翌週。
どんな顔をすればいいのか自分でもドキドキしたけれど、拍子抜けするほど高橋くんはいつもの高橋くんだった。
…仕事のときは。
お昼を食べるとき、外回りから戻るとき、事務仕事の休憩中、帰宅する電車の中、初めて訪れた彼の部屋…
仕事以外の時の高橋くんは、あっという間に私との距離を詰めて来た。
私がまだちょっと及び腰なことなど、全く意に介さずに。
とにかく笑顔。
ニコニコニコニコしていて、高橋くんの笑顔に弱い私には、もはや笑顔攻撃だ。
そして、距離が近い。
顔が近い。
この人、こんな距離感の人じゃなかったはず。
なのに、
「最初の頃は用心してたから。今は…近づきたいだけです」
恥ずかしげもなく言って来る。
帰りが一緒になったある日。
地下鉄のホームで何気なく手を繋いで来るから、回りに職場の人がいないか、キョロキョロしてしまった。
あんまり急に距離を詰められるのは、お姉さん心臓に悪いのよ。
お姉さんじゃないけど。
「こんなの、急でもなんでもない」
そんな風に、真顔で言わないで。
「ちょっと、誰が見てるか分からないホームで、これはまずいよ」
「誰も見やしないよ」
離すもんかと力を込めるから、ひやひやして電車の進行方向を見た。
その先に見えたのは、目を見開いて立っている高橋くんの後輩ちゃん、宮崎さんだった。
「…お疲れさまです。いまお帰りですか」
彼女が近づいて来たから、手を離そうとした。
彼女に気づいてるはずなのに、高橋くんは離してくれない。
「宮崎、今帰り?」
「はい。営業さんは今あんまり忙しくないんですか」
「そこそこかな。ね、小山さん」
「えっ?ああ、そうね。今週は残業するほどじゃないかな」
宮崎さんの様子や目を見て、分かってしまった。
彼女の目は、幼なじみで先輩の高橋くんが好きな目だ。
ちらちらと私に向けられるのは、ショックと挑戦的な気持ちが入り交じっている目。
電車が入って来て、
「じゃあ私、もっと先で乗ります」
と言って、彼女は走っていった。
電車に乗ってつり革につかまってから、高橋くんに尋ねた。
「ねえ、宮崎さんの気持ち、知ってたの?」
「…今見てて、分かったの?」
「分かるよ。私を見る目がこの間と違ったもの」
「ちっちゃな頃から、なついてくれてたから…ふざけて彼氏になってとか、言われたこともあったなあ。でも、あの子は僕にとっては幼なじみの美緒ちゃんでしかないんだ。期待させるのは嫌だから、彼女が高校生になったら、名字で呼ぶことにしたんだ」
「…私は、幼なじみのお兄さんを盗っちゃったってことになるのかな」
「美樹ちゃん…そんな、自虐な発言しないの。僕の彼女になっただけだから」
「…彼女なのか」
当たり前のように言うから、恥ずかしくてつい、ひねくれた口をきいてしまう。
「彼女じゃないの?」
困った顔をさせてしまって、すぐ後悔する。
「…彼女です。」
ふふ、と笑う顔を見て私の頬も緩む。
仕事を一緒にしだした頃は、もう少し表情が変わらない人だと、思っていたんだけど。
それは、外側の顔だったのかな。
「それより、いつの間にか美樹ちゃんになってるのよ。外では名字で呼んでって言ったのに」
「ごめん…でも、もう会社じゃないし、誰も聞いてないと思うけどなあ」
なし崩しとは、このことだ。
彼のペースに振り回されてる。
8月に入って宮崎さんの希望を受けて、営業での研修が始まった。
各営業ペアに同行して、外回りを経験するところから。
私と高橋くんに同行するのは、週の終わりの金曜日と言うことになった。
木曜日の帰り。
用事のある高橋くんと別れ、地下鉄の駅へ向かって歩いていると、後ろから声を掛けられた。
「…小山さん」
振り向くと、宮崎さんが立っていた。
デニムのギャザースカートに、明るいブルーのフレンチスリーブのシャツ。
Vネックの首もとには、ピンクの石のネックレス。
同じ石のピアスをしてロングヘアをまとめてる姿は、やっぱり清楚な雰囲気で。
高橋くんの彼女って言うなら、きっとこっちがぴったりなんだろうな、といつもの自虐ぐせがつい出てしまう。
鎖骨の辺りまであるケロイドを隠すため、しっかり襟がある自分のシャツに、なんとなく手をやった。
「いま、お帰りですか?1人ですか?」
「ええ、まあ、用事もないので。宮崎さんも?」
「はい、私もです。あ、明日は外回りよろしくお願いします」
「こちらこそ。どう、数日やってみて」
「慣れなくて戸惑いますけど、頑張っています。私、営業で高橋さんと一緒に働きたくて」
あ、なんかちょっと嫌な予感がする。
こんな時は、逃げた方がいいわ。
「ごめんね、私あっちの方で買い物があるから」
駅の反対方向へ歩き出そうとした時だった。
「待って。お願いがあるんです」
「お願い?」
立ち止まると、宮崎さんは私の真ん前に立った。
目が潤み、必死な口元が早口の言葉を紡ぐ。
「お願いします。高橋さんを…敦さんを取らないで下さい。」
ああ、言われちゃった。
やっぱり、そう思うよね。
大好きな『お兄ちゃん』なら。
「美緒って呼んでくれなくなってから、諦めようと思ったけど諦められなくて。同じ職場で一緒にいたらきっと、私のこと見てくれるって思ったんです」
どう言葉を掛ければいいか分からなくて、口をあいたまま固まってる私に、さらに畳み掛けて来た。
「そしたら、小山さんと…。小山さんは年上でしょう?他に釣り合った年の人がいるんじゃないですか。」
そんなこと言われたって…
高橋くんが望んでくれたから、そうなったのよ。
でも、そんな言い方、私には出来ないよ。
「あの…」
それでも何か言わなきゃと口を開いたら、聞きなれた声が聞こえた。
「あれ?美樹ちゃん、まだ駅に着いてなかったの?」
用事を済ませて来たらしい高橋くんが、立っていた。
宮崎さんは、高橋くんを見てかなり驚いたらしく、慌てた様子になって、
「私、失礼します。」
さっと行ってしまった。
「美樹ちゃん…固まってる。宮崎と何か話してたでしょう」
「え…」
「何かびっくりするようなこと、言われたって顔に書いてある」
「そんなこと、何も言われてないよ」
じっと見てくる高橋くんから、目を逸らせた。
高橋くんは、黙ったまま私の手を取りぎゅっと握った。
「ねえ、何度も言ってるでしょ。職場の近くでこれはダメだから」
何回も言い過ぎたのか、てんで聞いてなくて、
「今日、僕のとこでご飯食べようよ」
手を握ったまま、腕をぐっと引いて顔を近づけて言ってくる。
「…今日は帰る。もともと、そんな予定無かったし」
駅へ降りる階段は狭いので、手を離して先に降りた。
ホームに立つと、すかさず繋いで来た顔は何か言いたげだった。
「本当に帰るの?」
「…うん。週末じゃないし、1人でしたいこともあるし」
「…また何か、考え込んでる?」
「考え込んでなんか…」
高橋くんの部屋は、ついこの間初めて訪れたばかり。
居心地が良くて、好きだし行きたかったけど…
でも、今行ったらきっと、せっかく一緒にいるのに自分のことばかり考えてしまう。
私の頭の中は、さっきから宮崎さんの必死な顔と、『釣り合う』って言葉でいっぱいだった。
でも、多分それは高橋くんに見透かされてる…
最寄り駅で先に私が降りた。
軽く手を振ると、少し眉を寄せていたけれど、笑顔を向けてくれた。
…考え込んでないって言ったけど、めちゃめちゃ考え込んでる。
釣り合うって何?
何が問題なの?
五歳年上なこと、まだ腰が引けてること、大きなやけどの痕があること…
右側だけとは言え、鎖骨辺りまでケロイドになっていると、気になってないかつい考えてしまう。
綺麗な、肌のすべすべした娘の方が、いいんじゃないかってことが、頭に浮かんでしまう。
こんなこと、口に出したら怒られそうだけど。
もしかしたら、もしかしたらって気持ちは、そう簡単には消えないのだ…