赤松啓介,2017,性・差別・民俗,河出書房新社.(3.25.24)
(レビューというより、読みどころの抜粋です。
著作権者、および版元の方々へ・・・たいへん有意義な作品をお届けいただき、深くお礼を申し上げます。本ブログでは、とくに印象深かった箇所を引用していますが、これを読んだ方が、それをとおして、このすばらしい内容の本を買って読んでくれるであろうこと、そのことを確信しています。)
差別の民俗学、非常民の民俗文化―─生活民俗と差別昔話と比べると、雑文の寄せ集めではないかという印象を免れないが、まがい物、贋作を、地主、豪農に売りつける「骨董屋」や、同じ地主、豪農の子どもの結婚相手を紹介し、その者、および血縁縁者に、被差別部落出身者、ハンセン病、精神病罹患者がいないか調べ上げて礼金をふんだくる「媒妁屋」の話には、引き込まれる。
赤松さんの人間観、人生観には、おおいに共鳴する。
金儲けや地位獲得競争なんか、くだらない。
どうせいつか死ぬ運命の人間、それに諦念すればいいものを、いくら欲望をかなえても、さらに欲望が昂進し、それに振り回される「無間地獄」、デュルケムがアノミーと呼んだこの精神状態に陥る人間の不幸は、愚かとしか言いようがない。
ばかな、雑煮がヒルになるぐらい、どうということもあるまい。それぐらいのことで大地所持ち、大金持ちになれるならば、俺も無間の鐘、無限の鐘を撞いてみようではないか。市川流域などとぼやかすこともあるまい。いずこの、どこにあるのか、はっきり教えよといわれるだろうが、それもいつのほどにか掻き消えている。しかし、いつの時代であろうと、どのような社会、世界であろうと、無間の鐘、無限の鐘を釣るした鐘楼は、夢まぼろしのように湧き出ているのであるまいか。仏法の難しい解釈はさておいて「無間」地獄とは絶え間のない慾望に狩り立てられ、駈け走らされて、狂い廻る「阿鼻」地獄でもあるようだ。「無限」も、「無間」も同意語らしいが、「無間」をどのような無法な手段であろうと、おのれの慾望のためには行使するという残虐無惨さの世界の実現とみて、また「無限」をいかほどに財宝を積み上げようと、更にその上の財宝を求めて狂う不満欠落の世界の希求とみれば、どうやらわれわれ人間は始発の時代から「無間地獄」「無限地獄」の世界を狂い走り抜けてきたらしい。進歩といい、発展といい、「無間」の惨烈な手段を求め、「無限」の際限のない慾望にかわくこともないようだ。これほど物満ち、金足りているのに、まだまだこの上になにが欲しいのか。私は坊主や牧師ほどのウソツキでないし、政治家や事業家ほどのカネ狂人ではない。私は年に一回、つまり一度よりテレビを見ないのである。ほんとのはなしだ。うちのテレビは二十年も前に、親類が捨てるというのを拾ってきたものである。二、三年はカスミながらもどうにかカラーであったが、それからだんだん映らなくなり、いまでは2と、6ぐらいがどうにか白黒で見えることだ。しかしとてもまともでは映らないので、スイッチを入れてから箱の上を思いっきり叩くか、箱の下の台を蹴り上げるといかにも不承不承らしく顔を出してくれる。それほどまでにしてなにが見たいのか。NHKの宣伝するわけでないが、紅白歌合戦とそれにつづく往く年来る年の鐘の声である。ああ、また愚かな人間世界に寂滅為楽の鐘が鳴り響く。ただ、しかしこれを「寂滅為楽」と聞く奴が何人居るだろうか。来年こそはどんなにしてでも金を儲けて、立身出世をして、他人を蹴り落としてでも地位を固めないことには、というのでは、「無間の鐘」「無限の鐘」を撞くのである。せっかく人間と生れて、いくら長生きしても百歳は、まだ稀であろう。長い百歳か、たったの百歳か、それはわからぬが、その人世を金儲けと立身出世であくせくして、どれほどの満足があるのか。「無間」地獄、「無限」地獄の餓鬼と化して、修羅の世界の妄執にこの人世の最期の瞬間を落ちるのは虚しい気がする。私は死後の極楽世界を空想するほどバカでないから、せめてこの世で呼吸のとまる一瞬を平静に終末したいと思う。俺の息がとまるときは、すなわちこの世界、この地球が滅亡するときだ。まさに寂滅為楽であり、それから先のこと、後のことはわからぬ。
(pp.13-15.)
おおいに共感、共鳴するものの、わたしは、赤松さんとちがい、かならずしも清貧に甘んじてきたわけではない。
これまで、カネで困ったことは一度もないし、それなりに物質的にも恵まれた人生をおくってきたと思う。
それでも、拝金主義を軽蔑し、憎悪する心情は、赤松さんとなんら変わらない。
もちろん、夜這いの民俗話も語られている。
そして、それは、たんなる艶笑話で終わるものではなく、「非常民」がいかに狡猾に権力の抑圧から自らの生を守り抜いてきたかの、生政治への抵抗の証となる物語でもあった。
民俗学の研究というのやら、民話の採取などというのには、とんでもないニセモン、バカモンが居る。夜這いは、百姓がおおらかだからするものらしい。おおらかであろうと、なかろうと夜這いは、ムラの生活から切り離せなかったのだ。おおらかなどと持ち上げるのは、百姓に忠君愛国を強制した支配権力におもねり、同調するもので、「民話」などとしらじらしい。ムラの戸数、人口には差があるし、出稼ぎの多い村もあれば、あまり出入の差がないのもある。家にしてもこどもの多い家、男か女に片寄った家、後家になった家など、いろいろと差を生じた。そのため性生活にも、さまざまの不均等を生ずるのは必然だろう。江戸、大坂や宿場であるまいし、女郎や飯盛女が安直に抱けるようにはなっていない。夜這いとは村落共同体の維持、存立のための必須の手段、民俗であったのだ。それでなければかりに戦国時代から初まったとしても、これほど継続されるはずがあるまい。若衆は娘、女をとった、とられたと大喧嘩するし、好きな若衆や男の家の前で、母と娘とがつかみ合いの大立廻りをする、それが夜這いなのだ。あたり前だろう。
娘に夜這い、帰りに隣の間を抜けていると足をつかまれた。うちへも寄りんかいな、と誘われる。親子丼だが、どっちの味がよかった。おふくろの方が、深みがあったなあ。そんなものである。今晩、俺の家へ泊らんかと誘われて行くと、姉と母も居て接待してくれた。友人と遅くまで談笑、お前、奥の部屋でねろといわれる。入ってみると暗いが、おぼろげに人のねているのがわかった。姉の接待かと思って後からだきしめたら、わかる。うちきらいか、といわれてもしようがない。朝起きてみると、弟も姉も家に居なかった。さすがに弟も、味はどうやったと聞かない。しかしいろいろと世話をしてもらうし、その後も通った。母親も気に入ったから、お相手に誘ったのである。後家さんに貞操を強要するようなバカはおらず、ものわかりのよい息子が適当な相手を探してくれた。お前、ええ味の女世話したろか、というのでついて行くと、僅か二間、それもタタミは一間で、後は板の間、台所というわけで、馬小屋が横につけられている。夕飯がすみ、五右衛門風呂へ入って出てみると、オヤジがいない。どうしたんだ。夜這いやろ。あんたがねたら、ねるとこないんや。こうして女房が、一夜妻になってくれる。淡路の漁村で、男が三日、家を留守にすれば、夜這いに行ってもよいと聞き、ええこと聞いたと近所のムラで話をしたら、アホらしい。その晩に夜這いに行きよるわと笑われた。このムラに夜這いがありますかと尋ねてみたら、うちへおいでと誘ってくれる。夜食も終わって、いつ話を聞かせてもらえるのかと思っていたら、寝間へ連れられた。先方は本番と思っていたわけで、夜這いの日常的なムラなら、好きになれば自由に相手をしてくれる。
夜這いの艶笑話と、こうした実歴談との間にはかなりの差があった。実歴談はあんまり面白くもないし、ネヤがよかったの、まずかったのといえるものでもない。性技の研究を目的とするわけでもなし、その一夜が楽しければよいのである。しかしムラのなかで娘や女と継続的に接触すれば、いつも楽しいというわけにもならず、すねたり、怒ったり、泣いたりということになった。結婚したいといい出すのもあれば、楽しむだけ楽しんだらええやないのと割切ったのもある。それはさまざまであって、柳田派民俗学がいうように結婚を前提とする夜這いなど、存在すると空想するのがおかしい。結婚と夜這いは別の民俗で、夜這いから結婚になったとしても、夜這いは結婚を目的にする民俗ではないのだ。夜這いはもっと自由に、男と女とが性交を楽しむものである。都市や宿場の遊女、飯盛女と遊ぶようなもので、ただ代償の支払いをしないだけ、双方に選択の自由が確保されていたのだ。これが商業的経営の売春との決定的な違いであり、夜這いが極めて健康な性的民俗として深く浸透し、作動していた所以である。
(pp.61-63.)
(前略)夜這い民俗の日常的な存在といい、こうした近親の性解放といい、日本のムラでは性の自由が極めて大であった。日本の婚姻史は上層の、文献だけがたよりであるから、ほんとうの民衆の性民俗が殆どわかっていない。一夫一婦式限定住民俗と、不特定多数式自由性民俗とがあったわけで、いま二つの接点、境界の民俗が僅かに古い民衆の性民俗を伝承していることになる。
戦乱と飢餓、疾病と天災とにさらされていたムラが、絵に描いたような一夫一婦式限定性民俗を維持できるはずがない。極めて自由な、どのような情況にでも対応できる、不特定多数式自由性民俗の発生と展開とは、おそらく古代のムラから継承してきた伝統であろう。日本書紀に極めて複雑な近親婚の報告があり、古くから絵解きが盛んである。しかし一般民衆の生活では、それほど複雑な近親婚が普通であったのであり、ムラの限定された社会環境、民衆の生活ではいわゆる村内婚を主とすれば、近親婚の重複も発生した。近代のムラでも母子、父娘、兄弟姉妹の性関係、共棲生活は、そう珍らしいことでもない。むしろ、そうした性関係を含めて、極めて多様の不特定多数式自由性民俗であった。いまわれわれにとっての課題は、国家的支配権力の管理機構である一夫一婦式限定性民俗を解体させ、もとあるままのムラの不特定多数式自由性民俗を確保、あるがままの人間としての性の自由を確立することである。
ムラにとって、民衆にとって支配権力、国家とはなんであったのか。徳川幕藩制三百年の支配も、ムラにとって、民衆にとって「年貢」をとりにくる他所者にすぎなかった。さすがに維新変革を切開した連中は、その実相を知っていたから、ムラを、民衆を恐怖している。維新後の天皇制確立、市町村制施行も、ムラを破壊し、百姓を解体させるための装置であった。しかしムラは、村落共同体は生き続けている。忠君愛国の猛烈な宣伝、教育にもかかわらず、ムラは解体されなかった。ムラにとって、明治以後の政権、天皇制国家とはなんであったのか、それは「税金」をとりにくる他所者にすぎない。他所者は、いつか去って行く。万世一系の天皇制も、いつかは去って行くだろう。しかしムラは、村落共同体は生き残る。それが民衆の、長い政治的支配と弾圧とを戦ってきたムラと、ムラの人間たちの経験と確信であった。どのように変化しようと、ムラは、村落共同体は生き続けるだろう。非定住の人たち、差別されている人たち、都市の低層住人たち、スラム街の人たち、ムラと連帯しながら生き続けようではないか。われわれにとっても他所者は、いつか立ち去って行く。
(pp.64-66.)
わたしは、赤松さんの、戸籍制度と、一夫一婦の婚姻制度、家族制度を全廃すべしとの考えにも、強く共鳴する。
ともかく富農、自作農を主とする「常民」階層でも、結婚の縁談となると、このくらい難しいことをいって差別したのである。ただ小作、日傭労務者など水吞百姓級になると、それほどの高い差別意識がないと思う。しかし、これまで私の見てきた限りでは加西郡で一例があったのみで、他には知見がない。ただし女性が実家と絶縁したような形で、結婚している例はときどき聞くことがある。べつに積極的に資料調査したわけでないから、正確な実数はわからないが、国民融合を立証するほど激増しているのか、否かには疑わしいとみるほかあるまい。極めて素描的に差別解放の私見をいえば、まず「家族制度」を徹底的に解体すること。その第一は「本籍」戸籍を全廃することである。「本籍」は警察、つまり国家権力にとっては必須だが、われわれには「住民登録」だけで、「本籍」など必要であるまい。第二は「家」の解体である、男と女とが同居し、共同生活するだけで十分だろう。したがって同居した女性が、男側の「姓」に改める必要はない。ただ共同生活で蓄積した財形物は、双方の合意で処理すればよかろう。また財産の相続などは考えない方がよいし、相続させられるような財産を作ってもしようがあるまい。そういうことになれば、家の「格」とか、「筋」とかはばからしくなるから、ただ当事者の資質、才能などによって同居者を選択すればよいし、お互いに不満になればいつでも離れられる。子供は双方の合意によって処置すればよいし、育てるのを嫌うなら国家に育てさせればよい。そうした真に「人間的」社会を建設すること、それが一切の差別を解消させる道である。
まず「本籍」を全廃し、「戸籍」を一切焼却処置してしまうこと。どのような形であろうと「本籍」を温存して、部落差別を解消させることは、まず期待しない方がよい。「本籍」記録が残る限り、部落差別の息の根を止めることは不可能だろう。私たちが「本籍」から解放されれば、したがってまた在日朝鮮人、その他の外国の人たちの「戸籍」(外国人登録)も必要なく、「住民登録」だけでよいことになる。もとより本国の姓名でも、日本的通称でも自由に選択できるだろう。警察的な監察など必要でなく、お互いに他の自由と人権を尊重すればよいことである。それは困難で、長い道程であるだろうが、私たちが一切の差別から解放されるための確実な一つの道であると思う。
(pp.150-151.)
むかし、森本レオさんが、週刊誌で、好き合った者どおし、お互い、通い合えば良い。同居したら、生活臭でお互いに新鮮な気持ちをもてなくなるでしょ、といったことを言ってたが、賛成だ。
外でデートしたり、お互いの家に通い合う、パートナーじゃ重いな、アライかな、そんな関係がいちばんの理想だ。
「籍を入れる」などという、個人のプライバシーを国家権力に譲り渡すような愚かな時代は、とにかく早く終わってほしいものだ。
戸籍制度を撤廃する理想も、捨てるべきではない。
わたしは、引っ越すたびに、「本籍」を新住所に変えてきた。
それが、現住地のC市に転入した際、本籍を変更しようとしたところ、市の職員(女)に、「本籍は頻繁に変更するものではない」と言われ、めんどうくさくなったのもあって、本籍を更新しなかった。
C市は、かつてひどい部落差別があって、被差別民たちは、自らの出自を隠すために、本籍を変えてきた歴史がある。
市職員もそうした背景事情を知っていて、本籍変更を咎めたのであろう。
しかし、まったくもって、よけいなお世話である。
かつてのムラにおける、思春期になるかならないかくらいの子どもへの性教育の実態には、史実を知らない者は、仰天、驚愕するほかないだろう。
しかし、明治・大正に比較すると、筆下ろしも、水揚げも極めて顕著に後退していることは明らかである。最近の情報では男女とも、高校生段階での接触が著増し、大学では男性の童貞が増えているそうだ。いわゆる「非行」少年・少女は中学生から小学生に及んでいるそうで、他方では低下の様相も進んでいるらしい。明治社会なら十五で若衆入りすれば、ほとんど筆下ろしがすんだであろうし、女も十五、六になれば水揚げされただろう。早いのは男女とも十三で、性交の実技を教育されていた。十三で若衆入りするムラはもとよりだが、××屋のオバハンたちが普通のムラでも十三になれば実地の指導をしている。なお北九州一帯では、へこ祝い、へこ親などの民俗があり、男の子が九つになるとへこ親を頼み、へこ親からへこ、つまりフンドシをもらうが、赤フンドシであり、白フンドシを添える例もあった。そのフンドシをしめて氏神へ詣り、へこ親とは一生、親子のツキアイをしたという。つまり九州の方では九つですでにフンドシをしめて、男の仲間入りを認めたのである。播州地方でも九つになると、もう子どもと認めない風があり、九つから十三までが、いわばオトナへの予科教育であった。したがって九つにもなれば、冬のコタツに女とならべば、女が子どものマタへ手を入れたり、子どものマタへ誘ったりしても、早い教育ともいえない。
ただ摂丹播地方では女性がフンドシ親となり、性教育をするのが普通である。しかし九州地方ではフンドシ祝いに、熟年の男や壮年の男がフンドシ親となり、少年へフンドシを贈った日、あるいはその夜に性関係をもち、義親子、義兄弟になる地方が多いらしい。普通の思考では女性による性教育が基本で、男色関係は異型といえる。しかし、まだそれを断定するほどの実証は乏しく、まあ二つの型があるぐらいにとどめておく。
大正末ごろ、加西郡南端の某寺の住職が若い物売りの少年や在家の十三少年などを居間へ誘い、フンドシ親の教化をするという噂が高くなったことがある。この種の噂は山奥の深い寺院、とくに密教、禅宗などに多いもので、九つから十三、せいぜい十四、五ぐらいまでの、まだ体毛が柔らかい少年が好まれるらしい。ともかく摂丹播国境地域では、女性、とくに伯叔母による性的開発を行うのが多く、西日本の九州地方では壮・青年による男色的誘導が多いということだろう。
女の子は、初潮があると娘になった。これはだんだんと早くなってきたようで、明治社会では十二、三歳ぐらいが多かったらしい。初潮があると桃割れを結い、赤い腰巻をさせて、娘になったことを表示させた。初潮がある頃になると、母方の姉妹、つまり外伯・叔母から腰巻、装身具などを贈っているムラが多い。ムラによるとカネ(鉄漿)を贈るところもあり、カネ親になった。ただしカネを贈るのは九、十三、十六、十九などの年齢によるムラもあったが、いずれにしても成女式の祝いということは同じだろう。男のフンドシ祝いも九、十三、十五が多く、あまり大きい差はない。
紀州の勝浦では娘が十三、四になると、老人を頼んで女にしてもらい、米、酒、桃色フンドシを、その礼として贈った。おそらく相手をした老人の方から赤腰巻、カンザシなどを返すか、先に贈ったものと思われる。また十三、四の少女が、若い青年などに白を切ってくれと追い廻している地方もあったらしい。臼を切れとは、水揚げしてくれということで、初潮のあった娘が、若い衆や熟練者に自ら性教育を依頼したのである。摂丹播地方の民俗でいうと、こうした習俗はムラごとに違うので、いろいろの型式があったとよりいいようがない。初潮があればすぐ夜這いがくるムラもあるし、発毛するようにならないと相手をさせないムラもある。娘仲間で相談して生涯の相談相手になるような壮・熟年男性を選定してやるのもあるし、早い者勝ちというのもあった。また春・秋の宮祭り、秋や冬の粟島講、地蔵講などにオコモリ、ザコネで水揚げというのもある。最末期の段階では祖母、叔母などが連れて参り、かねて頼んである熟・老年の男性に破瓜してもらったという。まあお初穂、水揚げはなかなか難しいもので、若い未熟な男たちに頼まれぬということだ。
熟年の女たちが、山のお堂で十三、または十五の若衆入りを筆下ろしさせるムラでも、ときに性交ができない者もあり、そんな男に当たると苦労したらしい。経験の浅い娘が相手なら処理できずに投げ出すだろうが、もういろいろの経験もあるので、ともかく恥をかかせないようにし、二、三日、家へ通わせて馴れさせたというのもある。不能の原因もいろいろだが、その頃の女たちも性心理学的な方法で解決を考えてやったのである。初めて夜這いに行って失敗したとか、遊廓へ登楼しても相手の「女郎」が悪いと屈辱感だけで帰されるとか、男の筆下ろしも難しいものが多かった。それを考えると宗教的な情趣のなかで、お互いに知り合っている年上の女たちや尼さんに、親切に極楽浄土へお詣りさせてもらえるのは、極めて幸福であったといえるだろう。十二、三から十五、六の処女の水揚げもなかなか難しいもので、一晩ではうまくいかず、いろいろと苦労するのもある。生涯の性生活にも影響するから、ただ入れればよいというものではない。夜這いのムラであると、人柄も技術も母親の方でわかっているから、最も信頼できる男を頼む。他のムラでも評判があるから、いろいろと考えて選ぶことになる。男の筆下ろし、女の水揚げの方式にもいろいろと技法や心理的手法があって、まあ合理性のあるものもあったことにしておく。そうしたムラの民俗に比べると芸妓、娼婦、町工場街、商店街、スラム街などの娘たちの売買による水揚げや筆下ろし風景は、悲惨というほかあるまい。古い村落共同体の性風俗を、ただ淫風陋習として排撃するだけで、それに代わる性教育や性風俗を創造できなかった私たちは、いまや性の社会的壊乱のなかで、その代償を払うことになってきた。
(pp.270-274.)
ここで言う、「水揚げ」とは、接待飲食業の酌婦、売春婦を、太客が、その女の心身、生活ごと買い上げる、囲う、という意味ではなく、女の子に最初の性交を経験させることを言う。
(前略)都市であろうと、農村であろうと日本的兎小屋型住居様式で、父母や兄、姉夫婦などの性交現場を見ないで暮らせるなど不可能だろう。大きくなるとよい子の面して、ぼくは、あたしはなんにも知りませんでしたなどといっているが、アホらしい。夜中に聞き耳をたててマスかいたくせに、しらじらしいことをいう。明治・大正の農村は、いたって公明正大であった。
七つ、八つにもなると本物を見せてやると、女房をひっくりかえして黒い毛のあるのを教えてくれるし、女房は女房で手を自分のマタへ入れさせて、つかませてくれる。学校では校長先生が運動場の隅でメンコ遊びしている女児童の前にしゃがんで、首をのばして腰巻のはだけた前をのぞきこみ、そら、めえとるぞ、めえとるぞとからかっていた。女の子は、いゃあ、校長先生の助平とたたきに行く、とほんまに天下泰平である。私も女の先生の尻めくりをやって、頭をとっつかまれてハカマの中へ押し込まれ、内マタの肉身で挟み込まれ息もできず、謝ってカンニンしてもらった。うつ向きだから毛のことはわからなかったが、その後もちょいちょい頭をとっつかまれオシッコかけたろかとからかわれる。男の先生の宿直に、近所のムラの娘や女が夜這いをかけた話など、子どもにまでどこからともなく伝わってきた。
(中略)
五つ、六つではママゴトだろうが、十三になれば実際に性交を覚えたということだ。加西郡のわらべ唄に、前記のようにオバハンにチンチンかまれた十三ムスコが、痛い、痛いと泣いたというのがある。同じ加西郡で、
あの子どこの子
こうやの子
チンポむけむけ
おばはんおばん(または、おばはん)
チンポむいてんか
ボボみせてんか
と唄った。オバハンが性教育するだけでなく、子どもの方から積極的に筆下ろしを頼んでいる。私の子どものときは、こうした唄をうたうのは六つ、七つから、せいぜい十歳ぐらいまでで、もうだいたいどんなことかわかるようになるとかえってうたわなくなった。
ところが十歳から十三歳ぐらいになると、オバハンたちがもうかわむけたか、まだむけとらんならむいたろかとからかうようになる。若い娘や嫁がからかうことはほとんどなく、嬶や後家たちであった。だいたい正月休み、春祭り、盆踊り、秋のシバカキなどに、機会があると筆下ろしをしたがる。どんな子どもでもということはなさそうで、やはり稚児趣味というべきだろう。女の方からの誘いは、もうかわむけたか、むいたろかと、お乳のみたいやろ、のましたろかの二つの型が多い。しかし十二、三歳にもなれば相手の女の好みもできてくるから、そうどんな女とでもというのはすくないだろう。十三から十五ぐらいまでに筆下ろしさせたコドモと、彼が結婚するまで面倒を見るという例もある。
普通、わらべ唄とか、童謡として採取・公表されているのは、まあ教育的なものばかりで、性的要素の濃厚なものは出されていない。そうしたもののなかには、筆下ろし関係の具体的なのもある。加古川市の童謡のなかで、
こんの(または、このやの)
かかみやれ
早よ、戸ォしめて
ちんちくオメコしようぞ
というのがあるが、これは筆下ろししてくれということだ。他にもいろいろとあるが、割愛しておく。ほんとの教育的立場からいっても、こうしたわらべうたこそ採取しておかないと、村落共同体の性感覚・性意識がわからなくなるだろう。
たとえばコドモの筆下ろしにしても、他のムラの子どもを誘うことはほとんどあるまい。他のムラの伯叔母たちが筆下ろしするということは、噂としては聞くが、事実か否かはわからない。もとよりフンドシイワイなどの儀礼とは別のはなしである。十三歳ぐらいで、フンドシイワイとか、包皮むきとかで筆下ろしを経験するのがどれほどになるかは推定も難しいが、想像するより多かったのでないかと思う。したがって十五の若衆入りの夜の筆下ろし儀礼と合して、村落共同体社会では十五でほとんど性交の経験をもったのである。それからは夜這いで、いろいろと性的経験を重ねて、結婚生活へ入るということだ。しかし結婚したからといって閉鎖してしまったわけでなく、ムラによっては自由に夜這いで解放しているのもあるし、祭礼その他の日とか夜とかには解放する限定型なども多い。むしろ完全に閉鎖してしまうムラなど、ほとんどなかっただろう。村落共同体社会の維持ということからいえば、それが当然であった。
商品経済の農村侵略、近代化によって売春産業保護政策のため、村落共同体の解放民俗が弾圧されたのである。わかりやすくいえばどのような形態であろうと売春産業からは税金がとれるが、夜這いからは一文の税金もとれないというのが実相であった。その根底には「富国強兵」の、国家的目的がある。なにを大げさなと思うかも知れないが、大陸や海洋の侵略戦争に慰安婦を従軍させた軍隊の発想は、こうした国家にして可能であった。侵略した国家の婦女子を襲うのは、どこの国家の軍隊も同じだが、初めから慰安婦として微発、従軍させるという発想は、とても正常とは考え難い。一夫一婦制だの、貞婦だの、純潔だのという教育勅語的発想が、いかにでたらめきわまるものであったかを明確に示している。私たちが村落共同体の性的慣習を解明しようとするのは、日本の農民の解放的な性的民俗とは全く異質な、こうした異常な国家的発想がどうして発生したかの糾弾にあるのだ。
(pp.274-278.)
「筆下ろし」にせよ、「水揚げ」にせよ、現在の価値規範からすると、明らかな性虐待である。
しかし、現在の価値規範から、かつてあった習俗を断罪するのは、不当の極みと言うべきであろう。
資本主義社会への転換とともに、商品経済の侵入によって村落共同体の崩壊がすすみ、若衆仲間も解体され、国家体制による一元的な大日本聯合青年団へ改組されたというのが、その凡その経過である。これは同時に若衆仲間を中心として、民衆がもっていた自由な性民俗、慣習が、一定の国家目的のために制限され、弾圧されるもとになった。しかし、それは一方においては一夫一婦制を中心とする家父長制家族の維持を指向したが、他方ではそれを崩壊させる売春産業の造出と、その保護をせざるをえない矛盾を発展させ、社会的性民俗と性意識の混乱を惹起している。
もともと私たちの性民俗、性意識は極めて自由闊達であり、七つ、八つから具体的な性教育を始め、十三歳にもなれば性交をも指導したのであり、純潔だの、貞操だのという国家目的的倫理観とは相容れないものであった。私たちが忠君愛国の国家理念に屈服し、性意識の自由を失ったとき、また思想・信仰の自由も失ったのである。
いま性の自由、性意識の自由を守るためにたたかうのは、すなわち信仰、思想の自由を守るためであることを、かつて治安維持法の弾圧に抗してたたかった者の一人として、切に希望せざるをえない。
(p.293.)
性愛の自由は、思想、良心、信条、信仰の自由にも通じるものだ。
このことを念頭に置きながら、いましばらく、ネオリベとエロス、ケアについての探求を続けたい。
夜這いなどの村落社会の性風俗、祭りなどの実際から部落差別の実際を描く。柳田民俗学が避けた非常民の民俗学の実践の記録。
“境界”においてこそ、多様な階級の農民や非定住民の生活様態が顕在化する―。祭りなどの非差別民の民俗、土俗信迎と夜這いの性民俗から非常民の実像に迫る赤松の代表作。「せめて村落共同体の最末期の環境と、戦時下における抵抗と屈従の歴史を残しておきたい」というのが唯一の目標であるとする赤松民俗学の遺産。
目次
1 民俗境界論序説―はしがきに代えて
無間の鐘を撞く
境界の調査と弾圧
非定住人の世界
性的民俗の境界性
都市民俗の連帯性 結びとして
2 村の祭礼と差別
酒見北條の節句祭り―播磨・加西郡北條町
農村の結婚と差別の様相
ムラとマツリ
3 土俗信仰と性民俗
新婚の民俗
土俗信仰と性民俗
共同体と“性”の伝承