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思いかえせば、猫も杓子も、「自己決定」、「自己責任」と念仏のように唱えるようになったのは1990年代のことであった。
何某、当初は、パンツを売ってたJKの小賢しさを称揚する際に使っていたが、調子こいて、売春する女性の自由をもことあげするに至っては、呆れるやは気持ち悪いやは、いやはや。ごく少数ながらセックスワークに従事するのを「自己決定」している女性はいるが、暴行されたり性感染症を患うリスクも考えあわせると、性別、年齢にかかわらず、ディーセントな労働、あるいは失業保険や生活保護により最低生活を保障されていれば、そうした「自己決定」など雲散霧消してしまうだろう。
さて、本書は、「安楽死」、「尊厳死」、「(脳死と)臓器移植」等における、「自己決定」および「自己決定権」の内実を深く掘り下げて考察した硬派の書物なのであるが、他者との関係性のなかで、アメーバーやリゾームのように変形する「自己」に、安易に決定だの決定権だの幻想を貼りつけてはいけませんわな、という至極まっとうな議論が展開されている。
「人権」を「自己決定できる個人」にのみ認めようという発想は、いきおい「自己決定できない個人」を排除し、善意のもとで死に至らしめることにもなるという問題は、「人間の尊厳」の美名のもとで生命が抹殺されかねない現在こそ、自覚されてしかるべきものであろう。
初版から約20年、「自己決定権」と「自己決定」は今や当たり前のものになった。しかし、その問題性は見えにくい形でますます広がっている。本書では、「自己決定権」が医療や福祉でどのように作用しているか、近年盛んにいわれる「人間の尊厳」という言葉がいかに巧妙に利用されているかを考えた。増補決定版にあたり、これら全ての問題が噴出した出来事として、「相模原障害者殺傷事件」「新型コロナ感染症」を詳論。
目次
序章 「自己決定権」とは何か
第1章 私はなぜ自己決定権を認めないのか
第2章 自己決定と自己決定権はどう違うのか
第3章 自己決定権と福祉国家の行方
第4章 死をめぐる感性、批判をめぐる感性
第5章 ノンと言いつづけることの重要さについて
終章 自己決定権批判の課題はどこにあるのか
増補第1章 「自己決定権」をめぐる二〇一八年の状況
増補第2章 鏡としての「相模原障害者殺傷事件」
増補第3章 新型コロナ感染症禍の現在を抉る―「新日本零年」に向けて
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