クタバレ!専業主婦

仕事と子育て以外やってます。踊ったり、歌ったり、絵を描いたり、服を作ったり、文章を書いたりして生きています。

とにかく誰かのまねをしろ!

2023-03-06 23:41:00 | エッセイ

「マネしないでよ。」

 

私は一時期まねされることにムキになっていた。怒る…というよりは怖かった。自分の存在が脅(おびや)かされる気がした。その感情を今もうまく説明することはできないけれど、わかったことは、その頃の私にはなにひとつオリジナリティなんて無かったということだ。私も誰かの“マネ”をしていて、それを自分だと思い込み、その場所を誰かに取られることを恐れていた。自分自身を他人の虚像で塗りたくっていることに気持ち悪さを感じていたのかもしれない。

 

去年一年間で取り組んだことがある。それは小さくてもいいから毎月旅をして、年12回を達成するという目標だった。ただの遊びと言えばそれまでだけれど、ひとつの旅を終えるとあっという間に翌月がきて、すぐにまた次の旅の計画を立てなければいけない。行き先をただ闇雲に選ぶのではなく、小さくてもまだ経験していないことに挑戦をしたい。行きたい場所というよりは、呼ばれている気がする方向へ向かうことを大切にした。その先に自分が求めていることがあり、それはすなわち自分に足りないものであり、必ずアイデンティティの確立へ繋がるはずだと信じた。

 

この頃になると、私は自分がただの“まねっこ”であるということを認めていた。むしろ人のまねをすることが得意だったことを思い出した。いっそそれを受け入れて流れ流されたらどこまでいけるのだろう?と、そんな自分に興味が湧いた。明日からの12回分はその旅についてひとつずつ書いていこうと思う。

 

今日、洗濯物を干しながらイアフォンで郡上踊りの音を聞いていた。気が付いたら部屋の中でひとりだらだらと汗を流しながら「春駒」を踊っていた。その最中に夫が仕事から帰宅し、ソファで休憩する夫を櫓(やぐら)にして踊った。なんと難しいステップなのだろう…と、何度もYoutubeを見返した。まさしく“まねっこ”である。

 

そもそも人間はまねっこで“人”になっていくのだ。言葉だって、食事だって、絵だって、スポーツだって、郡上踊りだって。まねをしながら好き嫌いを見つけて、技術を身に付けて、その先にオリジナリティがうまれて、アイデンティティが確立されていく。マネができなければ、新しいことはできないのだ。そして、好きな人や好きな事のまねをすることはとてもとても楽しいことなのだ。

 

好きなアーティストのファッションをまねしたり、映画のセリフを口にしてみたり、好きなキャラクターを描いてみたり。どんどんまねをして、影響されて、影響の先へ進んでいけばいい。こんな簡単なことに気付くのに39年もかかった。でもいい。自分の愚かさを認めて受け入れることができたとき、新しい感情がうまれた。負けを認めてプライドを捨てて、拒んでいた世界へと飛び込んでいく。人にどう思われてもいい。私だって人のことは好き勝手思うし、好き勝手言っている。だけど、人のことをどうこう言うだけで何もしないでいる自分は最底辺だ。欲を言えば、“マネの先”へ行きたい。自ら作り出せる人になりたい。今更だろうと今からだろうと、これからなりに。

 

希望で躰(からだ)が破れそうである。

 

海鷂鳥

 

 


おまえはおまえの踊りを踊っているか?

2023-03-06 00:43:02 | エッセイ

― おまえはおまえの踊りを踊っているか? ―

近所のお寺の掲示板に書かれていた言葉だ。私はその言葉を忘れることができない。

意味としては、“あなたはあなたの人生を生きていますか?”ということなのだろうと勝手に解釈している。けれど不思議なことに、同じことを表現している文章でも、使う言葉によって心に刺さるかかどうかは違ってくる。そもそも「あなたはあなたの人生を生きていますか?」という解釈すら違うのかもしれない。

「あなた」ではなく、「おまえ」という言葉の響きが、外側から他者に問いかけられているのではなく、内側に棲む大きな瞳に問われているような気がする。己が己に、訊いているのだ。

岐阜県郡上市では毎年「郡上踊り」が開催されている。日本三大盆踊りのひとつで、夏の期間に33夜開催され、お盆の4日間の徹夜踊りには全国各地から人が集まってくる。それ以外にも郡上踊りを広めるためのイベントが季節を問わず日本各地で行われているようだ。

子どもの頃の夏祭りといえば近所の公園の盆踊りで、「春駒」や「かわさき」といった郡上踊りでは有名な踊りを見よう見まねで踊っていた。「踊りの上手な人が先生だから、輪に入ってその人の動きを真似すればいい」と、母によく言われていた。だから踊れないまま輪に入っていく。とりあえずペースだけ合わせて時計回りに進めばいい。手だけでも足だけでも、動きを少しずつ真似ていく。盆踊りは唄とお囃子が鳴っている間じゅう幾つかの動きが組み合わさったひとつの流れを繰り返す。

郡上踊りのイベントが近くのショッピングモールで開催されるのを知って、なぜだかわからないけれど私はどうしても参加したくなった。踊り方なんてすっかり忘れているし、輪の中には踊りの上手い人や仲間連れが大勢いて、不安や恥ずかしさで尻込みしたが、踊りたい一心で子どもの頃のように輪に飛び込んだ。

テープで音楽が流れるのではなく、唄も楽器も生演奏。だからこそ盛り上がる。音が鳴り始めたらもう前に進むしかない。恥ずかしい…動きも右と左を間違えてばかり。足の動きは手よりも難しく、一歩進んだと思ったらいきなり後ろに一歩戻り、自分だけが二歩進んで人とぶつかりそうになって焦る。動きを間違えまいと必死に頭で考えてしまうので、ちっとも音頭に乗れずぎこちない。それでもひとつの大きな輪の中で皆が一斉に同じ動きをして、神に捧げる舞のように続いていく。

素早い動きの洋楽ダンスとは違う。ゆっくりと一歩、一歩、進んでいく。単純な動きが繰り返される。それなのにうまく踊れない。ふと見ると、腰が曲がったお年寄りの動きがその曲がった腰ごとかっこいい。若者のようにダイナミックな動きではなく、重ねた歳の数でしか表すことのできない「人生」そのものが踊りに滲み出ている。皺の奥深くに染み込んだ長い長い時間…幾つも越えてきたであろう山や谷。

よく見ると…実は全員が同じ動きをしながら、違う踊りをしていることに気が付いた。力強い人、しなやかな人、跳ねる人、だらりとした動きの人、手の角度や高さがほんの少し違うだけでも個性が出る。違う人間が違う人生を持ち寄り、ひとつの輪を作り、同じ音頭で同じ時間を踊っている。年齢も人柄も関係ない、踊るだけ、踊るだけ。

私はその夏、初めて郡上まで行って「郡上踊り」に参加した。そのために自分で浴衣を縫った。参加者の浴衣の着こなしも楽しみのひとつで、皆がとてもハイセンスで刺激的だった。自由な着こなし。粋な柄をきっちりと着ている人もいれば、帯や丈を着崩したり、洋帽子と合わせたり、羽織っただけの人もいれば、派手な生地でお揃いの人もいる。お婆さんがガラスの金魚のピアスを揺らしながら通り過ぎる。常識も流行りも関係無い、好きに装って、好きなときに輪に入り、好きなだけ踊って帰る。

生きている…

存在が許されている。ぎこちなく踊っている私でも、その輪を作る一員になれている。どんな私でも関係ない。一瞬でも他ごとを考えれば動きを間違うので、踊ることだけに集中する。夏の夜に汗が出る。屋台の発電機の音と焼きそばやクレープの匂い。かき氷を崩しながら通り過ぎる子どもの声。提灯の灯かり。山と川の空気。太鼓の音。すべてが気持ちがいい。

向かい合った輪の向こう側の人と目が合う。挨拶をするように手拍子すると、輪が動いて次の人が目の前に来る。この人も、この人も、一緒に生きている。そしていつかどこかでその命を終える。私も、あなたも。

― おまえはおまえの踊りを踊っているか? ―

この言葉を自分の心で唱えるとき、私は盆踊りの不思議な力を思い出す。

海鷂魚