イエス・キリストの福音

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【心の傷を癒そう】 「幼少期に虐待された親は、自らの子を虐待する」傾向がデータとしてあることは有名ですが、虐待された人が後に防御的本能が過剰に働くあまり、

2021-05-07 04:00:00 | 日記

【心の傷を癒そう】

「幼少期に虐待された親は、自らの子を虐待する」傾向がデータとしてあることは有名ですが、虐待された人が後に防御的本能が過剰に働くあまり、目の前の幸福さえ柔軟に受け入れられず、むしろ恐れが先行して自発的によき現状を破壊していくこともあります。過去を切り捨て、新たな意識変革が大切です。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

またある種の限度を超えた苦痛に見舞われたとき、耐え切れなくなると、人はその痛みを他の物事に置き換えて回避しようとするケースもあります。

聖書のヨブは部下とすべての財産を失い、息子娘らを彼らの家もろとも一瞬に失い、悪性の腫物にも打たれました。さらには追撃ちをかける愛なき裏切りのことばが厳しく妻からヨブに臨みます。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(ヨブ2:9)

ヨブはさすが東洋一の義人と呼ばれただけあって、このようなつらい目に遭っても、罪を犯すようなことばを口にしませんでした。しかし、どんなにつらい試練を耐え忍んでも所詮肉を持つ人間、次第にそのひずみは時間と共に徐々に現れ出てきます。ヨブは壊れ、ヨブはゆがみ始めました。なんと信仰者ゆえ神様や人はのろえませんが、代わりに生命体なき自分の生まれた日をのろいました。

「ヨブは声を出して言った。私の生まれた日は滅びうせよ。「男の子が胎に宿った。」と言ったその夜も。その日はやみになれ。神もその日を顧みるな。光もその上を照らすな。やみと暗黒がこれを取り戻し、雲がこの上にとどまれ。昼を暗くするものもそれをおびやかせ。

その夜は、暗やみがこれを奪い取るように。これを年の日のうちで喜ばせるな。月の数のうちにも入れるな。ああ、その夜は、はらむことのないように。その夜には喜びの声も起こらないように。日をのろう者、レビヤタンを呼び起こせる者がこれをのろうように。その夜明けの星は暗くなれ。光を待ち望んでも、それはなく、暁のまぶたのあくのを見ることがないように。それは、私の母の胎の戸が閉じられず、私の目から苦しみが隠されなかったからだ。」

(ヨブ3:2-10)

ヨブは自らの誕生日をのろい、その夜をのろい、誕生日の夜明けの星までのろいました。理性的には異常なことです。預言者エレミヤもひどい迫害を受け悩んだとき、ヨブ同様に受けた痛みを他の物事に置き換えて回避しようとする異常行動にでました。

「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。私の父に、「あなたに男の子が生まれた。」と言って伝え、彼を大いに喜ばせた人は、のろわれよ。その人は、主がくつがえして悔いない町々のようになれ。朝には彼に叫びを聞かせ、真昼にはときの声を聞かせよ。彼は、私が胎内にいるとき、私を殺さず、私の母を私の墓とせず、彼女の胎を、永久にみごもったままにしておかなかったのだから。」(エレミヤ20:14-17)

預言者らしくない、現実逃避のやつ当たり的のろいのことばと思えますが、もし私たちの周囲の誰かが同様の反社会的異常行動に出たとき、その本質は不幸を開花した目に見える表面的現状ではない、もっと深い根の不可視な部分があることを知らなければなりません。異常行動は過剰なストレスを受けて、なおかつうまく発散できないで悩んでいる人々からの危険信号です。

子供が好んで虫を殺したり、おもちゃや人形を訳なく壊すとき、あるいは大人が無謀な行為と知りながらもギャンブルや大酒のみ、遊興、酩酊、淫乱、好色など明らかに身を滅ぼす衝動的行動に出るとき、まずは背後の根の部分である原因を把握した上で適合した対処をとらなければなりません。植物を根から掘り出さなければ、後日、再び成長してくることと同じです。

幼稚園の先生がこう語りました。

「幼稚園で子どもたちがままごとをしながら遊んでいる姿を見ると、その子の親に会わなくても実際の家庭環境がよく分かります。」

子どもたちはよくままごと遊びを好んでします。そこでいつも夫婦円満な家庭の子どもなら、ままごとの家庭でも夫婦円満で仲良く微笑ましい楽しい家庭を演じます。ところが常時、争いある家庭の子どもの場合は、ままごとの世界でも争ったり、暗く無愛想にふるまったりするそうです。小さな女の子が「あなた!今日も帰りがおそいわねえ。どこで飲んできたの!」と叫んだり、「うちはいつも赤字なのよ!あーあ、今月もきびしいわ。今から節約生活を始めるわ。おにぎりも小さく作りましょう。あなたも節約して。」とため息をついたり、静かな男の子が新聞を読むしぐさをしながらポツリとつぶやいて「おい、おまえ。ごはん、風呂、寝る。」と言ったり、子どもたちは親の背中を見つめ、面白いことに、そのまま良きも悪しきも反映しています。

戦時中、ドイツのアウシュビッツ収容所に収容された乳児たちが大勢いたそうです。彼らはガス室で殺さないで将来、こき使おうと生かされていたそうです。その粗悪な愛なき環境で与えられたものは、定期的に機械的なほ乳ビンによるミルクだけで、親から抱きしめられて愛情を受けることはなく、必要なスキンシップを受けられなかったこれらの乳幼児たちはその後、数年経たずに皆、死亡したそうです。魚が水がないと生きられないように人は愛がないと生きられません。

「イエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」(マルコ10:16)

アメリカの免疫学研究で、新しい試みとして抱擁療法を実践導入したところ、愛を持って抱擁された患者の免疫力が高まり早期に病から回復できたそうです。

聖書で放蕩息子の父親やイエス様は人を抱きしめて、愛を表現されています。

「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」

(ルカ15:20)

「しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。」(ルカ14:4)

ある母親が7歳になる自閉症の娘に抱擁療法を実践しました。当初は娘が抱かれる前より、もっと強く緊張し、泣き騒ぎ、もがいて抱かれる事を嫌がったそうですが、母親は「怒っているんだね。もっと泣いて怒っていいよ。」とやさしく声をかけながら約一時間ほどこれを続けました。 やが娘を抱擁しているうちに、人間と人間が関わっているという意識が母親に生じ、自分が今までこの子に対し、いかに尊厳を傷つけていたかを考えるようになりました。すると娘との交流が生まれ、言葉はなくても目線で語り合えることができ、親子の関係が修復し始めたのです。 

J・アランは「抱っこを通じて子どもの生き生きした感情が呼び起こされ、生きる喜びが回復してくる。母親もまた、わが子への愛情を再認識し、子育ての喜びと意欲と自信を、ひいては母親として生きる喜びを取り戻していく。」と言いますが、この親子の場合もそのことが実現しました。母親としての正しい自覚と娘への愛が回復するにつれ、娘にも顕著な変化が現れました。今までとは違って母親の頼みごとを聞いてくれるようになり、忍耐力も身に付いたそうです。そして今では、娘の情緒不安が少なくなり、笑顔が見られるようにまで回復して、母親も子どもを一人の人間としてみられるようになりました。 

軽度の切り傷、すり傷、打撲などは、放置しておいても自然治療できますが、骨折、ガン、脳腫瘍など大病は放置しておいても自然治療できず、専門病院で医者に観てもらう必要があります。霊魂の傷も同様で自力では完治しない大病の部類であり、霊の病院である教会と霊的領域の専門医なる癒し主イエス様が必要です。痛みを認知できるレベルの病気であれば人々は早期に対処できますが、最も恐ろしい領域の病にらい病のように痛みさえ感じないうちに日々身体が滅びていくものがあります。自覚症状なき大病、それが霊的病気、不信仰です。神様と永遠の事柄に全く無知で無関心、やがては死ぬ現実を忘れたかのように永遠への備えができていない現状、しかし病状の認知、不認知関わりなく、この霊的大病は日々確実に進行し世を蝕んでいます。

啓蒙思想家ルソーはこう言いました。

「我々は生まれると競技場に入り、死ぬとそこを去る。その競技用の車をいっそううまく操るすべを学んだとて何になろう。いまとなっては、ただどんなふうに退場したらよいかを考えればよいのだ。老人にもまだ勉強することがあるとすれば、ただひとつ、死ぬことを学ぶべきだ。」

ホンダ自動車創立者、本田宗一郎はこう言いました。

「飛行機は飛び立つ時より着地が難しい。人生も同じだよ。」

永遠の命なるイエス様をいち早く発見して天国の備えある懸命な生き方が一番大事です。

次に人々が忘れがちな永遠に対する備え同様、日々傷つく心の癒しも忘れてはならない事柄です。


私たちはイエス様を信じて皆、神の命が与えられています。でも、生きていても眠っていたならば何の戦力も現わさないため眠れる信仰から目覚めて信仰の大盾をとる必要があります。イザヤ五十一章十七節には

2021-05-06 04:00:00 | 日記

私は昔一つの夢を見ました。夢の中で人々がなぜか城壁ある建物の屋上にふとんをひいて眠っていました。そのうち下の方から敵軍の数々の矢が屋上めがけて放たれて奇襲攻撃にあいました。目覚めた人たちはこれに対して自分の寝ていたふとんを盾にして応戦し防御しましたが、私もその目覚めた群れと一緒にふとんを盾に応戦しながら、ふとんでは到底勝ち目が無いと思いつつ目覚めました。

私たちはイエス様を信じて皆、神の命が与えられています。でも、生きていても眠っていたならば何の戦力も現わさないため眠れる信仰から目覚めて信仰の大盾をとる必要があります。イザヤ五十一章十七節には

「さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。」

とありますが、霊の戦いは目覚めて堅い信仰の大盾をもって応戦すれば必ず勝つことができる戦いです。その使命が与えられたのが私たちです。私たちの戦う戦場は心の中です。箴言四章二十三節には

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」

とあり、箴言十六章三十二節には

「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」

ともあります。こころを見張ることが霊の戦いです。私たちは皆、霊の戦争をしているということを忘れてはなりません。私たちの戦いは主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。この戦いは私たちが認めても認めなくても参戦しても参戦しなくても現実に朝も夜も絶えず霊的な世界で起きている現実の戦争です。この戦争の最終的な大勝利は天国に入る私たちのものと既に決定していますが、いまだ戦闘が残っているのです。天国というのはただ黙って立ったままエスカレーター式の王道で入る所ではありません。

黙示録三章二十一節では

「勝利を得る者を、わたし(イエス)とともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」

とあり、ルカ十三章二四節では

「努力して狭い門からはいりなさい。」

とあり、マタイ十一章十二節では

「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」

とあります。私たちは必ず天国に帰還しますが、戦争でぼろぼろになって負傷しながらようやく帰還する兵士もいれば、英雄となって捕虜を大勢解放して戦利品を携えながら帰還する兵士もいるように霊の戦いにおいても努力次第で天国の栄光が大きく違うのです。

救いは誰でもイエス様を信じるだけで無条件に与えられますが、その後の成長と祝福を受けることにおいては信仰で激しく攻める努力が必要です。貪欲と真理に対する熱意とは別のことです。貪欲とは本来自分の受けるべき領分を飛び越えてすべてをむさぼりながら剥ぎ取る罪ですが、熱心に祝福を折り求める努力は真理に対する熱意であって称賛すべき愛の行ないであり、決して貪欲ではありません。今までの教会史ではこの点において少し弱さがありましたが、最近は違ってきています。祈りと断食で努力して求め、武装して熱く霊の戦闘をしなければ何もないという真理の知識が広く浸透してきています。

人々は悩み苦しみ病んでいます。不信仰と偶像宗教と不正がいたる所にはびこっています。大群衆が次々と地獄に叫びながら落ち込んでいます。この現実を踏まえた上で渇きなく熱い祈りの必要性を感じなければ問題です。熱い情熱をもって祈り求め、涙と断食をもって主を呼び求める戦いの時は今なのです。私たちは熱心に祝福を祈り求めて心を不法占拠しようとする違法の悪霊どもを全て追放しましょう。

では、今日私たちが聖絶すべき七つの違法の悪霊とは具体的にどのようなものでしょうか。代表的に見られがちな七つをあげます。聖書ではマグダラのマリヤという女はイエス様から七つの悪霊を追放していただいたとありますが、それはどんな状態だったでしょうか。想像すると女の性質は多重人格者のようで、ある時は恐れの雲に捕われて暗い家の中に連日引きこもり、またある時は偽りの霊に動かされて世間をまどわすうそいっぱいのペテン師になり、またある時は姦淫の霊に満ちて夜の町に立つ売春婦。またある時は盗みの霊に満ちて市場の泥棒になり、またある時は病の霊につかれて病院の中。またある時は寒い道端の占い師に転職。またある時は貧困の霊につかれて破産してホームレスに変身、等など大変忙しい毎日だったことがうかがえますが、いずれも悪霊の実はみじめで腐った生活です。救い主イエス様はこのようにみじめなマグダラのマリヤという女性の中から七つの悪霊すべてをみごとに一匹残らず追放されました。ハレルヤ。

 

ある信頼できるクリスチャンのご主人さんから直接聞きましたが、当時まだ不信者だった奥さんを通じて体験した霊的体験の証しをします。奥さんが悪霊につかれて暴れたそうです。その悪霊は長年奥さんの中に住んでいましたが、結局すべて追い出され、今は奥さんも救われた立派なクリスチャンになりましたが、悪霊が追放されるまでの期間はご主人さんは奥さんの解放を祈り続け、イエス様の御名で命じて七つの悪霊を追放していました。その時、奥さんの中から男のような声でこのように悪霊が答えてしゃべったそうです。

「おまえは神様がどんな方か知っているか?この際だからすべてぶちまけて話すけど・・・神様は光と愛をミックスした方だ。おれたちが追い出されたら、他のすでに入っている悪霊たちがたくさんいるからどこでもすぐに入れないので大変だ。入るにもいつでもできるのではない。きっかけがないとだめだ。以前は天国で賛美していた。ものすごい美しい光の国だった。しかしリーダーが堕落して追放されたから、自分たちが知らないうちに一緒に地上へ落とされた。もう一度あの美しいところへ本当は戻りたい。しかし、出来ない。おれたちはやがて負けることに決まっている。リーダーにしかられるから言えないけど本当はあそこにもう一度帰りたい。あんなすばらしいところヘ行けるお前たちクリスチャンがうらやましい。追い出される!ルシファー!祈ってくれ」

その後、奥さんの中に住んでいた悪霊は地獄のよみにおけるリーダー・ルシファーのとりなし祈りがあったのか悪霊現象が一時的に強くなり、怪力でもっとあばれ、それから最後に追放されたそうです。

イスラエルの民がカナンの相続地で異邦人七部族を追放した後、始めて乳と蜜の流れる豊かな祝福を全面謳歌できたように私たち神様のイスラエルも心のカナン地域から祝福の流れをふさいでいる異邦で違法な七つの悪霊をすべて追放しましょう。

 

イエス様は四十日間の断食祈梼の後、御霊の剣である聖書のことばと信仰の大盾で悪魔の誘惑に完全勝利されました。同様に私たちも攻撃を受けたとき聖書の御言葉を用いて宣言すると悪に勝利できます。悪い思いが心を攻める時、「聖書にこう書いてある!」とイエス様に戦い方を真似て宣言することが重要です。聖書の言葉を大きな声で実際に告白してください!悪魔は逃げ去ります!イエス様と同じように戦えば最短で罪悪の根源、悪魔とその誘惑に打ち勝てます。では私たちが今日、積極的に追放すべき違法の七つの天敵とは・・・

第一に、憎しみです。憎い心はすでに悪の領域に所属しています。全てをご存知の神様にゆだねて赦しましょう。憎しみが心を違法占拠しようとする時、心が支配されないようすぐに天敵の前で以下の御言葉を用いて大胆に声に出してこう宜言してください。

「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」と書いてある!(ヤコブ一章十九~二十節)

あるいは続けてこうも宣言しましょう。

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」と書いてある!(エペソ四章二十六~二十七節)

それでもだめなら、これも宣言しましょう。

「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」と書いてある!(ヨハネ第一 三章十五節)

第二に、世の罪悪への誘惑です。イエス様が十宇架で血潮を流してすでに解決されました。私は赦された義人です。誘惑されて自制心を失う時、その乱れた思いに対してこう宣言してください。

「御霊の実は、自制です。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」と書いてある!(ガラテヤ五章二十二~二十三節)

金銭への誘惑が来る時、こう宣言してください。

「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」と書いてある!(テモテ第一 六章九~十節)

貪欲で自己中心的なけちになる時、こう宣言してください。

「人の益を計り、良い行ないに富み、借しまずに施し、喜んで分け与えるように。」と書いてある!(テモテ第一 六章十八節)

不品行と姦淫の思いが来る時、

「寝床を汚してはいけません。神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれる。」と書いてある!(ヘブル十三章四節)

第三に、追放すべき違法の天敵とは、偶像を慕う心です。神様以上に愛する者はすべて危険です。貪欲と偶像を警戒して真の生ける主なる神様だけを礼拝しましょう。

「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」と書いてある!(ヨハネ第一五章二十一節)

世に対する世俗の思いが来る時、

「世を愛することは神に敵することである」と書いてある!(ヤコブ四章四節)

「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。」と書いてある!(ヨハネ第一 二章十五節)

過度の物質所有欲が貪欲になる時、

「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と書いてある!(ヘブル十三章五節)

第四に、恐怖心。恐れには刑罰が伴います。心の恐れが消え去り、勇気と愛が満ちるまで宜言しましょう。にわかな恐れが来る時、

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」と書いてある!(ヨハネ第一 四章十八節)

心がかき乱される時、

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と書いてある!(ヨハネ十四章一節)

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」と書いてある!(テモテ第二 I章七節)

災いへの恐れが来る時、

「正しい者は何の災害にも会わない。」と書いてある!(箴言十二章十一節)

悪魔への恐れが来る時、

「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」と書いてある!(ローマ十六章二十節)

第五に、劣等感。他人と比較する必要はありません。人の外面も性格も指紋も声紋もみんな違うようにあなたには、あなたにしかできない、あなたならではの神様のよきご計画が必ず用意されています。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。主の御告げ。そ

れはわざわいではなくて、平安を与える計両であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」と書いてある!(エレミヤ二十九章十一節)

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。」と書いてある!(第一コリント 十三章四節)

「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」と書いてある!(ヨハネ二十一章二十二節)

第六に、否定的な心。イエス様はあなたのために十字架で命を捨てました。それほどまで、あなたは神様にとって高価で尊い存在です。否定的で排他的な敗北意識、非生産的な暗い思いを捨てて、肯定的な御言葉を宣言しましょう。

「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」と書いてある!(詩篇二十三編六節)

「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。」と書いてある!(第二コリント 十三章八節)

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と書いてある! (ピリピ四章十三節)

第七に、怠慢・怠惰の心。多くの人が現状に甘んじて、尊い救いや時間、学び、成長の機会を逃しています。イエス様の十字架の愛は一生懸命です。とても熱心です。忙しく枕する所もなく、早朝から夕、深夜さえ徹夜までされながらイエス様は多忙を極めて献身されました。イエス様を栄光の模範として、万軍の主の熱心で努力して天国の勝利を勝ち取りましょう!

「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」と書いてある!(ローマ十二章十一節)

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」と書いてある!(マタイ六章三十三節)

「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。」と書いてある!(マタイ二十六章四十一節)

神様はあなたのくちびるに大きな力を与えました。あなたが信仰で御言葉を語るとき、それは御霊の剣であり、誰にも妨げられない天国の力をこの世に発揮します。


第一に、イエス様の癒しは徹底的です。あえてペテロにとって忌まわしいあの裏切りの夜と正反対の環境再現の中で起こります。あの夜は陰湿なピラトの総督官邸で空腹と暗い寒さ

2021-05-05 04:00:00 | 日記

第一に、イエス様の癒しは徹底的です。あえてペテロにとって忌まわしいあの裏切りの夜と正反対の環境再現の中で起こります。あの夜は陰湿なピラトの総督官邸で空腹と暗い寒さの中、悪者たちと共に火を囲み、恐れながら震えながら三度の「知らない」発言。

しかし、この日は自然の美しいテベリヤ湖畔で朝食後に光と復活のイエス様の暖かさのなか、弟子たちと共に火を囲み、イエス様の癒しにかかわる三度の質問。

「わたしを愛しますか。」

それは過去の三度の「知らない」発言ゆえにすっかり左に曲がって傷ついてしまったペテロの偽りのロと心を、三度正反対の言葉「愛する」と発言させることにより、強制的に右に曲げて矯正し、中間の正常な位置に戻す働きでした。

イエス様に多く赦された者は、イエス様を誰より多く愛する告白が心の癒しにつながります。胸に手を置いて析るときハッとして思い出す辛い記憶や恐怖体験、忘れたい失敗や最も悲しかった出来事、そここそ癒しのメスを入れるべき病める霊的患部です。

「ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。」(ヨハネ二十一章十七節)

すべて注射も手術も良薬も口に苦しです。病める過去を正面きって取り扱うことは必ず痛みが伴いますが、イエス様は神の働きに勇敢に奮い立って立ち上がる前のペテロに対して、まず心を癒されたように、今も私たちの心の早期治療を輝かしい未来の為に願われます。このように告白しましょう。

「私はイエス様を誰より何より第一に愛します。愛します。愛します。イエス様の打ち傷のゆえに私の心は癒されました!」

第二に。

「イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。」(マタイ十四章十四節)

イエス様が抱かれた感情、あわれみは非常に重要です。傷つくたましいに対する主の哀れみは大きいです。イエス様が多くの群集を見られた際、「深くあわれんで」、その結果病気が癒される奇蹟がともなっています。ギリシャ語でここに使われた「あわれみ」は「スプランクノン」で、身を引き裂くような断腸の思いです。本来は肝臓、腎臓、心臓のニュアンスを含んだ、張り裂けるような痛みの気持ちです。イエス様は病める人々を心底、痛み伴う感情のレベルまで激しく愛して癒しをなされたのです。

 

以前、私は癒しに関するある夢を見ました。群集と共に歩まれる白くて長い衣をまとわれた美しい目のイエス様の夢でしたが、多くの病人の病める箇所に触れながら瞬時にすべての病を癒しておられました。そこで私が驚いたことは、ある場所で立ち止まり説教を始められたイエス様が今まで多くの病人を奇蹟的に癒されたことを何も話さず、それが当たり前の日常茶飯事の出来事のように驚きも興奮もせずに、そのままさりげなく福音を伝えられたことでした。そして御言葉の時を一番大事にしておられました。普通のリバイバル聖会なら、目の開かれた人や足のなえていた人を証し人としてステージ上に上げるような奇蹟の連続だったのに、私の見たイエス様は驚きもせず、誇りもせず冷静に純粋な福音を丁寧に語られていました。癒しの奇蹟は見世物でも広告塔でもなく、真実なイエス様の愛とあわれみの純粋な御心の結晶です。私たちは父なる神様の人へのあわれみをもっと理解する必要があります。

「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」 

(ルカ十五章二十節)

神様は放蕩するこの時代の息子・娘らをあわれみ一杯で抱きしめたいです。抱擁は人を癒します。西洋と異なりハグする習慣の乏しい東洋ですが、親子間、夫婦間、もっと生活の只中で抱擁しあうならば愛情は深まり、心がなごんで癒されます。

「そこには、イエスの真正面に、水腫をわずらっている人がいた。イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と言われた。しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。」(ルカ十四章二~四節)

以下は知り合いの先生の心の癒し体験です。

「私は十歳の時に父を亡くした。昨年、あるインドネシア人牧師の集会に参加して、メッセージの終わりに、この中で子供時代に父を亡くした方は前に出てきてください。お祈りしますと招かれたので即座に前に出た。すると、その牧師とチームのリーダーの方々が私を抱擁し、祈りを始めた。すぐに聖霊様が働かれ彼らは涙をもって真剣に祈ってくださった。私は父親を亡くしたことによる傷は自分で祈ってすでに、いやされていると思い込んでいたので、もうこれ以上、長く祈ってもらう必要はないと考えていた。しかし最初、何も感じなかった私が五分間位、抱擁されて祈りを受けていると、石のような固かった私の心は溶かされ、父の愛を感じ、大声で泣き出してしまった。暖かい父なる神の臨在により、私の子供時代の父親との死別の傷がいやされていくのを感じた。涙と共に聖霊様が力強く働かれ、私の心は父の愛に触れた喜びで満たされた。」ハレルヤ

「イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。」(マルコ九章二十一節)

傷を受けた時があり、傷が癒される時があります。過去に傷を受けたその現場に昨日も今日もとこしえに変わらないイエス様が入って来られ、なぐさめ主、聖霊様が私を強く抱きしめて癒してくださるよう折りましょう。

「あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およぴエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。」(申命記七章一~二節)。

これは主からモーセを通じてイスラエル人に与えられた歴史的課題、七つの異邦人、聖絶命令です。そこでヨシュアの時代、イスラエル人は主の聖絶命令に従って勇敢に戦い抜き、約束の相続地ヨルダン酉岸を征服し、戦争はいったんやみました。しかし、ヨシュア記十一章二十二節では詳細に戦況報告します。

「それでイスラエル人の地には、アナク人がいなくなった。ただガザ、ガテ、アシュドデにわずかの者が残っていた。」

この時、勝利に酔いしれるイスラエル人にとってこれら「わずかに残された者」が、後に大きな問題を招くことになるとは当時、誰もが想像さえしませんでした。しかしその後の歴史はまさに主が事前に警告されていた通りです。

「もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。」(民数記三十三章五十玉節)。

聖絶から逃れたわずかな者が住む第一の地方ガザ地域。

ここは使徒の働き八章二十六節によると主の使いが伝道者であるピリポ執事に向かって

「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。(このガザは今、荒れ果てている。)」と宣教命令を与えられた地です。それはガザに残されたわずかな者たちがやがて増え広がり、何千年も経過した後の時代にこの地域を不信仰で満たし、荒廃させてしまったからです。

わずかな者が残された第二の地方ガテ地域。

ガテからはやがて3メートル35センチもある巨人の代表戦士ゴリアテが立ち上がり、イスラエル人の代表戦士とひとつ国の命運を賭けた戦いをしようと呼びかけ、朝に夕に四十日間イスラエルの陣営を悩ませました。

第三の地方アシュドデ地域。

ここでは後にダゴンの偶像の宮が造られ、イスラエルから重要な契約の箱が奪われて後、ここアシュドデにある偶像ダゴンのかたわらに安置されてしまいました。そのため主の聖なるみ怒りに触れたアシュドデの全住民は非常な大恐慌と死に直面する腫物に打たれました。

このように本来追放すべき異邦の七部族に妥協してすべてを聖絶しなかったイスラエル人

にとってそのわずかに残された者が、後の時代に彼らの「目のとげ、わき腹のいばら、悩みの種」となってしまったのです。ここに教訓があります。今日の聖絶とは私たちの相続地なる乳と蜜の流れ出る祝福の基、心の中から違法の七つの悪霊どもをすべて一匹残らず追い出すことを教えています。心のうちにわずかに残された悪霊を持っていてはいけません。私たちは主イエス・キリストを信じた時から聖霊様が心のうちに入って来られ死んでいた霊魂が生き返ります。心の王座に新しい王、聖霊様が住まわれます。そのためローマ軍の千人隊長や百人隊長が砕かれて取り除かれた時のように古い隊長であった悪魔は縛られて追放されます。しかし、隊長が除かれて組織の統制力を失なった配下所属の雑兵のような悪霊どもの軍隊は、私たちが礼拝を繰り返すうちに継続して追放されますが、時にある領域で徹底した悔い改めがなされていないため、わずかに古い悪霊が心の中で依然、壊されていない罪を慕う思いの要塞をとりでに取り残されているケースがあります。心の中の要塞とは憎しみや悔い改めていない罪です。ここをとりでとして悪霊は住みつき内側から仲間を再び住まわせようと引きつけるのです。徹底した罪の告白によって全ての領域でこの古い要塞を破壊しなければなりません。


第三章 聖霊様とあなた 【聖霊様はあなたの助け主】 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。

2021-05-04 04:00:00 | 日記

第三章 聖霊様とあなた

【聖霊様はあなたの助け主】

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」

(ヨハネ十四章十六節)

最初の助け主はイエス様で、もうひとりの助け主とは聖霊様です。

今日も聖霊様はイエス様が二千年前に病をいやし、悪霊を追い出し、多くの奇蹟を現し、天国の希望の福音を語られたと同じ働きを継続なされ、私たちを保護し弱さを克服できるよう助けてくださいます。それゆえ「もうひとりの助け主」と表現されています。

霊の世界ではもともと父なる神様をトップに仰ぎ、ミカエル、ガブリエル、ルシファーが三大天使長として、おのおの天の御使いの三分の一ずつを配下に組織されていました。

ところがルシファーが高ぶって堕落したとき、天国から追放され汚れた悪魔となりましたが、その時、自分の配下に配属されていた天の御使いの三分の一も巻きぞいにこの地上に投げ落とされ悪霊となりました。尾を持つ竜のようなルシファーの堕落ぶりを聖書はこう記録します。

「その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。」 

(黙示十二章四節)

今、悪魔、別名サタンは投げ落とされた地球の中心に本営の王国を設けて滅びの黄泉を住まいとし、そこから地上に向かって空中の権を持つ悪霊どもを送り込み、人々に罪を助長させ、魂を盗み、事故や病気や自殺や罪悪によって殺し、最後は黄泉にまで引きずり込んで滅ぼすことを願いとし使命としています。しかし恐れることは全くありません。他の三分の二の御使いはいぜん神様の力強い完璧な軍隊のままで、数の上でも神様の軍隊が圧倒的に二倍多いです。

このことを良く知る預言者エリシャは敵のアラム軍隊に包囲された窮地の時にも動揺せず、恐れる側近の若者を励まして大胆に宣言できました。

「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」

(列王第二 六章十六節)

事実エリシャが祈ると若者の霊の目が開かれ、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山にまで満ちていました。ハレルヤ。圧倒的な勝利です。

私たちも霊の目が同様に開かれる必要があります。本当は悟るなら、無数の力強い天の御使いがあなたを取り巻いて毎日、敵の攻撃や各種の災いから守っています。

あなたは特別な存在で天国の注目を受けている高価な尊い重要人物、どこにいても御使いのボディーガードが伴っています。敵の脅かしを一切恐れることはありません。

聖書は、はっきりと「平和の神はすみやかにあなたがたの足元にサタンをふみくだいてくださる」と硬く約束しています。あなたの足のサイズは何インチですか?どんなに大きい足の人でも三十から四十センチでしょうか。サタンはせいぜい三十センチ以下の私たちの足に直接踏みつけられるくらい非常に小さいミニサイズの存在なのです!

力のないすでに敗北した小人なのです!サタンを決して巨大な強敵だとは思わないでください。サタンは偽りの父で自分を大きく思わせてもその実、本当はとても小さい無力な小人です。

一方、神様は天の天もお入れすることができない偉大なお方なのです。その神様があなたの見方で、日々あなたを強め、あなたを助け、あなたを守ります。あなたが意識してもしなくても絶えずあなたとともにいる力強い助けてくださるお方なのです。強く雄々しく勇気を持ちましょう。聖霊様はあなたの助け主です。

聖書でイエス様が裏切り者イスカリオテ・ユダのことを「悪魔」と呼ばれた箇所があります。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」(ヨハネ六章七十節)

ユダにとっては悔い改めをうながすイエス様からの明瞭な警告でした。

ペテロのケースも同様です。

「イエスは振り向いて、ペテロに言われた。下がれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 

(マタイ十六章二十三節)

霊の世界が見えない著者マタイが観察するとイエス様がペテロを叱責されたように見えましたが、本質は十字架を否定しペテロを惑わすサタン自体に下がれと命じておられたのです。ただ霊的な世界の出来事は人間サイドにもある程度、責任はあります。

サタンは百%一方的には人に入れません。心に罪と隙があるときだけです。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ、いのちの泉はこれからわく。」 

(箴言四章二十三節)

私たちの心が悪に侵略されないよう罪を悔い改めて、思いを清く守ることが霊の戦いです。

戦いの戦場は人でも環境でもなく私の心です。悪い思いを受け入れ、温め続けると、それはやがて心の中で敵の前進基地となり、強固な要塞となってしまいます。そうなると否定的な考えや誤った思い、反聖書的な宗教的思想など破壊するのに少々時間がかかります。

ペテロはイエス様から岩の上に教会を立て、天の御国の鍵を与えるという賞賛の御言葉を受けた直後、人間ができていなかったため浮ついて高ぶった心の隙間にサタンが入りました。人は誉められた時こそ謙遜にへりくだり、心の隙を作らないことが大事です。

 

献金泥棒と各種の罪悪で心の隙間だらけだったユダにおいては悪魔は二段階スライド式で彼の中に入って完全支配しています。一度目は

「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた。」(ヨハネ十三章二節)

始めは悪い思いからです。悪い思いが来たらすぐに追い出さなければ邪念は増大し、悪魔の入る心の戸口を全開することになります。

二度目は

「彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。そこでイエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」 (ヨハネ十三章二十七節)

ユダはイエス様からの最後の警告の悔い改めチャンスを踏みにじって自分の意志でパンを受けたため自己責任のもとサタンが完全に入りました。

人は誰でも罪を犯します。誤まって罪を犯し、サタンが恋い慕っているときは即刻悔い改め、乱れた心の思いを治めないと、ユダやカインのように殺人にまで罪は発達します。

万一、罪を犯したら、時を待たず、すぐにイエス様に口で告白して悔い改める幼子のような素直な心と習慣を持ちましょう。イエス様の十字架の血潮がすべての罪を赦して清め、聖霊様が常習的に罪を犯さないよう助けてくださいます。

聖書をよく読む人は聖霊様に満たされ、感情的な不安定さを遠ざけて罪の誘惑に打ち勝てます。聖書を沢山読んで心に神様の言葉を蓄え、否定的な悪い思いや非生産的な破壊的思いに心を支配されないよう武装しましょう。

 

ある牧師が結婚式の司式を任されました。ところが時間がなく十分祈らず、聖書も十分読まないで、ただ渡された式次第をもとにいつものように習慣的・形式的に司式を執り行いました。与えられた新郎新婦に対する聖書朗読予定の御言葉は以下のものでした。第一ヨハネの手紙四章十八、十九節

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」

結婚式にふさわしい愛のメッセージ箇所です。ところがこの牧師はあらかじめ聖書を読んでいなかったため、過ちも気づかず第一ヨハネの手紙なのに第一を見落として本番で違うヨハネの福音書から同じ章と節を堂々見事に読み上げました。

ヨハネの福音書四章十八、十九節

「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」

聖書を毎日よく読んで十分祈ってからイエス様の仕事をしなければいけません。賛美も同様です。よく祈って聖霊様に満たされて導くと素晴らしい奉仕ができ会衆も恵まれます。

これは新しいゴスペルソングと伝統的な賛美歌の両方を礼拝に採用するある教会の賛美リーダーの失敗ですが、その日は教会の執事が賛美リーダーとして会衆の前に立ち集会前に賛美を導くことになっていました。ところが良く祈らず聖霊様の助けが弱かったこの執事は、言い間違えて会衆の前で大きな声で叫びました

「賛美歌582円」

実に大きな笑いをとりました。礼拝中に賛美歌582円が一体何の意味でしょうか!それは本当は「賛美歌582番」

と曲の番号を言いたかったのですが、緊張のあまり日ごろの本職である八百屋が現れて、細かい野菜の値段を呼ぶ感覚でそう叫んでしまったようです。

「賛美歌582円」

復活のイエス様がテベリヤ湖畔で御姿を現わされたとき、記憶に新しい弟子たちの裏切り行為が全くなかったかのような平然さと愛で接しておられます。彼らの過去の過ちに一切触れず、むしろ祝福だけを与えるイエス様の御姿はまさに

「愛は人のした悪を思わない」

の典型的模範です。

「イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。」(ヨハネ二十一章六節)

ペテロにとってこの大漁体験は初めてイエス様を単なる宗教家以上の神ご自身であると知った、あの出会い当初の大漁体験とマッチする感動的ななつかしい体験だったでしょう。

誰でも失敗し挫折したなら、もう一度初めの愛を思い返し初心に立ち返ることです。

イエス様はこの日、ペテロに対し深い赦しと心の傷の癒しまでなさっておられます。なぜならペテロは心底はイエス様を愛していたのに肉の弱さで人を恐れて三度目は偽り誓いながらも裏切りの言葉を語り、心がひどく病んでいたからです。もし、この日のイエス様による心の癒しがなかったならば、その後の教会の柱のようなリバイバリスト・ペテロはありえなかったことでしょう。主にある働き人は誰でもまず心癒される体験が必要です。

「シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。」(ヨハネ二十一章十一節)

ギリシャ語の「ペテロ」は数字で「153」とも置き換えられます。

そうです。この大漁体験は魚の数自体が無言のうちに、

「ペテロのためだよ」

と語っているのです。もっともイエス様の愛の配慮にその日、ペテロは気づかなかったと思われますが、危険なことは、心の傷が放置されたままの人は時に異常行動に走ります。

岸辺に立たれたイエス様を発見した当初のペテロはウエットスーツでもライフジャケットでもない重たい上着をわざわざ身にまとって水の負荷がかかりやすい不安定状態に変身してから

「ザブーン!」

と冷たい湖に飛び込みました。異常です。他の弟子たちはペテロほどひどい裏切り発言はなかったため、良心の呵責も少なく、比較的冷静に舟に乗って魚をちゃんと確保しながら岸に移動しましたが、ペテロの場合はそうはいきません。イエス様の御前メンツが立たず顔も上げられません。そこでペテロはあえてダイビングによりずぶ濡れ状態になってから御前に現われ、食事の時も一人冷えた体に水がポタリ、ポタリとしたたり落ちながら、あえてイエス様の哀れみを受けやすい可愛そうな姿を演出したのかもしれません。

ペテロは内心祈ります。

「イエス様、見てください。私はずぶ濡れでしょう。可愛そうでしょう。だから赦してね。」

もっともペテロはそんな深い考えもなく、実は何がなんだか分からなくなって水に飛び込んだと思われますが、人は未処理の放置された心の傷や蓄積されたストレスのゆえに異常行動をとるケースがしばしあります。

義人ヨブも試練の只中で生命なき自分の誕生日や夜自体を呪うという異常発言をしています。

「ヨブは声を出して言った。私の生まれた日は滅びうせよ。「男の子が胎に宿った。」と言ったその夜も。」(ヨブ三章二!二節)

 

預言者エレミヤも迫害の只中で受けたストレスのはけ口に生命なき自分の誕生日を呪うという同様の異常発言をしています。

「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。」

(エレミヤ二十章十四節)

もし私たちの身近な誰かが異常な発言や行動をとるときは、生じた間題自体よりその背後の心の傷を扱って癒さなけれぱなりません。子を持つ親は特に注意が必要です。子供がおもちゃや、ぬいぐるみを積極的に破壊するとき、小さな虫を好んで殺すとき、背後に隠れたその子のストレスと心に受けた傷が間題です。異常行動はその人格者の内なる痛みの外なる危険信号です。

 

ある小さな女の子の顔に瞬間チックが走ってけいれんするのを私はしばし確認しました。そこで事情を調べると両親が家庭内で頻繁に暴力伴う夫婦喧嘩していることが分かりました。両親が信仰で和解と一致を祈り求め、聖霊様の恵みを受けて喧嘩をやめたところすぐに娘のチックも完全に癒されて止みました。

 

また、まれに心の癒されていない深い傷が今ではなく、長い年月の後に現れる特殊ケースもあります。ヨセフが十七歳で受けた傷がそれです。

「ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせたからである。」また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた。」からである。」(創世記四十一章五十一~五十二節)

父ヨセフは海外エジプトで産まれた長男に「マナセ」(忘れる)、次男にエフライム」(実り多い)と名づけましたが、次男「みのる君」は良しとして、長男の「忘れる君」はまずい名前を付けました。ヨセフの心が実は病んだまま、つらい十三年以上の過去を

「忘れていない、忘れたい、忘れたい」

その葛藤する内なる病める思いの複雑な現われです。それが公前で変な名前という形でトラウマとなって現われたのです。マナセにとってはいい生涯の迷惑です。

その後、兄弟たちに再会したヨセフは心の封印を解いた大泣き体験をし、次第に心癒されていきますが、私たちも過去の癒されていない心の痛みが、外国の地で変な形で現われたヨセフのように異なる環境のどこかで突如、過去に起因する異常行動となって現われるといけません。今、聖霊様によって心の癒しを受けましょう。

では如何にすれば、私たちも心の癒しをイエス様から受け取れるのでしょうか。傷つくペテロの心を癒されたイエス様から教訓を受けましょう。


9【異言を解き明かす力】 「世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。

2021-05-03 04:00:00 | 日記

9【異言を解き明かす力】

「世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。それで、もし私がそのことばの意味を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です。あなたがたのばあいも同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。」

(第一コリント 十四章十~十三節)

神の霊の宿っているヨセフ(創世記四十一章三十八節)が、パロ王の夢の意味を解き明かしたように、異言の祈りも聖霊様が宿る時、意味を解き明かすことが出来ます。世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。異言の祈りにも意味があります。解き明かす賜物の人は通訳者と同じです。他人や自分の異言を冷静に聞いて、その意味を知性の言葉で説明できる特殊能力です。異言は愛を持って謙遜に祈ることが大切で、「人の異言」と「御使いの異言」の二種類があります。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」(第一コリント 十三章一節)

人の異言とは一般的な外国語のことです。ペンテコステの日、百二十人の弟子たちは聖霊様を受けるや否や学んだことのない外国語で自由に福音を伝えました。この能力は今も外国語を学ぶすべての信者に現れます。その場合の多くは、まだ語学が十分でないときにも一般的な会話はあまりうまく出来なくても、聖書の話になるとなぜかよく聞こえ、また語れるという賜物です。さらにこれらの人は語学習得も非常に早いです。

一方、「御使いの異言」もあります。自分では祈っている言葉の意味が解らないけれど、すらすら出てくる特殊な祈りです。使徒パウロがコリント教会に

「異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。」

こう命じているのは、この「御使いの異言」についてです。解き明かす手段も異言を聞いた後、知性の言葉ではっきり「この祈りはこういう意味です。」と語る解き明かしもあれば、夢や幻を通じて意味を示される手段もあります。前者の場合は心の思いを通じて来るのが大半ですが、直接の実際の知性の言葉で現れる場合もあります。

私は以前、ある男性と地下鉄のホーム出入り口で伝道用トラクト配りに出かけた際、まずは車内で一緒に異言でとりなし祈りました。その際、私の異言の祈りが突然、ある人の名前を繰り返し呼ぶ祈りに変わりました。なぜこの人の名前が繰り返し私の唇から出るのか不思議に思いながら、祈りが終わり兄弟と共に伝道目的で地下鉄ホーム出入り口に立ちました。すると五分ほどすると先ほど私の口から名前が繰り返し出ていたその人の父親が車でそこにやってきました。話を聞くと迎えに来たのだと言っていましたが、私はこの息子の安全のために祈らされたのか?あるいはこのような霊的な不思議な世界にもっと目が

開かれるよう聖霊様が体験学習を与えられたのだと思いました。また、私の知り合いの整骨院医師は事業が行き詰まった時期に異言で祈ると、その祈る自分の声が耳元で「はり、はり、はり、鍼」と聞こえて、そこにヒントを得てその後、針灸治療院に事業変えをして現在はビルを建てるほど大成功しました。

「兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。」  

(第一コリント 十四章二十六~二十七節)

ある時、夜の祈り会でこの御言葉に基づいて、皆で異言で熱く析った後、全く静まって異言の解き明かしを求めて祈りました。私は当時まだ救われて間もない頃で、一人の祈り手として黙って座っていましたが、先輩の祈りの導き手の兄弟が導くままにこう言いました。

「誰か異言の解き明かしが賜物としてくだった方いませんか?心に示される方はぜひ大胆に証ししてください。」

さらに十分間ほどの真剣な沈黙が続きました。すると一人の姉妹が、目を開けて謙遜にゆっくり語り始め、皆が注目しました。

「あの。今、私は幻をずっと見ていたのですが、話してもいいでしょうか?」

「ぜひ、どんなことでも示されたことがあれば、証ししてください。」

「実は、綺麗な川を見ていました。とっても綺麗な流れで、その流れの中にはとても綺麗な魚がたくさん泳いでいました。…しかし、もう一つの川も流れていました。それはとても汚い真っ黒な、どぶ川でその中には何か汚い魚が泳いでいました。」

そこまで話すと姉妹は何かこれ以上は話すべきか否か悩んでいるようでしたが、決意してすまなそうに話を続けました。

「そして、申し訳ないのですが、そのどぶ川の中に入っている人がいました。」

祈りの導き手の兄弟が興味深く質問しました。

「それはどんな人ですか?」

「はい。それは泉兄弟です。それともう一人いるようですが、よく分かりません。」

これを聞いて私は内心「ドッカーン!何で私が?」と思いましたが、考えるとすぐにその意味がわかり、これは確かに聖霊様による異言の解き明かしの啓示であると確信するに至りました。というのはちょうどその日のことでした。いつものように私は教会内で暇をもてあそんでいた兄弟を連れて街に出て行き、空いた時間を生かして路傍伝道していました。ある街角に来るとアンケート用紙を手に持つ調査員のふりをした統一原理協会の信者である若者が彼らの勧誘活動をしていました。そこで私は熱心に彼らに救い主イエス様を宣べ伝えましたが、一向に救われません。そこで言葉の限りを尽くして伝えたのに変化がないので、この異端者である青年がとてもかわいそうに思い、その場で思いっきり抱きしめて逃げられない状態で一方的に熱く涙でお祈りしてあげました。数分の熱い祈りの後、私が目を開けて両手を開いて開放してあげると目の前の青年は相変わらず冷静で変化なく、救われていませんでした。そこで私は失望と落胆を胸にこらえて疲れきって教会に帰りました。この夜の祈り会での異言の解き明かしは、私にとって革命的なメッセージでした。その意味は異端者ヘの集中伝道は私には御心でなかったのに、熱心あまってあまりに多くの異端者たちに関わっていた自分に気付かされました。それ以降、いままで異端者伝道にかけていた時間と労力を一般の特別宗教を持たない人たちに移行しました。するともっと簡単に人々が教会に導かれるようになり伝道の本調子が戻りました。なるほど異言の解き明かしは重要な賜物であるとここに教訓を得ました。

「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。主は私に答えて言われた。幻を書きしるせ。これを読む者が急使として走るために、板の上にはっきり書きしるせ。」(ハバクク二章一節~二節)

預言者ハバククは一方的に祈っただけでなく、祈りの答えをしっかり待ち望みました。異言の祈りができる方は祈った後、その解き明かしも求めてください。もしや聖霊様からの貴重な語りかけがすでにそこに準備されているかもしれません。

「異言を話すことを禁じてはいけません。」異言の祈りは聖霊様の力強い注ぎを解き放つからです。長時間祈られる著名な牧師たちの多くの祈りは異言です。知性ではどうしても一時間位しか祈れませんが、異言を用いればさらに長く深く祈れます。そこに解き明かしも加えて求めれば、もっと聖霊様に満たされた時を過せます。

「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。」(第一コリント 十四章十八~十九節)

使徒パウロは史上最大の伝道者ですが、その秘訣は異言祈祷であり、彼は誰よりも多くの異言を話すことを神様に感謝していました。しかし、教会ではさらに役立つ知性を用いた「五つのことば」があると言います。ダビデは五つのなめらかな石の一つで巨人ゴリヤテを倒しましたが、それは、イエス様を信じると与えられる「五つのことば」の武器です。これらのうち一つでも当たれば素晴しいです。「五つのことば」を語ってみましょう。

イエス様を信じれば・・・

第一のことばは「新生の福音」です。罪赦され生まれ変わった神様の子供になれます。

第二のことばは「聖霊様の福音」です。助け主なる聖霊様に支えられた誘惑と悪魔に打ち勝つ清い生き方が出来ます。

第三のことばは「癒しの福音」です。イエス様の打たれた打ち傷で霊・魂・肉の病が癒されます。

第四のことばは「祝福の福音」です。呪いから解放された物質的にも豊かな人生が与えられます。

第五のことばは「再臨の福音」です。やがて来られるイエス様の空中再臨の時、一挙に空中に引き上げられながら天国の新しい復活の体をいただき、永遠の天国にも入れます。

アーメン。使徒パウロは教会では指導する場所、という意識の中で福音のすべてを語り、隠れたところでは多くの異言の祈りに長い時を費やしたようです。

マルチン・ルター牧師

「もし私が毎朝二時間を祈りに費やさなかったならば、サタンはその日一日、私に勝つであろう。私は実に多くの仕事を持っているので、どうしても毎日三時間を祈りに用いなければ、それをやっていけない。」

ウオッチマン・ニー牧師 中国の福音派教会のリーダーで殉教者

「私はまだ一度も遅く起きる祈りの勇士にお目にかかったことはない。遅く起きて主に近いという人も知りません。最小限度にも神を知っている人は、みな朝早く神の御前に行きます。」

チョー・ヨンギ牧師 世界最大の聖霊派教会の牧師

「日本には祈りを妨げる悪霊が一番働いている。」「私がもし三日間祈らなければ信者全体が、私がおかしいことに気付き、祈らずにいるとすべてがゼロになる。」

ママ・クワング

「姉妹は中国の家の教会のリーダーでしたが、毎朝午前三時から六時半まで祈り、約二百万人を救いに導いたと言われる。」

そして神である私たちの主イエス様は、熱く折られました。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル五章七節)