デボラ・キャメロン(向井和美訳),2023,はじめてのフェミニズム,筑摩書房.(7.19.24)
女性にはどんな権利が必要?「女の仕事」はどう生まれた?多様で複雑なフェミニズムの論点を、多様で複雑なまま、でもわかりやすく伝えます。
フェミニズムは一枚岩ではない。
本書は、たびたび論争となってきた、欧米の多様なフェミニズムについて知ることができる。
まず、売買春を合法化するか、非合法化するかについての論争がある。
ニュージーランド、オランダ、ドイツは、売買春を合法化し、セックスワーカーの生命、健康、労働環境、人権を擁護、向上させることを目指している。
それに対し、スウェーデン、ノルウェー、アイスランドは、買春を非合法化、犯罪化し、売買春の根絶を目指している。
売春に反対する現代のフェミニストも、経済的、社会的な制度として売春が果たす役割について同じように考え、こう主張しています。男性が性的同意を金で買える場(つまり、金を払わないと応じてくれない相手に、金を払って性行為をすること)が存在するのは、男女の不平等をあらわすと同時に促進するものであり、セックスは互いの欲求にもとづくべきだという原則を損なうものでもある、と。そうした主張をするフェミニストには、「北欧モデル」(スウェーデン発祥で、ノルウェーとアイスランドでも採り入れられています)の支持者が多くいます。これは、性的サービスを買うことを禁止し、売る行為は処罰の対象からはずすやりかたです。その目的は、商業的セックスに関連する法的制裁を、売春婦の側(おもに女性)から性を買う側(圧倒的に男性)へ移すこと、そして全体的な需要を減らすことです。スウェーデンの法執行官がイギリスの作家キャット・パンヤード[性的不平等に抗議する活動家]に語ったところによると、性を買うのはスピード違反のようなもので、多くの男性にとっては「できるからする」のであって、もし法的にも社会的にも代償を伴うとなればやめるはずです。このモデルには、売春に関わる人をサポートし、本人が抜け出したいと望めばそれができる手順も含まれています。調査によれば、なんとか抜けたいと思っている人は多いものの、数々の障害に直面するというのです。たとえば、薬物乱用の問題や、客引きの前科があるせいでほかの仕事に就きにくい、などです。
ただし、北欧モデルは性を売る女性に対して教訓的で上から目線だと主張するフェミニストたちもいて、こちらはむしろ「セックスワークは仕事である」と認めるほうが進歩的だと主張しています。性を売るのは、たとえば美容エステ(施術者が客の素肌に直接触れる)や、コーヒーの提供(バリスタに暴言を吐く客がいるかもしれない)や、トイレの清掃(他人の体液を処理する)と基本的には違いがないはず。そんなふうに捉えるフエミニストは、わたしが第三章で記した考えにおそらく同意するでしょう。つまり、生活に必要な金銭と引き換えに楽しくない仕事をしているのは、世界のどこを見ても、その多くが女性なのです。売春を選ぶことが経済的に合理的だと考える女性がいるなら、それを批判する権利はだれにもないし、ましてやその人を失業させるためのキャンペーンなど、もってのほかです。この観点からすると、フェミニストはセックスワーカーの労働条件が改善されるよう、とりわけ売春が非犯罪化あるいは合法化(その違いは、「合法化された」売春は国家が管理しているということ)されるよう支援するキャンペーンを行なうべきでしょう。この立場に立つフェミニストが指摘するのは、違法な仕事に従事する女性にとって、リスクを減らすような行動を取るのは難しいということです。なぜなら、彼女たちは暴力的な客を警察に通報したり、自身の健康や安全を脅かす働きかたに不満を言ったりするのをためらうからです。もし性を売ることがほかのサービスを売るのと同じであれば、女性はもっと安全になり、この職業についてまわる汚名もなくせるし、みずからの職業人生をコントロールする機会も開けるでしょう。小さな会社を起こしたり、ほかの女性たちと協同組合を設立したりすれば、売春斡旋業者や違法取引の黒幕である犯罪組織に頼らなくてもすみます。
いっぽう、その考えに反対する人たちからすれば、性を売るのに伴うリスクは、その多くが仕事の性質から起きるのであって、法的な条件から起きるのではないため、許容できるレベルまで減らすことはできません。売春という仕事でもっとも危険なのは、客に襲われたり殺されたりすることです。違法かどうかにかかわらず、ふたりだけで性的な場を持たなければこの職業は成りたちません。また、ドイツやオランダのように売春が合法化された国では、女性に約束されるはずの社会保障が実現していない、と活動家たちは主張しています。性産業は新自由主義的資本主義の路線に沿うよう組織形態を変えたため、経済的な恩恵を受けるのは働き手ではなく、裕福な資本家や起業家になってしまったのです。ドイツの合法化された「メガ売春宿」で性を売る女性たちは、権利や社会保障のある従業員にはなれません(言うまでもなく共同経営者や管理職にもなれません)。彼女たちは自営の請負業者として扱われるため、働いたぶんの報酬だけが経営者に支払われます。だから、何人かの男性にサービスをしたあとでなければ、自分のところにはお金が入ってこないのです。
(pp.145-149)
セックスワークは、暴力被害、性感染症のリスクが高く、人間の尊厳を毀損するものだ。
「セックスワークに自発的に従事しそれに誇りをもっている当事者もいる」という人もいるが、じゅうぶんな職業選択の機会と、それを得るための教育・訓練が保障されていない(ことが多い)制約があるなかで、「セックスワークに自発的に従事している」とは言えないだろう。
また、わたしたちは、幼少期のころから、自らの身体、とくにプライベートゾーンへの他者の侵襲を忌避する心性をもつべく社会化されている。
セックスワーカーが「性的弱者」の欲望を充たし、達成感なり承認欲求の充足なりを得ることはあるのかもしれないが、カネと引き換えにプライベートゾーンへの他者の侵襲を許すことによる恥辱感、屈辱感、自己嫌悪、卑下の蓄積が、メンタルヘルスに悪影響を及ぼすリスクを軽視すべきではない。
貨幣と権力、アンペイド・ワークの非対称的なジェンダー配分を拒否し、既存のジェンダー観念を否定し続ける先に見えてくるものは、ジェンダーそのものの解体──ジェンダーが暫定的に選び取られたものに過ぎず、人びとが固定的なカテゴリーに回収されることのない世界だ。
ローリー・ペニーは「ジェンダークィア[性自認が既存の枠組みに当てはまらない人を指す]」という新しい波に属する活動家です。こうした活動家たちにとってフェミニズムとは、単に女性への抑圧と男性からの支配を終わらせる運動というだけでなく、そもそもこのふたつのカテゴリーを生み出した強固な二元論的ジェンダーシステムからすべての人を解放する運動でもあります。自分自身を「男性」か「女性」以外のものとして捉えている多くの人たち―――トランス、ノンバイナリー、アジェンダー、ジェンダーフルイド、(ジェンダー)クィア―――と同様、ペニーは幼いころから、標準的な男女のカテゴリーでは、自分が何者かという感覚をきちんとつかめなかったと回想しています(ただし彼女は女性を自認し続けており、わたしが「彼女」という代名詞を使うことに反対しませんでした)。この観点からすると、ジェンダーは第二波のフェミニストたちが捉えていたような、社会が男女に押しつける抑圧的で不平等な役割としてではなく、今やひとりひとりが自由に決めるべきアイデンティティの形として捉えられています。かつて第二波フェミニストたちは、みずからの政治的著作のなかでもユートピア小説のなかでも、性差のない未来世界を描いていました(シュラミス・ファイアストーンは一九七〇年、「性器の違いは、文化的にはもはやたいしたことではない」と言っています)が、ペニーは異なる見かたをしています。
わたしは性差のない世界を見たいとは思わない。わたしが見たいのは、ジェンダーが抑圧的でも強制的でもない世界であり、自分自身のアイデンティティを表現したり、実行したりする方法が、地球上の人びとの数だけ存在する世界だ。ジェンダーが苦しみではなく喜びとなる世界である。
結局のところ、これはファイアストーンのあとに続く「性差に批判的な」フェミニストたちの望む世界とそれほど大きな違いはないと言えるでしょう。もし地球上の人たちと同じ数だけのアイデンティティがほんとうに存在するなら、現在ある形のジェンダーはもはやないも同然です。そうなれば、ジェンダーという言葉は「人の性別にもとづいて押しつけられる社会的役割」という意味ではなく、「ひとりひとりの個性を表現する振る舞い」のような意味になります。ジェンダークィアのフェミニズムも、ファイアストーンのラディカル・フェミニズムの流れも、経路が違うだけで同じ目的地を目指しているのだとしたら、なぜそこに対立が生じるのでしょう。
(pp.187-189)
キャメロンは、フェミニズムが、女性たちのストレングスの源泉となることを、明言する。
フェミニズムは今、定期的に訪れる「トレンド」の最中にあるのかもしれませんが、アンディ・ツァイスラーのような作家たちに言わせれば、フェミニストであることは、Tシャツを買う以上の努力が必要という意味で、決して簡単ではありません。それでもフェミニストたちが行動するのはなぜでしょうか。フェミニストの女性グループにそう尋ねると、彼女たちが語ったのは政治的活動に伴う困難や犠牲ではなく、フェミニズムがいかに自分たちの人生を豊かにしてくれるか、ということでした。フェミニズムのおかげでこの世界を知り直すことができたし、それによって自分たちの経験を理解することもできた、と。また、ほかの女性たちとも前向きにつながれたし、ラディカルな変化を起こせるという確信が、弱まるどころか強まったというのです。自分だけだと思い込んでいた不満を共有する女性コミュニティを見つけたとき、安心したと話す女性が多くいました。「精神的に救われた」と言う人もいます。別の人は「人生が変わった」と口にしました。ほかのフェミニストたち(ある人に言わせれば「自分で考えることを怖れない超カッコいい女性たち」)とつながりを持てたことは、彼女たち全員にとって大きな意味があったのです。そして、彼女たちはみな政治的な対立や挫折と向き合わなければならなかったものの、未来に対しては前向きでした。「フェミニズムのおかげで、楽観主義でいられます。変化を生み出す機会をフェミニズムが与えてくれるのです」
(pp.195-196)
本書は、コンパクトで平易に書かれているが、フェミニズムの歴史と争点とをきちんとふまえており、「入門書」以上の価値を実現している。
目次
第1章 支配
第2章 権利
第3章 仕事
第4章 女らしさ
第5章 セックス
第6章 文化
第7章 断層線と未来