内藤朝雄,2009,いじめの構造──なぜ人が怪物になるのか,講談社.(12.16.24)
人間が「怪物」になるいじめは、なぜ生じ、蔓延するのか? いじめ論で注目を集める研究者が、そのメカニズムを語り尽くす。
いじめに興ずる中学生たちに、個人の尊厳や人権を説いても無駄である。
彼ら、彼女らは、法の外にある祝祭空間、ノリの世界のなかで、ノラない、ノリが悪い、場の空気を損なう対象を、いじめ尽くす。
「悪い」とは、規範の準拠点としてのみんなのノリの側から「浮いている」とかムカツクといったふうに位置づけられることだ。自分たちのノリを外した、あるいは踏みにじったと感じられ、「みんな」の反感と憎しみの対象になるといったことが、「悪い」ことである。
「みんなから浮いて」いる者は「悪い」。「みんな」と同じ感情連鎖にまじわって表情や身振りを生きない者は、「悪い」。「みんなから浮いて」いるにもかかわらず自信を持っている者は、とても「悪い」。弱者(身分が下の者)が身の程知らずにも人並みの自尊感情を持つのは、ものすごく「悪い」。
それに比べれば、「結果として人が死んじゃうぐらいのこと」はそんなに「悪い」ことではない。他人を「自殺に追い込む」ことは、ときに拍手喝采に値する「善行」である。もっとも「悪い」のは、「いま・ここ」を超えた普遍的な次元への「チクリ」と、個人的な高貴さである。そういう者は徹底的に苦しめなければならない。彼らはそのような「悪い」者を、「いじめ=遊び」の玩具として思う存分痛めつけ、辱め、あらたな全能感ノリを享受しようとする。
もちろん、このような「ノリの国」では、個の尊厳や人権といった普遍的ヒューマニズムは「悪い」ことであり、反感と憎しみの対象になる。彼らにとっては、その場その場で共振する「みんな」の全能感ノリを超えた普遍的な理念に従うことや、生の準拠点を持つことは「悪い」。自分たちの「ノリの国」を汚す普遍的な理念に対して、中学生たちは胃がねじれるような嫌悪と憎悪を感じる。
(pp.40-41)
本書は、どうしていじめるのか、こんなひどいことをするのか、という素朴な疑問に明確な答えを出してくれている。
いじめは、学校だけではなく、あらゆる場所で起きている。
いじめをハラスメントと読み替えて、それが起きる要因と防止対策を講じることもできるだろう。
第1章 「自分たちなり」の小社会
第2章 いじめの秩序のメカニズム
第3章 「癒し」としてのいじめ
第4章 利害と全能の政治空間
第5章 学校制度がおよぼす効果
第6章 あらたな教育制度
第7章 中間集団全体主義