クタバレ!専業主婦

仕事と子育て以外やってます。踊ったり、歌ったり、絵を描いたり、服を作ったり、文章を書いたりして生きています。

銀の羽根と言葉を失ったカラスのカルマ

2023-04-12 00:29:13 | ポエトリー

私以外に私を“感じている人間”はいない。

 

気持ちよくこの身体に存在していられる日はそう多くはない。はみ出す人をドアに押し込んで閉じる車掌のように、自分を自分の身体の中に無理やり押し込んで生きている。

 

私が歌う時、私はこの躰の外へと飛び出すことができる。目が潰れそうな光が、そこに向かって咲く花や緑が、虫や鳥や土の匂いが、私の声を知らずにそこに在る。風に揺れてしなり、耳元の羽音に驚いて転ぶ。水が煌いて流れ、サギが糞を落としながら飛んでいく。仲間にもなれず、追いやられもせず、影がそれを証明している限り、私はここに存在している。

 

「愛している」をもっと簡単に言えたら、この苦しさから抜け出せるだろうか?「大好きだよ」と声にするだけで、どうして涙は流れるのだろう?愛する感情は私を不安定にさせる。柔らかすぎて手に持てないゆるいゼリーのように、持ち上げようとすると崩れてしまう。だから誰かを責めることで、人を憎むことで、自分の存在を安定させている。

 

人は人がただそこにいることを許してはくれない。存在するための「条件」がたくさん要る。電車に飛び込んでいく人を、ビルから飛び降りる人を、私は想う。見たことのない命を、いつか消えるための命を、ただ見ている。人が作った神を信じない。人を救うための神を私は信じたりはしない。動物の眼の中の宇宙に神を見る。季節と雨の匂いに神を見る。自然の在る姿に神を見る。その為だけに神は存在すると信じている。だから私は、母が信じる神を信じない。

 

電線の上のカラスに話しかける。糞を落とされる。草むらから飛び立つスズメの群れに話しかける。近所のよく吠える犬に話しかける。ねぐらを探す夕方の猫に話しかける。逃げられる。どぶ川を泳ぐ鯉に話しかける。餌を乞う。ひっくり返ったコガネムシに話しかける。車のキーに乗せて運ぶ。息絶えそうなミツバチに話しかける。尻の針を眺める。満員電車の中の私は、流れる景色に話しかける。今日も生きていていいのかと、無謀な問いかけを繰り返す。

 

夕陽が落ちる。肌が冷える。月も星も平等に輝く空を見る。点滅しながら飛行機は飛んでいく。轟音が命を運んでいく。鳥と虫以外の命が飛んでいる。世界はまるで美しい。父にも母にも愛にもなれなかったけれど、私はまだ人を続けている。

 

残業続きで無言で玄関を開けて帰ってきた夫に、私は声を掛けたくはない。部屋の向こうから床を足でドンドンと踏む音が聞こえる。疲れているのがわかる。「おかえりなさい」が言えない。リビングのドアが開く。夫が私の顔を覗き込み、「ただいま」と笑う。フラッシュバックが鳴り止む。遠い宇宙の彼方から、うさぎの眼の奥から、私はこの小さな光を見つめている。

 

― THE Lady back Orange ―


主婦、マザーファッカー!

2023-04-07 01:15:47 | エッセイ

最後の投稿から2週間以上が経過してしまった。ブログのIDもパスワードも忘れてしまい、ログインすらできない始末。意気込みが強いときほど私は私をあっさりと裏切るし、平気で約束も決意もばっくれる。詐欺師にもほどがあるけれど、もうそういうヤツだってわかってるし、自分へのエールのつもりで付けた「クタバレ!専業主婦」というブログ名すら、「はいはい、くたばりましたよ~」と開き直って布団から出てくる気配すらなくなるので、自分がそういうモード(・・・)に突入すると実に厄介。

 

 

ここ数日“MCバトル”にハマっている。DJが流すビートに合わせてラッパーが1対1で即興でラップしてお互いをラップで倒していくバトル。これは拳を使わない格闘技であり、拳の代わりに言葉と頭を使って相手をK.O.していく音楽格闘技だ。歌のように歌詞に明確なメロディはなく、メロディ要素を取り入れてラップしている者もいるが、ほとんどが一定に近い音程で言葉に抑揚を付けたり韻を踏んだりしてリズムと言葉で殴り合う。腕力や体の大きさ、職業・年齢・立場は関係ない。言葉で相手を侮辱し、あげ足を取り、時に観客を巻き込んで、自分がどれほど強いかを見せ付け合うリングの上の音楽バトルなのだ。

 

こんな顔面数センチの距離で人に暴言を吐く機会はない、しかもビートに乗せて。「お前ムカつく消えろ」なんて思うことは山ほどあるけれど、ストレートに言葉で吐くことはないし、人生でそこまで批難したい相手ってたかが人数しれていて、恨む理由があればまだ罵る言葉も出てくるだろうけど、「ラップバトル」は相手に興味があろうがなかろうが、罵る理由も見つからんようなつまらん相手だろうが、disったらガチで殺されそうな怖い相手が目の前に立っていても精一杯disらないとそこで負けてしまうのだ。“嫌い”ってそもそも体力を使うし、嫌ってもいない相手を嫌わなきゃいけないって相当なエネルギーを要する。だから時にはラップレベルはそこそこでも気迫だけで勝ってしまうラッパーもいて、一瞬の“ひるみ”でK.O.されてしまう王者もいる。言葉ひとつで勝負がひっくり返ることもあるし、耐え切れずつい手が出てしまうラッパーもいる。とにかく見ていて心が汗だくになってしまう。

 

若い頃の私だったらこういった音楽は聴かなかったし、イメージだけで遠ざけてしまっていた。音楽もファッションも自分の嗜好を無視して、“人からどう見られるか”を重視して色々と誤魔化してきた。とりえず「流行り」を選んでおけば間違いない(・・・・・)し、一番怖いのは「ナニソレ?」と失笑されてしまうことだった。今でこそ時代は“多様性”という言葉を「流行り」として多用しているけれど、実際には「あの曲いいよね!」「このファッションかわいいよね!」とそれらしく共感し合えるものを選んでおくことが無難だし、異端で孤独にならずに済む簡単な方法だ。「個性個性」と口にしながらも、極端に突き抜け過ぎないように周りの空気に合わせて整合性を保ちながら“個性の一部”を発揮しているのが日本の現状だと感じている。

 

何色が好きでどんな音楽を聴くのか…“すき”は自分の深層心理を晒すことだとも思っているので、なるべく隠しておいて大事な部分を傷付けられないようにしてきた。「ナニソレ?」「変なの」、その一言ですべてを否定されたような気になって傷付いてしまうのは私だけではないはずだ。しかし、アートが好きな人間が“異端にならずに済む方法”だなんて、相変わらず私は私に矛盾しているし、はなから無理なことに一生懸命に生きてしまったなぁ…と、過去の自分をカウンターの端から眺めている。

 

今は違う。好きな服を着るようになったし、自分で作るようになった。ジャンルを問わず聴きたい音楽を聴いて、見たいアートを見に行くようになった。それは昔の私と比べるような知人や友人とあまり会わなくなったことで発揮できるようになった個性でもある。とにかく「ナニソレ?」が怖い。一撃だ。本当の自分を偽物のように扱われるのはもう嫌だ。これから出会う人は今の私が基準になってくるので、もうあまり自分を偽りたくはない。

 

パンクロック、エレクトロニカ、ラップ、民族音楽、クラシックも聴くし、電子音楽もJ-POPも好きだ。中国の謎の曲にハマって耳コピして本気で歌ったり、ガムランという楽器そのものの音に魅了された音楽もある。盆踊りの音頭も好きだし、好き勝手でたらめに踊るのも好きだ。むしろジャンルなんてどうでもよくなったという方が正しくて、耳にした音楽が気持ち良いと感じたらそれがどんなジャンルだろうが、どこの国の誰が歌っていようが、流行っていようがマイナーだろうが古かろうが新しかろうが、犯罪者だろうが嫌われ者だろうが、“すき”以外のすべてはどうでもよくなってしまったのだ。一番くだらないのは、世間の評価に合わせて自分にとってのアートを制限したりジャッジしてしまうことだと思っている。

 

 

私はチャイナファッションが好きなので「らんま1/2」のような格好をして、コスプレとしてではなく普段着として出掛けている。売っていない物は自分で生地を買ってきて作るし、好きなアーティストのライブやレストランに行くときのドレスコードとしても兼用している。たまに「すげー格好してんな…」とか、「やば…」と聞こえてきて心臓が縮む瞬間もあるけれど、好きなものを我慢して普通のフリをして歩くよりよほどマシである。数えるほどしかないけど呼び止められて褒められたこともあるし、逆に呼び止めて声を掛けたいぶっ飛んだセンスの人を見るようになった。

 

それも都会へ行けば霞んでしまう。もっと派手で個性的なファッションをした人たちが山ほどいるからだ。名古屋の地下でピンクのロリータを着たおじさんが、まっすぐを前を見て歩いていく姿を見てかっこいいと感じた。あの人は周りが自分をどう見るか、その瞬間に何を思われて何を呟かれているかわかっているはずだ。笑う人もいるだろう。私は尊敬する。

 

私だってこの田舎で小さく個性を爆発させている。都会で派手な格好ができるのは当然だ。地方ではマイノリティとして扱われている人たちが、都会ではマジョリティとして扱われていて、それをおかしいと感じる人の数も圧倒的に減る。名もない私がこの田舎で個性的でいる為には、都会で同じように振る舞うよりも相当な覚悟がいる。だったら都会へ行けやと思われるかもしれないが、うーん…そうだねぇ…行ってみたいなって思ってる。「それ最高じゃん!」って言い合える仲間が欲しいのは正直なところで、ここにいて言われる言葉のほとんどが「すごい格好だね」だ。これは肯定されているようで否定の言葉だと思っていて、イコール「よくそんな格好で歩けるね」だ。だが、私はそれでいい。むしろ気持ちがいい。仲間が欲しい心細さもあるけれど、年相応の“らしい”ファッションをして周りの景色に同化したくはない。

 

太っていてもビキニを着たり、おばさんやおばあさんになっても二の腕や脚を出して踊ったり、タンクトップを着て太陽を浴びている海外の女性たちをかっこいいと思うし、日本人もそうなるべきだと思っている。見た目が若いか美しいかどうかが肌を出していい基準だったり、それを性的に消費されることが若さの象徴であったり、年齢や体重でみっともないと揶揄されたり、“年相応”なんてくだらない価値観でファッションの選択肢が小さくなるべきではないと思う。下着や恥部さえ隠れていれば、布一枚をまとうだけでもかっこいいと思うし、みんながパリコレクションみたいなファッションで街を歩けたら楽しいのにと思っている。男性が履くロングスカートは舞台衣装のようでかっこいいし、もっと広まってもいいと思う。

 

ついこの間、Bjorkという海外アーティストのライブを観るためにひとりで兵庫県へ行ってきた。ライブ会場へ行くといろんな人がファッションでもBjorkのライブを楽しんでいた。Bjorkのコスプレをしている人、グッズを着ている人、曲の世界観を自分なりにファッションで表現している人。私のファッションはどう見えているだろう?誰かの目に止まったりしただろうか?お互いの視線にドキドキした。誰よりもぶっ飛んだ衣装を着ていたのはやはりBjork本人だった。色んなアーティストのライブに行っているけれど、多くの人がアーティストのカラーに合わせてファッションと音楽を楽しんでいる。これがもし日常でも発揮できたなら日本はもっと明るくなる気がする。

 

なるべくそれなりに保守的に過ごしてきた私が小さく爆発するに至るまでには、幾人もの表現者たちの言葉や生き方や考え方に何度も後押しされてやっと今に辿り着いた。その中で友人や家族、知人の「こうしたら?」は、正直心には響かなかった。彼らは「安定して普通でいられる方法」や「時々日常から少しはみ出して人生を楽しむ方法」を教えてくれた。「普通」でいることだって苦痛と努力を伴うことは十分わかかった上で、私はそれを選択したいとは思わなかった。そしてその「普通」という呪いを解くために多くの時間を要した。けれどこうして気まぐれに文章を書いているだけの自分を俯瞰してみると、きまぐれに小さく個性を楽しんでいるだけの自分自身に対して、まるで至って「普通」過ぎて笑ってしまう。なんだ、つまらん奴だ。私自身の人間性も生き方も、言うほどちっともおもしろくないじゃないか。マインドだけでちっともまだ何もできていない。

 

ラップバトルにハマっても私自身はバトルしていないし、夫相手に一方的に即興ラップして褒められた後にうざがられ、色んな音楽を聴きながらも自分で曲を作りたいという願望を放棄し続けている。ファッションを自分の生活の範囲内だけで楽しんで、一着でもいいから世の中に向けて勝負する勇気を持てないし、色んなことを批判しておきながら書くことすら気まぐれで、「普通」が嫌だと言うわりにはわりと日々を普通以下で過ごしている。たまに突飛なことをして、特別に生きた気になってそれを思い出としてカメラロールに閉じ込めて、性欲を満たすようにSNSで承認欲求を満たして息が出来たような気になってごまかして生きる日々。つまらん。つまらん奴だ、君は。そのつまらんくだらん生活こそ勇気を出して文章にすべきだ。だが明日も君は私を裏切るだろう。これがラップバトルなら、私は私を一番disってやりたい。マザファッキュー!今、私は君のアンサーを聞きたい。

 

― 海鷂鳥 ―


Everything Everywhere All at Once

2023-03-18 00:41:19 | エッセイ

― Everything Evrywhere All at Once ―

あらゆることが… あらゆる場所で… すべて同時に起きる

 

 

大好きなマヒトゥ・ザ・ピーポーが、この映画の感想をこうツイートしていた。

 

“好みか好みでないかで言えば好みではありません”

 

という部分を読んで、絶対に見なければいけないと思った。私はこれを彼なりの“おもしろかった”という意味だと解釈した。彼の真意はどちらでもいい。影響は自分で作っていく必要がある。私がこの映画を観てどう感じるのか?、それを知りくなった。

 

いつ行こうかと考えている間に「Everything Everywhere All at Once」は、本年度の「アカデミー賞」を受賞した。Yahoo映画の評価は現時点で「2.86」と「3」にも満たない。なるほど…好き嫌いが極端に別れそうな映画だ。ますます興味が湧いてくる。人がつまらないと言う作品をおもしろいと感じられた時、得した気持ちになる。相変わらず“損得勘定”が好きであるが、先入観に感性を引っ張られてしまっては意味がないので、映画のレビューは読まず、予告すら見ずに行ったでの、ジャンルすら不明であった。

 

今日の私はとても落ち込んでいた。音速でぶち上がっていたテンションは、排水溝のヘドロのように腐っていた。ワンピースの染色が、思った通りにいかず、染色と脱色を繰り返していた。口では「失敗してもいい」とか、「ぶち壊してやる」なんて言っておきながら、心のどこかで一発で成功する自信と期待があったので、文字通り落ち込んだ。「さすがに二回やれば成功するだろう」と再挑戦するも、おそらくその期待も空しく終わりそうだ。今、お陀仏状態のワンピースが洗濯機で回っている。

自分の中の炎が小さくなっていくのがわかった…。なんとか蘇生を試みたけれど、炎は少しずつ心拍を失い、最後にはプスリと煙を上がって消えてしまった。これではいけない…もう一度、自分に点火せねばと焦っていた。

 

買ったままで机の上に置きっぱなしにしてあった「デビルズトリック」を恐る恐る手に取る…。

 

これを使うと…ヤベーぐらい“飛べる”らしい。

 

「最悪な気分なんだろう?…嫌な事なんて忘れて一瞬で気持ちよくなれるぜ?…お前もやってみろよ。」

 

念のために言っておくが、危険ドラッグではない(笑)

 

これは一週間ほどで色が抜け落ちてしまうヘアカラートリートメントである。けれど、“相当にぶっ飛べる色”に染まるらしく、ブリーチしたら一度でいいからやってみたかった。私の“着火剤”として取っておいたのだ。しかもカラーは「ワイルドレッド」。市販のカラー剤やブリーチ剤はパッケージ通りに染まらないものが多いが、これは“ガッツリ決まった”。ややムラになってしまったけれど、一週間で抜けてしまうなら問題ない。抜けてしまうなら…ね。

 

なぜこんなにも色を入れること抜くことに拘っているのか自分でもわからないけれど、このまま流されていってみようと思う。失敗ばかりしているけれど、何もしないでモヤモヤしていた時期よりも、私はウキウキしながら落ち込んでいる。やってみて嫌ならもう二度とやらなければいいだけだし、「やれば私は出来るはず」なんてやりもせずに自信過剰になっているだけでは、現状の自分の出来ることと出来ないことの差がわからないままになってしまう。自分の人生に対する後悔の“タラレバ”があるのなら、やってみて思い知ればいいのだと思う。実はうまくいかない原因は、周りではなく自分にあったことを思い知るだろう…。私は、そこからスタートしてみたいのだ。

 

明日には夫が出張から帰ってくるので、やりたい放題やれるのも今日が最後だ。今日は少し散らかり過ぎてしまった心を鎮静させたいので、紅茶専門店に行って読書の続きをすることにした。

 

― おわかりただけただろうか? ―

 

さっき「デビルズトリック」でシャンクスみたいな色に着火したばかりなのに、今度は鎮静すると言い出した。色を入れたり抜いたり、火を点けたり消したり…どうしようもないぞ。私はこうして他人と自分とを振り回して生きてきたのかもしれない。続いている人間関係もあるが、終わっていった人間関係の方が圧倒的に多い。ここから始めていけばいいと思っている。

 

目的のお店がランチタイムを過ぎていたので、近くのモールへ行くことにした。が、なんだかつまらない…。そんなことはいつだってできるじゃないか?つい先ほど“鎮静する”と宣言した私はどこかへ去ってしまい、消したばかりのロウソクに別の誰かが火を点けた。

 

どうせモールへ行くなら…。

 

「Everything Everywhere All at Once」のことを、思い出した。もし調べてちょうどの上映時間だったら、もうこれは今日見るしかない。次の上映時刻は14:40、車の中の時刻は今14:05。決まった。

 

都会に行けば少々派手な格好をしていても霞んでしまうけれど、こんな田舎でこんな髪色をしているととっても目立つ…。ブリーチしてくれと美容師に頼んで、ブリーチされたら気絶しそうなほどショックだったように、ワイルドレッドにして点火した心が、人々の視線に鎮火しそうになっていた…。目立ちたいのか目立ちたくないのか自分でもよくわからない。私の心には常に同時に相反するいくつもの感情や状況が同時に大量に起きていて、正に「Everything Everywhere All at Once」なのである。

 

上映前に慌ててたこやきを食べる私の目の前で、おばさんがわざわざ足を止めて長い時間こちらに視線を向けているのを感じた。私は目を合わせないようにした。どんな理由でどんな気持ちでこちらを見ているのかはわからないけれど、見ていたのは私ではないかもしれないけれど、私はそれをマイナスにしか想像できなかった。それと同時に、本当に一週間でこの髪色が落ちるのか不安になってきた…。

 

『デビルズトリック 落ちない』

 

検索すると、落ちない情報がたくさん出てきた…。ひどい人は二週間、一ヶ月を過ぎても色が残ったりするらしい。きれいに色が残るならがまだいいが、ムラになって髪の一部に色が残ったら最悪だ…。なんだか気分が悪くなってきた。手っ取り早くたこやきと思ったけれど、そんなにお腹も空いてなかったし、青海苔のにおいが妙に気持ち悪い。全然おいしくない。もし色が残ったら…せっかく綺麗な金髪になったのに…。ワンピースの色も失敗した…せっかく白くて似合ってたのに…。映画まで時間がないのに、どうしてたこやきなんて買ったんだろう…食べなくてもよかったのに。どうしてこんな色にしたんだろう、変に見られるに決まってるのに…。自分では似合ってるつもりだけど、すれ違う人たちに変だとかブスだとか思われてるに決まってる…。なんだか気持ち悪い。でも急がないと…まだチケットも買ってないし、トレイも行きたいし、飲み物も買いしたし、とにかく急がないと急がないと…。

 

結局、最後の一つを残して返却口に置いて去った。歩く人たちを足早に追い抜いていく。上映時間に間に合わなくなる。なんだか吐き気が腹痛に変わってきた。下痢になりそうな気配。どうしよう…どうしよう…パニックに陥ってきた。このままでは逃げ出しそうだったので、慌てて先にチケットを買った。急いでトイレに駆け込むと、やはり下痢をしてしまい、頭の中はワンピースの染色に失敗したこと、派手な髪色にしたこと、たこやきのこと、映画の時間のことが竜巻のように私の冷静さを巻き上げていった。

 

しっかりと手を洗い、売店で氷なしのアイスティーを注文する。急いでいる時の店員の対応はとてもスローに感じる…。いつもなら「丁寧な接客ね」と評価するところが、「おい、一体何回確認するんだ?」という心の苛立ちに変わっていった。受け取ったアイスティーを手にしっかりと持って、チケットカウンターへと向かう。これまた受付スタッフがゆっくりと落ち着いた口調でチケットを確認し、「スクリーン6番です」と案内された。「6」の場所を目で探すと、“こういう時に限って!”の一番遠い一番奥のスクリーンであった。

 

急いで劇場へ入ると、薄暗い。もう本編が始まってしまっているのかと思いきや、まだ予告だった。ほっとして自分の席に向かって階段を上がる。席に着くと、予告、予告、予告、まだ予告、また予告…やっと、「NO MORE 映画どろぼう」である。

 

きっといつもこうなんだろうな…勝手に焦って勝手に追い込まれて勝手に不安になってる。今度は自責の念が湧いてくる。焦って急いだ所為で息が上がって呼吸が苦しい…。うまく息が吸えない気がする…。こうなるとパニック発作になるのでは?という「予期不安」に襲われる。私は整体で教えてもらったように背中を丸めてやや前かがみになり、背中に空気が入るように腹式呼吸の体制を取った。こういう時は“吸えていない”のではなく、“吐けていない”のだと、昨日教えてもらったばかりだったのだ。息をゆっくりとしっかりと吐き切る…そしてそこに息を入れていく。この時点で本編は始まっているのだが、もう全然集中できない。私は呼吸に集中している。おまけに早速意味不明なストーリーで、評価「2.86」の理由を即座に理解した。吸って…吐いて…吸って…吐いて…。

 

ダメだ、ここのところ滅多に飲まなくなっていた安定剤を飲もうか…。でも、安定剤なんて飲んで映画観て、意味ある?

 

あれを飲むと苦しくもなくなるけど、楽しくもなくなる。その通り「安定」してくれて、テンションはプラスにもマイナスにも振れず、ただぼーっとする。もう外に出ようかな…1900円も払ったけど。アイスティーSサイズなのに340円もしたけど。損するな…。がめつい。

 

ダメだ、腹痛い…また下痢になる。下痢だ、下痢。腹部に違和感を感じたと同時に、さきほどのたこやきの青海苔の気持ち悪いにおいを思い出して、胃がムカムカしてくる。なんで今日に限ってエコバッグ置いてきた?ゲロ袋になるものもないじゃん…。いや、吐かない。吐きはしない。それより下痢だ、トイレだ。

 

出せ!出すんだジョー!

 

でも…でも…途中で抜けたらもう絶対意味わからなくなる映画だ。ただでさえもう全然意味がわからん。スクリーンの前を通るのも気が引けるし…。なんとかこのまま映画に集中しようと再度試みたが、字幕が全然頭に入ってこない。もう便器のことしか考えられない。「肛門」に居留守を使ったが、無理だった…。

 

「奥さん!居るのわかってんだよ!居留守使ってんじゃねーよ!」

 

“ドア”をけたたましくノックされている…。

 

席を立ち階段を降りる。姿勢を低くしてスクリーンとの間を通り抜け、重い扉を開けて明るい光が差し込むと、7割ほど不安感が身体から抜けていった。幸いにもすぐ隣がトイレだったので、まず身体を楽にしてやらないと…。便器に座りながら用を足していると、だんだんと身体も心も落ち着いてきた。一旦冷静になってスマホでもう一度髪色のことを調べてみた。「デビルズトリック」の色落ちの検証動画を上げている方がいて、二週間もすれば髪色は元に戻ることがわかった。不安になると私はその不安を立証するために、不安な情報だけを集めてしまうのだ。そもそもあのおばさんとはしっかりと目が合ったのかい?こちらを見ている気配だけで、見ていたと決めつけていただけではないか。そして、ここへ来てから鏡を見ていない。家を出る前は気に入っていたのだから、今ここで見たって気に入っているはずだ。ワンピースだって悲しいなら一回ぐらい着てやればいい。こんな髪色にする勇気があるのなら、あのワンピースを着て歩くことぐらい平気なはずだろう。

 

トイレから出て手を洗う。恐る恐る…鏡を見た。派手だけど…素敵な色をしていた。

 

このことを記事にしたいな。このまま帰ろうかかな。でも、座席にアイスティーを置いてきたままだ。どうして諦めるつもりで出てきたのに、置いてきたんだろう…。けれど、この置いてきたアイスティーには意味があった。

 

私は一旦、劇場へ戻った。15分ぐらい見逃してしまったな。もういいや。最初から意味不明だったし、身体も心も落ち着いたからアイスティーを飲みながらこのままちょっと休憩しよう。とてもリラックスしている。ゆっくりとシートに身体を預けた。その瞬間だった…

 

― 「正しさ」とは、臆病な人間が考えた小箱だ ―

 

スクリーンの字幕が目に飛び込んできた…。

 

あ…そうか…意味にしようとするからわからないつまらないと感じてしまっていたのか!たった一行のセリフが胸に入ってくるだけでいい。衣装やメイクに注目してもいいし、シーンから他の事を連想してしまってもいいのだ。そうわかった途端にこの映画の中にぐっと入り込めた。数分前の私はどこへやら…ギャグのシーンに小さくクスッと笑っている。本当に自分がわからない。そして意味不明な映画で、意味不明に涙して、それは感動とは違っていた。肯定だった。

 

この映画はSF映画だと思っていたけれど、私には精神世界の映画に思えた。だからこんなにも散らかっていて、タイムリープのようなパラレルワールドのようなマルチバースな展開が続き、イメージやストーリーを連続・関係させていると言うよりはコラージュに近い感じがした。意味は分からなくていい=どんな解釈をしてもいいということだ。もし、意味やストーリーがハッキリと決まっている映画であれば、作り手の言わんとしていることがほとんど決定されてしまうけど、こういう映画は捉え方が無限にある。うまく考察する人もいるだろうが、私はニュアンスで感じ取っていければいいと思った。諦めたつもりで見続けた映画で、諦めた瞬間から作品を通じて自分を肯定することができた。

 

人は意味を理解しようとする。意味が分からないものは意味がない、という価値観を持っている。自分で意味を見出すことに意味があるのに、簡単にわからないものに対して低い評価をする。だからYahoo映画の評価が「2.86」なのだと思う。最高だ、私はこの映画をもう一度観たい思える。

 

私は今まで自分の中のストレスがマックスに達する前に、それを回避する方法ばかりを取ってきた。けれど、もう一人の私はそれを自分で乗り越えたいと願っているのだ。だからわざとストレスを感じるような行動をとったり、思考したりして、そうじゃないことを私にわからせようとしてくれている。その先に新しいことがまだまだ出来るはずだと教えてくれているのだ。ストレスに身を委ねるのは苦しいけれど、そのストレスが不要なものであるとわかれば、今度は自然と力が抜けていってリラックスしてくる。もう同じことを辛いとは感じなくなるし、「前は大丈夫だった」というプラスの思考が働き始める。諦めた瞬間に身体がやわらかくなって、心が開いて、そこに新しい風が入るための余白がうまれる。

 

ワンピース、失敗してよかった。終わった…って思うまで挑戦できたし、今回学んだことはきっと別の何かを作る時に生かされると思う。髪色もできれば早く金髪に戻って欲しいけど、一度試してみたかったからしばらくこの色を楽しもうと思う。映画を最後まで見れたことも、昨日眉毛を全部剃り落したことも、すべてよしとする。

 

おっと…もうひとつ映画で気に入ったセリフがあった。

 

― おかしなことをすると力がわいてくる ―

 

海鷂鳥

 

 


クソッタレな自分を殺せ

2023-03-15 19:30:30 | エッセイ

毎朝、「また今日も自分に裏切られるのではないか?…」と、怯えながら目覚める。自分を裏切ることは他人を裏切るよりも簡単で、何よりも怖いのはそれを「はいはい」と、許せてしまうことだ。自由は恐ろしい。自由こそ鬱だ。無限に選択肢があるということは、自らが作り出していく体力・精神力、そしてそれらを継続する力が必要となる。「はい、この中から選んで」と既にあるもの中から選ぶ方が、少々の不満があったとしても楽なのだ。

 

私は“やるか・やらないか”のどちらかを選ぶ時、圧倒的に“やらない”ことを選択してきた。挑戦することも、失敗することも、評価されることも、とことん避けてきた。例え挑戦できたとしても、失敗しそうになると辞めて、成功しても評価されそうになると辞めた。主に父の影響が大きいのだけれど、自分の夢や希望を根っこから引き抜かれてしまうのであれば、最初から種を撒かない方がマシだと気付いた。それは人生の夢や目標といった大きな願いだけではなく、日常のほんの些細な行動を含む。自分には“こうしたい”という絶対的なイメージがあるのに、それが心に湧き上がる度に「どうせ無理だ」と、イメージにバケツで水をぶっかけて追い払っていた。

 

私は今、39歳にして人生初の金髪である。初日はあまりの黄色さに美容師さんの雑談の声も遠くなるほど気絶しそうにショックだったけれど、勧められた通りにドンキホーテで「紫シャンプー」という染料が入ったシャンプーを購入し、それを使ううちになんとか良い具合に変化してきた。新しいことに挑戦するには、頭の中のイメージだけではそれが叶わないので、実現するために行動と学びが繰り返し必要になる。「髪の毛がもったいない」という美容師さんを説得し、目の前の見知らぬ自分にショックを受けながらも、言われた通りのものを探し、使い方を勉強し、半信半疑でお風呂場で格闘した。“きっとこうなるだろう”と先がある程度予測できることは挑戦とは呼ばす、“どうなるかわからないな…おい、コレ、どうすんだ?…”と、冷や汗をかいて途方に暮れるながらも、もう一度奮い立ってそこをどうにかしてなんとかしていく、たぶんそういう力のことを「挑戦」と呼ぶのだろう。

 

自分がどうなりたいかは、今はまだあまりに漠然とし過ぎていて、何の説明もできないし、根拠も何もないけれど、今年一年を通して思いつくことすべてをやってやろうと思っている。そのひとつがこのエッセイブログである。それが人から見たらただの遊びでも道楽でも、そんなことはもうどうだっていい。その出発地点がまず“金髪”というのは、新学期に“デビュー”をかましてくる思春期まっただ中の中高生のようで、あまりにあまりな「厨二病」ではあるが、おかげで彼らがものすごい勇気と意思をもってそれを示していることがわかった。

 

「なんだかわからないけど、俺はやってやる!昨日の俺と今日の俺は違う!俺はとにかくビッグになるんだ!」

 

まったくもって昭和・平成のヤンキーの言葉で、今の子たちがどんな表現をするのかはわからないけれど、この言葉が今の自分に一番近い。我ながら相当危険である(笑)

 

私は先日、「coca」というお店で真っ白なコットンのワンピースを4000円ほどで購入した。そのワンピースを見た瞬間…頭の中で火花が散った。ワンピースの裾の刺繍の部分と、袖に色が入っているイメージだった。なぜ突然それが見えたのかはわからない。考えて浮かんだのではなく、見た瞬間に考えるより先に絵が見えた。私はすぐさまスマホを開いて、

 

『服を自分で染める』と検索した。

 

情報が次々と出てくる。映像で見た方が早いと思い、Youtubeを開いた。若い女の子たちがTシャツや靴下を楽しそうに色んな色に染めている。これだ!と、確信した。

 

試着室に入る。サイズは合うけど、袖の形が自分の骨格と合っていない気がする。私は自分で服を作ったり、自分に合わせて作り替えたりする。長袖のシャツ袖をパプスリーブにすることにした。このまま着ても十分に可愛いし、4000円というのは私の中ではそこそこ高い金額なので、買うだけでも勇気がいる。そこにハサミや色を入れるのは、相当な覚悟がいる。

 

もういいや…壊すつもりでめちゃくちゃにしてやろう。

 

捨てたつもりで諭吉をレジに出し、しっかっりと6000円のお釣りをもらって店を出た。やってやる…。岡本太郎先生が言うように、一瞬でもいいから命を燃やしてみせる。成功したらこれを着てもう一度このお店に来て、超イケてるあのショップ店員さんたちに、「ハッ…あれはもしやうちの商品では…?」と、気付かせてやる。何のために?と聞かれれば、何のためでもない。そこに人生の意味がある。

ところが、髪を金髪にして一旦その服を着て出掛けると、「もうこれでいいかな~…」と思い始めていた。「何も似合っている服を変にする必要はないじゃないか…」、道具代ももったいないしね、ワンピース代ももったいないしね、変な風になったらせっかく似合っている数少ない“金髪コーデ”のアイテムが減ってしまう。そうでなくても金髪にして以来、クローゼットの大半の服が髪色と合わなくってしまって大変困っている。

 

馬鹿野郎。岡本太郎先生の教えに従え。そんな無難な考えこそぶっ壊してしまえ。

 

私はやっとミシンに向かった。気に入らなかった袖を思い切って切り落とし、新しく縫い直していく。今はスマホで調べればどんな技術も簡単に知ることができる。難しい本を開いて、いつまでも意味不明な専門用語に悩まずとも、見たままにまねをすれば同じ技術が手に入る時代だ。けれど、あまりに情報が多いがゆえに、技術の高い人やハイセンスな人たちと向かい合うことになり、つい現状のレベルの低い自分と比べてしまい勝手に落ち込んでしまう。やりたいイメージはあるのに、技術が追い付いていない。それを完成させる為には新しい技術を習得する必要があるし、いくら動画でわかりやすいとはいえ、裁縫は難しい…。コツひとつで仕上がり方が全然違うし、練習も必要で、一発でその通りには縫えない。何回も失敗しては糸をほどいて縫い直してを繰り返すうちに、「もう無理!」と投げ出すことも多い。

 

けれど、岡本太郎先生はこう書いていた…

 

“下手なら下手なりにやればいい”と。

 

もう一度奮起してミシンに向かう。付け足したいイメージがもうひとつあるので、生地屋で似たような白い生地を買ってきて、何時間もかかってバイアステープを作った。お店に行けば1000円払えば服が買える時代だ。それなのに、私はどうしてこんなめんどくさいことをやっているのだろう…そして、こんな簡単なことも出来ない。「趣味でやっている」という画面の向こうの人は、とても趣味とは思えないようなレベルの作品を作って披露している。私のは本当に家庭科レベルだ。悔しい。悔しいならやればいい。失敗して、考えて、一歩でもその技術を上げる努力をすればいい。拗ねてばっかりで、全然前に進まない。これでいいと諦めながらも、どこかで諦めきれずに、前にも後ろにも進まず、時にはその鬱屈を「死にたい」という言葉で誤魔化して生きてきた。不満の数だけ怒りを自分に向けて、一目でも多く針を進めるしかない。

 

今日、それを着てモスバーガーへお昼を食べに出掛けてみた。袖を作り替えた時点での着心地をチェックしたかった。また無難な気持ちが浮かんでくる…

 

「もうこれでいいじゃない?」

 

せっかく今きれいな真っ白いワンピースなのに…わざわざめんどうなことをして、もう着れなくなっちゃうかもよ?記事にして書いたら、「失敗しました」なんて言えなくなるよ?別にこれをやらなくても、別のやりたいこともあるんだし、午後はそれをやれば?

 

あー嫌い。こんな自分が大嫌いだ。イメージがあるのに邪魔をする。いつも私が私の邪魔をする。もう今は父が私の芽を摘んでいるのではなく、私自身が私の芽を摘んでしまっている状態だ。

 

家に帰ってすぐにミシンを出した。着ていた白いワンピースを脱いで、買っておいたアクリル絵の具を準備する。好きなように染めてやる。めちゃくちゃにしてやる。ぶっ壊してやる。金髪にしたこの髪が、すべて生え変わるまでどうしようもないのと同じ状態にまで追い込んでやる。着れなくなってもいい。失敗だって落ち込めばいい。ただこのまま白いまま無難に着ることだけは許してはいけない。純粋なフリをしてずる賢くなっただけの自分のこの顔に、絵の具を塗りたくってやる。

 

私の中の過去の亡霊よ、消えろ。

 

白装束の自分を処刑台に吊るす。

 

さようなら、マリーアントワネット。

染める作業はあっという間に仕上げないといけない。何も考えず、計算をせず、とにかく最初の「あちゃーやっちまったー!」のひと塗りの瞬間へと踏み切らないといけない。もう後戻りはできない…。白い自分はもういない。自分の中で小さな火が天にものぼるほどのお焚火となって燃え上がっている。死にたいとか、消えたいとか、意味がないとか、その中に全部放り込んで燃やしてやった。クタバレ、専業主婦。

すべての色を入れ終えて、放心した。右脳と左脳の間を風が流れていく。あー気持ちいい…。私は、3回咳をした。泣いていた。すすり泣いていてた。小刻みに息を吐きながら、咳をするように泣いていた。やっとやってやったという達成感と、今までこんな簡単なこともできずにきたのかと、黄色い感動と青い後悔が交ざり合って涙となって溢れ出る。

私が入れたその二色は、大好きなゴッホの色調とよく似ていた。私は私の中に取り込んできたあらゆる作品の影響を、ずっと閉じ込めて無理やり蓋をしてきた。「たすけて」ともがく自分を、水の中に押し戻して溺れさせて殺そうとしてきたのだ。

 

「大丈夫大丈夫。お父さんにやられる前に私が楽にしてあげるから。夢なんて見たって無駄無駄。想像するだけ無駄無駄。どうせ捨てられちゃうんだもん。叶わない夢を夢見るより、叶えたいことを奪われる方が辛いじゃん?」

 

そう言って、笑いながら私が私に覆いかぶさってくる。もっと…もっと強い力で立ち上がらないと…!

 

私は「珈琲美学と不幸中毒」の記事で、どこかで無理をし始めていた。よく書こうと思い過ぎて、10時間もパソコンに向かっていた。一年前を思い出して書くので、その時のフレッシュな感情に“添加物”が混ざっていく。下手なのだから、出来るフリは止めよう。旅の記録も書いていくけれど、それ以上に今フレッシュな出来語があるなら、そっちを優先して書いていこうと思う。

 

明日はきっと大変なことになる。絵の具を原液に近い状態で入れたので、風呂場も洗面所も恐ろしいことになるだろう…。掃除は得意なので頑張るしかない。もうどうなるかもわからない。色止めという作業もしなければいけないらしい。どうなってしまうのだろう?私はまた自分を嫌いになってしまうのだろうか?私はまた私に落ち込んでしまうのだろうか?それでもまた這い上がってくると思う。貞子な私。弱い癖に生きる図々しさだけは人一倍強いのだ。性格の悪い人間は、そう簡単には死なない。だから死ねないのよ、私は。

 

海鷂鳥


珈琲美学と不幸中毒

2023-03-13 03:33:02 | 2022年の旅エッセイ

“見つけてあげるよ~キミだけのやる気スイッチ~”

 

という、塾のCMがあった。子どもの頃は、とにかく目に入ったあらゆる種類のスイッチを“ポチポチ”と押したくなった。それが何のスイッチか、押したら何が起きるのか、本当に大丈夫なのか、そんなことは考えずに押したいから押していた。そうして「未体験」は加速して「経験」へと変わっていく。

 

この頃の私はどうだろう…?押せばいいだけのそのスイッチの目の前を、通り過ぎる日々である。“押してくれ”と迫ってくるスイッチと目が合うと厄介なので、「あ~忙しい…」なんて洗濯物を運びながら、見て見ぬふりを続けている。まるで妻の“夜のお誘い”を「今日は疲れてるんだ…今度にしてくれないか…」と断る夫の背中のようである。そのうち妻のスイッチも、“押してくれ”と夫に点灯する気力を失って、

 

『スイッチを押してくれる人と生きていきます。お世話になりました。ごめんなさい。』

 

という書置きと共に、古いスイッチを置いて出て行ってしまうだろう。そんな頃になって強く押してみても、ただの殻の箱である。「俺は…どうして…スイッチを押してやらなかったんだ…」妻のスイッチがまだピカピカと光っていたあの頃を思い出す。光るそばから“ポチポチ”押して、妻のスイッチに夢中だった日々が鮮明に蘇って涙が止まらない。「俺は…俺は本当にバカだ…すまん…許してくれ…」流れた涙が手に握るスイッチにこぼれ落ちると、一瞬弱く光を放った後、もう二度と点滅することはなかった。

 

― END ―

 

この妄想が伝わった人とは、2時間以上お茶をしても飽きないかもしれません。ようは、「やる気スイッチ」は普段から押していないと、なかなか押せなくなってしまうということに気付いた。押せたとしても過去の経験の中から無難な物だけを選んだり、“新しい挑戦”と言いながらもどこか安全圏を越えないようにしてしまうのだ。19歳でパニック発作を起こすようになってからは特にその傾向が強く、不安の向こう側へ飛ぶことを極端に恐れてきた。それが世界を狭くし、更に不安を強め、スイッチの種類や押す機会も減らしていってしまったのだ。もう自分の中の地雷を避けて歩くのではなく、吹っ飛ばされてもいいから私は私の中の大地を、裸足で全力で走りたいのだ。

 

ドラマ「白線流し」が放送されたのは、1996年だった。物語に自分の青春を重ね、冬に見る最初の雪のように白かった私の心も、いつしか道路の端に積み上げられた泥や砂利を含んで溶け残った雪の塊のように汚れていった。校舎で仲間と過ごした思い出も、他人事のように遠くなって、それでもこのドラマを見返すたびに、学生時代を思い出してはむせび泣いてしまうほど胸が苦しくなる。4回目の旅は、その「白線流し」の舞台である「長野県松本市」へ行くことにした。

 

「多治見駅」からJR「特急しなの」に乗り「松本駅」を目指す。「中津川」を過ぎた辺りから、山に埋もれた状態の景色が延々と続くので、景色を楽しむというよりは、なんだか息苦しく心細く不安になる。途中で見える「御嶽山」は突如現れた怪獣のようで、「わーすごい…」と感動しながらも、噴火の動画を思い出して更に怖くなってしまった。その隣で老夫婦が座席に脚を上げて4人席を占領し、大声でくっちゃべりながら煎餅をガサガサバリボリしている音を嫌々耳にしながら、「もしかしたら30年後の私たちかもしれない…」と想像してしまい、更に冷や汗が出るのだった。

 

…酔いました。「特急しなの」は、特別車でありながら横揺れがすごい。夫は骨折中だったので、人に向けたらバズーカー砲を発射しそうなごっついギプスを片腕に装着しておりました。あの頃の夫は、地面から数センチ浮いてるんじゃない?というほど、魂が軽かったです。

 

私は旅先で安い立ち食いそばやうどんを食べるのが好きであります。信州と言えば、お蕎麦。けれど高い蕎麦には興味がなく、天ぷらの盛り合わせが付いてウン千円もするような蕎麦と味の違いがさほどわからず、寒い冬に駅舎で熱々のおつゆにひたすら感謝しかながら食べるそばやうどんの方が好きなのであります。

 

松本は駅の中も外も、閑散としていた。平日かつコロナ渦ということもあり、観光地である松本市もすっかり冷え上がってしまっているようだった。今回は夫が計画してくれた旅なので、“映え写真”を残す為には城へ行くしかない。スケジュールは「白線流し」のロケ地をめぐることと、夜に馬刺しを食べに行くこと以外は特に決まっておらず、蕎麦を食べた後に駅前通りをゆっくりと歩いて「松本城」を目指すことにした。

 

途中、古い喫茶店が目に止まった。私の背後から喫茶店の入り口へ向かって風が流れている気がした。けれどこの手の“レトロ喫茶”は失敗も多い。せっかく入ったのに「ここからここまでやってないから」と、茶色いお湯が出てきたこともある。

 

「なんかめっちゃいい感じ。でもまぁ…気になったらまた後で来ることにするか。」

 

店の前の花壇の前にガーデン用の白いテーブルとイスが置いてあって、そこに身体の大きなおじさんが座っていた。

 

「あれ、店の人じゃない?」

 

「あー…そうなのかな?なんか暇そう(笑)美味しくないんじゃない?」

 

そのまま店を通り過ぎた。

 

「松本城」に着くと、お客のいない人力車が早々に店じまいを始めていた。それぐらい人がいない。城は外から眺めるだけにして、周辺を歩くことにした。オスの鳩がピンクに染まった胸をパツパツに膨らませて「ホロッホー♪♪ホロッホー♪♪」と鳴いて求愛ダンスをしている。実にしつこくメスの鳩をつけまわし、目の前にまわっては「ホロッホー♪♪ホロッホー♪♪」と左右に激しく揺れている。メスの鳩が逃げるようにその場を飛び立つと、すぐさま追いかけて飛んで行って、遠く離れた先でまた「ホロッホー♪♪ホロッホー♪♪」と、鳴いていた。あれが人間であったならば、ストーカー禁止法に基づき、“接近禁止命令”が出ていることだろう。

 

「やっぱりさっきの喫茶店、寄ってみてもいい?」

 

“やっぱり”という感覚は大事だ。一度ピンときて、思い出してもう一度ピンときたならば、もうそれは行くしかない。そういうとき、私はなぜか早足になる。急がずとも逃げていかないような事や場所であったとしても、速く!早く!…いつだって運命と感情に素直に従った瞬間から、物語は始まっていくのだ。

 

少し日が傾き始めていて、街も車も少しずつ照明の数を増やしていく時間。

 

『珈琲美学アベ』

 

店の扉を開けると、思ったより店内は広く、奥へと空間が広がっている。…が、お客が見当たりません。

 

間違えたかしら…でも、お茶一杯飲むだけだし…いいか。

 

いつだって私の頭の中は「損か得か」そんなことばかりを考えて、自分の中の正解を避けて、世の中に正解の基準を合わせて生きてきた気がする。だが、私はこの場所で、たった一杯の珈琲で、その基準の一切を捨てることとなる。

 

「いらっしゃい~どうぞ~。」

 

やはり行きに見た花壇の前のおじさんが、店主であった。私たちが今日最初の客じゃないことを祈りながら、奥からひとつ手前の席に腰をおろした。私はストレートコーヒーのモカを、夫はカフェオレとチーズケーキをそれぞれ注文した。

 

『水ばかり飲んでコーヒーも飲まないなんて…人生に生きがいがあるだろうか

 疲れをいやす一時・・に悪魔のように深く恋のように甘いコーヒーを!!』

 

店の至る所にこの言葉が書かれてる。まるで呪い…もはや洗脳である。“水ばかり”というところに少々皮肉を感じるが、“悪魔のように深く恋のように甘い”は、ロマンチシズムである。きっと店主の珈琲哲学なのだろう。

 

がしかし、私は珈琲うんちく人生を語る人間があまり好きではない。はっきり言って嫌いだ。そのうんちくのおかげで珈琲が不味くなるし、ミュージシャンが自分の作った曲をラジオで事細かに説明してしまう残念さと似ている。語られることによって脳内がうんちくで支配されて、自分の本当の感覚が曇ってしまうのだ。

 

「こいつの話めっちゃ面白いから聞いて!」と言われて聞かされた話は、大概面白くない。

 

私が頼んだモカが運ばれてきた。運んできたついでに、この暇そうな店主の珈琲哲学の続きを聞かされやしないだろうかとビクビクしてしまう。ビーカーのようなガラスの器具に淹れられたコーヒーが、店主の仕上げによってカップへと注がれていく。こういう沈黙の時間を、私はどう待ったらいいのかわからない。実に苦い。

 

私の前に注ぎたてのコーヒーが置かれると、次に夫が頼んだカフェオレが運ばれてきた。やはりこれもここで仕上げるようで、夫の目の前に大きめの空のマグカップが置かれた。そして店主はそのカップ目がけて立ったままの姿勢で高い位置から勢いよくコーヒーとミルクを空中でトルネードさせながら注ぎ始めた!

 

「おっ!おおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

二人はマスク越しに「お」だけを連呼した。「お」を拍手に例えるならば、「お」のスタンディングオベーションである。勢いよく注がれたホットコーヒーとホットミルクがカップの中で泡立ち、きっちりと量られたその量が、マグカップから溢れるギリギリの高さで表面張力を保っている。店主は私たちの反応に顔色ひとつ変えずに、チーズケーキを置いてカウンター奥へと戻っていった。いいのね?味で語る感じでいいのね?

 

では、いよいよである。

 

マスクを取って立ちのぼる白い湯気をスーッと鼻で吸ってみる。うん、珈琲の香り。では、ひとくち。

 

!?

 

水…?

 

ん?水??

 

無味である!舌の奥へゴクリ。さっきより華やかな香りが鼻の奥へと抜けていって、目の奥でパッと花が咲いた。頭が混乱している…味が無いのに…香りに味がある。

 

もうひとくち飲む。

 

うわんぐっ!!

 

電撃でピカッと身体が光った!衝撃である!ふたくちめではすっきりとしたその味をはっきりと感じて、香りが頭蓋骨の天頂まで到達すると、竜のごとくその体をひねって、胃へ流れ落ちていく珈琲を追いかけて香りが一気に手足から抜けていった。

 

脳から何か物質が出ました…

 

今まで飲んでいた珈琲が、すべて雑味とえぐみを搾り出した“珈琲汁”であったことがわかった。その味が珈琲だと想像して飲んだ所為で、最初は味が無いと脳が錯覚し、鼻を抜けた香りによって感覚が修正され正確な味を運んできたのだ。

 

私は夫からカフェオレを奪い取ると、ひとくち飲んでみた。

 

これはもはや…

 

ミルクティーだった…。

 

なんという感想だ!この下手くそバカヤロウめ!

 

だが、正直である。こんなにまろやかなカフェオレを初めて飲んだ。あの高さから勢いよく注いでいたのはただのパフォーマンスではなく、空気をたっぷりと含ませてこのやわらかさを出していたのだ。この舌ざわり…いや、もう舌には触れていなかったかもしれない!私は飲んだのではなく…包まれてしまったのだ!ムーニーマンおむつを取ってお風呂に入れてもらったその後に、赤ちゃんおしりぱふぱふベビーパウダーでちゅよ~…。

 

これがカフェオレの味の感想です。

 

がしかしっ!珈琲は実にうまいが、デザートはどうだ!あれもこれも極めてはいないだろうアベさんよ!正直に言ってごらん?…チーズケーキいただきます。

 

「うぐっ…」

 

牛が…牛が見える…。このチーズケーキ…牛が見えるぞ…!

 

ふつうチーズケーキには酸味があり、レモン汁やヨーグルトが入っていたり、チーズ自体にも酸味や塩味があるので、どちらかというと紅茶の方が合うのだ。特に酸味の強い珈琲を一緒に頼んでしまうと、酸味×酸味で胃もたれする。が、このチーズケーキにはその酸味がない。

 

とにかく私には牛が見える…けれど、牛乳臭さは一切ない。とにかく広い草原に立ったご立派な牛が「モーッ♪」とこちらを向いて鳴いたのだ。いや、牛がここにいますよ…これが牛です…このチーズケーキは牛です。乱暴すぎる感想です。

 

アベさん、完敗であります…。

 

私が外で珈琲を飲まない理由は、ひとつはお腹を下すからだ。もうひとつは、カフェインがパニック発作を引き起こしやすいという情報からとことん避けてきた。外のお店ではカフェインの少ないものやノンカフェインを選ぶようにしている。なんてつまらない選択肢だろう…好きなものではなく、“大丈夫なもの”を選ぶ人生。私の生き方そのものではないか。

 

ほらね?珈琲語るヤツって、そこに自分の人生重ねて語り出すでしょう?(笑)

 

私たちは翌日も『珈琲美学アベ』を訪ね、もう一杯ずつ珈琲を飲んだ。せっかくの旅だから色んなお店へ行けばいいのに…なんて、つまらない“損得勘定”は捨てた。この日以来、私は外でも珈琲や紅茶を飲むようになった。たまに胃がゴロゴロするけれど、大したことではない。そんなことは誰にだってあることだろう。カフェインによってパニック発作が引き起こされている感覚も実はないことに気が付いた。そういう時は大抵別にストレス要因があったり元々身体に不調があるときで、ネット上に転がるあらゆる病名や症例に健康な思考や身体まで支配されてしまっていだけなのだ。

 

けれど、不安中毒に陥る人は、実は幸せ中毒にも向かっていける人なのではないかと思う。力にはいつも相反する対極の要素が働いていて、どちらかに思い切り引っ張れる人は、もう一方へも強く引っ張れる力を持っている気がするのだ。できないのはその力の調整の加減で、それが人によって違う“スイッチ”なのだと思う。こうするといい、あーするといい、これはやめた方がいい、これはよくないと、ネットや人の情報に頼ったり左右されるのではなく、私は私の中の正解だけを探し続けたい。

 

― ドラマのロケ地が見たい ―

 

たったそれだけの目的であった。

 

そして、たった一杯の珈琲を飲むことが、私の“やる気スイッチ”だったのである。

 

海鷂鳥

※『珈琲美学アベ』のミニチュアガチャ