きたやまおさむ,2024,「むなしさ」の味わい方,岩波書店.(7.29.24)
自分の人生に意味はあるのか、自分に存在価値はあるのか…。誰にでも訪れる「むなしさ」。便利さや快適さを追求する現代では、その感覚は無駄とされてしまう。しかし、ため息をつきながらも、それを味わうことができれば、心はもっと豊かになるかもしれない。「心の空洞」の正体を探り、それとともにどう生きるかを考える。
人間の苦しみの一つは、世界に包摂されていない(外世界との「間」があく)ことからくる疎外感と孤独感、それらが合わさった虚無感にあり、それは、胎児期の完全な母子一体、主客未分化の状態からいきなり外世界へ放りだされる人間の宿命である。
いまみたように多くの人にとっての胎児期や乳幼児期は、母親などケアを担う者だけとの密接なつながりがあり、「密」な関係が保たれています。すなわち、楽観的に人の交流の発達や発展を考えた場合、最初は「チ」や「チチ」の「つながり」で「通じていた」という体験から出発することが多いのです。ここが心の発達の原点になります。
自分が何かを欲しなくても、必要とするものが与えられ、ほど良く満たされている状態から始まり、その後、何かを欲すれば、保護者によってそれが与えられることで満たされやすいという状態へと移行していきます。この時期は、まだ自他が未分化な状態です。
しかし、成長するにしたがい、自分が欲しているのに、いくら待ってもそれが得られず、すぐに満たされない経験が増えていきます。他者から与えられないので、欲しいものを得るには、自分で行動して獲得していかなければなりません。こうして自他の一体化は失われ、自他の分離・分化が生じていき、自立や個の確立が求められて、実際に独立に向かっていくのです。
つまり、人は他者を意識しない「密」な状態から出発し、やがて自分と他者が分けられ、その距離が広がっていくことになります。ここに自分と他者との「間」が生じ、それが広がっていく過程がうかがえます。他者との「間」が生じることで、何かで満たされていた心身が、満たされなくなっていきます。さびしさや「身なし子」の不安が生じる。すなわち、「むなしさ」が生まれます。
また言葉においても、意味が伴い、実や身として裏付けられていたものが、成長するにしたがい、意味を失い、実や身も得られないことになっていきます。言葉によって、自分が望んだもの、期待したものが得られなくなるのです。つまり、ここでも「むなしさ」という感覚が生まれることになります。
満たされていたものが満たされなくなる。通じていたものが通じなくなる。相手が自分の期待に応えてくれない。こうして、人が成長し、心が発達する過程で「むなしさ」という感覚は、必然的に生まれてくるものなのです。しかし、密から分離へ移行していく先の図2-1における左の分離状態でも、心に母親という対象像を抱くことができれば、さびしさや「むなしさ」もそれほどではないでしょう。このプロセスを、対象の「取り入れ」あるいは「内在化」と呼びます。
(pp.64-66)
こころの外側での対照喪失は克服できても、こころの内側での「むなしさ」が恒常的に消えることはない。
一時的に生が充溢し消えることはあるとしても。
前章で「むなしさ」を便宜的に二つに分けて考えることを述べました。心の外側で何らかの対象が喪失することで発生する「むなしさ」と、自分の心の内側に広がる「むなしさ」の二つです。前者は心の外側の現実と対応し、後者は心の内側の現実と対応します。
たとえば、「マッチ売りの少女」のように、貧しく過酷な現実を生きている場合、心の外側の苦しみや外の「むなしさ」のために、心の中に逃げ込むことがあるでしょう。一方、物質的には満たされていても、なんとなく心がさびしいといった場合は、心の内側の「むなしさ」が意識されていることになります。いくら食べても、いくら物品を購入しても、心の「むなしさ」が満たされないことはあるでしょう。あるいは、逆に物質的に満たされていなくても「むなしさ」が意識されず、心は満たされている場合もありえます。
(p.56)
多くの人びとは、「むなしさ」を忌み嫌う。
「むなしさ」は「間」にしのびこむ。
そこで、人は、「間」を埋めるべく、パソコンやスマホ、SNSに依存し、しなくても良い仕事を詰め込む。
「間」のない生活のなかで、人は「むなしさ」への耐性を喪失する。
ウィニコットの考え方でいえば、脱錯覚に至る過程で、子どもは移行対象を見つけることにより、うまく自分の心と現実を橋渡しできるようになっていきます。この移行対象を、子どもたちは自分で探しながら、その移行中に自力で創造していくのです。それは、厳密には親から与えられたものであっても、子どもが見つけて創り出すというクリエイションのプロセスこそが大事なのです。日常でも、たとえば、子どもが汚いタオルを絶対の依存対象にしているようなケースがありますが、分離や別離に対してその移行期に子どもが対処法を創造した価値は計り知れません。
ところが、今日の社会では、移行対象とされるものを自力で見つけ出さなくても、すでに外側に様々なものが用意され、様々な仕組みが整えられています。子どもにスマホを与えておけば、ユーチューブで無数の動画を楽しむことができ、母の不在によって生じた「間」をどうするかという課題に直面しなくてもすんでしまいそうです。現代では「間」を埋めるものが、周囲にあふれているのです。
こうしたなかで、私たちは喪失を経験し、それを自力で乗り越えていくことを繰り返しながら、うまくこなしていくということができにくくなっています。喪失に慣れておらず、突然現れた「間」にどうしていいかわからず、極度に不安になり、おびえ、深刻な「むなしさ」に打ちひしがれてしまうということが少なくないのです。
相手に送ったメールに返事が来ない。そんなとき、多くの人がそのように生じた「間」を、簡単にやり過ごすことができません。嫌われたのではないか。自分が何か悪いことをしたのではないか。もう相手との関係が破綻してしまうのではないか・・・・・・。そんな強い不安に襲われます。そうした不安が募れば、自分は価値の低い人間なのではないかといった深い「むなしさ」が訪れ、心が塞ぎ込んでしまうということも、特別の人だけに起こることではけっしてありません。
かつては、自分の欲しいものなど、簡単に手に入らないという感覚は当たり前だった。自分の思い通りにいかないことがたくさんあった。でも、いまはそうしたことに耐えられない。何かがないこと、喪失していること、すなわち「間」があることが非日常として意識されるのです。
「間」が生じたら、瞬時に埋めないと気がすみません。それでも、「間」が埋められないとき、あるいは、突然に喪失が訪れたとき、私たちは深刻な「むなしさ」に襲われ、どうしてよいのかわからず途方に暮れてしまいます。だから、「間」や「むなしさ」を事前に回避しようという悪循環に陥っているのが、多くの現代人の姿なのではないでしょうか。
(pp.99-101)
寂しくて、むなしくて耐えられないとき、わたしたちは、必死に依存できる対象を探し求める。
しかし、依存対象が見つかったとしても、自己は他者と同一化できないという厳然たる事実が突きつけられるだけであり、結局、「むなしさ」から逃れることはできない。
それでも、自分が「むなしさ」から逃れるために出口なしの悪循環に陥っていることを自覚することはできる。
そのとき、はじめて、わたしたちは「むなしさ」を味わえることだろう。
人は何かを期待しては裏切られ、それでもまた期待をもって何かを求めます。探し物が見つからないこと、もし見つかったと思ってもすぐに消えてしまうことを知っていながら、でも、探すという行為を続ける。それが生きるという営み、そのものなのでしょう。
見つからないという真実があるからこそ、「探し物」という営みが発生します。そして、最初から外にあるものに心が満たされていたら、探すという行為も、「探し物」それ自体も最初から存在しません。そして、胎児期の満たされた経験からの絶対的分離を体験している人間たちは、一生完全に満たされることはないのです。
こうして、人は探し求め続けなければならない存在なのでしょう。何かを探し求めるという行為そのものにはそれ以上の意味がないかもしれませんし、結果が得られなければそれは無駄だと思うかもしれません。だから人生は、ときにむなしく、無意味に思えるのです。
しかし、探し物は見つからなくとも、目の前にないことの痛みを味わう「私」がいるのです。そして、このときに「私」のつくため息には味、そして有機の匂いがあるのです。
(pp.196-197)
きたやまさんが、かつて、加藤和彦さん等と組んでいたバンド、ザ・フォーク・クルセダーズ。
あの素晴らしい愛をもう一度 - ザ・フォーク・クルセダーズ
幼稚園児のとき、遠足で太宰府天満宮に行く途中のバスの中で、わたしは「帰ってきたヨッパライ」を歌った。
ザ・フォーク・クルセイダーズ 帰ってきたヨッパライ
同行していた母が、死ぬほど恥ずかしがっていた。
センスオブナンセンスにも、「むなしさ」を雲散霧消させてくれる力がある。
目次
序章 「むなしさ」という感覚
第1章 「喪失」を喪失した時代に
第2章 「むなしさ」はどこから―心の発達からみる
第3章 「間」は簡単には埋まらない―幻滅という体験
第4章 「むなしさ」はすまない―白黒思考と「心の沼」
第5章 「むなしさ」を味わう
おわりに―悲しみは言葉にならない