わたしの両親は、「もうそんなに長くはないだろうな」と思ってから、なんのなんのけっこうしぶとく生き続けている。本人たちに生きようとする意志が強固にあり続けるのが、なによりの救いなのだと思う。なんのためにそこまでして生き続けないといけないのかとも思えるが、きっと生き続けるのに理由なんか要らないのだろう。生きてるから、今日もからだとあたまを使って生活を営む。二人だけだと生活できないから、ホームヘルプとデイサービスを活用する。生きてるのはあえて自ら死ぬまでもないから。あえて生きる目的をあげれば、それは死ぬため。ただそれだけのことだ。
自らの老いと死を考えるうえでも両親は生きた手本になる。年老いても生きながらえていれば、糸島半島の海辺の家に住んで、魚釣って、好きな音楽聴いて、本読んで、日々自分が死ぬときの情景を想像しそれを畏れまた楽しみながら生活したい。早く死ぬのであれば別にそれでもいい。人間は、眠りとともに毎日「小さな死」を積み重ねながら、過去の自我を殺して生きてるわけだし、そんな小さな死と再生の日常も、命の消失とともにきれいさっぱり終わるのだから。あるのは遅いか早いかの違いだけ。終わることだけを考えれば遅いか早いかなんてなんの意味もない。
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