上野千鶴子,2012,ナショナリズムとジェンダー(新版),岩波書店.(7.18.24)
「従軍慰安婦」の存在は周知のものだったにもかかわらず、一九九〇年代の当事者による告発まで、なぜ彼女らの存在は「見えて」いなかったのか。「慰安婦」問題がつきつけるすぐれて現代的な課題を、フェミニストとして真正面から論じ話題となった著書に、戦争・国家・女性・歴史にかかわるその後の論考を加えた新編集版。
岩波現代文庫の一冊となった本書は、青土社版(1998年)に多数の論考が付け加えられた増補版だ。
1990年代、旧日本軍の従軍慰安婦の問題とともに、市川房枝、高群逸枝、平塚らいてう等の戦争協力の責任が追及された。
「二級国民」でしかなかった女性は、自ら戦場で戦うことは許されず、「銃後の妻」、「軍神の母」として、戦時国家に貢献した。
これを、上野さんは、「分離型」の「女性の国民化」と呼ぶ。
「女性の国民化」を探求してきた後に、わたしたちはこう言うことができる。国民国家にはジェンダーがある。「女性の国民化」は近代国民国家が女性に押しつけた背理を体現し、総動員体制はその背理を極限的にグロテスクなかたちで示すことで、逆に近代国民国家の枠のなかでは女性の解放が不可能であることを証明した。そしてそのことによって女性に「国家」を超える根拠をさししめす。
だが、逆のこともまた言えないだろうか。「女性」こそは近代=市民社会=国民国家がつくりだした当の「創作」である、と。「女性の国民化」──国民国家に「女性」として「参加」することは、それが分離型であれ統合型であれ、「女性≠市民」という背理を背負ったまま、国民国家と命運をともにすることにほかならない。そしてその事情は「男性=市民」にとってはもっと逃れがたい罠であろう。
「女性」の解体を。そしてそれは「男性」の解体と同じことでもある。フェミニズムが近代の産物なら、近代とともにフェミニズムの命運も終わるはずだが、フェミニズムは近代を喰い破って生まれた「近代の鬼子」であった。フェミニズムによる「ジェンダー」という変数の発見は、ただそれを解体するためにだけ、ある。
(pp.84-85)
フェミニズムの最終目標は、「女性」と「男性」、すなわち既存のジェンダー秩序の解体にある。
これには、深く同意する。
従軍「慰安婦」(性奴隷)問題は、カネで代償される買春──性搾取、性暴力問題として、現在にも引き継がれている。
「慰安婦」問題が「国家による犯罪」だというだけでなく、「男による性犯罪」だという視点を確立することで、国境の壁を越えて、基地の女たちとつながる道も生まれる。国連平和維持活動(PKO)部隊が派遣されたアジアの地域では、兵舎のまわりに急ごしらえのスナックやバーができている。「バーUNTAC」があるという笑えない話も聞いた。UNTACの明石康代表が慰安所の設置を支持するような「失言」をしたと現地の新聞に伝えられる状況だ。むき出しの暴力による強制であれ、貨幣による誘導であれ、「軍隊と性犯罪」の問題は「過去の亡霊」ではなく、今日もなお、つづいている。
(p.233)
「慰安婦」であれ、セクハラや性暴力の被害であれ、加害責任が問われず、トラウマとスティグマを担わされた女性が沈黙し続けることによって、家父長制の暴力性が隠蔽されてきた。
被害者の女性が、被害経験を語り、加害責任を問うことで、家父長制の欺瞞が暴露される。
「慰安婦」問題がナショナリストの「掛け金」になったのは、それが男仕立てのナショナリズムの「アキレス腱」だからであろう。日本が侵略戦争のさなかに占領地や植民地で冒したさまざまな「罪」のなかでも、捕虜の虐待や人体実験、生物化学兵器の使用などに比べて、「慰安婦」問題がとりわけ男たちの感情的な反発を招くには訳がある。性的凌辱は、たとえそれがいかに「本能」や「自然」の言語で擁護されていようとも、家父長制にとっては「不面目」な、隠しておきたい汚点であるだけではない。性暴力の告発は、それ自体、「女性の服従」によって成り立つ家父長制が、女をコントロールできないことの何よりの証になるからだ。
(pp.355-356)
国家とその暴力装置としての軍隊、女性の「国民化」、性暴力、家父長制、これらの問題群を考えるうえで、いまでも第一級の価値をもつ論考集である。
目次
1 『ナショナリズムとジェンダー』
国民国家とジェンダー
「従軍慰安婦」問題をめぐって
「記憶」の政治学
2 戦争の憶え方/忘れ方
国を捨てる
今もつづく「軍隊と性犯罪」
沖縄女性史の可能性
戦争の憶え方/忘れ方
3 その後の「従軍慰安婦」問題
記憶の語り直し方
「民族」か「ジェンダー」か?―強いられた対立
アジア女性基金の歴史的総括のために