らにとって、幕末という転換期は大いなる希望を抱かせる黎明の光であったはずだ。しかし維新の功労は平等には報われなかった。秋一郎の父母もまた同様であったのであろう。大政奉還から廃藩置県までの4年、ここから大日本帝国憲法発布まで18年、この22年間の維新期に、日本政府は妙な歪(いびつ)さを遺し庶民とはいつの時代でも哀れなもので、封建の世の徳川と同じように踊らされ翻弄(ほんろう)させられた。
  そう思う和歌子の目には、鹿鳴館という存在が、まるで浮世ばなれした物語のように映るのである。
  戊辰(ぼしん)戦争の戦禍の中にあって阿部家男系の血も砕かれて希薄化の危機に晒された。
「 あんなん格好(かっこ)よしやないか。鬼やないと、あゝは踊られしまへん 」
  鹿鳴館は明治初期の急激な西欧化を象徴する存在である。東京内幸町に建てられた洋風建築の社交クラブであるが、イギリス人コンドルの設計による煉瓦(れんが)造りの二階建ては明治16年に落成し、欧化主義がとられる中、内外上流人の舞踏会などが盛大に催された。これは秋一郎が生まれる二年前のことだ。



「 一体どこまでが文明開化ァいうもんやったんやろなぁ~・・・・・ 」
  和歌子は口元に皮肉な笑みを泛かべた。
  末慶寺(まつけいじ)は京都市下京区万寿寺櫛筍上ガルにある。朝鮮半島がこの内乱を引き起こす三年前の明治25年5月10日のことであるが、日本ではロシア皇太子ニコライを負傷させた大津事件が起こっている。騒ぎのなかの5月20日の夜、京都府庁の門前で、一人の若い女が自殺しているのが発見された。当時二歳の秋一郎が甲斐駒ケ岳の山小屋で光雲に拾われるのは同月25日のことであった。そこには出生を物語るかの手紙一状が畠山という名で添えられていて、秋一郎は籠(かご)の中で真っ白な正絹(しょうけん)に包くるまれていたという。末慶寺には、事件後に自殺した烈女とされた畠山勇子の墓がある。兄富造はしばしばこの寺に墓参していたようだ。だが和歌子にはそこまでの素性は伝わってない。しかし、孫の秋子はその何らかの関わりを富造から聞かされている気配だけは感じていた。
「 まことに不可解な秋一郎の出生である・・・・・ 」
  天津条約違反と甲午農民戦争を格好の材料に日本軍は、清国勢力の朝鮮半島からの排除を大義名分に、朝鮮独立、公使館警護、邦人保護を掲げて半島へと大軍を動員した。朝鮮半島の帰属問題から勃発したこの日清戦争を日本国側が勝利する。
  その後、日本が勝利したその情勢に切歯扼腕(せっしやくわん)した仏国、独国、露国は三国干渉で日本が中国から租借(そしゃく)した遼東(りょうとう)半島などを奪い取るのだが、そのことを契機に半島へと南下しようとする老大国のロシア帝国に対し新興の大日本帝国が挑む大戦が引き続き行われた。これが日露戦争である。



  光雲から引き取られるように秋一郎が阿部家の養子となったのは、折しも日本国が欧州屈指のバルチック艦隊を破り日本国側の制海権を確定させた1905年(明治38年)5月のことであった。
  このこき秋一郎は15歳である。
  日本国は、帝政ロシアを敵視するアメリカのユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの知遇を得て、ニューヨークの金融街として残額五百万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得したという経緯も有利に加担してか、東郷平八郎司令長官が率いる連合艦隊の一方的な圧勝は、世界各国の予想に反する結果であり、列強諸国を驚愕(きょうがく)させ、ロシアの脅威(きょうい)に怯(おび)える国々を熱狂させた。
  ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、1905年1月には血の日曜日事件が発生していたし、日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけた。日本も、当時の乏しい国力を戦争で使い果たし疲弊(ひへい)していたため、両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和することになる。こうした日清から日露戦争に至るおよそ10年という大戦の歳月は、光雲が清太郎を青年となるよう育て上げた10年でもあるのだが、阿部家の嫡子(ちゃくし)となる披露の席の秋一郎は、いぶかる村の衆らを愉快そうにながめ泰然と構えていられる器の男までに育てられていた。



  そして、狸谷に新たな春が訪れようとしている。
  その日は朝早うから阿部家の中庭に、三つの大釜を乗せた竈かまどを仮しつらえ、焚かれる大釜の上に重ねられた蒸籠(せいろう)からは、滔々(とうとう)とした真っ白い湯気が青空をくゆらすように立ち昇っていた。
「 華はん、お祝いや。こないな天上焚(てんじょうだき)、天晴れやし、豪勢かと思うてな! 」
  と、阿部家の祝儀に加勢する山端の女子衆(おなごし)らも皆それぞれに泛かれた口を叩いている。
「 せやけど、ほんに洋行でもしはる、お雛様みたいやんか・・・・・ 」
「 あれ見てみィな、あれ、ミッション・ガールいう制服なんやて 」
「 どこがえゝのか何んやよう分からへんけど、お華はんには、ようお似合いや思うけど・・・・・あれハイカラやいうンやて! 」
「 ほやけどなぁ~、なんぼお華はんが好きなかて、あないな格好しはっては世間体悪いし、家の立場よう考えはらんと、きっと檀家はん陰で泣いてはるんやないか思いますがな・・・・・」
  と、華の晴れの姿を見た村の衆が、誰彼となく面々にざわめいた。
  これは華が平安高等女学校に入学した春のことであった。



  鍔(つば)広の丸い大きな帽子、白い大きな襟と胸元にリボンをあしらった紺の上着、おそろい色のスカート、黒い革靴という華の出で立ちである。村の衆にとって日本初のミッション女学生のセーラー服がいかに眩しい存在であったか、想像に余りある。大正14年当時、女性の洋装は依然としてもの珍しい風俗であった。
  ざわめく村の衆が中庭を取り囲む中、中央に立つ祖父清衛門が満面の笑みで鼻高々に挨拶を終えると、総勢七、八十人はいる村の衆から華は一斉に喝采を浴びた。傍(かたわら)には馳せ参じるかのように集まった白装束の修験道五十人ほどがいた。
  猛々しく横一列に並び、喝采が静まると同時に、一人二人と次々に法螺貝を颯爽と繰り出し荘厳で重奏の音色は瓜生山をも飛び越え比叡山にでも奉ずるかのような勢いで山々を鳴り渡るように響いた。



「 これから皆で紅白のお餅つくさかいに、お華はんは、よう見ときやし。阿部家ェは、これより修験道の血ィと交わるンやよし!。山端もまた新たしい代にきっと栄えるんやわ・・・・・ 」
  腕まくりをした祖母の貞子がそう言いながら蒸籠を臼の上に逆さにすると、餅米から煙のように白い湯気が立ち、あたりに甘い匂いがたちこめた。この蒸米の湯立で鬼婿(おにがしら)を迎え阿部家の血は再燃した。
「 さあ、いくぞ・・・・・! 」
  秋一郎の号令で若い衆が声を上げた。
「 ほな、どっこい 」・・・・・臼が跳ねる。「 あいよ 」・・・・・秋一郎は桶(おけ)の水で手を湿した。
「 ほれ、どっこい 」・・・・・さらに臼は飛び跳ねた。
「 あいよ 」・・・餅を返すたびに山端衆の結束が固まった。
  くるくると入代わる若い衆の杵(きね)の響きに合わせて秋一郎は素早く餅を返した。
  ぴたりと息の合った掛け合いの声とともに、臼の中の餅米はみるみる餅に姿を変えてゆく。終盤になると秋一郎が一段と声を張り上げた。すると見守る村の女らは若い衆の杵に、男らは秋一郎の手に合わせて声を張り上げた。

                                  





                                      

                        
       



 京都 狸谷山不動院









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