イエス・キリストの福音

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【 本当のクリスマス 】 「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい

2021-05-17 04:00:00 | 日記

【 本当のクリスマス 】

「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」(マタイ1:20)

夢は時に神様の御心のご計画を人に示す手段として重要です。

「夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。――主の御告げ。――」(エレミヤ23:28)

エレミヤは夢見る預言者を公認してこう述べましたが、いかなる啓示の夢も御言葉以上に重要なものはなく、麦が御言葉なら夢はあくまでわらのようです。しかし、夢を通じた神様の啓示に従ったがゆえに多くの人民を救った主の僕らの武勇伝も歴史中、多々あります。

「夢見る者」(創世記37:19)と悪口雑言された旧約ヨセフはその夢を解き明かす賜物をうまく使ってエジプトを中心に飢餓に悩む全世界の人民を救うことになりました。

ダニエルもネブカデネザル王の見た夢を解き明かすことによりバビロンの知者をすべて殺害するよう命じられていた魔の手から彼らを救い出しました。後に当時のバビロン地域からヨーロッパ文明が開花し、優れた西洋文明の恩恵を受けながら全世界が、先進諸国として繁栄を謳歌できるようになりました。もし当時のバビロン知者すべてが殺害されていたならば、知者は知者を産み、知者は知者を育てるものですが、現代の繁栄ももう少し発明、発見が遅れた発展途上国になっていたことでしょう。ダニエルの夢を解き明かす不可視な能力は想像以上に今日の私たちに大きな祝福をもたらしています。逆に神様からの夢を軽んじて滅亡した人もいます。ポンテオ・ピラトです。彼はイエス様の十字架を前に妻からこのような助言の言葉を受けていますが、それは神様からのものでした。

「ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」(マタイ27:19)

ピラトは妻の夢の話をたわごとのように思って無視し、大罪を犯すこととなりました。この御言葉は教訓的に常日頃、妻を軽んじてその意見を無視する夫は大きく成功できないともいえます。

また、身ごもる内定の妻マリヤを姦淫の罪ゆえと考えて内密に去らせようと考えていたヨセフに彼女を受け入れるよう、マリヤは聖霊によって身ごもっていると啓示された神様の手段もまた、夢でした。もしこの夢が重視されず、マリヤを内密にさらせれば、ダビデの子孫から救い主がお生まれになるという預言がくつがえされてしまう危険さえありました。

すべての夢が神様からのものではありませんが、神様から来た場合は、重要で旧約ヨセフ、ダニエル、新約ヨセフのように後日、非常に多くの人々に影響を絶大に与えている場合があります。

イエス様がユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムにやって来ました。聖書に彼らの人数は書かれていませんが、「博士たち」と複数形であることと「黄金、乳香、没薬」という一見関連性のない全く異なる三種類もの贈り物がささげられたことから三人であったと考えられます。彼らはおのおの博士であると同時にこれら貴重で値の張る高価な贈り物をこの時代に入手でき、大胆にささげられるほど裕福だったことから、当時の特権階級である王でもあったと考えられます。伝承でも王だったと伝えられています。これは象徴的にイエスこそ三人の賢い博士兼王様から礼拝を受けられた、まことの「知恵者中の知恵者」であり、「王の王」であるという意味があります。

三人は国家の命運を背負う王であるがゆえに決して危険な冒険的単独行動はとりません。力ある護衛兵たちと執事による道中の食事係、医療班とラクダを管理する運搬係、雑用係。その他いろいろな利害関係者が王を取り巻き、その一行は大きな群れとなったことでしょう。幼子イエスを目標に各国の各方面から三つの大きな群れが集合するさまを想像するならば、当時のヘロデ王とエルサレム中の人の恐れ惑いも理解できます。ことにヘロデ王は純粋なユダヤ人ではなくエドムであったことから「ユダヤ人の王として、お生まれになった方はどこにおいでになりますか。」との問いかけには敏感に反応し、恐れが増大したはずです。きっとヘロデ王はこう考えたでしょう。「血統を重んじるユダヤ人社会、いつかは同胞の王を立てた革命で私を追放するかも知れない・・・」加えて三人の王が幼子イエスについての詳細情報を伝えてくれずに自分の国にこっそり帰ったことから、裏切られ取り残されたような錯覚の中、王としての孤立感と将来への不安を強め、怒り狂ったヘロデ王は人をやってベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をすべて殺害するという新約時代最初の殉教者を大量に出すこととなりました。人は誰でも自分の誕生日は特別で良き記念日のはずです。しかしイエス様においてはこの点でも迫害され、御心の痛みとなりました。子供たちを殺害された母親たちにとっては、その日すなわちイエス様の誕生日周辺のその季節こそ、出来れば、なければよかった最も忌まわしい喪に服する悲しみの命日となったからです。本当のクリスマス、それは実にイエス聖誕の大いなる喜びと裏腹にその後のイエスの生涯を預言するかのような苦難の始まりでもあったのです。

「また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。」(黙示録12:1,2)

使徒ヨハネが見た「ひとりの女」とは、原語で十二部族からなるイスラエルのことですが、霊的には母マリヤのことも当てはまります。マリヤが叫び声をあげる程までひどく難産だった理由とは、イエス様出産にあたって若く初産だったこと、加えて処女だったことです。

イザヤもマリヤの処女出産についてこう預言していました。

「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。」(イザヤ7:14,15)

『インマヌエル』(神が私たちと共におられる』イエス様は「悪を退け、善を選ぶことを知るころ」である生後、三年半は幼子には強すぎてふさわしくない非常食である「凝乳と蜂蜜」を食べていました。非常食を食べる幼子とは、珍しくその意味は生後すぐに迫害されてエジプトの避難生活に導かれるという暗示的な預言でした。徹頭徹尾、苦難に満ちた救い主です。

ここで彼ら三人の王たちは互いに無連絡のはずですが、同じ一つの聖誕の日を目標に超自然的に出現した星に誘導されて幼子イエスの所までいっせい集合できたのかはまさに注目です。

この東方で見た星の特徴とは「彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。」とあり、移動する不思議な星です。しかし流れ星のような瞬間的な光ではなく、76年ごとに地球に接近しながら移動するハレー彗星の光でもありません。この時期のハレー彗星再接近はAD10年です。ではこの星は何でしょうか。実にこの超自然的で不思議な星こそ、天から遣わされた聖霊様を象徴する星なのです。聖霊様は夜空のごとく暗かった私たちの心に突如と輝き昇り、いつもイエス様の方角へ先導します。

「聖書を読みたい。教会に行きたい。イエス様をもっと知りたい・・・」

すべてこれら突如として心に生じた良き願いこそ聖霊様の先導の賜物です。そして聖霊様はイエス様の真上を目標にとどまり、暗闇の世界でイエスだけを照らす唯一の啓示の光となって、イエスのことを分かりやすく証しするスポットライト的役目を果たしたいと願っておられます。

聖霊様は非常に大切です。どうしても聖霊様の導かれる先導の賜物とイエス様を照らす啓示の光がなかったら暗闇の砂漠人生をさまようばかりでイエス様を知ることは出来ません。

聖霊様をもっと認め、歓迎して、受け入れましょう。

「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」

聖霊様は喜びの霊です。現状、喜びがあるか否かをバロメーターに霊的状態は判断できます。

聖霊様に満たされた信者はたえず清らかな喜びがあり、霊的に悪い霊をかぶっている信者には清さと喜びがありません。

「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」(マタイ2:10-11)

贈り物には霊的意味があります。第一に王たちから黄金がイエス様に捧げられた事は、イエス様こそ黄金にふさわしい「真の王の王」であるという意味です。第二に祭司が礼拝に使う乳香をイエス様に捧げられた事は、イエス様こそ「真の大祭司」であるという意味です。第三にミイラが朽ちないよう防腐剤に使う没薬がイエス様に捧げられた事は、イエス様こそ御自身、何度も預言された通り、朽ちない復活の主として「真の大預言者」であるという意味です。ハレルヤ!

三人の王たちは何も受けず、見返りも期待せず、ただイエス様が神なるがゆえに神を神としてひれ伏し拝みました。純粋で真実な礼拝者です。本当のクリスマスとはプレゼントを受けるよりも、むしろ捧げる時です。

ですから私たちもこのシーズン、彼ら純粋で真実な礼拝者に学び、「心」という「宝の箱をあけて」三つの贈り物を捧げましょう。

それは第一に黄金が王に捧げられるようにイエス様を信じ、人生の「王の王、主の主」として心の王座に迎え入れましょう!イエス様に心の王権を明け渡したら必ず幸せになれます。悪い独裁者の王国は国民を餓死させ戦争まで起こします。知恵ある指導者の王国は国民を豊かに富ませ平和を実現します。そのことを端的に表わす事例として同じ朝鮮半島に住む韓国と北朝鮮。彼らは同じ民族で同じ言葉と食文化、地理的にも同じ資源保有と思われますが、その経済格差は数十年とも言われます。豊かさと背中合わせに寒さと飢えで苦しむ民族、その主たる相違の原因は国を支配して民を導くリーダーの違いしかありません。リーダーがどの主義、思想を受け入れ実践するか、誰が実質王であるかという問題は重大です。人は誰であれ自分の魂の支配者なる王をイエス様とするか、サタンとするか、生きているうちに決めなければならないと聖書は教えています。多くの人が自分はいずれにも所属していないと固く信じていますが、現実、中間状態はありません。神様チームか悪魔チーム、二つに一つ。人は必ずいずれかに所属しています。

勇気ある決断を下して愛と平和と正義の王なるイエス様を受け入れましょう。

人間の本当の姿は例えると、大型豪華客船に乗船して、そこで盛大なパーティーを開いている人のようです。しかしその船は癒しがたい深い亀裂があり、徐々に浸水しやがては必ず沈没する運命です。人々はこれに気付いていません。いや考えようとしていません。否定的なことや難しいことはできるだけ避けたほうがいいと思い、目先に置かれた数々の楽しみを満喫する自由な時間こそ人の幸せだと思っています。船の中にいることも忘れさせる豪華なご馳走と飽きさせない次々と続く音楽と多くの余興、ある人は船内プールへある人はギャンブルに夢中、という具合です。人間は本当に生まれたときから確実に死に向かっています。どんなに健康でも幸せでも、最後は死ぬ体です。死後の備えをする人が本当に賢い人です。自分の人生を自分の私利私欲達成目標に生きるなら必ず生涯の最後の時、後悔します。あなたの本当の魂の支配者であり、管理者であるイエス様にゆだねて人生の主権を明け渡してください。イエス様はよい王様です。より頼むものを決して見捨てません。信じてください。イエス様の中には十字架で血を流し命を捨てた本物の愛の救いがあります。永遠に続く天国も地獄も現実のことです。やがて、乱れた世界の有様は終わりを告げます。先延ばしせず、本気でイエス様を今日のうちに信じてください。


「天の御使いたち」は大変力持ちです。彼らはイエス様の埋葬に使われた墓の入り口の大きな丸い石(直径4メートル1センチ,重さ推定13・8トン)を反動もつけずに右から左に動かしています

2021-05-16 04:00:00 | 日記

「天の御使いたち」は大変力持ちです。彼らはイエス様の埋葬に使われた墓の入り口の大きな丸い石(直径4メートル1センチ,重さ推定13・8トン)を反動もつけずに右から左に動かしていますが、その際、鎖の封印の根元にあった、厚さ3.8センチのくさびの折られた断面を研究したナータン・マイヤー博士の報告では60~80トンの圧力が一瞬に働いたと言います。ゆえに私たちもその日が来れば、「天の御使いたち」のような、サムソンのような怪力を発揮して、墓石を砕き、大地を揺さぶり、岩々をこっぱみじんに破壊して、閉じ込められた地中から力強くよみがえることも実現可能でしょう!イエス様を信じればマッスルパワーさく裂のえらい力持ちになれます!将来。

さらに「天の御使いたち」のことをマルコは「青年」(マルコ16:5)と言っています。

栄光から栄光へと主イエスと同じ姿の33歳位の青年のような若さが与えられます。

イエス様を信じれば老人も美しく元気に若返ります!

そして「天の御使いたち」のように光り輝く明るい笑顔を持って天国に堂々と入れるのです。

刑法上の犯罪人が逮捕されてメディアの前にその姿がさらけ出された時、多くの犯罪人は上着等を頭からかぶって顔を隠します。自ら暗闇を本能的に選択するのが、罪人の特徴です。天国も、神様はすべての人を大歓迎する光の国なのに、罪人は内なる闇が自動的に働いて本能的に光を避けます。しかし、私たちはみな「光の子ども、昼の子ども」です。決して「夜や暗やみの者」ではありません(テサロニケ第一5:5)。御子イエス・キリストを信じるからです。

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」

(ヨハネ3:18-21)

それから空中再臨の栄光はさらに続きます。

「また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。」

(マルコ9:4)

変貌山では預言者の代表エリヤと律法の代表モーセが来賓客のように現れてイエス様の十字架を告白しました!同様にその日が来ると、私たちも無数の神の子らが集う空中大宴会の中、来賓客の一人となってイエス様の十字架の素晴らしさを告白することでしょう。そこには実際にエリヤやモーセのような旧約聖徒たちとペテロ、ヤコブ、ヨハネのような新約聖徒も同席するでしょう。旧約聖徒と新約聖徒の出会いです。彼らと私たちは同じ一つの天国に入れます。考えるだけでわくわくします。どれ程その栄光が偉大なものか、その日の象徴である変貌山の栄光の中でさえペテロはあまりにも素晴らしくて何がなんだか分からなくなって口出ししてイエス様に「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」と言ったほどです。

ペテロのそのときの思いは、きっと主の御栄光と御臨在が麗しくて美しくて、心の中で、

「この場を離れられない、離れたくない。できればこの幸福感を永久に失わないよう、そうだ!住まいの幕屋をイエス様に提供しよう!ここに幕屋を建てて幸福の源イエス様に永住していただき、自分もここにずっととどまろう!独占!イエス天国村!あ!そういえばイエス様の手前、寛大にモーセとエリヤにも一つずつ。」というほどだったのです。

私たちも今日、礼拝を通じて主の御臨在が教会に満ちた時には同じ幸福な感覚を味わいます。事実そのような時は礼拝後も盛り上がって誰一人すぐに帰ろうとしません。祈祷会でも御臨在が満ちた時は、実に深夜でも祈り続けてなかなか祈りは止まず帰る時刻も遅くなります。主の御臨在は重要です。家を建てて永住したいほど、しばらくとどまりたい環境です。イエス様はバプテスマのヨハネについて語られました。「彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。」(ヨハネ5:35)

当時のユダヤ人たちがしばらくの間、光の中で楽しみたいと願ったこともまた、バプテスマのヨハネを通じてそこに神様の御臨在が満ちていたからです。

しかしながらペテロの提案、標高の高い山上に三つもの幕屋建築とは、いささかペテロらしい面白発想で、思慮、配慮の若干欠けた浅はかな言葉です。山上は宮大工のお招きや建材搬入、通勤通学や食料調達等の実生活も、かなり厳しい環境です。コスト高に整地の問題もあるでしょう。幕屋ゆえ実生活はさておいても信者の集いも毎度厳しい命懸けの重装登山です。

「そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。」(マルコ9:7)

血迷うペテロの数々の過ちを正そうと父なる神様が語られました。実はペテロの最大の過ちは神様なるイエス様と人間なるエリヤとモーセを対等に並べて幕屋建築と言ったことです。預言も律法もイエス様を証しする影であり、神の言葉イエス様だけを最上に従わなければならないのです。律法と預言の成就、主役なるイエス様だけを基準に歩み、礼拝の中心としましょう。

変貌山ではさらに突如と雲がわき起こりました。このことも将来の空中携挙と同じ現象です。やがて我らイエス様を待ち望む聖徒らも空中の高い場所でわき起こる雲に包まれます。これは自然の雲と同時に神様の栄光の雲です。「光り輝く雲」(マタイ)。「雲」(マルコ、ルカ)。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

(テサロニケ第一4:16,17)

「見よ、彼が、雲に乗って来られる。」(黙示録1:7)

ペテロ、ヤコブ、ヨハネが雲の中から語られる父なる神様の御声、

「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」

これをじかに聞いたように、やがて空中携挙された雲の中から私たちも父なる神様の祝福の御声をじかに聞くことになるでしょう!それはきっと次の御言葉です!

「『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ25:21)

「『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』」(ルカ19:17)

イエス様の空中再臨を象徴する変貌山の翌日のことまでルカはこう証言します。

「次の日、一行が山から降りて来ると、大ぜいの人の群れがイエスを迎えた。」

(ルカ9:37)

この預言の御言葉は一行が高い山から降りるように空中から降りる地上再臨を現します!

空中7年間の婚宴期間を過した後、イエス様と私たち教会は地上のオリーブ山に再び降り立ち、「大ぜいの人の群れがイエスを迎え」ます。

ゼカリヤはその日をこう預言します。

「主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。」(ゼカリヤ14:3-5)

ハレルヤ!その日は近いです。天国の報いを大いに期待して感謝して待ち望みましょう!

地上再臨以降、そこから地上が一新され、安らかな千年王国が始まりますが、この時代が千年王国と呼ばれるのは千年間エデンの園の住民のように、生き続けて大いに繁栄する王国であり、私たちもすべて王になり、イエス様は王の王になられるからです。

「彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」

(黙示録20:4-6)

その日が来ると、全地はエルサレムが世界の中心となる、創世当初のゴンドワナ大陸のような「もとの所」にもどる地殻大変動も起きて、永久に地震のない、安定した一つの巨大大陸になることでしょう!ハレルヤ!全地の呪いも消え去りエデンの園のように動物たちも共にいます。

「その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。全土はゲバからエルサレムの南リモンまで、アラバのように変わる。エルサレムは高められ、もとの所にあって、ベニヤミンの門から第一の門まで、隅の門まで、またハナヌエルのやぐらから王の酒ぶねのところまで、そのまま残る。そこには人々が住み、もはや絶滅されることはなく、エルサレムは安らかに住む。」(ゼカリヤ14:6-11)

「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。

その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」(イザヤ11:1-10)アーメン。


【 空中携挙(Rapture)と変身 】 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、

2021-05-15 04:00:00 | 日記

【 空中携挙(Rapture)と変身 】

イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」

それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。(マルコ9:1-8)

イエス様の行動は実に預言的でミステリアスです。通常深く心に留めない御言葉の一節、一行だけでも、よくよく祈りながら熟考すると隠された深い意味があることが分かります。このメッセージは再臨に関わるものです。

マルコによるとイエス様が「神の国が力をもって到来」すると言われ、ルカによると「人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来る」(ルカ9:26)この一つのときについて、すなわち「再臨」について話されたちょうど六日後、イエス様の御姿が高い山で光り輝く奇蹟が起きました。この再臨メッセージと六日後の変貌の出来事は、互いに密接にリンクした一連の預言的メッセージです。

「それから六日たって」(マルコ9:2)ということは、このような意味があります。

「愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」(第二ペテロ3:8)

「六日」とは預言的に「六千年」を指し示し、すなわち旧約約四千年、新約約二千年の人類史が合計約六千年を満たした後、再臨から始まる千年王国が来ます。神様が六日で世界を創造された後、七日目を安息とされたように、やがて来る安息の千年です。その始まりが聖徒らを世界の四方から集める空中携挙です。イエス様の変貌山の記録はその日のことを象徴的に預言したミニチュア的な出来事であり、「主の御前、六日たったような約六千年の人類史が終わったとき、変貌山によく似た空中携挙がすぐに来ますよ!」という隠された預言です!

地球と人類の歴史は進化論に有益な50億年とか60億年とも教えられてきましたが、聖書では旧約約四千年、新約約二千年で全てです。あるクリスチャン学者が導き出した系図の一覧表を見たことがありますが、そこには聖書中の著名人が誰の子として生まれ、何歳で子を産んで後、何歳で死んだ等、記された聖書の御言葉から彼らすべての登場人物の系図をアダム以降、順次つないだ結果、年代が特定されている歴史的事件も加えてやはり旧約時代は約四千年であると結論づいています。今の終わりの時代、人類史が約六千年であるという事に関して、諸説が挙げられることもある意味、預言されていたかもしれません。というのはマタイとマルコはこの同じ変貌山の光り輝く奇蹟について、イエス様が再臨メッセージを語られた後、「それから六日たって」(マルコ9:2)(マタイ17:1)と記録しますが、同じ一つの日をルカだけは「これらの教えがあってから八日ほどして」(ルカ9:28)と記録に相違があります。彼らは一応に直接の目撃者でないため、違いが出ることもありえますが、あるいは標高高き登山に二日を要したのでしょうか、ルカだけは八日と記録します。この場合、前者は「六日」ときっぱり断定しますが、ルカは「八日ほど」とあるため、やはり自信なき曖昧さの現れであり、「六日」も「八日ほど」に包括され、かつ多数決でも2(マタイ、マルコ)対1(ルカ)で「六日」が正論と言えるでしょう。しかし、このような諸説異なるあいまいさがそのまま、預言的に人類史が進化論者の台頭によって60億年と唱えられたり、はたまた創造論者クリスチャンによって六千年と唱えられたり、今日、神学的、科学的に見解が不一致していることにも大変よく似ていて、彼らの証言記録の相違自体が、単なる人道的記録ミスではなく、聖霊様の働きによる神秘的操作の結果として、相違あることがそのまま同様に未来の諸説の台頭を示すミニチュア的出来事としてよし、とされる預言ではないでしょうか!もしそうなら、この記録の違い自体が目的を持つ、まさに終末期の混乱にも対応した不思議な種類の特殊預言と言える箇所ではないでしょうか!聖書は人のミスさえ未来の何かを物語る預言となり、まさに人知を超越したすごい完璧で不思議な書です!

その日が来ると、イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導かれたように本物の聖徒らだけを全地の四方から呼び集めます。これら三人の弟子たちは元々、特別に十二弟子の中でも用いられて活躍したメンバーで、ラザロのよみがえり、少女のよみがえり、ゲッセマネ祈祷会など、特訓生のようにイエス様が御そば近くミニストリーに常時同行させた、いわば選ばれた弟子たちの中で更に選ばれたような働き人でした。そんな本物の三人の弟子のみ、ここ変貌山の現場に導かれたのです。他の九人の弟子たちは恵みの高峰に呼ばれていません!きっと近くの村々か自宅に待機です。

今後、全世界の諸教会に起きることも同様です。一般的に選ばれた聖徒たち、更にはもっとイエス様の御そば近い教会奉仕の数々に呼ばれて用いられる人々。願わくはクリスチャンたるもの全て、そのような働き人になりたいものです。

選ばれた三人の弟子たちだけが高い高度の山上イエス様の御許へ呼ばれ、変貌の栄光を垣間見たように、やがて高い山よりもっと高い空中まで選ばれた聖徒だけが引き寄せられ、栄光の体に変貌しながら、神様の輝く栄光を目撃できる空中再臨が起きます!

「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。」(マルコ9:2)(マタイ17:1)

十二弟子中、選ばれたのはたった三人。確立で25パーセントの弟子たちだけが恵みの高峰に!

今、プロテスタント教会のクリスチャン以外に、全世界のカトリック信者、毎週教会に行っていないけれど、自称クリスチャン。それにクリスチャンホームの家庭や国教がキリスト教ゆえ、宗教を聞かれたらクリスチャンと答える人々等を含めると全世界で何十億人というクリスチャンがいることでしょう。しかし、その中で本当にイエス様の十字架を理解して聖霊のバプテスマを受けて救われた本物クリスチャンは一体どれ位になるでしょうか?まさか、その日、全地のすべてのクリスチャンの内から25パーセントだけが空中携挙に!あとの75パーセントは近くの村々や自宅に待機!なんてことがないよう祈ります。

ちなみに、賢い五人の娘と愚かな五人の娘、合計十人の娘が花婿イエス様の再臨を待ち望むたとえ話では、結果五人は信仰のともしびはあっても聖霊様の油は準備できていなかったため扉が閉められて七年空中婚宴に入れず、信仰のともしびと聖霊様の油注ぎが両方準備できていた賢い五人の娘だけ花婿イエス様を出迎えて七年空中婚宴に入れたという話では、結果50パーセントのもう少し高確立の広い門で天国ので空中携挙にあずかっています!

(マタイ25:10)。

畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されるたとえでも二分の一、50パーセントの高確立で空中携挙(マタイ24:40)。

女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されるたとえも二分の一、50パーセントの高確立で空中携挙(ルカ17:35)。

夜に同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されるたとえも二分の一、50パーセントの高確立で空中携挙です(ルカ17:34)。

トータルで大体、全クリスチャン人口の25パーセント~最大50パーセントが空中携挙にあずかるでしょうか。

私が始めて聖書のこの寝ている男たちの記録を読んだとき、内心この二人は関係が怪しいと思いました。「男がふたり同じ寝台に?あやしい。」

しかし聖書を学ぶうちに二人は決して同性愛者ではないと分かりました。というのは、一人はイエス様を信じて空中携挙にあずかっているからです。もし彼がその種の変人なら決して神様に選ばれて空中携挙されません。もっとも地上の寝台に取り残されたもう一人の男の頭の考えの中までは分かりませんが。

「そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」(マタイ17:2)

私たちにとって空中に引き上げられるその日とは、ラッパの音を聞きながら空中で一瞬のうちに朽ちる体が朽ちない体に変化して、復活の栄光の体が与えられる変身の時です。

「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」

(コリント第一15:5)

そこからイエス様を中心にとにかくまぶしいばかりの光の祝宴が始まります。イエス様の御顔は太陽のように輝き、イエス様の御衣も光のように白く輝く為、三人の弟子たちも反射して輝いたように、その日、私たちも癒された栄光の体に輝きます。

「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。」(イザヤ58:8)

「主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。」(イザヤ30:26)

ダニエルの目撃証言では、御使いガブリエルも顔がいなずまのように明るく輝いていました。

「そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがきあげた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。」(ダニエル10:6)

ゆえに私たちも復活の時には、頭から足先までビカビカに輝けます! 

なぜなら、その日私たちは御使いのようになるからです。イエス様は言われました。

「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」

(マタイ22:30)

ここで私たちのいただく復活の栄光の体がいかなるものか、「天の御使いたち」を考察すると見えて来ます。おそらくその体は思いのまま必要に応じて霊的にも肉的にも使い分けられると思われます。「天の御使いたち」は、ある時には人の夢の中に現れたり(マタイ1:20)、祭壇の炎の中をのぼって消えたり(士師記13:20)、非常に霊的ですが、ある時には、人の食事を食べたり(創世記18:8)、人の手をつかんだり(創世記19:16)、普通に肉的です。私たちも将来、「天の御使いたち」のように霊的に瞬間移動したり、肉的にいのちの木の実を取って食べたり、霊肉両方エンジョイできるでしょう。


エリヤの落ち込み原因があります。それは人と比較したことです。 この御言葉をお読み下さい。

2021-05-14 04:00:00 | 日記

エリヤの落ち込み原因があります。それは人と比較したことです。

この御言葉をお読み下さい。

「自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」(第一列王記19:4)

エリヤが柳の木の下の幽霊のように暗く落ち込んだ理由は内なる病とも言うべき、考え方が誤ったからです。そもそも人と比較すること自体、間違いであり、悪魔の思う壺です。

悪魔が入ったペテロからイエス様が叱責で悪魔を追い出されたとき、その語られた御言葉は重要な教訓を与えます。

「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

(マタイ16:23)

人のことを執拗に思い、考えるとき危険です。比較思想が働くからです。

イエス様は人のことばかり気にする性格のペテロに復活以降も教訓されました。

「ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:21,22)

いつもペテロとヨハネとヤコブの3人はイエス様と特に多く行動を共にされたため、ペテロは12弟子の中でもベストスリーに自分は位置しているのでは、と勘違いしていたかもしれません。そこで中でも本命のライバルと一方的に決め付けたヨハネについては気になってしょうがありません。

そこであるときペテロが自分の殉教のさまについてイエス様から預言の御言葉を戴いた時、すぐに知りたかったことが、ヨハネについてのことでした。

「主よ。この人はどうですか。」

信仰生活は他人を干渉しないことです。

誤った質問をするペテロにイエス様は

「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

と教訓されています。クリスチャンは人と比較しない、神様と個々人が直接の関係を結ぶ存在です。世はすぐに他人と比較して優越感に浸ったり、劣等感に落ち込んだり、水平的に行きますが、クリスチャンは違います。人を見ないで垂直的に神様を見上げてハレルヤです。

あなたにはあなたにしか出来ない仕事と神様のご計画が本当にあります。

誰かがある領域で成功しても皆が同じく成功できるものではありません。

あなたならではの賜物と使命を見いだし、神様のご計画に限りなく従って生きることが本当の成功です。

偏差値重視の横型競争社会に生きてきましたが、教会では絶対比較しないで下さい。教会と教会も比較しないで下さい。

すべて神様のものであり、状況もご計画もすべてが異なります。

エリヤが比較して失敗した対象は

「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」でした。先祖たちと言ってもエリヤの場合、預言者として自分の父やおじいさんではなかったと思います。

彼が常日頃、比較して意識していたのは旧約の同じく預言者たち、有名なモーセとかアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ・・・いつも比較していたのではないでしょうか。簡単に言って、モーセは海を裂いて対岸に行った人、アブラハムはイサクを捧げた信仰の父、ヤコブは、ヨセフは、説明するのも大変、みんな違うからです。エリヤもまた、別の計画の人です。

絶対比較しないことが神様の知恵です。教会で用いられている人、親や兄弟など比較するときむなしくなります。神様が一人一人に異なる賜物と個性的な独自の御計画を持たれているからです。イエス様を信じて自分らしい自分になればそれでいいのです。

全ての人に神様は行くべき道を備えておられ、自ら成すべき生涯の使命を発見するように導かれます。ですから人と同じになる必要はなく、ただ神様の私に対して立てておられる御計画を知り、それを実践できるようになることが大切です。絶対、人と比較しないこと、それがエリヤのような憂鬱症にかからないためにも必要なことです。

エリヤのうつ病にはまだ他にも原因があります。不規則な睡眠時間と無謀な食生活です。

それが分かるのは御使いがこれらエリヤの乱れた状態を微調整したからです。

御使いがエリヤを癒していく過程の御言葉に注目です。

「彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。」(第一列王記19:5-8)

憂鬱症患者の大半は夜遅く起きていて午前中は起きられないものです。規則正しい生活を取り返すだけでも相当分、癒されます。早寝早起き、御使いは少ない食事をエリヤに与えているので腹八分、そして栄養のバランスを考慮していないお菓子類による過度の糖分摂取や偏食、過激ダイエットによる栄養不足なども回避することです。栄養バランスの不安定が精神の不安定をも連動します。御使いは食後のエリヤにホレブ山まで歩かせています。適度な運動は心身ともにリフレッシュさせ、歩くことは体にとてもいい生活習慣です。

医学的には歩行すると、骨盤環内で、仙骨のうなずき運動が起き、ポンプを動かすような作用が起きて、脳脊髄液の循環が起こるため、脳の興奮が治まり考えがすっきりします。

また、歩行すると、腓腹筋の収縮が起こり、筋肉のポンプ作用が働き、静脈血を持ち上げる事により、心臓に血液が十分入るため血圧も安定します。

また、血液を十分に送り出す事により、血管を拡張しますので血管壁の圧力も下がります。

寝て安静にしているより、正しい歩行が望ましく、適度の歩行は心臓を強くして、血流も左右より規則正しく入ることになり、腎臓に振動が伝わって、血液の濾過機能の目詰まりを治す事ができます。このほかにも、歩行すると、骨折の予防の効果、骨を強くする効果、肥満を予防する効果、大腸の蠕動運動を促進する効果、身体の構造を治す効果もあり、成人病の中でも特に心筋梗塞、狭心症、突然死、心不全、不整脈などをおこす、いわゆる虚血性心疾患の予防に有効です。ただ、だらだら歩くのではなく、エリヤがホレブ山を目標に目指して歩いたように前向きな意志を持って正しい姿勢で積極的な歩行が望ましいです。

秋田県の村に住む65歳以上の男女約1000人の体力と健康状態を10年間、追跡調査したデーターでは、その一環の歩行テストで、速く歩けるお年寄りほど体力があり、健康状態のいいことが分かっています。筋力、心肺機能、平衡性、持久力、日常生活動作、生活の質のいずれも、速く歩ける高齢者ほど優れており、元気で長生きしているというウオーキングの有効性が実証されています。憂鬱症が感じられたら引きこもって眠らずに、むしろ積極的に出歩いて神様が創造された被造物をよく観察してみましょう。


【 憂うつ症からの解放 】 預言者エリヤは私たちと同じような人でした。ある時は天から火を下らせ、ある時は水を下らせ、多くの奇蹟によってイスラエルを御前に立ち返らせましたが、

2021-05-13 04:00:00 | 日記

【 憂うつ症からの解放 】

預言者エリヤは私たちと同じような人でした。ある時は天から火を下らせ、ある時は水を下らせ、多くの奇蹟によってイスラエルを御前に立ち返らせましたが、やはり私たちと同じような人ゆえ、ある時はブルーなひどい落ち込み体験もありました。

もし、その様を医者が診断するならば自殺願望レベルの重度のうつ病と燃え尽き症候群でしょう。エリヤの失敗体験を参考に、いかにして神様が御使いを送って彼を癒されたのか、その効果的な治療法を学びましょう。

まずは燃え尽き症候群の問題があります。

エリヤは確かに偉大な預言者としてたった一人で堕落したイスラエルのすべての民と450人のバアルの預言者たち、アシェラの預言者たち400人を相手に戦っていました。

その頃のエリヤには落ち込みは全くありませんでした。

真剣な戦いで緊張していたから、忙しかったから、使命感に燃えていたから等、理由があったでしょう。誰であれ熱心に一事に専念しているとき、落ち込みません。

没頭することをやめ、時間的空白が出来る時、油断する心こそ危険です。

暇な人に限っていろいろと余計なことまで考え始めて恐れたり、憂うつになったり、隣のうちの庭のことまで考えて変な隣人に変身するものです。

落ち込みたくなかったら、一生懸命祈って神様の仕事に積極参加することです。

多忙は必ずしも悪くありません。落ち込む暇がないほど忙しく燃え続けることが大切です。

「私は忙しくてゆっくり悩んでいる暇がない!」とかね。

忙しいエリヤが祈ると主の再建された祭壇に天から主の火が下り、イスラエルはこれを見て霊的破れ口となり、リバイバルが起きました。

偶像バアル宗教から全ての民が離れ、

「主こそ神です。主こそ神です。」

と告白して御前に立ち返る悔い改め運動が起きました。

そしてエリヤの命令に従ってバアルの祭司たちはすべて成敗されました。

このように神様との関係が修復される救霊のリバイバルが起きると、これに続いて、トランスフォーメーションが起き、その病める大地も癒されます。

悔い改めた彼らの上に3年半ぶりの大雨が降り注ぎ、万物が生き返り始めました。

それは、雲ひとつない干ばつの中、雨乞いして粘り強く祈ったエリヤへの神様からの応答でもありました。

まさに力と力の対決に勝利を得たエリヤでした。

やがて日本にもこのレベルの天から主の火が下る!雨が下る!こんなすべての人前で明確なしるしと不思議がともなえば御言葉を確かなものとして立証でき、イスラエル同様のリバイバルが起きるでしょう。

エリヤは確かに勝利しましたが、立っているものは倒されないよう継続的な用心が必要です。なぜならその後、イゼベルの反撃が始まったからです。

「アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。

「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」(第一列王記19:1,2)

イゼベルはもともとイスラエル国内に偶像バアルの預言者たち450人とアシェラの預言者たち400人をアハブ王の妃として嫁がれてきた時、同伴した悪妻です。

その影響力は大きく、夫のアハブ王が主を離れ、王の影響を受けたイスラエル国民全体も主を離れてバアル偶像に仕えるほどまで全体に堕落が波及しました。

そこで主に遣わされたエリヤが天から火を!雨を!降らせて彼らイスラエルを悔い改めのリバイバルに導いたわけでしたが、イゼベルは面白くありません。

面目が丸つぶれで、すべてのバアル信者と預言者たちを瞬時になくしたわけですから、その復讐劇は全身全霊で行なわれたことでしょう。

事実、イゼベルはひどい偶像崇拝者であり、魔術を使って呪いをかけるレベルの人でした。

第二列王記9:22でヨラムとエフーの会話からこのことが分かります。

「ヨラムはエフーを見ると、「エフー。元気か。」と尋ねた。エフーは答えた。「何が元気か。あなたの母イゼベルの姦淫と呪術とが盛んに行なわれているかぎり。」

イゼベルはこのように個人的に姦淫を行なって自爆するだけでなく、他人に呪いをかけてその人生を狂わせる悪い人でした。

そのため、ここでも当然、四面楚歌の仕打ちを受けたイゼベルがエリヤに対して黙っておくはずがありません。

「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」

この言葉の中にはもっと深い、呪術的な意味合いがあり、イゼベルは自分の偶像に誓願祈祷しながらエリヤを呪っているのです。

だからこそエリヤはその後、通常の人でもめったに体験しないレベルのひどいブルーな落ち込みを体験しています。

「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」(列王記第一19:3,4))

昨日まで聖霊に満ちて大きな御わざを現わした同じエリヤとは思えないほど、否定的です。

どんなに偉大な預言者であっても、日々、目覚めた信仰を持ってその背後の霊的束縛、呪いのきずなを打ち砕かなければなりません。

呪いや魔法の力は実在します。誤って人ともめて、解決を見ないまま問題を放置し、和解なく憎しみをかった呪いの言葉を受けてはいけません。

また、文字通り宗教に関わった人々から無用な争いや呪いを受けることも避けるべきです。他宗教の信者から受ける彼らなりの流儀に基づいた祈りも受けてはいけません。

あなたの幸福のために他宗教で祈っていると言われてもだまされてはいけません。

すべて悪霊が働く接点となるだけで、悪から祝福が来ることは絶対ありません。

私は真っ向から働くイゼベル流の呪いを受けて苦しめられたことが何度もあります。

私がクリスチャンになってからのことです。昔からたまたま利用していた床屋に行った時のことです。当時、伝道に燃えていた私はいつの間にか床屋のおばさんに髪を切ってもらいながら伝道をしていました。

福音をいろいろ語るうちに、そのおばさんの反撃が始まりました。うちは親子三代続く熱心な仏教徒、その後、延々と続く話はその教えについてでした。その時私は危ないと思いました。首周りにかみそりを立ててひげをそりながら、間違ったことをしゃべり、その内なる霊は宗教的な惑わしの霊だと思ったとき、恐ろしくなりました。

「このおばさんは今、悪霊の力が一杯入っている。このかみそりの刃の角度が少しかったらどうなる!」内心、祈るばかりでした。

カットがすべて終わり、帰り際に床屋のおばさんは言いました。

「床屋ではお客に対して政治と宗教の話はタブーなのに、今日はおかしいわねえ。」

そして帰宅後、その夜に私はクリスチャンなのに金縛りになって悪夢にひどく悩まされました。悪夢の中で、なんと私の全家族が頭が狂い、裸になって家の風呂場でナイフを持って血だらけに殺しあっているではありませんか。

恐ろしくて、気味悪くて、金縛りが溶けて目覚めたあと私は主に祈りました。

「主よ!なぜ、ひどい罪も犯していないのにこんな悪夢に悩まされたのでしょうか?」

すると即座に聖霊様が私に語りかけてくださいました。

「それはあなたが昨日、悪霊の祈りを受けたからです。」

びっくりしました。確かにあの床屋のおばさんは私の頭に手を置いて髪を削りながらなんかしゃべっていました。

一般的な世間話をする限り、霊は働きませんが、宗教的な会話では話が違います。

それ以降、床屋ではあまり積極的に伝道しないようになりました。

はさみもかみそりも向こう持ちで、こちらは武装解除で体裁不利だからです。

誤ってイゼベルのような邪悪な霊を持った人から汚れた呪いを受けないよう注意しましょう。

エリヤが死を願うほどまで落ち込んだ理由は他にもあります。燃え尽き症候群です。

先日まで一生懸命頑張りすぎて今は、祭りのあとの静けさのようにパワーがすっかり抜けきった緊張感解放のゆえにそのギャップの中で落ち込むケースがあります。

大きな仕事をしたあと、大きく主に用いられた多忙期のあと注意しましょう。

熟練サラリーマンが定年退職以降、人生の目標を突如喪失して早期に昇天するケースがあると聞きました。燃え尽き症候群、注意です。

「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。」(第一列王記19:3)

エリヤの憂うつ症の原因はさらにイゼベルの迫害を恐れたことにもあります。

イゼベルが願えば、王妃ゆえ夫のアハブを抱きこんで軍隊さえ動かせたでしょうが、エリヤは偉大な神様を忘れて、小さな人間の迫害や軍隊を恐れて逃げているではありませんか。

恐れとはこのように割に合わないもので、恐れは刑罰がともない、この種の恐れは百害あって一利なしです。

ヨブはもともと東洋一の大富豪で信仰の義人ですが、ひどい試練を受けた際、こう告白しています。

「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。」

(ヨブ3:25,26)

ヨブは神様から戴いた数々の祝福をいつかはそこね、家畜の群れを失い、従業員を失い、家も健康も子供たちの命さえ失われはしないかと恐れていたのです。

事実そうなったことからこれらすべてのことが、ヨブが最も恐れ、おびえたものであったことが分かります。ヨブのひとつの良い習慣にもこのことは良く現れています。

「こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。」(ヨブ1:5)

子供たちのために事あるごとにとりなし祈る敬虔なクリスチャンホームの父親の模範的モデルの態度ともとらえられますが、見方を変えると、正しい良い子供たちだったのにあるいは罪を犯した、かもしれないと恐れ、心の中で神をのろったかもしれない。と恐れる元々恐れの多い人だったことが分かります。

恐れには刑罰がともないます。恐れてはいけません。心に抱く悪い恐れが、悪酔いさせ現実をも破壊します。全き愛は恐れを締め出します。決心して恐れを選ばないことです。

ちっぽけなイゼベル一人を恐れたエリヤが天の天をもお入れすることが出来ない、偉大な知恵と力と富と勢いに満ちた神様を忘れて落ち込んでいます。おかしな話です。