クタバレ!専業主婦

仕事と子育て以外やってます。踊ったり、歌ったり、絵を描いたり、服を作ったり、文章を書いたりして生きています。

パニック発作と樽見鉄道どんぶらこ

2023-03-08 01:39:53 | 2022年の旅エッセイ

私にとって、知らない場所へ連れていかれる事は死に値する苦である。子どもの頃の生き埋めのような空気の家族旅行を思い出してしまうし、予測できない環境の変化に心が柔軟に対応できずパニック発作を起こしてしまう。それゆえ、人とのスケジュールは私が決めることがほとんどだ。自分で徹底的に下調べができる場所であれば比較的安心して行ける。私が決めたい!という性分もある。まったく気が小さいのか大きいのか…自分というのは矛盾の宝庫である。

 

ということで、1回目の旅は早速その十戒を破ってみることにした。夫の計画で旅をすることにしたのである。とはいえ2022年1月はCOVIT-19の真っ最中なので、自宅から近い県内もしくは比較的近い隣県を旅する「マイクロツーリズム」を選択した。

 

夫が選んだのは、県内を走る一両編成のローカル列車「樽見鉄道の旅」であった。早速嫌である…。人の計画やルールに従うことは、死に値する苦である。それでも自分で決めたことなので耐えるしかない。そしてこの旅は歯を喰いしばるほどの忍耐を要した。

 

旅の主役とも言える「宿」は、その大小に関わらず“清潔”が最低条件…いや、今となっては絶対条件と言える。質素な宿でも掃除さえ行き届いていれば、文句はない。むしろ少々の不便さは旅の醍醐味とも言えるし、今の超文明社会において山奥にある電波の届かない宿が逆に重宝されているとニュースで見た。

 

「樽見鉄道」に乗って「谷汲口駅」で途中下車して温泉に立ち寄り、そこから終点「樽見駅」を目指す。自宅から車で1時間ほどの距離をわざわざこの一両編成の列車に乗って行くことが夫にとっては大変意味があることらしい。よいよい、風情があってよいぞ。以下長くなるので旅のあれこれは省略させて欲しい。

 

簡潔に言って廃墟のような宿であった。部屋中カビの匂いが凄まじくいつ干したかわからないせんべい布団に、謎の毛が絡まりまくった毛布が一枚。昔は合宿などに使用されていたのか部屋数は多いが宿泊客は私たちだけだった。幾つも並んだ部屋の前を通る際には、見てはいけないものが見えてしまいそうだったし、床を歩くとそのままズボッと一階へと抜け落ちてしまうのではないかと思うほどふかふかしていた。廊下の突き当たりまで行かないとポットが無いので、ペラペラに薄い浴衣に凍死しそうなほど寒い廊下を抜けて、歯をガタガタ鳴らしながらお茶を煎れる。不思議なことにどれほど時間を置いても無味の薄緑色のお湯のままである。

 

― こ…このお茶は…いつから置いてあるのか… ―

 

しかもお湯を入れている最中にポットがジュポッと咳をした。

 

― 急須一杯に入ることなくお湯が切れた… ―

 

ポットの蓋を開けると空である。このほんの少しのお湯は、一体いつから入っていたのだろう…の、飲んでしまったではないか…。

 

洗面台を見ると、垢だらけ…これまたいつから置いてあるのかわからない見たこともないパッケージの歯磨き粉が握りつぶされた状態で死んでいる。いつ置かれたのかわからない掃除用ですか?というほど汚れた歯ブラシ。もし新しい歯ブラシが用意されていないのであれば、私は歯を磨かないぞと誓った。大丈夫、大丈夫…一晩だけなら大丈夫。た、耐えろ。むしろ楽しめ。いや、絶対に無理だ。大丈夫、大丈夫…明日には帰れる…いろいろ見るな。何も考えるな。知らぬが仏だ。

 

マックス30度で爆裂送風しているエアコンは恐怖に息をのむばかりのこの喉をカリカリに乾燥させるだけで、隙間風の寒さには追い付かかず、耐えかねてもう一台の石油ファンヒーターのスイッチを押すも一酸化炭素中毒になるのでは?というほど灯油臭い…。だが、消したら寒さで死ぬ…。帰りたい、私は帰りたいぞ、夫よ。助けて…助けてカミサマ。

 

寒さと不安で腹がゴロゴロと鳴り始める…。緊張すると下痢になりやすい私は普段は極力冷たいものは避けている。季節は1月の険しい山脈が見える山奥。普段なら絶対に頼まないざる蕎麦を昼の温泉のお食事処で、新たな挑戦と意気込み食べてしまっていた…。温かいお蕎麦にしなかった数時間前の自分に切腹を命じた。

 

「やばい…お腹痛い…。」

 

夫は笑っている。なぜならトイレはあの廊下の突き当たりで二人とも未開の地である。扉を開けたら何が待ち受けているやら…私はこのままでは大人の女性として決して起こしてはならない状況でパンツを汚してしまうのではなかろうか…。い…行くしかない…。

 

猛吹雪の山頂近くの山小屋の扉を開ける気持ちで部屋のドアを開ける。妄想の中の私は、吹き込んでくる雪と風の勢いの強さに、思わず片手で顔を覆った。がしかし、この山のトイレはなぜか山小屋の外である…。「うぅ…」寒さで勝手に声が唸り出る。トイレの扉を開けて、いざっ!!

 

セーフ…。

 

“予想範囲内”の“汚さ”であった。ま…まだ大丈夫。これならなんとか大丈夫。あ…でも上がったままの便座…すんげぇ汚ぇ…。これをまず…手で触って…下げない…と…。涙が出そうである。急がねば、もう“あちらの扉”も決壊しそうである。手を洗えばよしっ!便座をON。

 

ぅぐっ!!つっ!めっ!たっ!!!

 

一度便座に付けたケツが条件反射で浮く。氷だ…氷でできた便座だ…座ったら血液も凍りそうなので、やや浮かして空気椅子状態で用を足すしかない…。恨むぞ、恨むぞ、夫よ。

 

全身全霊で骨盤底筋に力を入れて肛門を絞る。あの洗面台のくたびれた謎の歯磨き粉の残り全てを全神経で押し絞るような気持ちで。できる!できるぞ私!人生一度きり。今だけ今だけ!もう頭出てますよー!お母さん頑張ってー!もう少しですよー!最後最後ー!!いきんでー!!!!

 

頑張った…私、頑張った。これならいっそ和式の方がよかったわ…昭和生まれの私にとっては馴染みのある形だもの…。これじゃあ拷問よ。肛門の拷問よ、お父さん。

 

油断していた。まったくもって油断していた…。オーマイガーである。右手でペロンとホルダーの蓋を上げると、トイレットペーパーの芯が丸見えた。君の…君のお母さんはどこだい…?君を包んでいた柔らかい方の紙はどこだい…?上だね?上にお母さんはいるんだね?拭く前に立ち上がるなんて最低だけど、もう半分立ち上がってるようなものだから、あと少し頑張るね、私。クララだって立ったんだもの。もう驚かないわ、ロッテンマイヤーさん。

 

ネーシ。

予備もネーシ。

どうすんのこれ?

テルミー、セバスチャン。

 

旦那に助けを呼ぶ。ドアを開けて廊下をおーいと呼ぶわけにもいかず…どうしたんだっけ…携帯で呼んだんだっけ。拭かずにとりあえず外に出たんだっけ。申し訳ないが、記憶が定かではない。思い出すだけで今、私ハ全身ガ震エテイマス。強いストレスにより、健忘症状が出たと思われます。

 

夫が一階のトイレからトイレットペーパーを調達してきてくれた事実は覚えています。「よかったー、最初に入ったのが俺じゃなくて!」と言われたことも記憶しています。

 

その他にも部屋の鍵のドアが閉まったまま開かなくなったり…(部屋に電話がありません)、お風呂のマットは「見るな!」とお互いに声を掛け合い、部屋に置いてあった新品の歯ブラシに歯磨き粉が入っておらず…“あれ”を使うくらいなら素磨きしましょう!と夫と確かめあった直後に、パッケージの隅に「歯磨き粉のいらない歯ブラシ」と書いてあり、水を付けるだけでブラシが泡立つ仕組みであることがわかり、「騙されるところだったぜ!」と安堵した直後、したら夜一回だけで朝磨けねーじゃん!と突っ込み、素磨きしましょう♪に巻き戻り、カクカクシカジカ紆余曲折(うよきょくせつ)多々ありました。

 

ワタシ、睡眠薬を規定量飲んでも一睡もできませんでした…。薬が中途半端に効いた酩酊(めいてい)状態で持ってきたスナック菓子を真っ暗なかび臭い部屋でゴミ箱を抱えながらバリボリと一人貪っていたのを悪夢のように覚えています。

 

夜空が綺麗でした。星座がわかるほどに。お夕飯も部屋とは違って豪勢で美味しかったです。二人だけなのにプールのように広い湯船にたっぷりとお湯を張って下さり、シャワーはいつまでたっても真水でしたが、お湯が出るまでに大層な時間を要しましたが、湯船がありましたので!…よかったことは箇条書きでしか言い表せず、修行のように辛い記憶がこの身を覆っておりますが、何も言えなかったのは、ご主人がとても穏やかに優しい方で、お薦めしてくださった日本酒が本当に美味しくて、もう二人とも酔っぱらって訳がわからなくなってしまって、意味不明に狂ったように笑いました(ストレスでショック状態だったのかもしれません)。小声で「もうあの部屋に戻りたくないね」と耳打ちしては、食べたものを吐きそうになるほど大笑いしました。なんというか、最高の一年の出発でありましたな!ガハハハハハハハハハハ!!(泣き笑い)

 

…ふぅ…深呼吸しております。フラッシュバックで指先がキンキンに冷えております。こうして一年を懸けた私にしかわからない人生の闘いが幕を開けました。1月は書き起こしても大した学びがなくやや焦っておりますが、一年を通しての学びでありましたので、この旅はここで締めたいと思います。

 

明日は2回目、「愛知県瀬戸市の旅」をお送りします。極力、真面目にお届しようと思います。


とにかく誰かのまねをしろ!

2023-03-06 23:41:00 | エッセイ

「マネしないでよ。」

 

私は一時期まねされることにムキになっていた。怒る…というよりは怖かった。自分の存在が脅(おびや)かされる気がした。その感情を今もうまく説明することはできないけれど、わかったことは、その頃の私にはなにひとつオリジナリティなんて無かったということだ。私も誰かの“マネ”をしていて、それを自分だと思い込み、その場所を誰かに取られることを恐れていた。自分自身を他人の虚像で塗りたくっていることに気持ち悪さを感じていたのかもしれない。

 

去年一年間で取り組んだことがある。それは小さくてもいいから毎月旅をして、年12回を達成するという目標だった。ただの遊びと言えばそれまでだけれど、ひとつの旅を終えるとあっという間に翌月がきて、すぐにまた次の旅の計画を立てなければいけない。行き先をただ闇雲に選ぶのではなく、小さくてもまだ経験していないことに挑戦をしたい。行きたい場所というよりは、呼ばれている気がする方向へ向かうことを大切にした。その先に自分が求めていることがあり、それはすなわち自分に足りないものであり、必ずアイデンティティの確立へ繋がるはずだと信じた。

 

この頃になると、私は自分がただの“まねっこ”であるということを認めていた。むしろ人のまねをすることが得意だったことを思い出した。いっそそれを受け入れて流れ流されたらどこまでいけるのだろう?と、そんな自分に興味が湧いた。明日からの12回分はその旅についてひとつずつ書いていこうと思う。

 

今日、洗濯物を干しながらイアフォンで郡上踊りの音を聞いていた。気が付いたら部屋の中でひとりだらだらと汗を流しながら「春駒」を踊っていた。その最中に夫が仕事から帰宅し、ソファで休憩する夫を櫓(やぐら)にして踊った。なんと難しいステップなのだろう…と、何度もYoutubeを見返した。まさしく“まねっこ”である。

 

そもそも人間はまねっこで“人”になっていくのだ。言葉だって、食事だって、絵だって、スポーツだって、郡上踊りだって。まねをしながら好き嫌いを見つけて、技術を身に付けて、その先にオリジナリティがうまれて、アイデンティティが確立されていく。マネができなければ、新しいことはできないのだ。そして、好きな人や好きな事のまねをすることはとてもとても楽しいことなのだ。

 

好きなアーティストのファッションをまねしたり、映画のセリフを口にしてみたり、好きなキャラクターを描いてみたり。どんどんまねをして、影響されて、影響の先へ進んでいけばいい。こんな簡単なことに気付くのに39年もかかった。でもいい。自分の愚かさを認めて受け入れることができたとき、新しい感情がうまれた。負けを認めてプライドを捨てて、拒んでいた世界へと飛び込んでいく。人にどう思われてもいい。私だって人のことは好き勝手思うし、好き勝手言っている。だけど、人のことをどうこう言うだけで何もしないでいる自分は最底辺だ。欲を言えば、“マネの先”へ行きたい。自ら作り出せる人になりたい。今更だろうと今からだろうと、これからなりに。

 

希望で躰(からだ)が破れそうである。

 

海鷂鳥

 

 


おまえはおまえの踊りを踊っているか?

2023-03-06 00:43:02 | エッセイ

― おまえはおまえの踊りを踊っているか? ―

近所のお寺の掲示板に書かれていた言葉だ。私はその言葉を忘れることができない。

意味としては、“あなたはあなたの人生を生きていますか?”ということなのだろうと勝手に解釈している。けれど不思議なことに、同じことを表現している文章でも、使う言葉によって心に刺さるかかどうかは違ってくる。そもそも「あなたはあなたの人生を生きていますか?」という解釈すら違うのかもしれない。

「あなた」ではなく、「おまえ」という言葉の響きが、外側から他者に問いかけられているのではなく、内側に棲む大きな瞳に問われているような気がする。己が己に、訊いているのだ。

岐阜県郡上市では毎年「郡上踊り」が開催されている。日本三大盆踊りのひとつで、夏の期間に33夜開催され、お盆の4日間の徹夜踊りには全国各地から人が集まってくる。それ以外にも郡上踊りを広めるためのイベントが季節を問わず日本各地で行われているようだ。

子どもの頃の夏祭りといえば近所の公園の盆踊りで、「春駒」や「かわさき」といった郡上踊りでは有名な踊りを見よう見まねで踊っていた。「踊りの上手な人が先生だから、輪に入ってその人の動きを真似すればいい」と、母によく言われていた。だから踊れないまま輪に入っていく。とりあえずペースだけ合わせて時計回りに進めばいい。手だけでも足だけでも、動きを少しずつ真似ていく。盆踊りは唄とお囃子が鳴っている間じゅう幾つかの動きが組み合わさったひとつの流れを繰り返す。

郡上踊りのイベントが近くのショッピングモールで開催されるのを知って、なぜだかわからないけれど私はどうしても参加したくなった。踊り方なんてすっかり忘れているし、輪の中には踊りの上手い人や仲間連れが大勢いて、不安や恥ずかしさで尻込みしたが、踊りたい一心で子どもの頃のように輪に飛び込んだ。

テープで音楽が流れるのではなく、唄も楽器も生演奏。だからこそ盛り上がる。音が鳴り始めたらもう前に進むしかない。恥ずかしい…動きも右と左を間違えてばかり。足の動きは手よりも難しく、一歩進んだと思ったらいきなり後ろに一歩戻り、自分だけが二歩進んで人とぶつかりそうになって焦る。動きを間違えまいと必死に頭で考えてしまうので、ちっとも音頭に乗れずぎこちない。それでもひとつの大きな輪の中で皆が一斉に同じ動きをして、神に捧げる舞のように続いていく。

素早い動きの洋楽ダンスとは違う。ゆっくりと一歩、一歩、進んでいく。単純な動きが繰り返される。それなのにうまく踊れない。ふと見ると、腰が曲がったお年寄りの動きがその曲がった腰ごとかっこいい。若者のようにダイナミックな動きではなく、重ねた歳の数でしか表すことのできない「人生」そのものが踊りに滲み出ている。皺の奥深くに染み込んだ長い長い時間…幾つも越えてきたであろう山や谷。

よく見ると…実は全員が同じ動きをしながら、違う踊りをしていることに気が付いた。力強い人、しなやかな人、跳ねる人、だらりとした動きの人、手の角度や高さがほんの少し違うだけでも個性が出る。違う人間が違う人生を持ち寄り、ひとつの輪を作り、同じ音頭で同じ時間を踊っている。年齢も人柄も関係ない、踊るだけ、踊るだけ。

私はその夏、初めて郡上まで行って「郡上踊り」に参加した。そのために自分で浴衣を縫った。参加者の浴衣の着こなしも楽しみのひとつで、皆がとてもハイセンスで刺激的だった。自由な着こなし。粋な柄をきっちりと着ている人もいれば、帯や丈を着崩したり、洋帽子と合わせたり、羽織っただけの人もいれば、派手な生地でお揃いの人もいる。お婆さんがガラスの金魚のピアスを揺らしながら通り過ぎる。常識も流行りも関係無い、好きに装って、好きなときに輪に入り、好きなだけ踊って帰る。

生きている…

存在が許されている。ぎこちなく踊っている私でも、その輪を作る一員になれている。どんな私でも関係ない。一瞬でも他ごとを考えれば動きを間違うので、踊ることだけに集中する。夏の夜に汗が出る。屋台の発電機の音と焼きそばやクレープの匂い。かき氷を崩しながら通り過ぎる子どもの声。提灯の灯かり。山と川の空気。太鼓の音。すべてが気持ちがいい。

向かい合った輪の向こう側の人と目が合う。挨拶をするように手拍子すると、輪が動いて次の人が目の前に来る。この人も、この人も、一緒に生きている。そしていつかどこかでその命を終える。私も、あなたも。

― おまえはおまえの踊りを踊っているか? ―

この言葉を自分の心で唱えるとき、私は盆踊りの不思議な力を思い出す。

海鷂魚

 

 


意地悪な海鷂鳥

2023-03-04 23:35:16 | 自己紹介

『海鷂魚』と書いて、“エイ”と読む。

 

海(うみ)・鷂(はいたか)・魚(さかな)、この3つの漢字でエイ。ひらひらと宙を舞うように、ひたひたと地面を這うようにして海を泳ぐステルス戦闘機のように平べったいあの生きものだ。

 

家に帰ってきて「エイ 性格」で調べてみると、“基本的に温厚で大人しい生きもの”と書いてある。…違う、私が目撃したエイは違う。だからこそ私のペンネームにピッタリだと思ったのだ。

 

大晦日。寝ても覚めても鬱な気分は途切れることなく一年の最後の日まで続いていた。常にぐったりと疲れている。何をしても気分が乗らない。力が入らない。呼吸は浅く不安感が続く。外の空気でも吸おうと夫と二人で出掛けて、目の前にあった水族館に夫が入ろうよと言ってくれた。大晦日に水族館か…入る理由も特別ないが、入らない理由も特別ない。

 

いつも考えてしまう、見えない敵「普通」という言葉。生きてることそのものに対する罪悪感。世間の声が聞こえる、「子育てしてなくて楽ね」「夫の稼ぎだけで気楽ね」。大人しくひっそりと生きていなければ、なるべく普通でいなければ、世界から追い出されてしまう。たかが水族館に入るだけで大袈裟なと、書きながらもう一方で思う自分もいる。一体何がいけないのか、根拠のない根拠におびえて生きている。自分以外にもそんな人が、色んな理由でこの世界にはいる気がしている。

 

ひとつひとつの水槽をなるべく丁寧に余すことなく見ていく。ある程度の金額を払っているので“損をしたくない”という気持ちになる。すぐそばを小さな男の子が二人、走り抜けていく。水槽を覗くことよりも走ることを楽しんでいる。子どもの頃にどんな気持ちで魚を見ていたかなんて、ちっとも思い出せない。やっぱりいつも不安定だった気がする…そういう家庭環境だった。

 

外から見るとさほど大きくない建物だけれど、じっくり見て回ると2時間はかかる。損をしたくないという気持ちが、2時間も水族館に滞在させるのだ。がめつい。ある程度堪能した後、巨大な水槽を上から見下ろせるフロアに出た。先ほどまで目線の高さで見ていた深く広い水の世界も上から見るとただの池だった。なるほど、こうなっていたのか。

 

目線の先の浅瀬の岩に、首より下が水に浸かった姿勢の亀がいる。その横で不自然に波が動いていて、亀の甲羅がゆさゆさと揺れている。いや、揺さぶられている。不穏な空気と不気味な気配に、二人とも会話が止まる。

 

エイだ。エイが亀に体当たりしているのだ、何度も何度も。その度に亀の周りに波が起きて、波ごとアタックして亀を揺らしている。ん?これはなんだ?しかもしつこい…後ろに引き下がっては体当たりを繰り返している。「もしかして亀をどかそうとしてる?」見てはいけないものを見ている…そんな気がした。決して穏やかではない。その瞬間、エイは水の奥へと引っ込んでいった。「諦めたのかな…」ほっとしたのも束の間、ものすごい勢いで滑り上がってきて亀にぶつかる。亀の足が一歩動く。

 

えええええええ!!

 

エイは諦めたのではなく、より強い助走を付けて這い上がってきたのだ。それでも負けじと亀がぐっと首を高く伸ばしてその場で踏ん張っている。エイは水の奥へと消えては突進を繰り返す。なんだこれは…ものすごいものを見ているぞ!美しく泳ぐ魚たち、見たこともないかたちをした不思議な生きものたち、どの水槽を見た瞬間よりも興奮している!ワタシ!海のK-1を見ている!

 

しかし亀はその場を決して譲ることなく、見事縄張り争いに勝利したのだった。それは本能をこえた煮えたぎる感情の闘いであった。私たち人間がそうであるように、彼らにも喜怒哀楽や好き嫌い・言い争いや助け合い・愛や裏切りに至る絶望と対決の瞬間があるのだと感じた。さらに別の角度から見てみると、水の底をつついて餌を食べている魚をわざわざ横から突進してきて邪魔をして泳ぎ去っていくあのエイを見た…。まるで肩をわざとぶつけて怒鳴り去っていくチンピラだ…学生の小遣いをカツアゲしているヤンキーだ。あれらの動作が実際には何を意味しているのかはわからないけれど、私にはとても意地悪な行動に思えた。同時に、自分にそっくりだと思った。

 

エイ 性格:基本的に温厚で大人しい生きもの

追記:エイによる。

 

とにかく感情的なそのエイを気に入ってしまった。心と体の両方に毒を持っている。平べったいその存在に自分を重ねてみた。いつかあんな風に泳げたら…他の魚と違うけれど、まるで海を泳ぐコウモリみたいだけど、海を泳ぐエイは亀と喧嘩したりはしないかもしれないけれど、この世界の端っこで生きるのではなく、自由に堂々と器用にひらひらと泳ぐ、あの日見た少し意地悪なエイになりたい。何者にもなれない私が、何者かを目指し続けている限りは無ではないことを信じたい。

 

漢字を調べてますます気に入った「海鷂鳥」と自分を名付けた。うみ・はいたか・とり。どの言葉もとても自由なメロディを感じる。漢字ひとつひとつに景色が見える。

2日目、終了。

 

海鷂鳥


39歳 専業主婦 子なし

2023-03-03 19:35:38 | 自己紹介

39歳 専業主婦 子なし』

 

この文字をここに投下するこの瞬間、まるでピラニアが密集する水槽に餌を落とすような気分である。画面の向こうに待ち構えているであろう「常識・非常識」の嗅覚がこの血のにおいを嗅ぎ付けて一斉に噛み付いてくるかもしれない。

 

― どうして働かない? ―

― どうして子どもがいない? ―

 

そもそも「オマエはダレだ?」などと問われることもなくこの先の日々も過ぎ去っていくのかもしれない。けれど、このままではヤバイ。人身事故のニュースを目にする度にそこに飛び込んだのは未来の自分…あるいはパラレルワールドの自分なのかもしれないと思う。鬱。空虚。人から見てどうかではなく、私自身がこの不感な日々から脱出したい。

 

私が唯一、誇れることがあるとしたら生き延びたこと。その為にそれ以外のすべてを中途半端にして諦めたり棄てたり逃げたりしてきた。いつも死にたい頭の端でぼんやりと、「生きてさえいればいつか何者かになれるはずだろう」などど、マッチ売りの少女のように小さな炎の向こうを夢見ていた。けれど、夢は夢である。何もしなければ何も起きずに日々も炎も消えていく。

 

来月で40歳になる。どうすればいいのかわからない。とにかく何かしなければいけない。30代を終える瞬間、何かをしている自分でいなければいけない。そこからを41歳になるまでの一年間、エッセイのように日々を綴った先に自分がどうなっているのか知りたい。未来に託すのではなく、過去から託された今を積み上げていく、そういう理由ではじめるブログです。

 

『クタバレ!専業主婦』という強烈なタイトルは、このまま何もしないで腐っていくだけの自分ならさっさとくたばってしまえ!という自分に対する喝と応援の意味を込めています。あくまでも自分の話なので、あしからず。

 

なにやらすべてがモヤっとした内容ですが、今日すべてを書いてしまったら今日すべてがここで終わってしまうので、まずは1日目。

 

海鷂魚