本作品では、新宿二丁目のレズビアンバー、「ポラリス」を舞台に、「シスジャンダーでヘテロセクシャル」であることに耐えることができなかった、さまざまな、レインボーカラーの、ジェンダー・アイデンティティとセクシャリティをもつ人々の邂逅が描かれている。
虹は七色に収まるものではない。
色と色とのあいだには、わたしたちがいまだ名を知らぬ、さまざまなグラデーションを描く色がある。人間のジェンダーとセクシュアリティのあり方も同じだ。フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリがいみじくも言ったように、そこには、いかなるカテゴライズによる抽象を許さぬ、無限の多様性にみちた、「n個の性」の世界が広がっている。
「性」とは「生」きるということ。
たしかに、そうなのであろう。
本作の白眉は、一人一人の人物造形が立体的に描かれている点にあるとわたしは考えるが、登場人物の「性」と「生」とが交錯し、人々の悲しみ、痛み、喜びとが、ポリフォニックに響き合う。
読む者は、この愛すべき人物たちに、共感し、憑依され、いつしか、「n個の性」を生きる勇気を与えられることになるであろう。
こうした本作品の魅力は、実際に読んで体感していただくとして、ここでは、とくに印象深かったところを取り上げ、紹介に代えたい。
ナラは前年に子宮頸癌で亡くなった。
私達はずっとここにいるの。常に複数形で、いるのよ。夏子はナラのこの言葉と、その顔に浮かんでいた小さく儚げな笑窪を思い出した。ナラがいなくなっても、ここには「私達」がいる。誰がいなくなっても、ここには誰かがいる。複数形は、つまり代替可能ということ。しかし、単数形としての生と歴史も、きちんと覚えられているべきではないか、と夏子は思った。
(「夏の白鳥」、p.174)
人は、ときとして、自らが、代替可能な存在でしかないことに耐えられない。
しかし、「わたしでなければならない/あなたでなければならない」という、存在の一回性、排他性は、現実の多様な選択肢の前にあえなく否定されてしまうことになる。
だから、わたしたちは、つねに、孤独で、不安で、「寂しい」のだ。
寂しさに耐えるためには、「重要な他者」とのあいだで、ナラティブ(語り)を積み重ね、自らを主人公とするストーリーのなかに「重要な他者」と「一般化された他者」を適切に配置していくほかない。恋人であれ、親友であれ、シスターフッドであれ、親密な関係性とは、そのようにして構築されていくものだ。
ただし、ここでは言及できない、「人間が生きていくうえで経験し記憶に残ってしまうキズ」という、大きな問題がある。これについては、別の作品のレビューで言及できれば、と考えている。
ナラティブは大切。
PANTAさんの、とてもとても美しいラブ・バラード、「スカンジナビア」の一節に、
♪入れてくれたコーヒーが冷めてしまうほど
♪真剣に話してた
♪服を脱ぐことも忘れてさ
というのがあるけど、
ナラティブはセックスより大事だよ。
レズビアン、トランスジェンダー、アロマンティック/アセクシュアル、バイセクシュアル、パンセクシュアルetc.多様な性的アイデンティティを持つ女たちが集う二丁目のバー「ポラリス」。国も歴史も超えて思い合う気持ちが繋がる7つの恋の物語。台湾人で初めて芥川賞を受賞した著者の代表作にして芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞作が待望の文庫化!
解説 桜庭一樹
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