今日の私はやっと涼しくなった風の中で、なんとか、“自分の位置に立っているわたし”を感じている。
揺らいで、騒いで、崩れそうな自分をなんとか支えて、支えられてたどり着いたこの位置。
カウンセリングの学習を始めた頃は、いえ、おそらく昨年でさえも、人の話を聞くとか聴けないとか、他者を受け入れるとか、その前にはまず自分を受け入れるんだとか、そんな言葉の中で揺らいでいたこともしばしばあったと思う。もしかしたら、そんなことはこの先でさえも起こることかもしれないけれど。
でも今日は、この位置が見える。ここに立っている私がいる。
立っている私を感じたのは今日だけれど、この1、2ケ月を通じて、うすうす感じていながらも、なかなか言葉にまではならなかったことを、あえて言葉にしてみたい。
それはこの位置に私がしっかり立っていると、勝手に自由に他者が私のもとから去ったり、あるいは近寄ったりするということ。決して私が他者を動かすとか、意図するとかそういうことではなくて、一人一人が自分の意思で、自由に動いていくのを感じる。
私を必要としなくなった人は、いつのまにかちゃんとその人の行きたい方向へと去ってゆくし、(こんな好き放題を言っている私でもよしとしてか、あるいはあきらめてなのか?よくはわからないけれど)、関わりが近くなった人は、ますますその関係が太くなってきている。
自分がなんとかして動かそうという意図はないし、そんな動きをしているつもりもまったくないのにもかかわらず、現実には、残ってほしい人たちが、気付いたらそばにいる。
本当に、ありがたい。
最近読んだ“悩む力”という姜尚中氏の著書の中に、こんな文章がある。
・・・・・面白いことに「自己チュー」と言われる人には、自我に悩んでいる人は少なく、「自己チュー」と言われない人のほうに、逆に、悩んでいる人が多いような気がします。「自己チュー」と言われる人は、人のことはあまり考えていませんが、「自我」について悩みがある人は、たいてい「他者」の問題にも悩んでいるでしょう。・・・・
私はこの中にもある、「自我」について悩んでいる人たちがとても好きです。
彼らが共通にもっていると私が感じている、他者に対する愛情?ゆえに悩む、その心が好きです。
やっと今、言葉になってきたこの位置。
ただ立っているだけで、私にとって必要な物や人が近づいてきては去ってゆく。そして、本当に必要な物や人だけが太くなってゆく。そんな風が、やっと今吹いてきたのを感じている。
揺らいで、騒いで、崩れそうな自分をなんとか支えて、支えられてたどり着いたこの位置。
カウンセリングの学習を始めた頃は、いえ、おそらく昨年でさえも、人の話を聞くとか聴けないとか、他者を受け入れるとか、その前にはまず自分を受け入れるんだとか、そんな言葉の中で揺らいでいたこともしばしばあったと思う。もしかしたら、そんなことはこの先でさえも起こることかもしれないけれど。
でも今日は、この位置が見える。ここに立っている私がいる。
立っている私を感じたのは今日だけれど、この1、2ケ月を通じて、うすうす感じていながらも、なかなか言葉にまではならなかったことを、あえて言葉にしてみたい。
それはこの位置に私がしっかり立っていると、勝手に自由に他者が私のもとから去ったり、あるいは近寄ったりするということ。決して私が他者を動かすとか、意図するとかそういうことではなくて、一人一人が自分の意思で、自由に動いていくのを感じる。
私を必要としなくなった人は、いつのまにかちゃんとその人の行きたい方向へと去ってゆくし、(こんな好き放題を言っている私でもよしとしてか、あるいはあきらめてなのか?よくはわからないけれど)、関わりが近くなった人は、ますますその関係が太くなってきている。
自分がなんとかして動かそうという意図はないし、そんな動きをしているつもりもまったくないのにもかかわらず、現実には、残ってほしい人たちが、気付いたらそばにいる。
本当に、ありがたい。
最近読んだ“悩む力”という姜尚中氏の著書の中に、こんな文章がある。
・・・・・面白いことに「自己チュー」と言われる人には、自我に悩んでいる人は少なく、「自己チュー」と言われない人のほうに、逆に、悩んでいる人が多いような気がします。「自己チュー」と言われる人は、人のことはあまり考えていませんが、「自我」について悩みがある人は、たいてい「他者」の問題にも悩んでいるでしょう。・・・・
私はこの中にもある、「自我」について悩んでいる人たちがとても好きです。
彼らが共通にもっていると私が感じている、他者に対する愛情?ゆえに悩む、その心が好きです。
やっと今、言葉になってきたこの位置。
ただ立っているだけで、私にとって必要な物や人が近づいてきては去ってゆく。そして、本当に必要な物や人だけが太くなってゆく。そんな風が、やっと今吹いてきたのを感じている。