柴崎友香,2024,あらゆることは今起こる,医学書院.(9.5.24)
私の体の中には複数の時間が流れている。ADHDの診断を通じて小説家が自分の内側で一体何が起こっているかを考えた。
ADHD(Attention Deficit Hyperactivity Disorder=注意欠陥・多動性障害)やASD(Autism Spectrum Disorder=自閉スペクトラム症)といった発達障がいは、社会が生み出したものである。
1950年代前半期、まだ農家、商店、小規模工場経営等の自営業層とその家族従事者が就業者の半数を占めていたころまでは、「少し変わった子」が、他者とのコミュニケーションがさほど必要のない労働に従事して生きていくことはじゅうぶん可能であった。
しかし、経済の高度成長とともに、自営業層の解体、就業者の被雇用者化が進行し、サービス産業を中心にした第三次産業が発展し(高度産業化)、また、第二次産業、とくに製造業分野においても、工場規模拡大、システム化により、他者とコミュニケーションをとりながら協働する必要性が高まった。
これが、対人コミュニケーションと協働の困難をきたしがちな発達障がいが「発見」され、社会福祉の対象となってきた背景要因である。
柴崎さんは、整理整頓、片付けができない、日常生活のルーティンを遂行できない、時間を守れないといった自らのADHD特性について、次のように分析する。
一つ一つの行動、作業的なものがなぜにこんなにも面倒なのか。ADHDについて知り始めて、そしてコンサータを服用し始めてからは実感として、仕組みはわかるようになった。脳内でドーパミンという神経伝達物質がうまく働かないようなのである。
私の脳内にもドーパミンはないわけではなくて、それなりに放出されているらしいのだが、受け取る側がなかなか取り入れないとのことだ。放出されたドーパミンは受け取り側が受け取ってくれないと帰ってしまう。コンサータはドーパミンを増やすのでも受け取り能力を上げるのでもなく、帰ろうとするドーパミンの道を塞いでうろうろしている状態を続けることで、そのうちに受け取ってもらおうという作戦らしい。
ADHDに関する本や当事者の人のあいだでは、ドーパミンが働かない現象は「脳の報酬系がうまく働かない」と表現されている。早起きしたり片づけたりするとすっきりするので次もがんばってやろう、とよいサイクルができるのが「報酬系が働いている」状態なのだが、ADHDの場合、早起きしたり片づけたりしてもそんなにすっきり感もなければ、次回やろうとしたときに前回のすっきり感を脳が思い出してがんばる、ということが難しいらしいのだ。すっきり感がそれほどないだけでなく、「イヤ度」のほうが積み上がっていき、一つ一つの行動をやり始めるときのハードルが上がってしまうのである。
(p.84)
「incentive【原義 ・・・に対して(in)励ましの歌を歌う(cent)誘因となる(ive)】」
と表示された。
それやん!!
「励ましの歌を歌う」!!
私の脳は、励ましの歌を歌ってくれへんのやわ。
励ましの歌、必要なんやわー。
ここで電車がやってきて乗り込み、私は「cent」の語源などを検索しながら(chansonシャンソンとかが関係あるっぽい)このことについて考える。
ADHDでない人、報酬系がうまく働いている人は、風呂に入るのも顔を洗うのも服をハンガーにかけるにも出した本を棚に戻すにも歯磨き粉の蓋を閉めるときにも、脳が励ましの歌を歌ってくれてる。
その歌は脳細胞にしか聞こえない音だから人間本体としては意識していないけど、励まされた脳細胞はがんばって働く。
ADHDの人の脳内では、励ましの歌を歌うコーラス隊が寝てるのかぼんやりしてるのかばらばらに気の向くままの行動をしているのかわからないけど、多少のことでは歌ってくれない
ので、やる気がしないんよなあ。
でもコーラス隊の皆さんは急に目が覚めたり楽しいことで喜んだりして大合唱するので、「興味のあることだけ突然やり始めて過集中する」みたいなことになるのやろなあ。
励ましの歌、どうやったら歌ってくれるのやろか。
いや、もしかしたらむしろ、励ましの歌なしでも自力で風呂入ったり歯を磨いたりしてるだけでめっちゃがんばってるってことちゃう?
(pp.86-87)
なるほど、わたしたちの日常生活は、「励ましの歌を歌うコーラス隊」のおかげでかろうじて成り立っているのだな。
それがないと、たしかにしんどいわ。
ADHDに限らず、自らのなんらかの身体的心理的特性により生きづらさをかかえ込んでいる場合、病院で処方されるクスリや、学校や職場での合理的配慮がそれを緩和してくれるかもしれない。
あるいは、親もとから離れ、一人暮らしをはじめるなど、生活環境を変えることが生きづらさを緩和してくれるかもしれない。
足に合う靴を履いてみて、靴を履くとは、歩くとはこんなことだったのか、と四十四歳にして初めて体感した。
歩くと疲れる、とは誰でも言うことだから、自分がすごく疲れるのもそんなもんだと思っていた。靴擦れしたり小指側が痛い内反小趾になりかけたのも自分の歩き方が悪いからだと思っていた。
合うサイズの靴を履けば、歩くとはこんなにも軽く、しっかりと自分の身体を支えられるものだったのか。私に合う靴がこの世にちゃんとあったのか。
「人の靴を履いてみる」というフレーズは、たいていは自分とは違って困難のある人の境遇を想像する意味で使われる。それはその通りだし、大切なことには変わりない。
ただ、自分の靴が合っているかどうか知らない人は想像以上に多いんじゃないか。つらいのが当たり前、苦しいのは自分のせい、と思い込んで生きている人がきっとたくさんいる。もっと抑圧なく生きていける状況、そこまで苦しまなくても歩ける方法があることを、知らないまま、教えられないまま、つらさや困難を抱えている人がいると思う。
今は私は、以前履いていたサイズの靴では歩けない。よくこんなので長距離を歩いたりしていたな、と不可解なほどだ。
一人暮らしを一度は経験したほうがいいと若い人に言ったりするが、それもたいていは、親の有り難みがわかる、苦労をしたほうがいいという意味で使われる。
たぶん、逆の意味で一人暮らしを経験した方がいい人もたくさんいる。
人の顔色を見なくてもいいって平和!
怒鳴られないって静か〜。
自分の時間で生活できるってこんなに楽なの?
あんたはなにもできない、世間に出たら通用しないって言われ続けてきたけど、あれもこれこうできるけど?
そんなふうに思う人も多いんじゃないかな。
つらいこと、痛い靴を当たり前だと思って耐えているとも思わず耐え続けている人に、別の靴をはいてみる機会があればいいなと思う。
(pp.120-121)
他者の靴を履いてみる(エンパシーを発揮する)前に、自分の履いている靴をもっと合うものに変えてみる、これもまた、ADHD当事者に限らない、有効なライフハックのあり方なのであろう。
目次
プロローグ──並行世界
I──私は困っている
1 なにもしないでぼーっとしている人
(ここでちょっと一言)
2 グレーゾーンと地図
3 喘息──見た目ではわからない
4 助けを求める
5 眠い
6 「眠い」の続き
7 地味に困っていること
8 ADHDと薬
9 ワーキングメモリ、箱またはかばん
10 線が二本は難易度が高い
11 励ましの歌を歌ってください
12 さあやろうと思ってはいけない
13 助けてもらえないこと、助けようとする人がいること
II──他人の体はわからない
1 強迫症と『ドグラ・マグラ』
2 時間
3 靴の話
4 靴に続いて椅子問題
5 パクチーとアスパラガス
6 多様性とかダイバーシティみたいな
7 「普通」の文化
III──伝えることは難しい
1 そうは見えない
2 「迷子」ってどういう状況?
3 視力と不機嫌と客観性
4 ASDキャラとADHDキャラ
5 片づけられない女たち?
6 わからないこととわかること
7 毒にも薬にもなる
8 体の内側と外の連絡が悪い
9 奪われ、すり替えられてしまう言葉
10 気にするか、気にしないか
IV──世界は豊かで濃密だ
1 複数の時間、並行世界、現在の混沌
2 自分を超えられること
3 旅行できない
4 マルチタスクむしろなりがち
5 私と友達
6 向いている仕事
7 休みたい
エピローグ──日常
おわりに