最 終 章
一の谷の いくさ破れ …… の
「青葉の笛」を ご存知だろうか。
私は 明治三十九年(1906年)に 作られた、
この歌を なぜか 知っている。 好きな歌のひとつ だ。
青葉の笛 は[敦盛と忠度]という 別名がある。
一番が 敦盛〈 あつもり >
二番が 忠度〈 ただのり > を 詠んでいる。
一、 一の谷の 軍破れ
討たれし 平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞えしは これか 青葉の笛
(二番は あとで) まずは 敦盛
平敦盛 : 平安末期の武将。 経盛の子。
この美少年、 一の谷の戦いで、
熊谷直実(くまがい なおざね)に 討たれる。
十四歳 (1169年-1184年)。
いまなら 中学生です。 いとおしい 命です。
歌にある 「青葉の笛」は 「小枝」という 名をもつ。
この少年。 笛の名手だったという。
おしい 技量です。
二、 更くる夜半に 門を敲き
わが師に 託せし 言の葉あわれ
今わの際まで 持ちし箙に
残れるは「花や 今宵」の歌
平忠度 : 平安末期の武将。 忠盛の子。 清盛の弟。
薩摩守(さつまのかみ)。
歌人としても 逸話を残している。 謡曲などで 著名。
一の谷の戦で 敗死。 三十九歳 (1144年-1184年)。
「花や 今宵」 の歌 は 自作の和歌から
行き暮れて 木の下陰を 宿とせば
花や今宵の あるじ ならまし
「わが師」とは 藤原俊成。
後に 「千載和歌集」を 編む。
そのとき、天皇の咎をうけた 忠度の和歌を
使うわけには いかないと 思っただろうが …。
だが あえて 詠み人しらず として
百とも いわれる 託された 和歌のなかから
「故郷花」の一首を 入れた。
さざなみや 志賀の都は あれにしを
むかしながらの 山ざくら かな
戦争は いけません。なにもかも「無」に する。
これで 一応 京都から さらばであります。
ご清聴に 感謝 !!
公民館講座 京都 研修の旅
自主参加のみなさま ありがとうございました。
一の谷の いくさ破れ …… の
「青葉の笛」を ご存知だろうか。
私は 明治三十九年(1906年)に 作られた、
この歌を なぜか 知っている。 好きな歌のひとつ だ。
青葉の笛 は[敦盛と忠度]という 別名がある。
一番が 敦盛〈 あつもり >
二番が 忠度〈 ただのり > を 詠んでいる。
一、 一の谷の 軍破れ
討たれし 平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞えしは これか 青葉の笛
(二番は あとで) まずは 敦盛
平敦盛 : 平安末期の武将。 経盛の子。
この美少年、 一の谷の戦いで、
熊谷直実(くまがい なおざね)に 討たれる。
十四歳 (1169年-1184年)。
いまなら 中学生です。 いとおしい 命です。
歌にある 「青葉の笛」は 「小枝」という 名をもつ。
この少年。 笛の名手だったという。
おしい 技量です。
二、 更くる夜半に 門を敲き
わが師に 託せし 言の葉あわれ
今わの際まで 持ちし箙に
残れるは「花や 今宵」の歌
平忠度 : 平安末期の武将。 忠盛の子。 清盛の弟。
薩摩守(さつまのかみ)。
歌人としても 逸話を残している。 謡曲などで 著名。
一の谷の戦で 敗死。 三十九歳 (1144年-1184年)。
「花や 今宵」 の歌 は 自作の和歌から
行き暮れて 木の下陰を 宿とせば
花や今宵の あるじ ならまし
「わが師」とは 藤原俊成。
後に 「千載和歌集」を 編む。
そのとき、天皇の咎をうけた 忠度の和歌を
使うわけには いかないと 思っただろうが …。
だが あえて 詠み人しらず として
百とも いわれる 託された 和歌のなかから
「故郷花」の一首を 入れた。
さざなみや 志賀の都は あれにしを
むかしながらの 山ざくら かな
戦争は いけません。なにもかも「無」に する。
これで 一応 京都から さらばであります。
ご清聴に 感謝 !!
公民館講座 京都 研修の旅
自主参加のみなさま ありがとうございました。