【 石の十字架 】
英語でSCHOOLの語源は古代ギリシャ語でSCHOLE(スコレー)、ラテン語ではSCHOLA(スコラ)です。「学院、僧院」の意味があり、もともとはキリスト教の教義の研究や教育に専念する修道士たちの生活と研究の現場のことを指していました。
ですから本来の学校とは、教育とは、聖書を学ぶことです。第一に神様を学ぶことが本当の教育であり、それ以外の学問はすべて大切だけれど次に来る付属的な知識です。
乱れるこの時代の若者たちに本当に必要な教育こそ聖書と神様を知ることです。
アメリカ最初の公立学校は1635年に設立され、当時の学校教育法では、それぞれの町が教会学校を設置することが求められ、公立学校では、聖書朗読や主の祈りもごく自然の流れの中で受け入れられ、学校・イコール・プロテスタント教会の教会学校であり、読み書きや算数・歴史とともに聖書教育が重要な科目として位置づけられて正式に聖書が教えられていました。
ところが1962年、公立学校での祈りの習慣に対して未信者の圧力がかかり、最高裁が始めて違憲判決を下し、翌年には、聖書朗読まで違憲とされ、1985年の政教分離の原則徹底化、1987年の天地創造説の教育義務化、1992年には卒業式での祈りに対する違憲判決など、最高裁は公教育における宗教教育に関して、一貫して政教分離の原則の厳守を説くようになりました簡単に言って公立学校から聖書とイエス様が追放されました。すると一体何が起きたでしょうか。多くの教育専門家が指摘するとおり、聖書と祈りを失った若者たちは全国レベルで学力水準が大幅に低下し、代わりに若者たちの間に暴力や麻薬、中絶に凶悪犯罪が増大し、悪が根を張り始めたのです。
今ではすっかり荒廃した若者たちの心と本当の学校教育を取り戻そうと、公立学校の祈りの時間の復活に向けて憲法修正第一条を修正する法案が繰り返し議会に提出されていますが、現状は厳しいようです。私たちの生活環境から絶対イエス様を追放してはいけません。
「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7)
「主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。」(箴言2:6)
聖書を重んじた少年ダニエルは知恵と悟りのあらゆる面で国中のどんな呪法師、呪文師よりも10倍もまさっていました。少年期のイエス様においては若干12歳で大人の律法の専門家である教師たちの真中で対等に話しを聞いたり質問したりしながら、聞いていた人々はみな、優秀な少年イエス様の知恵とお答えに驚いていたほどでした。
聖書教育こそ愛をはぐくみ、優れた知者と人格者を育成しますから、子供の英才教育に多くの塾通いで投資することより、まずは神様を重んじて信仰で生きることを教えなければいけません。失われた本当の学校教育と若者の精神文化育成に、その唯一の教育機関、教会を基本にすえることが大切であり、教会とは、とても重要な集いです。
近年、日本においても例外なく学力低下と少年犯罪の危機が叫ばれていますが、堕落の主要因は聖書の基本的な教え「十戒」を教えられていないことです。
神様の基本的な10の教えを知らないまま大人になった人々が次世代に、聖書中心の教育を伝授できないのは残念なことですが、そのためにも教会があり、十戒を守り行なえば神様の報いは大きく、もっと豊かで幸せになれ、その恵みは千代にまで施されます。
十戒とは・・・(出20:1-17)
1戒.「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
2戒.あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
3戒.あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
4戒. 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
5戒.あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
6戒.殺してはならない。
7戒.姦淫してはならない。
8戒.盗んではならない。
9戒. あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
10戒.あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、
その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」
モーセがこれら10の戒めを神様から直接シナイ山でいただいた際、神様は当時の記録用ノートとして二枚の石の板を用いられました。
「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。」(出エジプト記31:18)
おそらく一枚目の板には1戒から4戒までの御言葉4つを書かれ、二枚目の板には5戒から10戒までの御言葉6つを書かれたと思います。というのは切れがいいからです。
1戒から4戒までは天におられる神様と地に住む人間との縦の関係について重点的に書かれています。
しかし5戒から10戒までは横同士の人間関係について重点的に書かれ、内容的に二分されるからです。しかし、人はこれら二枚の板に書かれた10の戒めを厳守できなかったため、縦と横がクロスした十字架そこに、神様のひとり子イエス・キリストが釘付けになって、血を流して死なれたのです。そのことを預言する象徴的な出来事が十戒伝授の際、起きていました。
いただいた十戒を手に下山するモーセを待ちきれなくなったイスラエルの民は堕落して、宿営地の山のふもとで金の子牛を造り、これを自分たちの新たな神として祭る偶像崇拝にふけっていました。
「モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中にいくさの声がします。」するとモーセは言った。「それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である。」宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。それから、彼らが造った子牛を取り、これを火で焼き、さらにそれを粉々に砕き、それを水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませた。」(出エジプト記32:15-20)
完全な神様の指で書かれた、この文字は下手な癖字は絶対ありえません。
私は講壇から説教中、自分で書いた原稿の文字があまりに汚くて何が言いたいのか暗号のように見えて読めなくなり、解読するまで説教をちょっと中断させてもらったことがあります。
しかし神様の場合は現代パソコンのゴシック体や明朝体のように正確で完全な文字だったでしょう。
聖書の暗号の研究者マイケル・ドロズニンは、この御言葉箇所16節には、ヘブル語で通常は横に並んだ聖書の文字を無理にたてに文字を拾いながら読む時、ここには
「それはコンピューターによってつくられた」という隠された言葉が暗号化されていると指摘しています。(等距離文字列法に基づいて文字を拾い読みした結果。)
全く時代錯誤と思えるコンピューター調の完全な文字で書かれたモーセの十戒。
仮に聖書の暗号をわきに置いたとしても、十戒の石の板は事実、完璧な神様が直接刻まれたがゆえに、その正確な掘り込み具合と自然な角度、刻まれた文字表面のノミ傷なき天然研磨状態、均一な深さと幅など職人技以上の掘り込み技巧ノウハウが総結集された、今日の工業品規格以上の最高芸術品だったでしょう。
もしこの石の板が今まで永久保存されていたならば、人類はいにしえから文明を超越した神様の偉大な存在を否めなかったでしょう。
この石の板さえ拝見できれば、信じやすくて教会成長の鍵ではなかったでしょうか。
ちょうど、時代劇の水戸黄門が印ろうを取り出して「これを見よ!」というだけで人々がひれ伏したように、実存する十戒の石の板を人々に指し示すだけでそうとうのリバイバル!しかし!現実の宣教はそんなに甘くないです。
神様は目で見える証拠をもって人々を回心させるのではなく、ただ信仰で信じるものを救おうと御心に定められました。
そのため、神様の聖なる御怒りをそのまま代行して怒ったモーセは手からあの貴重な石の板を投げ捨て、それを山のふもとで粉々に砕いてしまいました。
この両面に御言葉がびっしり書かれた石の板は「それ自体神の作」である、どんな骨董品収集マニアでも値段が付けられない大変貴重な全世界唯一のプレミア品でした。
不可視で生ける神様が、目に見える形で存在証拠を残す地上における確かな歴史的遺品です。
それが一瞬してバラバラです。
目の前で自分たちの罪悪のために大変貴重なプレミア品が無残にも打ち砕かれた衝撃的事実により、民は事の深刻さを悟って畏れ、偶像崇拝は止みました。
ここで罪悪に全面終止符を打つ、砕かれた貴重な「神の作」、御言葉に満ちた石の板、これこそ人手によらずして来られた「神のことば」イエス・キリストをあらわしています!
イエス・キリストこそ生ける神様が目に見える形で存在している唯一確かな歴史的証拠です。
イエス様は確かに人類史に介入され、人類の堕落と罪のために聖なる神様の御怒りを一身に受けて十字架でバラバラに砕かれたモーセの十戒の石の板のようにひどく打ち砕かれたお方です。ちょうど屋上に設置された避雷針が一身に天からの雷を吸収して建物全体を守るようにイエス様は神様の罪人に対する御怒りをすべて十字架上、身代わりに受けられたのです。
私たちがその守られた建物です。
十字架のイエス様を真剣に見つめる時、霊的に覚醒され、罪悪の中に堕落した人生に終止符を打つことができ、選ばれたレビ族のように神様にお仕えする献身的奉仕者に生まれ変われます。
「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」(ローマ8:2,3)
イエス様の十字架の死はあなたと私の身代わりです。
罪の報酬は死です。私たちが過去の罪ゆえ第一の死と第二の死を体験して地獄に落ちないよう罪なきイエス様が地獄体験を十字架で、すでに引き受けて身代わりに死んでくださったのです。
計り知れない神様の恵みに感謝しましょう。
モーセは民の罪悪を断ち切るために打ち砕いて失ってしまった十戒の石の板の代わりを受け取るため再度シナイ山に行かねばなりませんでした。
「主はモーセに仰せられた。「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書きしるそう。」
(出エジプト記34:1)
「彼(モーセ)は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。」
(出エジプト記34:28,29)
二度目の十戒は神様のコンピューター調完全文字ではなく、モーセが書いた普通の癖ある字体です!
これで、いにしえからおられる神様の物的証拠が完全消滅しました。
しかし、神様を発見する救いの条件はただ信仰という形で今も残されています。
何も見えず、触れるものがなくても信じることです。
イエス様の十字架の死と復活の事実を五感に頼らず純粋に信じることが義人の救い条件です。
「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:24-29)
民の罪悪のために一度はバラバラに砕かれ、再度、同じ内容で受け取った十戒の石の板は、
神の言葉なるイエス様の死と三日後の復活を象徴しています!
イエス様は十字架で死なれましたが、三日の後によみがえられました。
その栄光はモーセの光り輝く顔以上の輝きです!
固く信じない者にならないで、純粋に信じる者になりましょう。
聖書によるとモーセの十戒の石の板は、最終的に純金に覆われた契約の箱の中へ収められ、イスラエルがバビロン軍によって捕囚とされた混乱期から現在に至るまで行先不明とされていますが、純金も石の板も半永久的に朽ちない素材のため、今も地球上のどこかに実在しています。これが世の終わりのちょうど良い時期に再発掘されるであろうと預言することができます。
それはやがてイエス・キリストが世の終わりに必ずもう一度天から帰って来られ、世界の注目を浴びる「再臨」のときを迎えるように、同様の砕きと復活の運命をたどってきたモーセの十戒であるため、これもまた世界の注目をもう一度、浴びる「再臨」のような「再発掘」のときが来るはずです。
そう想定すると、失われたアーク(契約の箱)が十戒を内に収めたまま、再発掘のビッグニュースが全世界を駆け巡るその衝撃報告のとき、驚くべき神様のユーモアを私たちは世の終わりの一番最後の時に、かいま見るかもしれません。
「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。」
(黙示録11:17-19)
伝説によれば、モーセは創世記から申命記までの聖書の御言葉を神様からいただいた時「語の切れ目なく連続して書かれた文字で受けた」とされ、その文字数、三十万四千八百五字がすべて単語と単語のあいだの空白なく連続する文字列だったと伝説されています。
句読点使用や行間を変えることで文章全体の大きさや形のレイアウト等を自由に構成できないということです。
そう考えると、一枚目の石の板と二枚目の石の板は、その裏表にびっしり書かれた文字数の違いから板全体の大きさもそのまま文字数に影響されて大小異なった二枚になったかもしれません。二枚には、十戒の半分の5つの戒めずつ平等に分けて書かれたのではなく、内容で分類上、4つの戒め(神と人の関係)と6つの戒め(人と人の関係)にはっきり分類されていたはずです。十字架は神様と人の縦ラインと人間同士の横ラインが別格で、必ず並行的に混ざらず、クロスする存在です。
加えてモーセが自然界から切り出した天然石ですから、二枚の大きさや形もまちまちだったでしょう。刻まれた多くの文字ゆえ、結構な大きさの大小二枚の十戒をたった一つの契約の箱に収めるには129cm×77cmというあらかじめ定められていた契約の箱サイズの空間の狭さから二枚を重ねないと入らなかったかもしれません。
「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。」(マタイ27:50)
考古学者ロン・ワイアットの発見によれば十字架の真下6メートルの地下小洞窟にエレミヤの時代から隠されていた契約の箱があり、石の棺の中に収められていましたが、そのふたがこの時の大地震の力で割れて隙間ができ、大地震で生じた直下型の亀裂を通じてイエス様の血潮がまっすぐ流れ落ち、契約の箱まで直接注がれていたそうです。
神殿の幕が上から下まで真二つに裂け(直下型でしょう)、地が揺れ動き、岩が裂け、亀裂が走り、石棺さえ割るほど強力な大地震!
この際、契約の箱の中の重ねた十戒がどんなに揺れ動いてずれていたとしても決しておかしくありません。あるいは、ずれていなくてもそのまま二枚は大きさの違いから結論付けられる仮説が成り立ちます。
ここに神様の歴史をかけた驚異的ユーモアが最後にある! かもしれません。
やがて世界でもっとも重要な品が納められている黄金輝く契約の箱がゆっくりとふたが開かれ、その中身が衛星放送を通じて一般公開される瞬間、全地のすべての知識人と報道関係者、政府高官と貴人たちが注目するプレミアの一品とは…。
「四角い契約の箱内にきちんと収まるよう、モーセの手で四角く成形され、文字数の違いから重ねられた大きさと長さの少しずつ異なる二枚の石の板、なんとこれがよく見るとクロスした、荒削りの少し太めだけれど、石製の十字架だったのです!ハレルヤ!」
人類が探し求めた究極的秘宝中の秘宝、それが十字架だったのです!!
十字架が世界最後で最強の宝です!!
契約の箱にイエス様の血潮が注がれている! すごいことです。
旧約のモーセの石の十字架に、注がれた新約のイエス様の血潮!
これこそ律法の完結!
歴史を超越した神様の愛の奇蹟!
神様の地上最後のユーモア!
世の終わりにもし目撃できるならば、クリスチャンにとってまさに鳥肌物の感動です!
「石の十字架とは…、
今日も人々が、冷たくさめた石の心で十字架を見つめている…。
ああ!十字架は石のように、なんともそっけなく、静か。
ありふれた目立たぬ存在に思えても、確かな重み。
ああ!石の十字架よ。おまえは一体…」
というくだりの内容ではなく、ドッカーン。
本文の内容は文字通りの少し太った石の十字架でした。チャン、チャン。