渋谷知美,2003,日本の童貞,文藝春秋.(3.13.24)
(著作権者、および版元の方々へ・・・たいへん有意義な作品をお届けいただき、深くお礼を申し上げます。本ブログでは、とくに印象深かった箇所を引用していますが、これを読んだ方が、それをとおして、このすばらしい内容の本を買って読んでくれるであろうこと、そのことを確信しています。)
いやあ、おもしろかったね、渋谷さん、さすがです。
「気持ち悪い」から「あせるな」へ…“童貞”をめぐる言説が男性に与えた“知られざる影響”
「セックスにかんして、男の首を絞めるのは男である」童貞を研究してみえてきた“男性性”の歪んだ一面とは
よく知られているように、日本の農村・山村・漁村においては、前近代、いや明治時代に、国家が伝統的な性習俗を抑圧しにかかるまでは、精通や初潮を迎えた青少年は、共同体慣行のなかで、「童貞」を卒業することができた。いや、無理やりに、卒業させられた、と言った方が正確だろう。(ここでは、女性の性交未経験者も、1950年代までの用法に倣い、「童貞」と呼んでおきたい。ちなみに、わたしは、1980年代、所属していた研究室にて、学部学生の女の子たちと一緒に、川端町の女性高齢者を対象とした生活史の聴き取り調査をしたことがある。その際に、驚いたことの一つが、すべての対象者が、結婚前に、「処女会」なる地縁集団に加入していた事実であった。昭和初期の段階ですでに、都市部の地域社会の末端にまで、女性に「貞操」を強いる家父長制が食い込んでいたのである。)
現代の大部分の人は、童貞は、そこにセックスという行為があるかぎり、人類の歴史とともに古く存在した、と考えていると思う。
しかし、民俗学の教えるところはそうではない。少くとも、一九二〇年代以前の民俗社会には、童貞のいない時代・空間があった。
ここでいう民俗社会とは、近代化の波をかぶっていない農村や漁村を想定している。第二章で述べるような、近代に特有の性的品行方正を説く知識人の言説や、近代知である性科学や通俗性欲学の教えが届いていない社会のことである。
一般に日本の近代は明治時代から、ということになっているが、一八六八年を境に全ての地域・階層が意識・行動面での近代を迎えたわけではない。日本の全域に知識人や科学者の言説が届き、さらにそれが咀嚼されて実行されるまでには、長い時間がかかっている。
だから、学生たちが「愛する人に童貞をささげる」といっていたのと同じ時代に、一部の農村・漁村では、「筆おろし」「ヒラキ」と呼ばれる「前近代的」な儀式がおこなわれていた。
精通期の男子をつかまえて、初体験をさせるのである。一種の通過儀礼といえるだろう。男子が相手を選んだり、自分の好きにふるまうことは許されない。相手は、共同体が近所のおばさんや遠い親戚の女性から選択するか、相手をつとめる女性が「あんたも齢頃だからヒラいたらどうぢやろ」と声をかけるかして(高倉薫「童貞開きの伝習奇習」一七九頁)、決定した。
さらに、筆おろしには、共同体が決めた手順がある。一九三〇年代に、兵庫県加東郡のムラで民俗学者の赤松啓介が聞きとりをした筆おろしでは、事の前後に男女がお経をあげるのがルールになっている。また、「柿の木問答」と呼ばれる特別な挨拶もある(『非常民の民俗文化』六五一八頁)。
筆おろしを済ませた少年たちは、「若者組」に入る。「若者組」とは、民俗社会に見られた年齢階梯集団のことである。共同体の未婚男子はここに加わり、年上から共同体のルールを教わる。セックスの仕方や農作業の方法、祭事の決まりごとなど、生活全般について、民俗社会の若者は若者組で学んだ(未婚女子にはまた別に「娘組」があり、筆おろしのかわりに「破瓜」がある)。
このように、精通間もない時期に性体験をしてしまうと、童貞でいる期間というのがない。しかも、民俗社会には「夜這い」というシステムがあって、筆おろし後、一定のルールのもとでなら、共同体内で比較的自由にセックスをすることができた。
(pp.46-47.)
わたしくらいの世代の人間には、『微笑』という女性誌の、あまりに世俗的で下品な記事内容がわかっているだけに、その雑誌名を聞いただけで、思わず失笑してしまう。
で、その『微笑』が、増え続ける童貞男と結婚する女性たちに向けた記事内容がこれである。
『微笑』は、経験の多い女性にむけて、いかにして童貞男性を迎えいれたらよいかを指南する記事作りをした。「童貞夫 いま激増中の〝清潔な男〟との初夜と性生活 不安なあなたへ!」、「年齢に似合わず、まだ女を知らない。あるいはプロの女性のみ経験――こんな性に未熟な男性がいっぱい。もし、あなたがめぐり合ったら」という両記事は、いわば女性むけ「童貞対応マニュアル」である。
童貞夫に自信を持たせるよう、夫の好きな料理を作ってあげなさい、ワイシャツのボタンが外れたらすぐ付けてあげなさい、朝の出勤時は駅まで送っていきなさい、などの日常生活の心得から、「最初のキスで、あなたから舌を入れてはいけません!男はリードされ過ぎるとシラケルのです」「脱いだ下着は、夫にまかせておきます。もし枕元においたらそっと隠してください」といった性交時のアドバイスまで、記事は過剰なまでの親切心であふれかえっている。きわめつけは、「"処女を装う"エクスタシー用語集」だろう。
お母さん・・・初めてへの不安とこわさ。/許して・・・受身の女性らしい表現。/こわい/痛いい・・・イ音を引っぱると女らしく響く。痛いワァのいい方ですととてもエレンガントです。/あたるゥ・・・男性自身が触れたとき。/イヤ、イヤ、許して・・・頭を左右に振ると効果的。女性の本能である拒絶反応を意味する。/ダメダメ(声を出したほうが親密度が高まる)。
こんなことを本当にいう女性がいたら、そのことのほうが「こわい」。しかし、一九七四年の『微笑』は処女をよそおうことに執心する。「初めての彼に好感をもたれるためには、まるでそこが痛むように、両脚をもみ合わせ(膣を中心にしてです)上へ上へとずりあがるようにしてゆくのです」「〔挿入時には〕黙って歯をくいしばり・・・・・・すすり泣くのも一方法です」などのアドバイスをする。
(pp.120-121.)
笑
渋谷さん、国会図書館で、一生懸命調べ上げたんだろーなー。
本書には、このような抱腹絶倒の読み物がてんこ盛りなんである。
若者は、共同体的慣行のなかで童貞を捨てることもできず、だからといって彼女ができるとは限らず(恋愛自由市場の競争は過酷だ)、八方塞がりの状態で、ソープランド等で童貞を喪失する。
次第に、買春のおぞましさが意識されていくなかで、彼らは、「シロウト童貞」と揶揄されるようになる。
シロウト童貞は普通の童貞と同様、やはりバカにされる対象となっている。さきの「プレイボーイ』のシロウト童貞初出記事は「けっ、金を持ってってプロの女性に抱かれて、何が『童貞じゃないもん』だっ。男ならフツーの娘を口説いて寝てみろっ。シロート童貞のクセにデカい顔するんじゃねーっ!」と、とことんおとしめる。また、シロウト童貞じしんも、「たしかにオレは童貞じゃないんだけど、気持ち的には全然、自信がない」としょげかえって
いる。
シロウト童貞は女性からの評価も低い。一九八八年の女子大学生の座談会では、
木下 おカネ払って童貞捨てるパターンってあるじゃない?あーゆーのって〝半童貞"ってかんじよね/山森 ヒキョウだよね。他の男のコが必死にガンバッてるのに/樋口 だけど、モテないから行くんでしょ。仕方ないんじゃないのォ
(pp.-140-141.)
なぜ性風俗での童貞喪失はシロウト女性に評判が悪いのか。おそらく、手間ヒマかけずセックスをしようとする男性への嫌悪があるのだろう。つぎのような意見を聞かされてムッとしないシロウト女性はいないのではないか。
(p.149.)
このように、シロウト女性にかかる手間ヒマをはぶくために性風俗を利用せよ、とする意見がある。家庭教師で稼いだ一〇万円を週二回のトルコ通いに費すという東大生は、父親から「後くされがないように、商売女を相手にしろ!」と教えられ、自分でもそれを実践している。また、一九歳の男子大学生は理想的な童貞喪失相手に「年上の水商売の女性」をあげる。その理由は、「あっさり割り切ってくれる」から、である。
(p.150.)
童貞には、「マザコン」やら「包茎」やらのレッテルが貼られ、さらに病理化されていく。
また、南城慶子はクリニックの童貞の患者のプロフィールを総合して「高卒の人は一〇人に一人くらい。むしろ、理科系の人に童貞が多いのが目立ちますね。あるいは研究室にいる人とか。性格的に神経質、内向的、無口、几帳面、真面目、折り目正しい、責任感が強い.・・・・・・などの人に多いですね。要するに、社交的でない、また女性に接する機会も少ない」という。
(中略)
判で押したように、問題をかかえる童貞は、高学歴ということに加えて真面目で消極的ということがいわれている。(後略)
(p.195.)
これは、コミュニケーション能力が過剰に喧伝されるサービス経済社会において、おとなしく、優しい性格の男の子が、「ネクラ」、「陰キャ」などと揶揄されていったのと、軌を一にした動向だろう。
なぜ、社会は、かくも童貞を揶揄してきたのであろうか。
よけいなお世話であろうのに。
誰も何歳までに童貞を捨てろとか、どうやって捨てろなどと他人に指図されたくないだろう。「性的なことは私的なこと」であってほしい、と思うだろう。
だが、現実はそうではない。性的なことは、私的なことではない。
近代のセクシュアリティ言説は、性を私的領域に配置することで、性を隠れたもの、秘密めいたものにし、かえって性を特権化してきた。いっぽうで、「性的なことは私的なこと」というタテマエとはうらはらに、生殖、セックス、オナニーなど「性的なこと」は、たえず国家やメディアなど公領域による干渉を受けてきた。
「性的なことは私的なこと」というタテマエのもとで、個人のセクシュアリティがたえず公による干渉にさらされている――これが、童貞が差別される社会の本質である。
(pp.223-224.)
渋谷さんは、童貞が蔑まれる背景には、恋愛とセックスを強固にむすびつける社会通念がある、とする。
童貞は、恋愛の自由市場における「負け犬」としてみられ、「シロウト童貞」も含めて、魅力のない男として蔑まれるわけである。
そして、渋谷さんは、童貞差別に抗していくために、次のことを提唱する。(pp.224-227.)
それは、「セックスを特権化しない」ことと、「非童貞を特権化しない」、ということである。
本書が出版されて、20年余が経過している。
この間に着実に進行したのは、さらなる価値観とライフスタイルの分化と、価値相対主義の深化である。
アセクシャルやアロマンティックといった、セクシャルマイノリティも可視化されてきた。
生涯未婚でも、国民皆婚時代のように、「おかしい」とは思われなくなってきたし、生涯、童貞でも、それもありの一ライフスタイルでしかなくなっていくであろう。
たしかに、自らの性愛経験の豊富さ、モテ具合を必要もなく吹聴するのは、他人は鼻白むだけだ。
しかし、性愛のクオリア(感覚質=感覚的な意識や経験)は、外見、感情、知性、正義、コミュニケーション能力等によって決まるとすれば、インセルとしての童貞は、「自己の存在証明」としてのアイデンティティが欠落するほかないという厳しいリアルが、一方にあるのではないだろうか。
そこにおいては、身も蓋もない言い方になるが、自己の尊厳も、自尊感情も、自己肯定感も、獲得しづらいのではないだろうか。
もちろん、学業、仕事、スポーツなどで、秀でた資質・能力を開花させ、それをアイデンティティに組み込むことはできる。
しかし、残念ながら、たいていの人は、ただただ凡庸なだけである。
もちろん、存在すること自体が言祝がれるようになるのが理想かと思うが、はて。
女性からは「オタクっぽい」「不潔」と蔑まれ、医学者からは「包茎だから」「パーソナリティが未発達」と病人扱い。初体験を済ませたら一刻も早く忘れ去りたい、そして未経験なら隠していたい―だが、そんな「童貞」も一九二〇年代にはカッコいいと思われていた。戦前から戦後にかけての童貞にまつわるイメージの変遷のなかに、恋愛とセックスが強固に結びつき、男が女によって値踏みされるようになった日本社会の、性観念の変化を読みとる。
目次
第1章 「新妻にささげる贈り物」としての童貞―一九二〇年代の学生たち
第2章 童貞のススメ―男の性の問題化と医療化
第3章 貞操の男女平等の暗面―「花柳病男子拒婚同盟」への反応
第4章 女の童貞、男の童貞―「童貞」という言葉の変遷
第5章 「恥ずかしいもの」としての童貞―戦後の雑誌言説
第6章 シロウト童貞というカテゴリー―「恋愛の自由市場」の一側面
第7章 「やらはた」の誕生―童貞喪失年齢の規範化
第8章 マザコン・包茎・インポ―童貞の病理化
第9章 「童貞は見てわかる」―童貞の可視化
第10章 童貞の復権?