武田砂鉄,2023,父ではありませんが──第三者として考える,集英社.(9.21.24)
子どものいないあなたにはわからないと言われるけれど――
「ではない」立場から見えてきたこととは。
「父親とは…」
「母親とは…」
「子育てとは…」
大きな主語で語られ、世の中で幅を利かせる「普通の家族」をめぐる言説への違和感を「父ではない」ライターが遠巻きに考えてみた。
武田さんは、「子どもがいる」者にのみ許されているがごとき家族をめぐる言説に対し、違和感と異論を唱える。
「子どもがいない」立場にあって、鬱積し続けるモヤモヤを、堂々めぐりの思考の果てに、絞り出すように言語化する。
産んだ人と、育てる人と、産まない人、育てない人がいる。本書のサブタイトルにある「第三者として考える」というのは、自分が産んでいない、育てていない存在であることに根ざしている。繰り返しになるが、経験している人たちだけの語りでは、これから経験するかもしれない人たち、経験したいと思っているのにそちらに踏み出せない人たちに一方向からの声しか届かないのではないかという思いがある。一見矛盾するようだが、経験したことのない人たちもまた、「産む」への自由な考え方を獲得する必要があるのではないか。そうすれば、妊娠を発表した俳優に向けた「プロ意識に欠ける」という言葉が放任されてしまう社会は変わる。
いつ産んでもいいでしょう、別に産まなくてもいいでしょう、とにかく、決めるのはそれぞれであるべきでしょう、という社会を作るためには、子どものいない人も、産むことに対して積極的に関与する必要がある。成し遂げた者同士なら語り合える、それ以外は語らないでほしいという雰囲気作りは、どんな環境であっても窮屈にしてしまう。この経験をしたならば分かち合える、なんだって語り合えるというのは、開放的に見えて閉鎖的だ。妊娠・出産・子育てについて、そのことをずっと思う。「恋愛禁止」が成り立ってしまうのは、「そういうことはそのうちいくらでもできるのだから、今はそういうことは我慢しておいて、目の前のファンのみんな、仕事をくださるみなさんを優先しましょう」という考えがあるからこそ。そういうことって、別に、今やってもいいし、あとでやらなくてもいい。
(pp.108-109)
年末年始の帰省、Uターンラッシュ時に発動される、「子どもがいる家族っていいものですよね」モードへの違和感、それは、わたしも感じ続けてきたものだ。
年末の帰省ラッシュ、年始のUターンラッシュの時には、テレビの撮影クルーが東京駅の新幹線の乗降口に出向き、「いつもの感じ」の映像をゲットしに行く。正直、昨年の映像を使っても本人以外はわからないのではないかと思えるほど、毎回同じような映像を流す。一人ではなく、二人でもなく、三人か四人の家族をつかまえて、「どちらに行かれるのですか?(行かれたのですか?)」と聞く。親が「えーと、広島まで。実家に、はい」と言い、子どもに「何が楽しみ?」と少しだけテンション高めに尋ねると、「おじいちゃん、おばあちゃんに会える!あと、お年玉も!」と快活に答える。テレビの前で私は、「出た、いつものだ!!!!」と声をあげる。具体的には別の部屋にいた妻をわざわざ呼び出し、「ねぇ、いつものやってるよ」と言い、「うわっ、いつものだ!」との反応を得る。なかなか偏屈な人たちだが、「なぜいつもこれなのか」を考えないからこそ、毎年のように同じ映像が流れる。年が明け、Uターンの時には、孫とバイバイするジジババという映像も流れる。発車後にホームに取り残された、寂しそうなジジババの姿を映す。なんとも微笑ましい。微笑ましいけれど、微笑ましい光景の一つにすぎない。とても冷たい言い方ではあるけれど。
年末年始には「普通の家族っていいよねモード」が発動する。メディアがそうなるし、個々人もそうなる。もし、普通の家族を築けていない場合、どうして普通の家族ではないのかと、直接的に、あるいは遠回しに問われる。正月明けに喫茶店に出向くと、どこからともなく、この手の愚痴が聞こえてきた。井の頭線浜田山駅近くにある「むさしの森珈琲」から聞こえてきたのは、女性二人のこんなやりとりだった。
「また、早く孫の顔が見たいと言われちゃってさ・・・・・・」
「顔以外はいいのかな。お腹とか足とか」
「なにそれ超ウケるんだけど!」
超ウケた。その場でスマホにメモするほどに、確かな怒りが感じられるやりとりだった。そして、かくありたいと思った。年末年始に求められる「普通」の圧に押された人たちが、仕切り直して、今年も思うがままに生きまっせと宣言する様子に立ち会えた嬉しさもある。そんな自分もまた、「普通の家族っていいよねモード」を浴びていた。
(pp.115-117)
数年前から年賀状のやりとりはやめてしまったが、かつて、毎年、夫婦二人と子ども二人の、満面の笑み、いかにも幸せそうな写真を取り込んだ賀状を送ってくる人がいた。
彼は、「子どもがいる家族っていいものですよね」と、わたしに同意を求めていたのだろうか?
それとも、毎年、「夫婦と子ども二人」の幸せ家族オーラを発信し、マウントをとりたかったのだろうか。
(いやいや、ちょっと思い出してしまっただけで、たぶん、わたしの考えすぎなんだろう。これ見てたらごめんなさい。)
石原慎太郎のマッチョイズムについて。
女を、侮蔑し、かつ、性的身体として眼差し、無限大の寛容と包摂を求める。
女を嘲笑し、値踏みする男たちは、ホモソーシャルな連帯を深め、ミソジニーを共有し強化する。
そう、とにかく幼稚なのだ。彼の本の帯に並ぶ勇ましい単語の羅列は、男だけが専有しているものではない。男が専有しようと試みてきたもの、とは言えるだろうか。専有するために、「女には絶対にあり得ない何か」などと、すぐに「女」を出して比較してしまう。限られた帯文から答えを探し出すとするならば、男が「男」である理由とは、そうやって、「女にはできないよね」という考えを共有しながら男同士の友情や情熱を捏ねようとするって辺りにあるのだろうか。排外しながら内部を肯定するというのは、本来、何よりも恥ずかしい行為だが、使い勝手が無限大な言葉(哲学や美学といった言葉を好む)を放り込み、袋の中で男たちがすし詰めになりながら、ここにいられるのは俺らだけだよねと、至近距離で肯定し合ってきた。そういう光景を目にするたび、恥ずかしくないのだろうか、と思う。
(pp.128-129)
「(自分の)子どもに幸多き未来を残したい」という言説が用いられることがある。
未来を語る資格が、子どもがいる者にしか与えられていないかのように。
この手の言い方を、毎日のように見聞きする。「私たちはもういい、どうせあと何十年かすると死んでしまうのだから。でも、自分の子どもたちのことを考えたら、黙ってはいられない」などという言い方を聞く。たとえばファミレスの隣のテーブルの雑談としてそれを聞いても、「今のご発言、その『自分の』は必要なのでしょうか」と言いたくても言えない。さすがに意地悪すぎる。その人は、自分の子どもがいるからこそ、未来を問うているのだろうか。その点は気になる。子どもがいることによる説得力の増強作用については、これまでも時折触れてきたが、「未来」という観点からも考えてみたい。
これを書いているのは、2022年夏の参議院選挙が行われる少し前のことなのだが、候補者の公約やウェブサイトをチェックしていると、「〇児の父(母)として、子どもたちに確かな未来を残したい」といった類いの文言が頻繁に出てくる。編集者の懸念というか違和感は、たとえばこうした様子にも向けられているのだろう。個人が未来のことを考える時、やっぱりそこには、自分がいなくなった先の未来を引き継ぐ存在が求められるのだろうか。普段は、目先の利益追求や過去の隠蔽に励んでいるような政治家であっても、選挙になると突然、未来を語り始める。選挙は、現職議員の通信簿としての役割も持つと思っているが、選挙に出る人たちは未来ばかり語る。とはいえ、「2児の父」の候補者が、「そうですね、長男は政治家になってほしいですし、次男は自分の好きな仕事で頑張ってほしい」などと、自分の家の未来の話をするわけではない。日本の未来の話をする。当たり前の話だ。
いや、当たり前の話なのだろうか。彼らはなぜ、「○児の父(母)として」と前置きをして、日本の未来を語るのだろうか。選挙というのは、信頼や期待などを掛け合わせた投票行動の集積によって勝敗が決まる。「私にお任せください!」とか「清き1票を委ねてください!」と叫びまわる。任せられたり委ねられたりしている人たちなのにどうして基本的に偉そうなのだろうとは思うものの、そうやって、票を投じてもらうためのエッセンスを用意する。彼らの算段では、「○児の父(母)として」は、未来を語るパスポートとして機能し続けている、ということなのだろうか。誰の父でもない自分は、未来を語ってはいけないのだろうか。「いや、別に、語っていいに決まっている」と、どこかから許可する声が聞こえる。なぜ、そもそも、未来を語る権限の有無を問われなければならないのだろう。
(pp.200-202)
「子どもがいる」者のマウンティングと「子どもがいない」者へのマイクロアグレッション。
考えすぎ、なのかもしれない。
でも、看過せずに、考えないと、わたしたちの多様性はそこなわれ、尊厳を脅かされかねないのだ。
目次
「ではない」からこそ
子どもがいるのか問われない
ほら、あの人、子どもがいるから
あなたにはわからない
子どもが泣いている
変化がない
幸せですか?
「産む」への期待
孫の顔
男という生き物
「お母さん」は使われる
もっと積極的に
共感できません
人間的に成長できるのか
子どもが大人になった時
勝手に比較しないで
あとがき