三笠宮東邸という名称になった旧寬仁親王邸には、公務を行う公室が無い。
なぜなら、宮邸は宮家に1つ。
寬仁親王邸は三笠宮邸を本邸とする附属邸という扱いだったからだ。
写真の大応接室は私的な客間。
だから自分の好みに合わせたインテリアに出来て、コレクションを飾れるのだ。
公室での公務が必要な場合は、本邸の公室を使用していたのだろう。
公室が無ければ職員の事務室も無い。
宮家に隠居制度は無く、宮家当主の薨去によってしか代替わりが出来ない。
ところが、天皇の後継者を東宮家の当主とするような制度が宮家に対しては無いので、宮家の後継者は幾つになっても親に従属する立場に置かれる。
「親元から独立してこそ一人前」
・独立した屋敷を持つ
・独立した生計を営む
という「一家の当主」である事が一人前の男性の要件とされていた。
親の家に同居して生計を一つにしている形は、「居候」「部屋住み」と呼ばれ、例え結婚していてもそれなりの収入を得ていても当主ではない。
寬仁親王邸の建設は、寬仁親王を当主と同等の格式、当主格とする為で、宮家を創設した弟の高円宮邸建設とは違った。
高円宮邸には公室と事務室がある。
寬仁親王は独立した生計を営んでいるという事で、皇族費は宮家当主と同じだった。
皇族費は宮家の生活費で、公務関係の支出などは別である。
末弟の宮邸と大差ない大きさの邸を構え、家事や子育てをする侍女を私的に雇うので、私的な出費は宮家とそう変わりないかもしれない。
公室など公的な部分は三笠宮家の一員として寬仁親王家も共有し、全体として生計を1つにすると三笠宮家の財産相続では他の兄弟姉妹より優遇出来る。
和樂
文 彬子女王