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ゾウさんと暮らす

85歳の 夫ゾウさんとの
二人暮らし。 わたし 82歳。  

いとおし 敦盛   あわれ 忠度

2010年02月21日 08時14分41秒 | 2010・2 「平家……」を歩く
  最 終 章  

一の谷の いくさ破れ …… の
「青葉の笛」を ご存知だろうか。
 私は 明治三十九年(1906年)に 作られた、
この歌を なぜか 知っている。 好きな歌のひとつ だ。
青葉の笛 は[敦盛と忠度]という 別名がある。 
 一番が 敦盛〈 あつもり > 
 二番が 忠度〈 ただのり > を 詠んでいる。          
  
一、  一の谷の 軍破れ
    討たれし 平家の 公達あわれ
    暁寒き 須磨の嵐に
    聞えしは これか 青葉の笛

(二番は あとで) まずは 敦盛
    
 平敦盛 : 平安末期の武将。 経盛の子。 
 この美少年、 一の谷の戦いで、 
 熊谷直実(くまがい なおざね)に 討たれる。
 十四歳 (1169年-1184年)。 
    いまなら 中学生です。 いとおしい 命です。
 歌にある 「青葉の笛」は 「小枝」という 名をもつ。
 この少年。 笛の名手だったという。 
 おしい 技量です。 

二、  更くる夜半に 門を敲き
    わが師に 託せし 言の葉あわれ
    今わの際まで 持ちし箙に
    残れるは「花や 今宵」の歌    

平忠度 : 平安末期の武将。 忠盛の子。 清盛の弟。 
薩摩守(さつまのかみ)。 
歌人としても 逸話を残している。 謡曲などで 著名。 
一の谷の戦で 敗死。 三十九歳 (1144年-1184年)。 

「花や 今宵」 の歌 は 自作の和歌から

 行き暮れて  木の下陰を  宿とせば 
       花や今宵の  あるじ ならまし

「わが師」とは  藤原俊成。
 後に 「千載和歌集」を 編む。
そのとき、天皇の咎をうけた 忠度の和歌を 
使うわけには いかないと 思っただろうが …。
だが あえて 詠み人しらず として
百とも いわれる 託された 和歌のなかから
「故郷花」の一首を 入れた。

  さざなみや 志賀の都は あれにしを 
        むかしながらの 山ざくら かな

戦争は いけません。なにもかも「無」に する。

これで 一応 京都から さらばであります。
ご清聴に 感謝 !!

公民館講座 京都 研修の旅 
自主参加のみなさま ありがとうございました。           

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おっきな 袖の下 は 隠しようがない 

2010年02月20日 00時15分00秒 | 2010・2 「平家……」を歩く
「平家ものがたり」の 旅  

あれあれ
2月18日の予定だった 記事が 残っていた。
すみませんが だします。

では 

2月6日 (土) ・正林寺 ・三十三間堂

予定していた 高倉天皇陵 と 小督の墓のある
清 閑 寺 は 中止。 その前を 素通りして
清盛の 長男 重盛の 私邸 その跡地の 正 林 寺
それから 三十三間堂へ。本当の名は「蓮華王院」

本堂内を見学する。本尊である「千手観音座像」(国宝)と
両側五百体、あわせて千一体の 千手観音像 や
風神 雷神像など を 眺めて きた。
 
 ここは、柱が 三十四本。その間数 が
 三十三 あるので 三十三間堂と 呼ばれている。

 毎年一月中旬 江戸時代から伝わる「通し矢」が 
 行われる。 テレビで なんどか 見ている。

さて 「平家ものがたり」では この 三十三間堂は
清盛の 父 忠盛 が 建造して 鳥羽上皇に 献上した。
この 効果も あって ?
はじめて 武士が 宮中に 出入りすることになった、
と ある。
  袖の下には 隠しようもない大物 に 
  上皇さん 驚いたに 違いない。
ところが、
フリー百科事典『ウィキペディア』には 
開祖は 鳥羽上皇ではなくて 後白河上皇 とある

「後白河上皇の 離宮である 広大な 法住寺殿の一画に
建てたこと」 …… そして、
「上皇が 清盛に 建立の 資材協力を 命じて
完成させた」と なっている。 やれやれ。

調べれば 調べるほど わからなく きた。

さて 本当に 明日が 最後です。

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京都 しまつのよい 美しい町

2010年02月19日 09時12分35秒 | 2010・2 「平家……」を歩く
 二月六日 (土) ・昼食 ・宇治公園

2010年2月20日 出す


食事は 「喜撰茶屋」 ここの 定食も おいしかった。

「喜撰」って なんか 聞いたおぼえがあるが  
あれ あれ あれ~~~。 出てこない。

そのあと 自由行動。
目の前の 橋を 渡って、の 
宇治公園を ゾウさんと 歩いていたら
先生も いらっしゃった。
喜撰「法師」と いったので 思い出した。
そうだ。百人一首 「 よを うじやま 」の 人だ。

   わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む 
        世を宇治山と 人はいふなり 

喜撰法師は 平安時代初期の僧であり 歌人。六歌仙の一。
宇治山に 住んでいた。 それ以外は 不明。

  公園では 最後の行程を 惜しむように 
  横なぐりの 雪が 降った。
  鞍馬山では まったりした 小雪だったが
  宇治の 雪は
  橋合戦の 悔しさが 混じったように
  刺さってきた。
  この地で 紡がれなかった 
  多くの 命の どよめきだろうか。
 
もうすぐ 終わりです。
これから 京都 賛美を 書きます。

京都の 大きな街並みは モチロン 
家のまえにある 祠のなかでさえ 埃を 感じない。 
庭先も 玄関前も ゴミひとつ ない。 
たまに 木の葉が 二、三枚 舞っているくらい。
午前中は 箒と ちりとりを持った人を よく見かけた。
公園も ピカピカ。 小路も 推して知るべし

京都は しまつの 良い 町だと 聞いてきた。
手先が ぴーーーんと 伸びているかの ごとし。
美しいものを 大切にする 精神が 隅々まで
行き届いている。
ほめすぎ ?  いいえ。 本当に 気持良い町でした。
ありがとうございました。  
 
  明日は 関連記事を 書いて この
 「平家ものがたり」を 行く を 
  一応 閉じます。 よろしく。  

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花咲くことも なかりしに

2010年02月18日 07時20分57秒 | 2010・2 「平家……」を歩く
二月六日 (土) 宇 治 へ 向かう
 平等院 ・源頼政の墓 ・鳳凰堂 ・扇の芝

宇 治 橋 が みえた。
バスのなかから 写真を撮った。

「平家物語」の はじまりの方に 描かれた 
おおきな 戦さが「橋合戦」と 言われるものです。

以仁王(もちひとおう)側が 橋板を はずして
宇治橋を 渡れないようにした。それに 対し、
足利忠綱、 宇治川の急流を渡る作戦を とった。
これが、平氏側の勝利に つながった、という。

この 宇治川での戦いで 平氏方の武将として 
参戦した 足利忠綱さん。 おそるべし 17歳。

  兵を 下知していわく

  水の逆巻く所をば 岩ありと知るべし
  弱き馬をば 下手に立てて 強きに 水を防がせよ
  流れん武者には 弓筈をとらせ
  互いに力を 合はすべし

と なっている。 さすがに 「語り」文学です。

  ただ一人の下知に 依って
  さばかりの 大河なれども
  一騎も流れず こなたの岸に 喚(わめ)いてあがれば……

本当に 大河 なのだ。
北上川の 川幅の広い場所にも 負けないほど 広い。 
写真では よくは見えないが 波だっていた。

こんなところ 渡った ?
信じかねる。 だが、 いかに 誇張しようとも
渡らなかったら 「渡った」とは 書けないだろう 
だから 渡ったんでしょう


平等院 鳳 翔 館 (宝物殿 ?) を 見た。
そのあと 鳳凰堂。
( 冊子の 表紙に 使おうと 思っている)

ここは 
平泉の 無量光院。
三代秀衡 が 「宇治・平等院の 鳳凰堂を 模して」
建立したといわれている。
つまり 真似された 寺 と されているのが 鳳凰堂。

無量光院は いつ 建物が なくなったのか 調べた。 
「奥州藤原氏滅亡後、焼失して境内は 荒廃したが ……」  

頼朝が 攻めて来たとき 消失したのだ と
思っていたが、違うよう でみある。 思い込みは いけません。
 
鳳凰堂は 見学時間が 決っているので 
それまでに 「扇の芝」 を 見ることになった。

平等院内、最勝院にある 源頼政の墓は 
すこし前に 見ている。
宇治川で 平家の軍勢に追いつかれて 敗れた。
挙兵は 失敗に 終わった。 負けた 頼政さんは  
扇の芝と 言われているところで 
自害をしたのだそうな。
辞世の句は

 埋もれ木の 花咲くことも なかりしに
        身のなる果ては 哀れなりけり
 
頼政さんは 時に 70歳を越していた と いう。 
七十七歳というのもあった。

いまの 時代でも 77歳は ご老人。
70歳でも 戦さに出る 年齢では なかろう。
やむにやまれぬ 事情 とは … なんだろう。

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阿弖流為・母禮 恩讐を超えて ここに

2010年02月17日 00時18分51秒 | 2010・2 「平家……」を歩く
「平家ものがたり」の 旅    
  2月6日 (土)  清水寺
 
この 寺は 平安時代以来 長らく 
興福寺の支配下にあった。
興福寺と 延暦寺のいわゆる「南都北嶺」の争いに
たびたび 巻き込まれた。
永万元年(1165年)には 
比叡山 延暦寺の僧兵の乱入によって 焼亡している。
xxxxxxxxxxxxxx

今日は 平家とは 関わりない 話を 書く。

境内南苑に建ったという 東北の英雄 
阿弖流為・母禮(アテルイ、モレ)の 碑を 見たかった。
21年前に 訪れたときは まだ なかったので。 

ふたりは 平安律令政府の 東北征服戦争に対して
頑強に抵抗した“蝦夷(えみし)”の 首長と 副将 です。

蝦夷の 地を これ以上 荒らさないために
征夷大将軍・坂上田村麻呂の軍に 帰順した ふたり。

将軍は 両雄の 武勇と 器量を 惜しん で
戦後の 蝦夷統括に 利用したら どうかと
朝廷に 助命嘆願したが、許されなかった。

  わらび座の 「アテルイ」公演を 思い出す。

二人は 河内の国(現 枚方市) で 処刑された。
枚方は「ひらかた」と読む。すぐに忘れるが 書いておく。

1994年 「平安建都1200年」を 期して、
岩手県水沢・江刺地方出身の 関西在住者などが 碑を
建立して くれた。それを 見たかったのだ。

処刑された 枚方に 建てようとしたが 
市が 反対したのだったかな ? 調べなくちゃ。  
この寺は 坂上田村麻呂の創建なので 
了承してくれた とのこと。
因縁が あるのだ。 
  
   やっと 参ることが 出来た。
   恩讐を超えて 平和を希う 気持ちが 嬉しい。

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空也 さま は ここに 昔から いた

2010年02月16日 00時12分09秒 | 2010・2 「平家……」を歩く
「平家ものがたり」の 旅    
  2月6日 (土) 六波羅蜜寺 

六波羅蜜寺に 向かう 雪が はんなりと 舞う。
やっぱり 冬 です。 
六波羅蜜寺 本堂には 工事中の道を いって すぐに 着いた。
木造空也上人立像 を 見た。

21年前の旅の記憶では、 蜜 寺 へ 行かなかった。 
空 也 上 人は 三十三間堂でみた と 思っていた。 

今日 このときの 写真を だして みた。
三十三間堂から 蜜寺 へ と 巡っていた。
21年前 「見た」という 記憶のほうは 正しかった。

このときの 服装、 
なんと 今回の 旅での 黒いコートを 着ていた。
しばらく 箪笥のなかだった ものだ が 偶然 は 面白い。
あのときの 旅行は 下北からで 7万8000円。
子供たち 二人が 巣立ったとはいえ、 
大学生に送金。そして 高校生と 
二人 残っていたとき だ。

よく まあ ゾウさん 行かせてくれたものだ。

そうです。 
今回の 費用を 自分の へそくりから 出して 
正解だったの です。
ゾウさん ありがとう ね。 

木造空也上人立像は 
鎌倉 時代の 運慶の四男・康勝の作。

本像は わらじ履きで歩く空也の姿を表している。
疫病が蔓延していた京の街中を、空也が鉦(かね)を鳴らし、
念仏を唱えながら 祈りつつ 歩くさまを 表現している、と。
首から鉦を下げ、右手には 鉦を叩くための撞木(しゅもく)、
左手には 鹿の角のついた杖をもっている。

空也の口からは 6体の阿弥陀仏の小像が 吐き出されている。
6体の 阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の 6字を 
象徴しているそうな。

六体の小像が 針金でつながっている
こんな お姿は どこに 行っても みられないだろう。

同じ 鎌倉時代作。 伝 清盛 像も みたが、 
空也を みた あとでは 霞のような ものだ。

空也 上人 死後 の 平安末期には この周辺に
六波羅殿と 呼ばれた 平家一門の 屋敷が たち

鎌倉時代には  幕府の 出先機関「六波羅 探題」が おかれた。
京都の 治安 維持など や 裁判機能 を 受け持った。
もしかしたら 朝廷を監視する仕事のほうが 
役目としては 大きかったのではないかな。

相反する 平氏 源氏 と が つながっている
六波羅は 興味深い 土地だ。

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義経 10年の すみか を

2010年02月15日 00時11分30秒 | 2010・2 「平家……」を歩く
「平家ものがたり」の 旅   2月5日 (金) 
    ・鞍馬寺 ・若一神社 ・祇園
写真は 義経 供養塔
             
またまた 山行き です。
バスが 停まったところが 鞍馬山 山門前。
そこで昼食。 雍州路 (ようしゅうじ)という 店。

雍州路 は ここの 街道の名前から とったのだそうな。

雲 珠 そ ば は 
温かい「つゆ」に たくさんの具を 入れてから
太めの蕎麦を つけて 食べる。 おいしかった。

神護寺での 荒行で 疲れた。 
残念だが 鞍馬は 「パス」しよう と 思った。 
食事をしたら 元気が出て、 欲も でた。。 
ケーブルカーで のぼり、
下りだけ を 歩く というので
参加することにした。

ケ-ブルカーから 降りて すこし歩く。
目的の 鞍馬寺本殿。
その左手に 「天狗が いる」と 先生。
お堂の中は 暗い。何者か の 両目が 光っていた。

ゾウさん 「もっと 上へ 行く」人たちと 
いなくなった。
こんどこそは、下るほうの 仲間に 加わる。 
九十九折りの道 途中に
義経の 供養塔 は あった。 良かった。
牛若丸だったころの 7歳から 10年間をすんでいた。
修行の場 東光坊の 跡地だそうな。
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次   
   若一神社 

平安末期 清盛が ここに 別邸を建て「西八条殿」と称し
紀州熊野の 若一王子の御霊を 祭った。

以後清盛の勢威がのびたので、
開運出世の神として崇められた。

西八条殿には 五十余の邸があったという。
その どこかに 祇王が 住み
仏御前が いたのだ。

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祇園 知 恩 寺 前 へ 駐車。

祇園女御(ぎおんのにょうご)は 白河法皇 晩年の 愛人さま。 
生没年 未詳。 氏 素性も 未詳
源仲宗 妻 ? その子 惟清 妻 ?  宮廷仕えの女房?
諸説がある、とのこと。 

女 御 としての 宣旨は なし。
だが、居住地にちなんで 祇園女御、
または白河殿と呼ばれて 権勢を 誇った。
『平家物語』の巻六に「祇園女御」の章が あり、
平清盛の生母 ということに なっている。
今は そういうことに して おきましょう。

円山公園の南の入り口に 祇園女御塚が あるそうだが
南が どちらやら わからず。 探しもせず。
丸山公園で
坂本龍馬さん と 中岡慎太郎さんに あってきた。
二人の像は 立つ、しゃがむ の 役割が あるそうな。
どこのでも、 立つのが 龍馬。しゃがむが 慎太郎。 
背の高さに 差がありすぎるからだそうな。

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明るいうちに ホテルに 到着 
以後 自由行動。
京都タワーへ行く。同行者の 一人と であった。

近くにある 昨夜の 料理店 ? で 夕食。
ゾウさん 今夜も ビールが 飲めて 満足。

家では 一滴も 飲まなくなったのに どうして ?

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下って ・登って ・荒行を した よ

2010年02月14日 00時05分52秒 | 2010・2 「平家……」を歩く
さあ、 神護寺 だ。 
バスの 運転手さんは 手を 上下させながら
「下がって あがって  行くんです」 という。 

いやはや こんなに 大変なことを 知っていたら 
行かなかった だろう なぁ。

知らぬが仏 で 歩いてしまった。
下がって 下がって また  下がって   
曲がって 下がって   橋を 渡る。    

橋を 渡って のぼり のぼり また 登る。
やっと 寺 の 門が あった。
そこから 五大堂 まで いって 「足もみ」をして
そのうえまで 行った みんなを 待った。 

 さっきの橋 、 戻り道に みたら 「女人禁制」の 
 石の 標柱が あった。
 渡っちゃい ましたから、もう 遅い ですよ。
 
ここは 遠藤盛遠(えんどうもりとう) 
後の 「文 覚(もんがく)上人」の お寺 です。 

その盛遠さん、若武者のころ あろうことか 
同僚の渡辺亘(わたる)さんの の妻・
袈裟御前(けさごぜん)に 懸想を した。
 
    講師先生が 話して 
    くださったので ちょっと 省略する。

袈裟御前を 失ったのちに、 出家した 文覚は、
那智の滝など 全国各地の 行場で 荒行を つむ。
そして この高雄にきて 荒れ果てていた 
神護寺の再興に 奔走した。
いろいろ あって 遠島される。 
そこで 頼朝に あったことになっている。

伊豆流罪 五年後、 神護寺に帰った文覚は、
ふたたび 後白河法皇に 訴えた。 
こんどは頼朝のうしろ盾もあって
荘園の寄進をうけるのに成功する。
堂塔の建築も進み、寺外に出ていた
寺宝「金泥両界曼茶羅」も戻って、
神護寺は 復興を 成し遂げた。

こういう 歴史は 苦手。 
今回は 絵巻「平家物語」を 買ったので 
これで 再 勉強を しましょう。
 第4巻が 「文 覚」 です。

この 「文 覚」さん は 
自分だけではなく われわれ 旅人たちにも
荒行を させてくださった の でしょう。 
ありがとう。

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人力車 ・ ふたりで 初体験

2010年02月13日 00時08分24秒 | 2010・2 「平家……」を歩く
「平家ものがたり」の 旅    
  2月5日 滝口寺 と 小督塚と 
  
滝口寺は 滝口入道の 寺。

平重平の家来、斉藤時頼は 
建礼門院に仕えていた 横笛に 恋するが  
周囲の反対にあって 添うことが 出来なかった。

お隣の 往生院(現祇王寺)で 出家し、
滝口入道と 名乗る。
横笛が 訪ねてくる。 だが 追い返えす。 
彼女は 大堰川に 身を投じた という。

 なんで お坊さんになるまえに
 手に手を とって「手鍋さげても」を 
 しなかったの だろう。
 まずしい暮らしに 耐えられそうに なかった から ?
 貧しいこと も 楽しい よ、 と 素人は 思う。 
 選択肢として 「武士を やめる 」という 
 考えは 浮かばなかった のかな。

帰り道 みんなから 離れてしまった。
朝の 余分な 散歩が 堪えたのだ。 
ゾウさんが 写真とりで 姿が 
見えなくなることも 私の足止めになった。

野々宮神社付近に 人力車が たむろしていた。
ゾウさん 「のるか ?」
集合場所に 遅れそうな 気がした。 
料金は 二人で 10分 3000円
ケチっては いられない。

両脇に 竹林が ある ドラマなどで 見る 
その 風景の ところで 車を クルリと 回して、 
二人が 乗っているところを
わたしの カメラで 撮ってくれた。

それから 道を回って 小督塚の
正面へ つけて くれた。 
車の上から 写真を撮った。

小督 は 中宮 徳子に 仕えた 女房
宮中一の美女と 謳われた 琴の名手。
あることから 清盛の 怒りを か う。

高倉天皇に 迷惑がかかることを 心配した 小督 は
嵯峨野に 身を隠す。
天皇の命を受け 小督を探していた 側近の 源 仲国は
たえなる 琴の調べ「相 夫 恋」を 聞き取った。
笛の名手である 仲国には その音が 小督 だとわかった。 

その場所が この橋 渡月橋の 近くだという。
「琴聞橋」という名が ついた橋は どこかに
復元されているとか。

車のおかげ  で 早く つくはずが 
領収書を 渡すから 待ってほしい、という。
  必要ない から と いったが 
決まりになって いると いう。
 
ゾウさんに 頼んで 私は バスまで 走った。

バスにいる皆様を すこし
お待たせしてしまった。 ごめんなさい。

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仏御前は 身ごもっていた       

2010年02月12日 00時19分59秒 | 2010・2 「平家……」を歩く
 「平家ものがたり」の 旅      2月5日 祇王寺 
 
嵯峨野へ 行く。
交通整理 ? (工事はしていない)
駐車場の 管理人 ?
あの 制服は ナン だろう
その方 きさくに 話しかけて 来た。
  この辺は 沼地だった。
  段差があるので 差が 差が 
  で 嵯峨と呼ばれるようになった。
   ここにある 竹は 真竹 で 
   一節が 一日伸びた 分になる。
     ここは ドラマや 映画のロケ地になるよ。 
など。 

講師の先生
 20年まえにきた。ここは 家なんか
 なかった。(少なかった だったかな)
私 20年前なら ピチピチ でしたね。  

そんな 会話を 楽しんだ。 

野々宮神社 は 源氏物語 ゆかりの地
そのまえを 通って 祇王寺へ、
竹と 楓の 庭は コケで 覆われていた。
冬とは 思えない風景。

牡丹も 咲いていた。 白いのもあった。
夜は 家の中に しまうのだそうな。そうですよね。
温度調節が 必要だろう。 また 調べた。

 本来であれば 4月下旬から 5月に 咲く
 春牡丹の花を使って 冬牡丹に 仕立てている。

それで 2月の いま 美しい花が 見られたんですね。

 もえ出るも かかるも おなじ 野辺の草
     いずれか 秋に あはではつべき

見事な掛詞 「いずれ 飽きられる」と 
新しい愛人にさせられた 仏御前に 述べている。 
白拍子であった 祇王は どのようにして 
教養を得たのだろう。

祇王が 往生寺(のちの祇王寺)に 
ついたときは まだ 21歳だった。 
妹 祇女は 19歳  母 刀自 45歳。 
母子三人 「南無阿弥陀仏」の 念仏している所へ
 
三人が 清盛から 追い出される 因になった
仏御前 (17歳) が 寄ってくる。

平清盛の寵愛を 受けていて も
捨てられた 祗王・祗女の身を 案じてしまう。
 
先の 句が 胸をえぐったので あろうか
わが身に 置き換えて
自分も 清盛から 捨てられる 日が 来る。
その前に …… と、 祗王・祗女を 訪ねた 仏御前。
   立 派。

諸行無常の 話しの なかにあって 
ここは 私の すきな 場面だ。
おんな 4人が 「男なんぞ、清盛なんぞ」 と
言ったか どうか わからないが、 
こんな 山里の 嵯峨で 寄り添って 
生涯を 過ごしたんだ なぁ。そまつな 庵で。

ここで いつもの 愚 問。
食料は どこから どうやって 調達したんだろう。
施物 が あった ?
村人 ?
平家からは くるはずがないのだろうな …。

供養塔へ 行った。
向かって 左の  
宝 筐(ほうきょう)印 塔は  清盛の供養塔。
なんで 鎌倉代の方は こんなもの 作ったんだろう。
追い出した 人たちの となり には 
追い出した 清盛は そぐわない。
私は 悔しい。  除けて しまいたい。

右側 の 印 塔は  祇王・祇女・ 母 刀自 のもの
清盛よりは ず~~~~と 大きい。 3人分 だから ?

一番若い 仏御前のは どこ ?
「石川県の 小松に 墓が あります」との
受付での 答えだった。 調べた。

  墓は 小松市から 鳥越村に至る県道沿いにある。
  (字 原町、仏御前の里)


仏御前は (現小松市 ?)
 五重塔の 塔守の娘として 生まれた。
幼い時から 仏法を信じたので、仏と呼ばれた。
それから 「平家物語」に あるとおりの 人生。

  17歳の秋、出家して、嵯峨野の祇王らの庵を 訪れた。
  (がなぜか)翌年、美濃国を経て 郷里 帰国の途中、
  白山麓木滑の里で 清盛の子を出産、
  子は 亡くなった、と。

なんと なんと びっくりです。
祇王寺を 訪れたときは 身ごもっていた、んですね

詳しいことを 知りたい方は
 HP 南加賀周遊 「仏御前物語」を ごらんください。

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戦じたくの お寺さん

2010年02月11日 08時04分47秒 | 2010・2 「平家……」を歩く
「平家ものがたり」の 旅    2010年2月11日 出す
  2月5日  東と 西 の 本願寺

先に渡された スケジュール表には なかった
東と 西 の 本願寺 へ 行くことになった。

知っていること
 本願寺 は 親鸞さんのお寺。
 聖人の 教えが正しく伝わっていないことを 
 嘆いた 弟子の唯円が、「歎異抄」を あらわした。

 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

 など。歎異抄(たんにしょう)は 一応 読んでいるが
 憶えているのは ここだけ。 

朝食が 7時なので フロント 6時集合で
外へ出る。 真っ暗 だった。
ホテルは 駅前にある。

東本願寺の前は 素通りして 西 寺へ。 
声明が 聞える。
朝の おつとめ だ。 荘厳な 響き を 伝える。
自分の身が 清められる気がする。

広い庭 中央。 薄明かりに 銀杏の木が みえる。
手入れが 良いと このように 広がって
姿が 良くなる …… と かいてある。
字が 読める ようになった。
夜が明けてきたのだ。

西も 東も 広い 堀で 囲まれている。
西は 空掘 なのはなぜか 

戦をするための 城 の 様相。
まさか この 距離で 東と 西が 争った ?
あら「お東騒動」なんての が でてきた。

西本願寺 浄土真宗本願寺派 の 本山の通称。
親鸞聖人
正式名称は「本願寺」。山号は「龍谷山」。
その他の通称は、「お西さん」。

東本願寺 真宗大谷 派 の本山。
ほら ますます こんがらがって きた。

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや
は 『歎異抄』第3条 だったが 
この 「いわんや悪人をや」が いまもって 理解できない。
善人 は ともかく 悪人が 善人より も
大切に 扱われるの かが わからない。

  往生 …… この世を去って 
  他(極楽)の世界生まれ変わること。 

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赤い玉のある 風景 ・ 大原

2010年02月10日 11時39分55秒 | 2010・2 「平家……」を歩く
「平家ものがたり」の 旅 
  2月4日  大原 寂光院

京都の 在に 向かう。 
ここと そう変わりない風景 だったが、
洛北 大原に 近づくにつれ 瓦の 家並みになった。

民家の 軒先に 野球ボールぐらいの
赤い玉が 3個 ぶら下がっていた。
 
この家は ちいさな まがり角にある。
多分 道が 狭いから バスが 通るときに 
屋根にぶつからないように
目印にしているのではないか と 思った が。

これは ミカンが入っている 袋。
それを 何個か 丸めて
一個の 袋に 詰め込んで つるしているのだろう。
 
大原と聞くと 「古都」という 映画が浮かぶ。
北山杉 ?   調べたら
北山は 大原より 南のほうだった。
でも 杉は 多い。
杉は 面白い形に 剪定されて 
生垣に されていた。

ここの 方たちは 何で生計をたてているのだろうか。
同行者が を 歩いている人に きいたら
   若いものは ほとんどが 町へ 出ている。
   老人世帯が 多くなった、
と 話した、とのこと。
  
さて 寂光院。ここは 建礼門院 徳子 ゆかりの地。
平清盛の娘で 安徳天皇の 母。
高倉天皇の 奥さん で 中宮 徳子 と 呼ばれた。 

中宮 は 第2夫人 ?
では 本妻さんの 皇后 は いる。いない。 
なんと いう お名前だろう。
気になっていたので、また 調べた。

「特別な呼号」より
    
    中宮 (ちゅうぐう)
 中宮とは 皇后・皇太后・太皇太后の 三后の総称であったが、
 平安時代以降、皇后のみに用いるようになった。
 さらに  道長の娘 彰子が 一条天皇に入内したとき、
 既に 定子が 中宮と なっていた。それで
 彰子を 中宮、定子を 皇后とした。 
 以後は、新立の皇后を 中宮と 呼ぶこととなった。 
 但し、中宮と呼ばれた后も 
 立后の宣命には 皇后と明記されており、正式な称は皇后である。

    皇后 (こうごう)
 天皇の嫡妻。 故に、一天皇に 1名のはずだが、
 道長の「中宮」と「皇后」は 違うと いう解釈より、
 二人以上の后が 並立するようになった。   

だそうな。 
より強い 後ろ盾のある后が 中宮と 呼ばれる
という 解釈もあった。

寿永4年(1185年)、壇ノ浦で 
平家一族が滅亡した後も 徳子は 生き残り、
侍女の 阿波内侍とともに 尼となる。 寂光院で
平家一門と高倉・安徳両帝の冥福を 
ひたすら祈って いた。そこへ
文治2年(1186年) 後白河天皇が訪れる。
この故事は『平家物語』の
「大原 御幸」の段に おいて 語られる。

「諸行無常」を 象徴する エピソードになっている。

本堂で こんな お話を 聞き、 庵室を 眺め、 
宝物殿に 入った。
和とじの「平家ものがたり」が あった。

  祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
  …… 偏に風の前の塵に同じ

「巻第一」の ここだけは なんとか 
そらんじようと 思っている のだが

それから 建礼門院の陵墓へ。
もとは 境内にあったの だそうだが、
明治以降 宮内省(現・宮内庁)の 管理下に 移り、
寂光院境内からは 切り離されている。

時間があるから 三千院へと 思ったが
4時 閉門だそうで 断念。
この夜は 宿泊地のホテルではないところで
一行 10名、お食事会。

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やがて つまらん 君がゆくすえ

2010年02月09日 07時47分28秒 | 2010・2 「平家……」を歩く
「平家ものがたり」の 旅    
  2月4日  叡山を 行く ③

天気予報は 昼から 「雪」だったが 
そんな心配は いらなかった。

それでも 身体が 冷える。 1時半 
用心のため トイレへ行く。貼り紙があった。 

   心して 便器に 物をすてるなよ 
     やがて つまらん 君がゆくすえ

つまらん は 詰まる に 
「なんだか つまんないなぁ」の つまらん を
かけているのだろう。
なかなか おもしろい。 しかし
 
「便器」は はっきり し す ぎ だ し
 ひねりが ちょっと 足りない。

さて 余談 この 延暦寺での はなし 
2006年5月 午後5時から 約40分間
ちょいと コワイ 方々が 歴代組長の法要を 行った。
「特別永代回向」と呼ばれる 最高級の儀式だったそうな

全国の直系組長ら 約90人が、
7台のマイクロバスに分乗して 集結、
警察庁は
  個別の葬儀まで中止しろとは言わないが、
  幹部が勢ぞろいする 今回の法要は 論外
だと、中止を 申し入れた が
 
寺側は「宗教の行事だから断れない」と して 決行した。
後に 
   霊位(死者の魂)は 差別しない。
   だが、資金集めの恐れがあるということを
   考えるべきであり、 認識が甘かった
としている。
 
この事件で
何人か が 役職を引いたはずだ。 

歴代の 親分たち、
資金集めに 利用されたことを 喜んで いるだろう か ?

明日は 寂光院 行きを 書く

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ままならぬもの 山法師たち

2010年02月08日 00時12分26秒 | 2010・2 「平家……」を歩く
3日間「平家ものがたり」の 旅  2月4日
  叡山を 行く ②

 先に …
 ゾウさんが 自分のブログに 京都の旅の
 写真を 出しています。
 あわせて 楽しんでください。
 同時進行 できるかな。

さて
根本本堂 内部には 3基の厨子。
中央の厨子には 秘仏・薬師如来立像が 安置されている。
(最澄自作 との 伝承が ある)
中央 この本尊。 北側に 文殊菩薩像、南側に 大師像。  

本尊厨子前の 釣灯篭は、最澄の時代から続く「不滅の法灯」。
この灯は 信長の焼き討ちで 一時 途絶えたが、
立石寺 に 分灯されていたものを 移して 
現代につなげた そうな。 

さて 前回の 宿題
   外陣よりも 内陣が 
   低い構造になっているのは なぜか

先生が 推測するには 
  この場を 俗世間から 遠ざけるため であり、 
  石畳の 床で 祈祷をするため そして
  法灯が 風を うけにくいように 
では ないか と おっしゃって いた ?
チョと 怪しいかな。

延暦寺は 自らの意に 沿わぬことが起こると、
時の権力者に 対 して
僧兵たちは 神輿 を かついで  強訴するという 
手段を とった。
(当時は 神仏混交であり、神と仏は同一であった)

 ままならぬものとして
「賀茂川の水、双六の賽、山法師」と 
 言われた所以であろう。
   山法師とは 延暦寺の僧兵のことである。
 
叡山は 日本の政治に 強い影響を 及ぼし続け、
後には、源義仲を 支持する意を 表明する。
これが 平家一門を 都落ちさせる 因に なった,
って さ

なんか わかったようで わからない 
ちゃんと 勉強しなくては ……

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せまっくるしい バス でした。

2010年02月06日 23時29分48秒 | 2010・2 「平家……」を歩く
京都の 旅から 帰った。

雪掻きをして 家に 入ったら
10時半になっていた。

風呂が 凍っているが
ゾウさん 「入る」んだそうで

湯沸かし器から バケツに お湯を入れて
風呂桶に 入れている。

半分ぐらい 湯が バスに 入ったところで
ガスを つけた。 湧き出した。

ゾウさん 執念です。

実は 2晩泊った ホテルの 風呂 が
温泉ではない うえ 
後方 52・5センチ
 前方 43センチ だったので

背が 小さい私でも 膝を 曲げても
座っても 身体が 隠れないので 
身体が あたたまら なかった。

横も 湯が くっつかない ような
有様で あ~~~・ もう どこまで

なにしろ これが 2晩 も だから
そうです。 うちの 風呂に ゆったりと
入りたいのでしょう。

いま11時半 
  風呂 あつくなったら「入って」寝ていいよ。
  オレは パソコンしてから にするから
と 部屋に 行ってしまった。

ともかく ブログ 出して 私は 寝る
寝ます。では~~~~~
 

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