今、生きているということは、道端のガードレールの欄干を歩いているように、危なっかしく、それはまさに奇跡的なことかもしれないと思っている。
なぜかというと、昨年の暮れに、犬友だった近所の奥さんの、突然の交通事故死にあい、今年はつづけざまに友だちの旦那さまが亡くなるという悲報を受け、
つい最近にも、今年成人するわが娘が中学校まで同級生だった友だちの妹である、中学生の自殺という痛ましい死にまで見舞われているからだ。
昨日まで会話をしていた人の姿も声も感じることができなくなるという怖さは、想像もできないほどの、いままで経験したことのない、全く知らない感覚であり、いつものように正常な普通の考えすら持てなくなったりするのだ。
人はよく「寿命だ」とか「運命には逆らえない」などと、本当にはよくわかっていないのに、さもわかったようなことを言ってしまうのは、
自分自身をその言葉で無理やり納得させているからかもしれない。
ただ、病気や事故で亡くなってしまうのは、その欄干から思わず足を滑らしてしまったことだとも思えるけれど、自殺はそうではない。
自ら進んで落ちることを選んだのだから。
このところ1年間に3万人もの自殺者があるという。
これは、戦争でもこんな人数もの人が亡くなったりしないのに、自ら死を選ぶ人がこんなにいるということは異常だと世間へ向けて知らしめ、
対策は真剣に考えなければなければ大変なことに為りかねない。
杓子定規に「命を大切に」とか生ぬるい言葉では、何の効果もないようなことになっている。
先の中学生の死は、「いじめ」らしいのだが、そのクラスのいじめた仲間たちが、
「テレビ局にインタビュー受けた」
とか、はしゃいでいたという。
その学校に娘が通っているある母親からの話しを聞くと、それは彼女たちにとって、まるで他人事、
ドラマのフィクションでも見ているような感じにしか思っていないのかと、
自分の娘なら、ぶんなぐったと言ったその母親には、全く同感してしまう。
打たれ弱い子どもが増えたのか、いじめをしていてもそれをいじめとは認識していない子が多いのか、
子どもが小学生から塾などで忙しくて遊ぶ時間(コミュニケーション)がないからなのか、
先生も研修研修で忙し過ぎるので子どもとのふれあいがないのが悪いのか、
親が忙しすぎて子どもが寂しすぎるのか、いったいどこに解決の糸口を見つければいいのだろうか。
これもみな「おもいやり」だけで解決できるはずなのに、この言葉はありふれた言葉なので、
誰も
「ふ~ん」
としか思わないかもしれないのだが、相手の立場になる、相手の痛みを感じる、その「おもいやり」の心を大人も子どもも持つだけ、それだけなのにと思ってしまうのだ。
例えば、自分の意見とその人の意見が違うからといって、それを無視(スルー)するのはよくない。
それが高じればいじめに繋がると思う。
そうされて、その嫌なことをじっと我慢しなさいそれがおもいやりだと言っているわけではない。
もしその人と自分の意見が違うなと思った時には、きちんと自分の意見を言って議論して、お互いに納得するように努めることでコミュも成り立つ。
それも、自分を含めて自戒しながらの「おもいやり」なのだと…。
なぜかというと、昨年の暮れに、犬友だった近所の奥さんの、突然の交通事故死にあい、今年はつづけざまに友だちの旦那さまが亡くなるという悲報を受け、
つい最近にも、今年成人するわが娘が中学校まで同級生だった友だちの妹である、中学生の自殺という痛ましい死にまで見舞われているからだ。
昨日まで会話をしていた人の姿も声も感じることができなくなるという怖さは、想像もできないほどの、いままで経験したことのない、全く知らない感覚であり、いつものように正常な普通の考えすら持てなくなったりするのだ。
人はよく「寿命だ」とか「運命には逆らえない」などと、本当にはよくわかっていないのに、さもわかったようなことを言ってしまうのは、
自分自身をその言葉で無理やり納得させているからかもしれない。
ただ、病気や事故で亡くなってしまうのは、その欄干から思わず足を滑らしてしまったことだとも思えるけれど、自殺はそうではない。
自ら進んで落ちることを選んだのだから。
このところ1年間に3万人もの自殺者があるという。
これは、戦争でもこんな人数もの人が亡くなったりしないのに、自ら死を選ぶ人がこんなにいるということは異常だと世間へ向けて知らしめ、
対策は真剣に考えなければなければ大変なことに為りかねない。
杓子定規に「命を大切に」とか生ぬるい言葉では、何の効果もないようなことになっている。
先の中学生の死は、「いじめ」らしいのだが、そのクラスのいじめた仲間たちが、
「テレビ局にインタビュー受けた」
とか、はしゃいでいたという。
その学校に娘が通っているある母親からの話しを聞くと、それは彼女たちにとって、まるで他人事、
ドラマのフィクションでも見ているような感じにしか思っていないのかと、
自分の娘なら、ぶんなぐったと言ったその母親には、全く同感してしまう。
打たれ弱い子どもが増えたのか、いじめをしていてもそれをいじめとは認識していない子が多いのか、
子どもが小学生から塾などで忙しくて遊ぶ時間(コミュニケーション)がないからなのか、
先生も研修研修で忙し過ぎるので子どもとのふれあいがないのが悪いのか、
親が忙しすぎて子どもが寂しすぎるのか、いったいどこに解決の糸口を見つければいいのだろうか。
これもみな「おもいやり」だけで解決できるはずなのに、この言葉はありふれた言葉なので、
誰も
「ふ~ん」
としか思わないかもしれないのだが、相手の立場になる、相手の痛みを感じる、その「おもいやり」の心を大人も子どもも持つだけ、それだけなのにと思ってしまうのだ。
例えば、自分の意見とその人の意見が違うからといって、それを無視(スルー)するのはよくない。
それが高じればいじめに繋がると思う。
そうされて、その嫌なことをじっと我慢しなさいそれがおもいやりだと言っているわけではない。
もしその人と自分の意見が違うなと思った時には、きちんと自分の意見を言って議論して、お互いに納得するように努めることでコミュも成り立つ。
それも、自分を含めて自戒しながらの「おもいやり」なのだと…。
