イエス・キリストの福音

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【 石の十字架 】 英語でSCHOOLの語源は古代ギリシャ語でSCHOLE(スコレー)、ラテン語ではSCHOLA(スコラ)です。「学院、僧院」の意味があり、

2021-05-12 04:00:00 | 日記

【 石の十字架 】

英語でSCHOOLの語源は古代ギリシャ語でSCHOLE(スコレー)、ラテン語ではSCHOLA(スコラ)です。「学院、僧院」の意味があり、もともとはキリスト教の教義の研究や教育に専念する修道士たちの生活と研究の現場のことを指していました。                             

ですから本来の学校とは、教育とは、聖書を学ぶことです。第一に神様を学ぶことが本当の教育であり、それ以外の学問はすべて大切だけれど次に来る付属的な知識です。 

                                              乱れるこの時代の若者たちに本当に必要な教育こそ聖書と神様を知ることです。

アメリカ最初の公立学校は1635年に設立され、当時の学校教育法では、それぞれの町が教会学校を設置することが求められ、公立学校では、聖書朗読や主の祈りもごく自然の流れの中で受け入れられ、学校・イコール・プロテスタント教会の教会学校であり、読み書きや算数・歴史とともに聖書教育が重要な科目として位置づけられて正式に聖書が教えられていました。

ところが1962年、公立学校での祈りの習慣に対して未信者の圧力がかかり、最高裁が始めて違憲判決を下し、翌年には、聖書朗読まで違憲とされ、1985年の政教分離の原則徹底化、1987年の天地創造説の教育義務化、1992年には卒業式での祈りに対する違憲判決など、最高裁は公教育における宗教教育に関して、一貫して政教分離の原則の厳守を説くようになりました簡単に言って公立学校から聖書とイエス様が追放されました。すると一体何が起きたでしょうか。多くの教育専門家が指摘するとおり、聖書と祈りを失った若者たちは全国レベルで学力水準が大幅に低下し、代わりに若者たちの間に暴力や麻薬、中絶に凶悪犯罪が増大し、悪が根を張り始めたのです。

今ではすっかり荒廃した若者たちの心と本当の学校教育を取り戻そうと、公立学校の祈りの時間の復活に向けて憲法修正第一条を修正する法案が繰り返し議会に提出されていますが、現状は厳しいようです。私たちの生活環境から絶対イエス様を追放してはいけません。

「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7)

「主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。」(箴言2:6)

聖書を重んじた少年ダニエルは知恵と悟りのあらゆる面で国中のどんな呪法師、呪文師よりも10倍もまさっていました。少年期のイエス様においては若干12歳で大人の律法の専門家である教師たちの真中で対等に話しを聞いたり質問したりしながら、聞いていた人々はみな、優秀な少年イエス様の知恵とお答えに驚いていたほどでした。             

聖書教育こそ愛をはぐくみ、優れた知者と人格者を育成しますから、子供の英才教育に多くの塾通いで投資することより、まずは神様を重んじて信仰で生きることを教えなければいけません。失われた本当の学校教育と若者の精神文化育成に、その唯一の教育機関、教会を基本にすえることが大切であり、教会とは、とても重要な集いです。

近年、日本においても例外なく学力低下と少年犯罪の危機が叫ばれていますが、堕落の主要因は聖書の基本的な教え「十戒」を教えられていないことです。

神様の基本的な10の教えを知らないまま大人になった人々が次世代に、聖書中心の教育を伝授できないのは残念なことですが、そのためにも教会があり、十戒を守り行なえば神様の報いは大きく、もっと豊かで幸せになれ、その恵みは千代にまで施されます。

十戒とは・・・(出20:1-17)

1戒.「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

2戒.あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

3戒.あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

4戒. 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。

しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

5戒.あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

6戒.殺してはならない。

7戒.姦淫してはならない。

8戒.盗んではならない。

9戒. あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

10戒.あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、

その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

モーセがこれら10の戒めを神様から直接シナイ山でいただいた際、神様は当時の記録用ノートとして二枚の石の板を用いられました。

「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。」(出エジプト記31:18)

おそらく一枚目の板には1戒から4戒までの御言葉4つを書かれ、二枚目の板には5戒から10戒までの御言葉6つを書かれたと思います。というのは切れがいいからです。

1戒から4戒までは天におられる神様と地に住む人間との縦の関係について重点的に書かれています。

しかし5戒から10戒までは横同士の人間関係について重点的に書かれ、内容的に二分されるからです。しかし、人はこれら二枚の板に書かれた10の戒めを厳守できなかったため、縦と横がクロスした十字架そこに、神様のひとり子イエス・キリストが釘付けになって、血を流して死なれたのです。そのことを預言する象徴的な出来事が十戒伝授の際、起きていました。

いただいた十戒を手に下山するモーセを待ちきれなくなったイスラエルの民は堕落して、宿営地の山のふもとで金の子牛を造り、これを自分たちの新たな神として祭る偶像崇拝にふけっていました。

「モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中にいくさの声がします。」するとモーセは言った。「それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である。」宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。それから、彼らが造った子牛を取り、これを火で焼き、さらにそれを粉々に砕き、それを水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませた。」(出エジプト記32:15-20)

完全な神様の指で書かれた、この文字は下手な癖字は絶対ありえません。

私は講壇から説教中、自分で書いた原稿の文字があまりに汚くて何が言いたいのか暗号のように見えて読めなくなり、解読するまで説教をちょっと中断させてもらったことがあります。

しかし神様の場合は現代パソコンのゴシック体や明朝体のように正確で完全な文字だったでしょう。

聖書の暗号の研究者マイケル・ドロズニンは、この御言葉箇所16節には、ヘブル語で通常は横に並んだ聖書の文字を無理にたてに文字を拾いながら読む時、ここには

「それはコンピューターによってつくられた」という隠された言葉が暗号化されていると指摘しています。(等距離文字列法に基づいて文字を拾い読みした結果。)

全く時代錯誤と思えるコンピューター調の完全な文字で書かれたモーセの十戒。

仮に聖書の暗号をわきに置いたとしても、十戒の石の板は事実、完璧な神様が直接刻まれたがゆえに、その正確な掘り込み具合と自然な角度、刻まれた文字表面のノミ傷なき天然研磨状態、均一な深さと幅など職人技以上の掘り込み技巧ノウハウが総結集された、今日の工業品規格以上の最高芸術品だったでしょう。

もしこの石の板が今まで永久保存されていたならば、人類はいにしえから文明を超越した神様の偉大な存在を否めなかったでしょう。

この石の板さえ拝見できれば、信じやすくて教会成長の鍵ではなかったでしょうか。

ちょうど、時代劇の水戸黄門が印ろうを取り出して「これを見よ!」というだけで人々がひれ伏したように、実存する十戒の石の板を人々に指し示すだけでそうとうのリバイバル!しかし!現実の宣教はそんなに甘くないです。

神様は目で見える証拠をもって人々を回心させるのではなく、ただ信仰で信じるものを救おうと御心に定められました。

そのため、神様の聖なる御怒りをそのまま代行して怒ったモーセは手からあの貴重な石の板を投げ捨て、それを山のふもとで粉々に砕いてしまいました。

この両面に御言葉がびっしり書かれた石の板は「それ自体神の作」である、どんな骨董品収集マニアでも値段が付けられない大変貴重な全世界唯一のプレミア品でした。

不可視で生ける神様が、目に見える形で存在証拠を残す地上における確かな歴史的遺品です。

それが一瞬してバラバラです。

目の前で自分たちの罪悪のために大変貴重なプレミア品が無残にも打ち砕かれた衝撃的事実により、民は事の深刻さを悟って畏れ、偶像崇拝は止みました。

ここで罪悪に全面終止符を打つ、砕かれた貴重な「神の作」、御言葉に満ちた石の板、これこそ人手によらずして来られた「神のことば」イエス・キリストをあらわしています!

イエス・キリストこそ生ける神様が目に見える形で存在している唯一確かな歴史的証拠です。

イエス様は確かに人類史に介入され、人類の堕落と罪のために聖なる神様の御怒りを一身に受けて十字架でバラバラに砕かれたモーセの十戒の石の板のようにひどく打ち砕かれたお方です。ちょうど屋上に設置された避雷針が一身に天からの雷を吸収して建物全体を守るようにイエス様は神様の罪人に対する御怒りをすべて十字架上、身代わりに受けられたのです。

私たちがその守られた建物です。

十字架のイエス様を真剣に見つめる時、霊的に覚醒され、罪悪の中に堕落した人生に終止符を打つことができ、選ばれたレビ族のように神様にお仕えする献身的奉仕者に生まれ変われます。

「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」(ローマ8:2,3)

イエス様の十字架の死はあなたと私の身代わりです。

罪の報酬は死です。私たちが過去の罪ゆえ第一の死と第二の死を体験して地獄に落ちないよう罪なきイエス様が地獄体験を十字架で、すでに引き受けて身代わりに死んでくださったのです。

計り知れない神様の恵みに感謝しましょう。

モーセは民の罪悪を断ち切るために打ち砕いて失ってしまった十戒の石の板の代わりを受け取るため再度シナイ山に行かねばなりませんでした。

「主はモーセに仰せられた。「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書きしるそう。」

(出エジプト記34:1)

「彼(モーセ)は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。」

(出エジプト記34:28,29)

二度目の十戒は神様のコンピューター調完全文字ではなく、モーセが書いた普通の癖ある字体です!

これで、いにしえからおられる神様の物的証拠が完全消滅しました。

しかし、神様を発見する救いの条件はただ信仰という形で今も残されています。

何も見えず、触れるものがなくても信じることです。

イエス様の十字架の死と復活の事実を五感に頼らず純粋に信じることが義人の救い条件です。

「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:24-29)

民の罪悪のために一度はバラバラに砕かれ、再度、同じ内容で受け取った十戒の石の板は、

神の言葉なるイエス様の死と三日後の復活を象徴しています!

イエス様は十字架で死なれましたが、三日の後によみがえられました。

その栄光はモーセの光り輝く顔以上の輝きです!

固く信じない者にならないで、純粋に信じる者になりましょう。

聖書によるとモーセの十戒の石の板は、最終的に純金に覆われた契約の箱の中へ収められ、イスラエルがバビロン軍によって捕囚とされた混乱期から現在に至るまで行先不明とされていますが、純金も石の板も半永久的に朽ちない素材のため、今も地球上のどこかに実在しています。これが世の終わりのちょうど良い時期に再発掘されるであろうと預言することができます。

それはやがてイエス・キリストが世の終わりに必ずもう一度天から帰って来られ、世界の注目を浴びる「再臨」のときを迎えるように、同様の砕きと復活の運命をたどってきたモーセの十戒であるため、これもまた世界の注目をもう一度、浴びる「再臨」のような「再発掘」のときが来るはずです。

そう想定すると、失われたアーク(契約の箱)が十戒を内に収めたまま、再発掘のビッグニュースが全世界を駆け巡るその衝撃報告のとき、驚くべき神様のユーモアを私たちは世の終わりの一番最後の時に、かいま見るかもしれません。

「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。」

(黙示録11:17-19)

伝説によれば、モーセは創世記から申命記までの聖書の御言葉を神様からいただいた時「語の切れ目なく連続して書かれた文字で受けた」とされ、その文字数、三十万四千八百五字がすべて単語と単語のあいだの空白なく連続する文字列だったと伝説されています。

句読点使用や行間を変えることで文章全体の大きさや形のレイアウト等を自由に構成できないということです。

そう考えると、一枚目の石の板と二枚目の石の板は、その裏表にびっしり書かれた文字数の違いから板全体の大きさもそのまま文字数に影響されて大小異なった二枚になったかもしれません。二枚には、十戒の半分の5つの戒めずつ平等に分けて書かれたのではなく、内容で分類上、4つの戒め(神と人の関係)と6つの戒め(人と人の関係)にはっきり分類されていたはずです。十字架は神様と人の縦ラインと人間同士の横ラインが別格で、必ず並行的に混ざらず、クロスする存在です。

加えてモーセが自然界から切り出した天然石ですから、二枚の大きさや形もまちまちだったでしょう。刻まれた多くの文字ゆえ、結構な大きさの大小二枚の十戒をたった一つの契約の箱に収めるには129cm×77cmというあらかじめ定められていた契約の箱サイズの空間の狭さから二枚を重ねないと入らなかったかもしれません。

「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。」(マタイ27:50)

考古学者ロン・ワイアットの発見によれば十字架の真下6メートルの地下小洞窟にエレミヤの時代から隠されていた契約の箱があり、石の棺の中に収められていましたが、そのふたがこの時の大地震の力で割れて隙間ができ、大地震で生じた直下型の亀裂を通じてイエス様の血潮がまっすぐ流れ落ち、契約の箱まで直接注がれていたそうです。

神殿の幕が上から下まで真二つに裂け(直下型でしょう)、地が揺れ動き、岩が裂け、亀裂が走り、石棺さえ割るほど強力な大地震!

この際、契約の箱の中の重ねた十戒がどんなに揺れ動いてずれていたとしても決しておかしくありません。あるいは、ずれていなくてもそのまま二枚は大きさの違いから結論付けられる仮説が成り立ちます。

ここに神様の歴史をかけた驚異的ユーモアが最後にある! かもしれません。

やがて世界でもっとも重要な品が納められている黄金輝く契約の箱がゆっくりとふたが開かれ、その中身が衛星放送を通じて一般公開される瞬間、全地のすべての知識人と報道関係者、政府高官と貴人たちが注目するプレミアの一品とは…。

「四角い契約の箱内にきちんと収まるよう、モーセの手で四角く成形され、文字数の違いから重ねられた大きさと長さの少しずつ異なる二枚の石の板、なんとこれがよく見るとクロスした、荒削りの少し太めだけれど、石製の十字架だったのです!ハレルヤ!」

人類が探し求めた究極的秘宝中の秘宝、それが十字架だったのです!!

十字架が世界最後で最強の宝です!!

契約の箱にイエス様の血潮が注がれている! すごいことです。

旧約のモーセの石の十字架に、注がれた新約のイエス様の血潮!

これこそ律法の完結!

歴史を超越した神様の愛の奇蹟!

神様の地上最後のユーモア!

世の終わりにもし目撃できるならば、クリスチャンにとってまさに鳥肌物の感動です!

「石の十字架とは…、

今日も人々が、冷たくさめた石の心で十字架を見つめている…。

ああ!十字架は石のように、なんともそっけなく、静か。

ありふれた目立たぬ存在に思えても、確かな重み。

ああ!石の十字架よ。おまえは一体…」

というくだりの内容ではなく、ドッカーン。

本文の内容は文字通りの少し太った石の十字架でした。チャン、チャン。


【 隠された宝 】 「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。

2021-05-11 04:00:00 | 日記

【 隠された宝 】

「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。」(イザヤ45:3,4)

神様は私たちに「秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝」を与えると言われます。それは土くれの中に隠された宝、私たちを神殿として住んで下さる聖霊様です。

聖霊様こそ霊的にひそかで最高の宝です。そして物質的な宝も多くは、隠された環境から与えられます。一説ではイスラエルにはイザヤの預言通り「秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝」が6-8兆ドルもの鉱物質として死海に眠っているそうです。それは先進諸国の富の総額以上の巨額です。イスラエル国内には巨大な石油の埋蔵もあり、世界のユダヤ財閥から祖国へ送金される援助もかなりの額です。また、終末期におそらく地中から再発掘され、イスラエル第三神殿に安置される契約の箱もまた黄金で覆われた「隠された宝」となることでしょう。

聖書中、神様はしばし予想外の手段で人々の物質的必要を満たしておられます。荒野の食料難な環境で神様はイスラエル全体に朝には植物性タンパクのマナ、夕には動物性タンパクのうずらを与えられました。

「しかし神は、上の雲に命じて天の戸を開き、食べ物としてマナを、彼らの上に降らせ、天の穀物を彼らに与えられた。それで人々は御使いのパンを食べた。神は飽きるほど食物を送られた。神は、東風を天に起こし、御力をもって、南風を吹かせられた。神は彼らの上に肉をちりのように、翼のある鳥をも海辺の砂のように降らせた。」(詩篇78:23-27)まさか食料が空から大量に降ってくるとは、しかもマナは元来「御使いのパン」です!渇いた時には水が、なんと岩から吹き出ました。人間の予想外の手段で必要を満たされるユニークな神様です。

4人のらい病人がサマリヤの門の入口にいました。彼らが勇気ある決断を下してアラムの陣営に入りこむと、なんと、そこには誰もいません。神様が4人の足音をアラムの陣営に戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎへと天からミキサー調整して大音響で聞かせたので、彼らは恐れて逃げ去ったのです。このらい病人たちは、陣営の端に来て、一つの天幕にはいり、食べたり飲んだりして、そこから、銀や金や衣服を持ち出し、これを繰り返して短期に大金持ちになり、一般報道を通じて飢餓のイスラエル全体をも救済しました。誰がこのような奇抜な手段でイスラエルの食糧難を解決すると想像できたでしょうか!

エリヤは荒野のケリテ川のほとりで朝に夕になんとカラスがパンと肉を運んできました。

ヨセフとマリヤは東方の博士たちから予想外にも黄金、乳香、没薬をイエス様の誕生祝としていただき、エジプトでの避難生活の資金源に役立てました。

どうしてイエス様が5つのパンと2匹の魚だけで男5千人をも食べさせることが出来たでしょうか。しかも配給元は子供の小さなお弁当から。主の御わざは時にスリリングで奇抜で「隠された富」のように誰も知らなかった予想外の働きが非常に多いです。神様もその使いも不思議なお方です。

「主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という。」(士師記13:18)

人間的な常識の枠組みで信仰を型にはめて聖霊様の働きを制約してはいけません。

CHスポルジョンは、よくメッセージ前に「主よ!聖なる無秩序を持ってこの礼拝に来てください。」と祈っていましたが、神様の方法は多種多様で人間の優れた英知をはるかに超えた独創性と想像力と奇抜なアイディアの御計画があります。

例え、世界がどんなに不況に満ちた時代でも、神様は御自身の聖徒を特別に扱われ、特別な方法で守られます。エジプト全域にかえるの群れ、ぶよの群れ、あぶの群れ、その他あらゆる種類の汚れた災いが起きても、神様を信じるヘブル人社会は全く無害でした。エジプト全域が真っ暗闇に包まれ、立ち上がることさえ出来なくなっても、ヘブル人居住地には光がありました!エジプト全域に死の災害が満ちても、ヘブル人は一人残らず、やまいも癒されて、よろめくことなく元気に出エジプト出来ました。ハレルヤ!(出エジプト記11;1、詩篇105:37)

主があなたとあなたの全家族、そして所有物すべてをあらゆる恐慌から守ります。御使いが特別戒厳令を敷いても守ります。必要とあらば予想外の手段を用いても、日毎の糧や今後の必要が満たされます!

経済の祝福と並んだ「わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。」(イザヤ45:4)という「肩書」についてのもう一つの約束ですが、イエス様はこのように言われました。

「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」(マタイ13:52)

イエス様はイザヤの預言成就者として弟子たちに確かに「肩書」を与えられました。イエス様を信じて献身的な弟子となるとき、誰でもすでに「天の御国の弟子」であり、イエス様から「学者」と呼ばれます。その勇姿は「自分の倉」のように大切な聖書から「新しい物」である新約聖書でも、「古い物」である旧約聖書でも、自由に取り出して引用し、御言葉を聖書全体からバランスよく解き明かせる「一家の主人のよう」に中心的な重要人物になれるということです。福音伝道者は誰であれ、主の御前、立派な「肩書」ある「学者」なのです!

この世が認めても認めなくても事実、あなたは主にある優秀な「聖書学者」なのです。自信と勇気を持って下さい。世のいかなる知者も賢者も王様も悟れなかった偉大な奥義、イエス・キリストの十字架の死と復活の真理を私たちは知り、隠された宝の聖霊様が内住されているではありませんか!ものすごい光栄なことです。永遠につながる祝福です。

万一、あなたが失業し、「無学な普通の人以下だ!」と呼ばれたら、そのときこそ大胆にこう宣言してください。

「実は、私の本業は学者なのです!今まで宝のように隠していてごめんなさい。」そして、おもむろに聖書を取り出して新旧約から大胆に語りだして下さい。神様があなたの正しい信仰告白を支持して、その場で適切な語るべき英知の言葉を次々と与えられます。あなたは確かにイエス様経由で天国公認の「天の御国の弟子となった学者」です!


学校や会社等の人と会うのが苦痛な「社会不安障害」と言う現象もあります。自分が恥ずかしい思いをする可能性の状況に対し不安反応が誘発され、

2021-05-10 04:00:00 | 日記

学校や会社等の人と会うのが苦痛な「社会不安障害」と言う現象もあります。自分が恥ずかしい思いをする可能性の状況に対し不安反応が誘発され、職場や学校などの社会的な状況下で赤面や動悸、震えや混乱が生じる現象です。ある知り合いは高校生の時、国語の授業の時、先生から突然、漢文を読むように言われましたが、ぼおっとしていてよく聞いていなかったので、あてられたことにびっくりしながら立ち上がり、無我夢中で変な読み方をして、みんなの笑いものになってしまいました。

「くくくけれれければ」その恥ずかしかった一瞬の苦い体験が切欠に彼はその後の人生で長いこと対人恐怖症を患ったと言います。しかしそんな彼もイエス様を信じて救われ、人と親しく交われるように回復し、祝された妻子にも恵まれて、今では伝道者として仕事と教会の両方に忙しい日々を過ごしています。

目に見えない領域で受けたストレスや心の傷が癒されず、長期間放置された結果、やがては目に見える領域で病という形になって現れるケースがしばし、あります。医学的には解離性障害(かいりせいしょうがい)といい、苦痛やストレスにより記憶や意識、身体運動の正常なコントロールを失う神経症のことですが、自分のしたことを覚えていなかったり、周りの刺激に反応しなくなったり、声が出なくなったり、立てなくなったりする症状まであります。特に受けたストレスや心の傷がひどい場合、大動脈解離、胸や肩、背中、腰に激痛が現れ、放っておくと頭部や四肢、心臓や腎臓、腸管などに血液が流れなくなってしまうので、緊急手術が行われることさえあります。脊髄の血行が障害されると、麻痺や膀胱直腸障害を起こします。ささいな日常生活で受けやすいストレスによる不安や抑圧された心理的葛藤は、長期間放置すると最悪、体や精神のさまざまな症状としてあらわれることとは、すなわち心と体が密接に連動して働いているということです。

よく教会のメッセージで「憎んでいる誰かを心底、赦してから祈ると病気が癒された。」という奇蹟の証を聞いたことがあると思いますが、この種のストレスから生じた病であれば、その根源なる「赦せないという感情のストレス自体」を除けば癒しが追従することは医学的にも理にかなった出来事と言えます。憎悪は連続した怒りを抑えたものですが、この長期間に渡って蓄積して構築された憎悪のとりでを破壊する強大な奇蹟の力が信仰によって赦しを宣言することです。かつてベートーベンは「憎しみはその心を抱く者の上にはね返ってくる。」と言いましたが、憎悪が各種の病と連動して働き、発病という形でわが身にはね返ってくるとは、何とも割に合わない話しです。

人は神様が創られた作品ゆえ、非常によくできており、受けたストレスをどんなにうまく隠しても顔の表情にチックとなって表れたり、心の憂いが暗い顔という形で表れ出たりするものです。汚れた心も汚い目つきになって表れます。人が誰かを愛するとは、愛した対象に深い関心をよせるという積極的行為です。愛するがゆえに相手をもっと知りたい深い関心が寄せられます。そんな意味では愛の反対は憎しみではなく無関心です。愛するなら積極的に会話し、敏感に相手の外的変化を観察して心の乱れを読み取ってください。会話を通じて心の中にある不安やわずらいごとが吐き出され、多くは大病に至らず早期に治療、解消できます。

自己暗示能力の高い幼少期に虐待された苦痛体験を「痛くない」と自分に言い聞かせることで、いやな感覚を麻痺させる現象もあります。しかしこの自己暗示的手段も一時的なもので耐え続けるといずれ限界が来て、その反動はいや増し大きな反社会的行動となるケースがあります。ストレスは日々、賛美と祈りと御言葉で発散して蓄積しないことがベストでしょう。

私たちの病める心を内側から癒す優れた力を紹介します。

それは賛美の力。

イスラエルのサウル王は悪い霊に悩まされ、精神錯乱状態で叫んだり、わめいたり誰にも手に負えない不安定状態が続きましたが、不思議とダビデが傍らに呼ばれ、竪琴で上手に賛美をささげると、その場でサウル王は落ち着きを取り戻して平安になりました。賛美の力は病める心と体に大きな癒し効果があります。賛美の曲をいつもBGMに流したしいたけ栽培業者では良質しいたけがたくさん安定的に収穫できるようになり、養鶏場では鶏が良質な卵を多く生むようになり、酪農業者では牛が上質な牛乳を多く出すようになったという確かなデーターに裏付けられた研究報告があります。賛美は人体を始め、あらゆる生き物に神様の御臨在を解き放つ祝福と繁栄の秘訣です。心騒ぎ眠れぬ夜は賛美をささげて心を癒してください。

異言による祈りの力。

預言者イザヤは規制された規則ずくめの現代社会にも異言の祈りが傷つき病める人の心を癒し、ストレスを緩和することをこのように預言しました。

「彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し。』と。」まことに主は、もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる。主は、彼らに「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある。」と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。」(イザヤ書28:10-12)

異言による長時間の祈りは不思議と心と体に安息を与え、実生活であれ荒んだ心身をリフレッシュさせ、新たにやる気を起こさせるリセット効果があります。異言による祈りがまず霊的領域を祝して満たすからです。魂が恵まれれば、それに続いて全ての環境と心も恵まれ、健やかな健康もついてきます。最近の研究では異言の祈りが疲れた脳内までも沈静化していることが分かってきています。

「神秘的現象の科学的分析」というテーマでABCTVのニュース特集で報道されていましたが、ペンシルベニア大学病院放射線科A.ニューバーグ博士は中立の立場から「宗教と科学の状態」をテーマに研究し、特に最近、異言についてレポート発表しました。同州のゲテスバーグ、フリーダムバリー教会ストルツフー牧師が協力して実験のため異言を語っているときの脳のスキャンを撮影しました。その画像分析では脳の動きが変化に伴い、赤、オレンジ、黄色、青等、色の移り変わりで部分ごとの動きが識別できますが、同氏が通常の英語で知的に祈っているときは言語をつかさどる前頭葉は赤色、すなわち活発に動いていますが、異言で霊的に祈っているときは色の変化なく落ち着いていました。このことから博士はこう説明します。

「(異言の)祈りに没頭しているときには前頭葉の活動は沈静化するものです。(異言の祈りが)自発的な動きではないということですが、これは異言は自分でやっているのではなく、神から動かされて語っていると言う(信者の)証言とも一致しますね。」

博士は牧師だけでなく別の信者たちのデーターも取りましたが、そこでも同様の結果がもっと顕著に現れました。異言の祈りは前頭葉を活発に使うことなくむしろ沈静化する。人ではなく聖霊様に舌が動かされて語る。これらのことが科学的に立証されつつあるということです。博士は以前、仏教の僧侶たちやキリスト教の修道女たちが祈っている時の脳も調べたことがありますが、異言を語っている人たちの脳だけは彼らとまったく違って沈静化していることも分かりました。博士はこう言います。

「仏教の僧侶やキリスト教の修道女たちのデーターとは正反対ですね。こちらの場合、前頭葉がむしろ活性化していましたから。」

聖霊様に満たされた異言の祈りは、ストレスの多い現代人に確かな「いこい」と「休み」を与えてリフレッシュさせる病める心の癒し効果があります。


テレビでゴミ屋敷に住んでいる住人の問題を観たことがあるでしょうか。近隣住民も行政も頭を悩ます、都市型現代病です。ある少女がこう言っていました。

2021-05-09 04:00:00 | 日記

テレビでゴミ屋敷に住んでいる住人の問題を観たことがあるでしょうか。近隣住民も行政も頭を悩ます、都市型現代病です。ある少女がこう言っていました。

「ママが言ってたよ。あの人たちの目にはゴミがピカピカ光る宝石に見えて、もったいなくて捨てられないのだって。」

本当にそうかもしれません。しかしこのような反社会的異常行動も過去との因果関係や彼らの傷ついた心の傷が判断をゆがめています。立川の街にも住宅街の一角にゴミ屋敷と呼ばれる家がありました。室内はゴミ一杯、あふれ出て自分の家の敷地内に生えていた木の枝にもスーパーの白いゴミ袋を一杯にぶら下げてクリスマスツリーのようにデコレーションしていました。隣人は窓を開けると、直ぐ目の前にゴミ屋敷の敷地内にあるゴミのなる木を常時、観賞させられました。あるとき、当時は私たちの教会が雑居ビルの3階にテナント借りしていましたが、廊下の共益部分の台所に鍵が付いていないため、少しずつ小さなお皿がなくなるという怪現象がありました。不審に思った私はあるとき礼拝堂で祈りながら張り込みしているとき、誰もいないはずの台所からお皿の崩れる音、「カチャツ」というのを耳にしました。急いで講壇から起き上がり戸口に行き、追跡してみると1階にエレベーターが降りた直後の動きがありました。そこで階段を使って1階まで駆け降りると、そこにはちゃんと異様な雰囲気のおばさんが一人自転車の所に立ってかごの袋をごそごそしていました。「この人だな。コソ泥は。」と思いましたが、こちらは牧師、冷静沈着、紳士的に話しかけました。

「あの、私は3階の教会の者ですが、今、あなたは3階から降りてきましたね、ご用件は…」すると、私の話が終わらないうちにその変な雰囲気一杯のおばさんはこう答えました。

「教会?ああ、アーメンね。知ってる。知ってる。アーメン、そうめん、味噌ラーメンね!」私は内心、「こいつ!古いギャグを使いやがって。」と思いましたが、同時に「貧乏で頭までおかしい、かわいそうな人だ。」と考えてその場で捕まえずにそのまま行かせました。それにしてもそのおばさんが乗る自転車は変な自転車です。前後に大きなかごを付けて中にはゴミ袋から荷物があふれ出て、ハンドルとその他いろいろな部分にもスーパーの袋をたくさんぶら下げて荷物一杯に大きくなった形、ちょうど、そのおばさんが真ん中のシートに座ると前後のかごからあふれ出ているゴミが目線の位置まであって、砂漠のふたこぶラクダに乗っているみたいでした。「本当にかわいそう。かわいそう。この人もまた、自分の思う荒野の道を行くのだ。」しかしその後、礼拝堂にひとり戻って祈りだすと、先ほどのやり取りが気になり始めました。「アーメン、そうめん、味噌ラーメン?なんて事を言わせたのか。なぜ私は賢い言葉でうまく言い返せなかったのか!」そこで一人祈りました。

「イエス様。あの曲がったことを言う、コソ泥おばさんの口が神様を賛美してハレルヤ!と言うようにしてください。」

そのことがあってから台所の皿の数が減ることはなくなりましたが、数ヶ月が過ぎたある日のこと、主日礼拝の賛美の時間、突然、入り口の扉が開き、一人のおばさんが入って来ました。そして1分もしないうちに熱い賛美の臨在の中で初来者のようなこのおばさんは叫びました。「ハレルヤー!ハレルヤー!」

ぞっとしましたが、私はこの時点でこの人が誰であるかよく分かりました。

「確かに祈りは聞かれた。しかし今後どう対応しようか。」

礼拝終了後、挨拶すると以前のことを忘れたかのように友好的に接してきたのでしばらく受け入れて様子を見ることにしました。このおばさんは毎週ふたこぶラクダに乗って教会に来ました。献金はしない代わりに毎回、たくさんの花束を捧げ物に持って来ました。後で分かったのですが、花束は毎回、近所の花屋の閉店以降、深夜に外においてある廃棄物専用の大きなゴミ箱から使えるものだけを拾い集めたものでした。

そこで毎回、頭に手を置いて汚れた霊を追い出して祈ってあげました。そしてひと月ほど過ぎたある日に、ニコニコしながらこう言いました。

「先生。最近、教会に来るようになって不思議に心が落ち着きますね。そこで先日も教会から家に帰ると不思議に心が落ち着いて掃除をしたくなったの。そこで立川市の職員に相談したら、お金もぜんぜんないのに、いろいろとよく協力してくださることになったわ。」

当初、私は何を言っているか意味が分かりませんでした。しかしその後、このおばさんを通じて伝道された隣の家で常時、ゴミの木を強制観賞させられていたおばさんを通じて話を詳細に聞き、よく意味が分かりました。そのおばさんはこのおばさんの豹変に驚いて教会に導かれたのですが、実にこのふたこぶラクダに乗るおばさんこそ、この街では有名なご近所と行政当局を悩ませ続けたゴミ屋敷の主人だったのです。そしてその態度の豹変とは、大掃除を始めたことでした!

本人の話では「今まで、どんなに近所の人たちと役所の人が来て注意しても、掃除する気になれなくて、もったいないからとっておいたものすべてを捨てたくなったの。消防の人も来て放火されると危険だから木に結んだゴミ袋だけでも撤去してと言われても、断固と拒んでいたのに不思議と教会に来たら掃除がしたくなったの。先生、不思議なこともありますねえ。」

そして役所の担当者に自ら電話をかけて撤去の申し出をしたとのことでした。その量、本人の話では、立川市のトラックでゴミの山8台分と大勢の作業員だったそうです。中でも玄関付近に長年とめて使用していなかった古い自転車は腐っていて、立てかけた壁の鉄の部分とくっついて離れず、作業員3人でようやく引っ張って剥がしたそうです。

全てを掃除してみると、後はお部屋が何十年ぶりに広くなったそうです。驚きました。今でもこの姉妹は時たま気が向いたら教会に遊びに来ますが、聖霊様の力は言うまでもないですが、行政以上、消防署員以上、ご近所のあばさんたちの再三の団体交渉の要求パワーや脅迫以上です。それは愛の力です。誰が何を言っても言うことを聞かなかった頑固な人でしたが、聖霊様は力強いです。このおばさんは後に親しくなってその過去の生い立ちを聞くと、戦後、立川に米軍基地があった頃、ベースに働くアメリカ空軍整備士の妻だったそうです。確かにこのおばさんはコソ泥だったけれど英語は普通にペラペラ普通の人以上に話せて、過去に何人かの外人を教会に連れて来ていました。そして彼女の仕事の自称マッサージ師、たぶん不品行も含んでいたと思います。当時は立川に龍角があって5000人もの売春婦が住んでいたそうです。そこを通じてアメリカ軍人の妻となり、現在のゴミ屋敷と化した家を当時、買ってもらったそうですが、どうも夫が死ぬまでの間、夫はかなりのハンサムと高収入から誘惑に負けてうわきが酷く、自分は本妻だけれど他にも日本人の妻たちが多くいたそうです。二人の間に生まれた娘が大きくなった頃の写真を見せてもらうとモデルのようなハーフの美人さんで20歳くらいでしたが、その素行の乱れは尋常ではないと一見して分かりました。それはその写真に写った美人さんの髪の毛全体は金髪でも黒色でも中間でもなく、明るい原色の真っ赤に流血のように染められていました。今では家を出たきり何年も帰って来ないと言っていましたが、結局、父親の無責任な放蕩と淫乱が家庭を破壊し、数十年をかけてあれすさんだ妻の心から徐々にゴミ屋敷とふたこぶラクダとゴミのなる木を作らせることになっていたのでした。

彼女のケースもまた、単純に医学的に分析、処方すれば精神病のどれかに位置すると思いますが、聖霊様の中で回心伴う行動の変化と奇蹟は、祈りと過去の心の癒しが密接にリンクして始めて現れます。

医学では全般性不安障害と呼ばれる現象があります。誰もが先行き不透明な時代に生かされて不安要素を抱えていますが、日々の些細な不安を敏感に受け止めすぎて、深刻に悩んで苦痛から日常生活や社会活動に支障を来たしてしまう状態です。不安ごとをうまく消化できないと最悪、疲労感、集中力の低下、イライラ感、睡眠障害となって現れてきます。「健康に対する不安、経済的な不安、家族のこと、リストラや倒産など、他人の評価、そして見えない将来や死に対する不安など」例を挙げると不安要素は世に生きる限りつきません。誰かが数えたそうですが、聖書には「恐れるな!」という御言葉が365回書かれているそうです。毎日聖書を読むことによって神様は1年中、毎日1度は「恐れるな!」と呼びかけているのです。それくらい恐れが環境を取り巻き、恐れないよう警告と激励が必要な時代なのです。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」

(マタイ10:28-31)

恐れにも各種の対象がありますが、根源は同じく恐怖体験、その苦々しい過去の忌まわしい記憶を癒すことが必要です。戦時中、ハワイ沖に沈められた米国戦艦が半世紀も過ぎた今でも、時にオイルを滲み出しているそうです。昔の記憶なのに今も生きて働いている何か、私たちの中に残っていないでしょうか。

場所や状況が怖くて、引きこもりがちになる「広場恐怖」(外出恐怖)と言う現象があります。イエス様の十字架を目撃した直後の11弟子たちはユダヤ人たちからの同様の迫害を恐れて室内で戸閉め、鍵もかけて引きこもっていました。(ヨハネ20:19、26)彼ら11弟子たちの最も恐れた場所と状況はカルバリの十字架だったのです。何か困ったことが起きても誰にも助けてもらえなかった、あるいは恥ずかしい思いをしたことがあるという場所や状況に対する恐怖です。場所や状況と記憶がリンクするため、ある人にとってはそれが人混み、渋滞する道路、橋、電車や飛行機、エレベーターなどの乗り物などを恐れの対象として置き換えるケースもあります。私は小学生のとき、右翼の真っ黒い装甲車のような大きいバスをあやまって花火で燃やしてしまったことがあります。この火災以降、しばらくの間は火の恐怖が記憶にリンクして台所のガスコンロさえ怖かった時期がありました。もちろん今はガスコンロも炎のキャンプファイアーも怖くありませんが。


1960年代初頭から1975年まで、ベトナムの地で北を支援したソ連、中国の社会主義国と南を支援したアメリカとの間で繰り広げられた武力抗争は、

2021-05-08 04:00:00 | 日記

1960年代初頭から1975年まで、ベトナムの地で北を支援したソ連、中国の社会主義国と南を支援したアメリカとの間で繰り広げられた武力抗争は、死傷者アメリカ軍6万人、南北ベトナム人200万人近く犠牲を出し、50年たった今でも大量に空中散布されたジャングルを野原と化す枯葉剤の後遺症で多くの住人に遺伝子レベルの後遺症が残り、出生奇形児などの問題が残っています。これは当時、戦闘地域にいたアメリカ兵も同様の後遺症があると言われていますが、私たちの心も過去のいつかどこかでまかれた毒によって後々まで蝕まれていることはないでしょうか。日常生活では銃や刃物で傷つけられることは稀ですが、かくも身近なところで人々は不可視な武器の脅威にさらされ、自覚症状の認知に関係なく誰もがその危害を受けているものがあります。それがときに言葉という武器であり、悪魔の使う常套手段の毒です。「蛇のように、その舌を鋭くし、そのくちびるの下には、まむしの毒があります。」

(詩篇140:3)

人や自分を傷つける言葉、呪い、つぶやき、否定的な言葉、不信仰な反聖書的告白が内側から内充する毒のように人の心を傷つけるとき、唯一の解毒剤イエス様の血潮を賛美する早期治療が必須です。

アメリカではベトナム戦争帰還兵の多くが、正常な市民生活になかなか戻れず、無気力、震え、戦争体験に似た何かに敏感に反応するなどベトナムシンドロームと呼ばれる精神異常をきたしました。映画ランボーではクリスチャン俳優シルベスタ・スタロンがその役を演じましたが、過去のひどいストレスや恐怖体験、耐え難い外傷体験などを克服できないでいると強い恐怖を感じたあと、その出来事を思い出して恐怖にさいなまされたり、その出来事と似通った状況を避けたり、不眠症になったり、「外傷後ストレス障害」として反社会的な異常行動に陥る危険性があります。何の脈絡も無く、あるいは外傷体験を連想させるものごとに遭遇したことをきっかけにして、映画の一場面のように恐怖の瞬間がありありと思い出される負のフラッシュ・バック体験です。

ペテロは鶏が鳴くまでに3度の裏切りの言葉を発言して大失敗しましたが、復活のイエス様にお会いして心癒されるまでは、その夜に聞いた鳴き声こそ、嫌な過去をそのままリンクして鮮明に思い出す負のフラッシュ・バック体験として心に残り、ペテロにとって朝毎に聞こえる鶏の鳴き声イコール裏切りの象徴という形で軽度の「ストレス障害」となったことでしょう。

また、解離性同一性障害(多重人格)という言葉を聞いたことがあると思いますが、聖書にもおそらくそのような人物が少なくとも二人は書かれています。マルコ16:9の7つの悪霊をイエス様から追い出していただいたマグダラのマリヤの過去です。これは人格が交代で現れる異常行動で、耐え難い現実から自分を防衛するために、過去の記憶を分断して、それらをそれぞれの人格状態(交代人格)に担わせるという病気ですが、彼女は7つの悪霊が入っていたため7種類の異なる人格と異常行動があったかもしれません。一般的に障害の原因となる外傷体験は、幼少期に受けた非常に恐ろしい暴力行為や性的虐待などが多いとされていますが、彼女の場合、幼少期に受けた恐怖体験からできた心の傷口にそこを突破口として7つの悪霊が入り込んだのかもしれません。イエス様は7つの悪霊を追い出して彼女を癒されたあと、十字架の復活以降にもすぐに再会されてアフターケアをなさっています。この種の心の病は継続したフォローが早急に必要です。もう一人、彼女が7人格ならそれ以上に6000の人格だったかもしれない男がゲラサ人居住地にいました。悪霊6000匹に制圧されると、ほぼ理性は失われ、セルフコントロールもできずに、悪霊のいいなりに振り回されていたことでしょう。6000匹の悪霊が、たった一人に住めば、それは、それは、にぎやかな内側だったと思われます。イエス様が彼から悪霊どもを全て追い出されて癒されたとき、理性を取り戻した彼は自らイエス様にお伴をしたいと申し出ましたが、これを断り、それより家に帰ってどんなに大きく神があわれんでくださったかを証しするよう導かれました。彼は長いこと悪霊によって精神異常となり、墓場に住んでいたため必要な心の癒しはフルタイムの献身より、まずは心配する家族との愛の交流を通じて心癒す体験でした。このように心の癒しも千差万別、みな異なります。ヨハネ11:44で死後4日目のラザロがイエス様によってよみがえったとき、その後はほどいてやって帰らせなさいと命じられました。よみがえりは神なるイエス様ならではのお仕事ですが、ほどくのは私たち人間のできる、なすべき仕事です。救い体験以降、私たち人間に任されている愛のアフターケアが大切です。