- 10話 -
ほぼ定時に仕事を終えて、外に出た。
12月半ばに前にいた支店の事務部門に戻ってからの平穏な日々。
クリスマスもあっという間に過ぎてしまって、今日30日で仕事終わり。
今日は、近くなった浪漫亭で彼と待ち合わせだ。
あの後、初めて彼と会うのだ。
あの時の記事は…
結果的に出てしまった。
それでも、彼の事務所が粘ってくれて極力私の情報を抑えてくれたみたい。
と、言うよりも彼が事務所にかなり食い下がってくれたと…
これは、高橋さんが教えてくれた。
ただ、それと引き換えに一般人の彼女がいると公表することになったけれど。
待ち合わせの時に撮られた、後ろ姿の少しボケた写真も公開された。
SNSなんかで色々噂されたけど、悪意のあるものは少なかったらしい。
それでも、私は上司に報告した。
外から漏れたら嫌だったから。
結果、用心のため異動になったという訳。
結局、事務所から会うなと言われることも無かった。
だから今日、近くなった浪漫亭で待ち合わせになったのだ。
もう彼とのことは隠すこともないから、まゆみちゃんにさんざん弄られてしまった。
『ラブラブですね』なんて言われて…
ラブラブ…
正直、私はどこかで彼のことを信じてきれて無かったような気がする。
彼は事務所には逆らえないかもしれないって、ほんのちょっぴりだけど思ってたから。
だって、どう考えても大事な仕事が優先されるはずだもの。
それってラブラブだって言えるの?
私の気持ちはずっと、グダグダしてた。
ヤキモチ焼いたり、迷ってみたり。
そんな私のことを、全力で護ってくれた。
それが申し訳なくて…
今日会うのも、いいのかなって思ってしまってる。
会いたい気持ちは嘘じゃない。
でも、胸に残る申し訳なさが私をもやもやとさせるのだ。
もやもやの元はもう一つ。
また、三原さんと同じ職場になったこと。
彼とのことを知ってるくせに、時々意地悪なことを言って弄られる。
「いつも側にいてくれる彼氏の方が、美海には合ってるんじゃない?」
「つらくなったら、俺に言ったらいいよ」
弄っているのか、本気なのか…
「あぁー…もう、しっかりしろ、私」
声に出して右手で頬をパチンと叩いた。
もうあの信号渡ったら浪漫亭じゃない。
…陽介さん、もう来てるかな。
顔を見たら…声を聞けたら。
そして2人で笑いあえたら、こんなもやもやは吹き飛ぶような気がする。
10月期のドラマも終わり、CMの撮影も無いということで、今年は早めに休みになった。
そんな訳で、仕事納めの美海と久々に浪漫亭で待ち合わせしてる。
時間があったから、早々に着いてしまった。
久々というか…週刊誌に突撃されたあの晩以来?
あの時は、美海を守るために必死だった。
三浦さんの時みたいに、一般人である美海の情報がダダ漏れになるのは絶対に避けたかった。
結局、三浦さんは例の彼女と別れたらしいからな…
事務所は所属してる人間を護る気はあるけど、その相手の面倒まではなかなか見てくれない。
今回は、なぜかチーフマネージャーが俺の話を聞いてくれ、週刊誌側と交渉してくれたのだ。
『どうしても護りたい子なんだな?』と聞かれた。
『彼女有りだと公表したら、女性ファンは多少なりとも減るぞ』とも。
それでもいいと言ったから、美海の情報はあのボケ気味の後ろ姿だけになった。
美海は、上司には報告したらしいけど…
ブレイクと言われもてはやされて、自分も変わらなきゃその変化について行けなかった。
変わると言っても、簡単にすっと変われるわけじゃない。
そんな中で美海に対する気持ちだけは、変わらなく胸の中にあり続けたんだ。
その気持ちと美海がいてくれたら。
俳優と言う厳しい世界を生きられると思えた。
美海も、そう思ってくれていたら嬉しいんだけどな。
俺の気持ちを押し付けたくはない。
ただ自然とそうなってくれたら…
もうすぐ待ち合わせの時間だ。
あの階段を、美海が登って来る。
久しぶりに登る浪漫亭の2階への階段。
いつもの席に向かったら、頬杖をついてこちらを見てる彼がいた。
「陽介さん、おまた…」
「美海、、」
手首を引かれ、彼の隣の席にストンと座る。
手を取られて見合ったら、目の前に彼の笑顔があった。
目を細めてきゅっと上がったくちびる。
「待ってた。会いたかったよ」
あぁ、もう。
こんな短い言葉で、もやもやが消えて行く。
あなたが言ってくれた言葉が、私の胸をドキドキで埋めてしまう。
狡い。
狡いよ…
私、色んなこと考えすぎてどんな顔していいのか、分からなくなってたのに。
「何か言いたそうな顔…」
両手で頬を挟んで、きゅっとまっすぐ顔を向けられる。
「だって…狡いんだもの」
「え?狡い?何が?」
「そんな風に、何も無かったみたいに笑ってるから…私、どんな顔したらいいんだろうって、ずっともやもやしてた」
「美海は考え過ぎ」
挟んでる頬を手のひらでぺしぺしとはたいて、頬から手を離した。
そして、その手が私の両手を包むと、彼の温かい温度が伝わって来る。
「そりゃ、色んなことがあったよ。こんなに会えないのかって位、会えない時も。今だってまあなかなか会えてないけどね。でも、ほら、見て」
見て…?
彼が振り向いたのは、カウンター席。
「美海があそこで待ち合わせしてた時から今まで、美海を好きな気持ちはずっと俺の胸の中にあるよ。それはこれからも変わらないから」
少し照れて、はにかんだ彼の笑顔。
思い出した。
三原さんと都の、見たくないものを見てヤケで飲み過ぎた私を助けてくれたこと。
お礼を言いに言った時、向かい合わせて座った彼は、こんなふうに笑ってくれた。
私は、憧れてた人の笑顔を見て、ただただきゅんとしてた。
「だからさ、この間のことを絶対拗らせたくなかった。ずっと美海といたいから」
「そんなふうに思っていてくれて、嬉しい…なのに私、陽介さんにもどうにも出来ないんじゃないかって…」
「ストップ。もう、あれこれ言わなくていいよ。美海がこれからも俺といてくれれば、それでいいんだ」
「うん…」
2人並んだまま、濃いコーヒーをゆっくり飲んだ。
なんかベンチシートみたいって笑ってしまったけど。
拗らせたくなかったって、言うほど簡単じゃなかったはずなのに、ぐらぐらと揺れる私を受け止めてくれた。
2人の初めての場所、この浪漫亭のこの席で。
「じゃ、そろそろ行こうか」
まったりした空気を、唐突に彼が変えた。
立ち上がった彼が私の手をを引く。
顔を見るといたずらっ子みたいに笑ってる。
「ちょっと待って。どこに行くの?ご飯食べに?」
「そう、ご飯食べに。とりあえず行こう」
外に出て、前の通りを駅とは反対側に歩く。
あれ?
こっちに行くと噴水のある広場に出るけど…
近くにお店なんてあったかな?
広場を抜けてから彼が立ち止まったのは、レンガの塀で囲まれた敷地に、背の高い木がたくさん植えられた一角。
上を見上げると、この街には珍しい高層マンションだった。
「ここって…まさかマンションの下にお店があるの?」
「いや、実はこの間ここに引っ越したんだ」
また歩き出しながら言われて、面食らった。
「え、、どうしたの、急に?引っ越したいなんて言ってた?」
「いや、考えてなかったよ。でも、事務所からも近いここにマンションが出来るって聞いて、この辺に住むのも悪くないかもって気になったんだ」
ロビーのゲートの先のエレベーターに乗って、降りたら地上はずいぶん下…
「ここだよ」
彼について入った部屋。
廊下の奥は眺めのいいリビングだった。
ガラスの向こうに見える夜空は、灯りに彩られてキラキラしてる。
「そこのソファに座ってて」
言われるままソファに座ると、手際良く運ばれてくる鍋と食材。
「ねえ、陽介さんが作ってくれるの?」
「まあね」
ちょっと得意気な声。
こんな彼、初めて見たかもしれない。
ローテーブルの上には寄せ鍋とちょっとしたお惣菜の小鉢。
これを私のために用意してくれたんだ…
お鍋のせいだけじゃなく、頬に熱が灯る。
「よし、これでOK」
彼が座ると、2人でビールのグラスを合わせた。
初めての彼の部屋、彼が作ってくれたお鍋。
久しぶりに会うのは相変わらず同じだけど、今夜は今までと違う夜になるかもしれない。
そう思ったらまた、胸の中が煩くなる。
彼がすると言ってくれたけど、食事の後片付けは私がした。
真新しいキッチン、やっぱりいいな。
どこもかしこも綺麗。
お鍋だったし、そこまで多くなかった洗い物。
きゅっと水を止めてリビングを見ると、彼が窓際に立って手招きをしてる。
そう言えば、さっきまで窓の外を見てた。
リビングの窓は一面の大きな窓だから、夜の街がよく見えるって言って。
「美海、こっちおいで」
彼に近づくと、肩に手を置いて私を窓際に押した。
されるがままに大きな窓の前に立ったら、ふわりと彼の腕に包まれた。
背中に、彼のぬくもり。
「ほら、あそこ見て?ここから浪漫亭が見える」
「ほんとだ…」
こんな風に、彼に抱きしめられるのは初めてではないけど…
今だに慣れない。
落ち着いてた胸の音が、また煩く鳴り出してしまった。
「こうして見るとけっこう古いんだな」
彼の声が、耳の後ろから響く。
…やっぱり、彼の声が好き。
そんなことが浮かんだら、ドキドキと鳴る胸の奥がきゅっとなった。
「私、あのお店が無かったら、陽介さんと出会えなかった」
私を包んでる彼の指に触れる。
「…うん。そうだな…それに、美海を好きにならなかったら、浪漫亭でエッセイをグダグダ書いてる、燻った俳優のままだったかも。そうしたら、こんなとこには住めなかったな」
「そんなこと…私がいなくてもちゃんと今の陽介さんになってたでしょ」
「美海がそう言ってくれるのはありがたいけどね。美海への気持ちで、俺は芝居のやる気が出たんだ。だから」
だから、って言った後私を見つめる目は、お芝居のラブシーンの時よりずっと色っぽくて。
思わず俯いたら、彼が右手を伸ばしてトン、とスイッチを押した。
ゆっくりと目の前のカーテンが閉まるのを見て、彼を見上げた。
「もっともっと、美海のこと知りたい。まだまだ知らないところいっぱいあるから。だから…ここから先は、カーテンは閉めないとね」
頭の後ろに彼の手のひらがまわり、彼の顔が目の前になった。
「誰も見てないとは思うけど」
目を閉じる時、揺れるカーテンの隙間から一瞬月が見えた。
今夜はどんな夜になるだろう。
夜が明けたら、綺麗な月が見てたって彼に伝えなくちゃ。