3度目の旅は、前回の「黄瀬戸のおじさん」愛知県瀬戸市の旅が旅としてあまりにも完璧すぎたので早速それを捨てることにした。観光地としてある程度成り立っている街ではなく、旅をしても何もなさそうな“名も知らぬ街”へ行くことにした。
そう決めたにも関わらず、計画の段階で欲が出る。近隣に聞いたことのある観光地を見つけると、そっちの方が“お得”なのでは?と、つい考えてしまう。この私の「損得勘定の基準」は、一体何なのだろう?と、考えたら、結局は人の目である。それが“楽しそうに見えるか?”、“羨ましがられるか?”、そしてそれが“一発で伝わる場所かどうか?”である。京都へ行った、沖縄へ行った、北海道へ行った、それだけで相手の「いいね♡」が付く。では、「白子に行ってきたよ!」と言ったらどうだろう?まず、「それ、どこ?」である。次に「そこ有名なの?何かあるの?」である。そして答えは「特に…」である。私は今からその「三重県鈴鹿市白子」という場所へ行った旅の話を書いていく。
交通費節約の為に三重県弥富市まで車で行って、そこから近鉄に乗って白子へ行くことにした。おかげで計画は台無しである。駅に向かうまでの1号線が大渋滞で、まったく進まない。ブチギレである!何本もの電車が通り過ぎていく…駅はもうすぐそこなのに。これが映画のシーンであったなら、私はこの瞬間に15年以上乗って錆びれた水色のパッソをここに置いていく!渋滞の列に残したまま捨てていく!一斉に鳴らされるクラクションの列を振り返り、「うるせーっ!!」と一喝して道路を横断していく。キャスティングは安藤サクラさんにお願いしたい。が、ここは現実である。とっくに昼食の予定時刻を過ぎて、更にイライラは募っていく…事が計画通りに運ばないと、私は癇癪(かんしゃく)を起こす。厄介である。
「白子駅」に着いた頃には、時刻は午後2時に近かったような気がする。もう食べ物の事しか考えられません。檻の中をぐるぐると回るライオンのようにイライラしています。予め行く店を決めていたので、予定が押しても臨機応変に対応できない性格が困難である。調べると3時まで開いているようなのでこのままま計画を実行する。私の計画はいつもギチギチ詰めの分刻みなので、旅というよりはトライアスロンである。これが営業マンの頃に活かされていれば、もう少し営業成績もマシだっただろう。しかし、やる気のないこと関しては0まで手を抜くのが私である。
海辺の食堂で遅い昼食を終え、腹が満たされて心は菩薩のように寛容である。夫はいつだってその横で、春に咲くたんぽぽのように微笑んでいる。さてさて、すぐそこの海へと歩いてみようかのぅ…この旅のハイライトは主に海しかない。私は海無し県に住んでいるので、海を見るということ自体が一大イベントに含まれる。心の中の私は、浮き輪を腰にはめて麦わら帽子を被って、海に向かって「わーい!」と駆け出す8月の小学生である。挿し絵はスイカでお願いします。が、実際は39歳なので、おほほほと淑女ぶって波打ち際を歩く。
海辺の倉庫を散歩していると、やたらと猫がいるではないか。動物は共に生きる地球の仲間なので愛さずにはいられない。もふもふは地球の宝だ。一匹、二匹、三匹…えーと…四匹…五匹、まだ来る…六匹…よく見るとあの角に更に二匹…こちらを見ている…ここは「御猫堂(おねこどう)」だ。私は猫の群れをそう呼んでいる。意味はない。言葉の響きが大事。
からだもある程度大きく、すり寄ってくるので、ここで餌をもらっているということだ。動物に寄られると「はふん♡」としてしまう。だが、猛獣は例外である。向こうが「はふん♡」と私の腹や頭を噛みちぎるだろう。それでも森で熊と遭遇したら、フォークダンスのコロブチカを踊れるのではないか?と考えている。向き合った熊の口からヨダレが垂れていたら、マイムマイムを踊りながら逃げようと思う。
何匹もの猫に囲まれてハーレムである。キャバクラで若い姉ちゃんに囲まれてデレデレしているサラリーマンの気持ちになる。なぁ、ちょっとぐらいお尻触ってもいいだろう?と手を伸ばすと、さらりとしっぽで遮られた。さすが…かわすのが上手である。たくさんのレイディーたちに囲まれながら、その様子を見て奥からまた新しいレイディー達が登場してくる。このまま太陽とすべての照明が落ちて、猫たちに怪しいスポットライトが当たり、この場が“バーレスク”と化してキャットダンスが始まったらどうしよう!そうだ、振り付けはPerfumeの振付師でおなじみ「MIKIKO」先生にお願いしよう。その時、私の妄想を遮断する鋭い視線を感じた…。
草むらの向こうから黒猫が豹のようにこちらを見ていた。群れのボスだと一瞬でわかる。その猫はジッとその場所から私たちを観察し、一歩も近寄っては来ない。「あなたもこっちへおいで」と私が立ち上がると、近づいた距離と同じだけ後退して距離を保つ。“来るな”という合図だ。のんきに私の前で腹を見せている数匹の猫たち…おそらく仲間の様子を見ているのだろう。黒猫のドスのきいた声が聴こえる。
「あまり人間に近付くな」
すると、腹を見せた猫が地面に背中をこすり付けながら返事をする。
「なんだよボスもこっちへ来いよ~気持ちいいぞ~?」
「まぁエサは持っていないみたいだけどな(笑)」と、隣の猫が“ニャー”と鳴く。
「でも俺たちに優しいぞ♪」、草の猫じゃらしを追いかけて白猫がジャンプする。
「簡単に人間を信じるな。こいつらは自分たちの都合で勝手に愛したり傷付けたりする。エサを持って優しく近付いてきたかと思えば、それを食って死んだ仲間もいると網戸越しにビビが言っていた。」
「なんだよ、ボスだって毎朝おっさんが持ってくるモンを素直に食ってりゃそんなに痩せずにすむだろう?」
「お前みたいにそんなに太ってどうする?いざってときに逃げられるのか?俺たちは群れのルールで生きて、群れのルールで死んでいく。それが俺たちの運命であり宿命だ。リクがあんな目に遭っても、まだわからないのか?」
「人間よりカラスの方がよっぽど怖いね!人間の近くにいればカラスだって襲ってこない。チビたちだって、ここにいるより人間に拾われる方がマシさ。」
「勝手にしろ。でもその人間を俺たちの“場所”には絶対に連れてくるな。」
黒猫はサッと姿を消した。音もなくどこへ消えたのかはわからなかった。けれど、私たちがその場を去るまできっとどこかから見ていたに違いない。それと同時に何匹かの猫たちもボスを追いかけて去っていき、私たちの後ろをついてきていた猫も、ある一定まで来ると縄張りと思われる境界を越えることなくその場に留まった。夕陽に照らされて小さくなっていく猫の輪郭。
「ボスにも人間と暮らしてた時期があったらしいぜ!」
そう言うと、最後の猫が群れへと戻って行った。
私たちは、動物を増やしたり、減らしたりする。増えれば生態系が崩れるとメスを入れて去勢し繁殖を妨いだり、殺したりする。人間の生活で減りすぎた動物は「絶滅危惧種」だと保護する。山を切り崩して、海を汚して、餌や棲み家を奪い、それを求めて山を下りてきた動物は“危害・被害”と叫んで殺してしまう。別の場所に動物園や水族館を建ててそこに閉じ込めて生かし、生きもの素晴らしさを伝えながら、育てて殺して食べて生活している。毎日大量の命が廃棄される。疫病になれば一斉に殺処分する。名もない鳥が、死んでいく。訳も知らずに愛されて、訳も分からず殺される。ペットとして売られる命、それを買う命、愛されて育つ命と、捨てられる命。もしこの世界に本当に神様がいるならば、私たち人間の願いなど決して叶えてはくれないだろう。神は彼らの味方であるべきだ。だとすれば今度は私たちが減らされていく番なのかもしれない。
毎日少しずつ、この身が罪を犯しながら生きている。私は菜食主義者でもなければ、保護活動をするわけでもなく、名もない鳥の行く末を知らない。一匹のうさぎと生活し、その命が尽きるまで傍にいて愛することしかできないでいる。
生きるとはなんだろう。うまれるとはなんだろう。命とは、人間とは、一体私は何のために存在しているのだろう。頭で考えずにただシンプルに人生を楽しめばいいのか?本当にそうなのか?何もしないのであれば、せめていつもこうして自分に問うていたい。それでも人間としての欲や文明を捨てられずに生きている自分を愚かだと責め続けたい。動物は気高い。美しい。命がちっとも汚れていない。それでいて残酷で、それがきっと正しい。けれど、海は私のどんな言葉も打ち消してしまうだろう。
何もない場所で何を感じ取れるかどうかが本当の「旅」なのかもしれない。そして、行けば必ず何かを見つけられるのも「旅」である。食堂で出会った認知症と思われる女将さんと、一緒にお店に立つ息子と思われる男性。今どき珍しいいかにも“ガキ大将”という見た目の男の子が、一緒に来ている友達が「お金ないから」と注文しないでいると、「俺が奢ってやるから食え!」と、300円ぐらいの素うどんを頼んでいた。一生懸命カタコトの日本語で頑張る「吉野家」の店員。宿のロビーで見た鈴鹿サーキットに来ていたであろう男性客。「満席なんで!」と断られた居酒屋で働く明るい女の子。無関係に関係したすべての人もまた、命である。
海鷂鳥