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本と音楽とねこと

愛着障害──子ども時代を引きずる人々

岡田尊司,2011,愛着障害──子ども時代を引きずる人々,光文社.(3.10.24)

(著作権者、および版元の方々へ・・・たいへん有意義な作品をお届けいただき、深くお礼を申し上げます。本ブログでは、とくに印象深かった箇所を引用していますが、これを読んだ方が、それをとおして、このすばらしい内容の本を買って読んでくれるであろうこと、そのことを確信しています。) 

 愛着障害は、「実存の貧困」と、かなりのところ、重なり合う。

 岡田さんは、愛着障害の要因として、おもに子ども期、とくに乳児期における、(親による)虐待、ネグレクト、親との離別・死別等を挙げるが、それ以外にも、子ども期から思春期にかけての、性虐待、性暴力も要因となるものであろう。

 岡田さんは、愛着障害の当事者として、夏目漱石、川端康成、太宰治、ルソー、ヘミングウェイ、ビル・クリントン、ミヒャエル・エンデ等を挙げる。
 それぞれの愛着弱者に陥った背景要因が、たいへん興味深い。

 巻末に、「愛着スタイル診断テスト」なるものがあったので、わたしも、自己診断してみた。
 結果は、安定型スコア2点、不安型スコア14点、回避型スコア11点、、、
 ちなみに、それぞれ、10点以上が「強い」、15点以上が「非常に強い」ということになっており、わたしは、「恐れ-回避型」、すなわち「愛着不安、愛着回避ともに強く、傷つくことに敏感で、疑い深くなりやすいタイプ」(p.307.)、なのだそうだ。

 心理テストは参考程度にしかならないとはいえ、この結果には目を瞑るわけにはいかない。

 ふだん、「愛着弱者」のことを気にかけ、なんとかしてやりたいと思うわたし自身が、「愛着弱者」であったとは、、、
 わたしは、虐待、いじめ(性暴力)の当事者でもあるので、心当たりはある。
 自分をちゃんと知らなきゃ、だな。
 ほんとうに恥ずかしい、、、

 愛着障害における対人関係の特性は、相手との距離が近すぎるか、遠すぎるか、どちらかに偏ってしまい、ほどよい距離がとれないということである。ひどくよそよそしく、何年経っても距離が少しも縮まらないという場合と、あっという間に親密な関係になるが、そのうち、近すぎる距離に疲れて、関係が終わってしまうという場合がある。適切な距離で付き合えば長持ちする関係も、濃厚になりすぎることで、互いに消耗してしまうのだ。
 相手との距離を調節する土台となっているのが、その人の愛着スタイルである。不安定型の愛着スタイルでは、ほどよく距離をとった、対等な関係というものの維持が難しいのである。
 回避型愛着の人は、親密な距離まで相手に近づくことを避けようとするため、対人関係が深まりにくい。一方、不安型愛着の人は、距離をとるべき関係においても、すぐにプライベートな距離にまで縮まってしまい、親しくなることイコール恋愛関係や肉体関係ということになってしまいやすい。回避型と不安型の両方の要素が混じりあっている場合には、最初のうちは、ひどくよそよそしかったり、打ち解けなかったりするが、個人的なことを少し話しただけで、急速に接近し、恋愛感情に走ってしまうということが起きやすい。
(p.121.)

 あー、これあるあるだな。
 両者ともに「愛着弱者」だった場合、悲惨なことになる、、、

 愛着障害の人はアルコールや薬物にも依存しやすいが、食べることや買い物、恋愛、セックスといった快楽行為も、すべて依存の対象となり得る。百四十八人を対象に、愛着スタイルと非合法薬物の乱用の関係を調べた研究によると、不安定型愛着の人では、薬物乱用のリスクが高いことが示された。
(p.143.)

 アディクションが、愛着障害ゆえに起こり、重篤化していくことは、明白だ。

 不安定型愛着の人は、しばしば三枚目やオッチョコチョイや道化役を演じることで、周囲から「面白い人」「楽しい人」として受けいれられようとする。
 こうした傾向は子ども時代に強くみられるが、思春期には後退して、あまり目立たなくなる人がいる一方で、生涯その傾向が残る人もいる。人を楽しませよう、笑わせようという旺盛なサービス精神は、周囲から人気を得たり好かれたりするのに役立つことも多い。
 道化役を演じてしまう人は、自己卑下的な傾向が強く、その根底には自己否定感がある。自分を粗末に扱うことで、相手に気を許してもらおうとするのである。それも、他者に対する一つの媚びであるが、そうしないでは生きてこれなかった子ども時代の境遇が、そこに反映されている。
「そこで考え出したのは、道化でした。
(p.154.)

 「道化」だった子ども期のわたし、そのものだ、、、

 愛着障害を抱えた人は、しばしば親代わりの存在を求める。ずっと年上の異性が恋人や配偶者となることも珍しくない。逆にずっと年下の異性に対して、親のように振る舞うことで、自分が欲しかった存在になろうとすることもある。
(p.177.)

 一部「パパ活」女のおやじ好きも、これなのかな。

 創造とは、ある意味、旧来の価値の破壊である。破壊的な力が生まれるためには、旧来の存在と安定的に誼を結びすぎることは、マイナスなのである。親を代表とする旧勢力に対する根源的な憎しみがあった方が、そこから破壊的なまでの創造のエネルギーが生み出されるのだ。
 その意味で、創造する者にとって、愛着障害はほとんど不可欠な原動力であり、愛着障害をもたないものが、偉大な創造を行った例は、むしろ稀と言っても差し支えないだろう。技術や伝統を継承し、発展させることはできても、そこから真の創造は生まれにくいのである。なぜなら、破壊的な創造など、安定した愛着に恵まれた人にとって、命を懸けるまでには必要性をもたないからである。
(p.185.)

 自らの愛着障害ゆえの他者への迷惑な振る舞いを抑制しながら、創造性を発揮して他者のお役に立てるようになること、これしか、生きるうえでの、積極的な目標はありえないな。

 偉大な指導者に、愛着障害を克服した人が多いのも、そこから来ているのだろう。愛着障害という根源的な苦悩を乗り越えた存在は、人を癒やし、救う不思議な力をもっているのかもしれない。エリクソンの場合もそうだが、必ずしも、「克服した」という完了形である必要はない。克服の途上にあるがゆえに、いっそう救う力をもつということもあるのではないか。もっといえば、その人自身、自らの愛着の傷を癒やすためにも、人を癒やすことが必要なのだ。その過程を通じて、癒やす側も癒やされる側も、愛着障害に打ち克っていけるのだ。なぜなら愛着障害とは、人が人をいたわり、世話をし、愛情をかけることにおける躓きだからだ。
(pp.256-257.)

 やはり、最終的には、ケアする/される、ということなんだな。

 そして最後は、何でも話せることである。相手が隠し事をしたり、遠慮したりせずに、心に抱えていることをさらけだすことができることである。最後の条件は、それまでの四つの条件がクリアされて初めて達成できると言えるかもしれない。つまり、「何でも話せる」という状態が維持されているかどうかが、良い安全基地となっているかどうかの目安だとも言える。
 何でも話せる人をもつことが、心身の健康を守るためにも、愛着障害の克服にも必要なのである。家族、友人、恋人、パートナー、教師、宗教指導者、カウンセラーなどの専門家など誰でもいい。傷つけられたり、説教されたり、秘密をもらされたりする心配なく、何でも話せる人をもつことが、それを媒介として、変化を生み出す第一歩なのである。
(p.264.)

 傾聴すること、そこからしか、ケアははじまらない。
 
目次
第1章 愛着障害と愛着スタイル
第2章 愛着障害が生まれる要因と背景
第3章 愛着障害の特性と病理
第4章 愛着スタイルを見分ける
第5章 愛着スタイルと対人関係、仕事、愛情
第6章 愛着障害の克服


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