春日武彦,2000,不幸になりたがる人たち──自虐指向と破滅願望,文藝春秋.(4.11.24)
本書では、以下のような、奇妙奇天烈な言動をとる人々を取り上げ、その動機について考察している。
なにを言っても、「ああ、そうですか」としか返さない人、「大晦日に電車の中で年賀状の束を仕分けするサラリーマン、逆恨みから知人宅で焼身自殺を遂げた男、最新流行の化粧をしっかり施しっつも自分が醜いと主張してやまない若い女、(中略)事故頻発人格や身体改造世界大会出場者たち、(中略)虎の代わりに熊に喰われて昇天した主婦、営利誘拐に失敗した愚かな娘たち、葬式代がないからとアパートの床下に妻の遺体を埋めた男や父の遺体をミイラとなるまで居間に放置した家族、自分の指を切断する性癖のあるジャンキー、(中略)独りぼっちで老朽化したハト屋敷に住む人や、電動式自動遥拝器を制作して「供養」をする男性、犬四匹と無理心中を図った男性」。(p.181)
もとより、動機が理解不能であるからこそ、奇妙奇天烈なわけであり、畢竟、春日さんの考察も、根拠が不確かな憶測の域を出ない。
春日さんは、自らの臨床経験から、人を狂わせる三大要素は、「こだわり・プライド・被害者意識」であるという。
わたしが精神科医として沢山の人たちと接しているうちに気づいたことがあって、それは人間にとって精神のアキレス腱は所詮「こだわり・プライド・被害者意識」の三つに過ぎないというまことにシンプルな事実である(それは犯罪の動機の大部分が「色・金・怨恨」の三つに収斂してしまうことに通じているのかもしれない)。もちろん、こだわりやプライドがなければヒトは何もなし遂げられまい。無気力で受動的な人物となり果ててしまうだろう。だが、過剰かつ非現実的なこだわりやプライドは、驚くばかりに心の働きを異様なもの(ときにはグロテスク、ときには滑稽、ときには迷惑千万なもの)に変える。被害者意識もまた同様であり、これら三要素がもたらすものは業と呼ぶしかない。
(p.67)
女性が、相手の男にDV等のひどいことをさんざんされながら、別れられないのはなぜか。
従来、その理由は、「共依存」という現象に求められることが多かった。
「こんなダメな人でもわたしが受容しているからこそ生きていける。この人にはわたしがいていなければならない。」
普通に考えれば、「こんなダメな人にわたしがこれ以上苦しまされることはない。さっさと別れよう」と思うだろうのに、奇妙な「共依存」の意識が生まれるのは、なぜか。
そんな姿を目にしていると、あれこれ訴えはしても結局のところ彼女たちは現状維持を望んでいるのではないかと思えてくる。二者択一が出来ないところに真の病理があり、おしなべて彼女たちは幼少時に精神的に不幸な生活を送っている。結婚は不幸であった自分の幼少時代をリセットするための試みだったのであり、離婚に踏み切ってしまえば自分の人生をまたしても否定してしまうことになるといった葛藤に彼女たちは苦しんでいるのだろう。しかしそのような葛藤はともかく、ヒトは基本的に現状を大きく変化させることを望まない傾向にある。たとえ不幸が持続することなど火を見るより明らかであったとしても、現状維持を選んでしまう人びとのほうがよほど多数派なのである。
(p.116)
自分の人生の選択が、再びまちがいであったことを認めたくない、これ以上自分の人生を否定したくない、という意識は、一種の「プライド」のなせるものであるのだろう。
不幸は繰り返されうるのだから、なんどでも、人生のやり直しに踏み切れるだけの自尊感情があればいいのだろうが、幼少期や思春期の不幸により、自尊感情をもちえなくなっているのであれば、問題の根は深い。
どうしても理解不可能な自己破壊の衝動を目の当たりにしたとき、わたしたちは、とても不安になる。
理解不可能なものを理解したつもりになるために、フロイトは、人には「死の衝動」があると考えた。
もとより、これは、立証不可能なことであり、「死の衝動」から自己を破壊する行為を理解するのには無理がある。
グロテスクであるとわたしが考えるのは、彼らの行動には、なぜか不幸や悲惨さや苦しみを指向する要素が伴っているように見えてしまうからである。すなわち、生き物としての本能に従っていない。といって何らかの高邁な思想や志があるというものでもない。楽をしたい、面倒を避けたい、仕返しをしてやりたい、金が欲しい、癒されたい、救われたい、感心されたい、同情されたい――そのようなまことに人間的な欲望を持ち合わせているのに、彼らの考えや行動は目的に対して合理的でない。
(p.182)
そして、春日さんは、そうした理解不可能な衝動が自らにもあることを認める。
わたしは自分自身についても不信感を抱いているのである。自分としては普通程度と思っているものでもそれは輪郭だけのことで、実態はシロアリに食い荒された状態に近かったり、思いがけぬところに破滅や悲惨さを願うベクトルが埋め込まれているような気がして不安になる。自殺をしたほうがよほど楽になるだろうからと、朝晩の通勤の途中でホームへ電車が進入してくるところをじっくりと観察し、電車の前に身を躍らせる自分をシミュレーションしてみたことは再三あるが、今のところはそれなりの分別で思いとどまっている。
(p.184)
究極の自己破壊は、自殺であろうが、それに至らないための自己保存の手段として、人は狂う。
これは、けっこう興味深い視点だ。
もし位相の違いを崩す作用が精神病によってもたらされるなら、自殺は病の極期においてなされがちになるに違いない。ところが極期にある病者は、混乱や衰弱によって自殺をする余裕すら持ち得ないのが実際のところなのである。病気になりはじめたときと、治りかけたときに自殺が多いというのは精神医療に携わる者にとって常識である。この現象はどのようなことを示唆しているのか。
常識的発想とは逆に、「精神的な病気は基本的には自殺を回避させる働きがある」と遠山は考える。追い詰められ、にっちもさっちも行かなくなり、「正常であり続ければ死ぬしかないのなら、生きるために病気となることで、死を排除するしかない。言いかえれば、自殺をするか気がふれるかしかないという絶望的な選択肢しか残っていない」状況において、狂気は自殺の一歩手前でとにもかくにも生を営みつづける方便として作用するというわけである。だが、えてして精神の病を得ることでヒトはなお悪い状況に追い込まれる。頼りになってくれそうな人に去られ、職を追われ、周囲から忌避されるといったシチュエーションが成立しがちである。そのときついに、ヒトは自殺へと突き進んでしまうのではないか。さもなければ、まだ狂気が不十分にしか実っていないうちに自殺を遂げてしまうのではないのか。
(pp.186-187)
自らの臨床経験や新聞の三面記事から、「不幸になりたがる人たち」の事例をおもしろおかしく紹介する向きに、不快感をいだく人もいるだろうが、自らも病んでいるかもしれないことを自覚しつつ、不可解な人間の振る舞いをなんとか理解していこうとする意欲が随所にみなぎる作品であるように思う。
虎に喰われたかったのに熊に喰われて昇天してしまった主婦、葬式代がないからとアパートの床下に妻の遺体を埋めた夫、電動式自動遙拝器を作ってただひたすら「供養」する男などなど―世の中にはときどき、不幸や悲惨さを自分から選びとっているとしか思えない人たちがいる。しかし彼らは、この過酷な人生を生きてゆくために、奇妙なロジックを考えだし、不幸を先取りしなければ生きてゆけなくなった人たちなのだ。あなたの隣の困った人たち、それはもしかしたら私たち自身の姿なのかもしれない…。
目次
第1章 理解しかねる隣人たち
不自然な人たち
ああ、そうですか
大晦日の電車 ほか
第2章 奇妙な発想・奇矯な振る舞い
幸運の法則
運勢曲線
不幸の先取りについて ほか
第3章 悲惨の悦楽・不幸の安らぎ
熊に喰われる
虎と熊
二十六時間の誘拐 ほか
第4章 グロテスクな人びと
変人たち
狂気予備軍
供養する男 ほか