雨宮処凛・白井聡,2023,失われた30年を取り戻す,ビジネス社.(4.21.24)
ロスジェネ世代の雨宮さんと白井さんが、ロスジェネ問題をはじめとして、貧困問題、反フェミニズム、強権政治、対米従属等について語り尽くす。
興味深かったのは、本書において、少なくない者が就職難で不安定、低賃金の仕事にしか就くことができず、コロナ禍でさらなる生活困窮に追い込まれていったロスジェネ世代が、なぜ人間らしく生きていける権利の充足を要求すべく、連帯、団結して、異議申し立ての運動をしてこなかったのか──この疑問に答えることのできる、以下のような補助線が引かれている点だった。
雨宮 1990年代の鬼畜系サブカルの特徴は、すべてをフラットにしたことだと思います。右翼も左翼も死体もドラッグもゴミ漁りも、みんなただの「尖ったもの、エッジなもの、変なもの」として紹介されていた。私はサブカル雑誌で初めて右翼や左翼の存在を知りました。
しかもそういう雑誌のスタンスは基本的に嘲笑です。「左翼の奴らがとんでもないビラをまいてたぞ」とか「右翼がこんなことしてた」「部落解放同盟は昔こんなことやってたぞ」など、とにかくまとめて馬鹿にし、見下し、笑う。
白井 なるほど。そう考えると我々の世代、ロスジェネのカルチャーの背骨をなしているのは「冷笑」「嘲笑」となりますね。「我々の世代のカルチャーとはすなわち冷笑、嘲笑である」。いきなり端的なる結論が出てしまった。
雨宮 それが2000年代になって、ネットでただで見られるものになった。そうしたら、その手の雑誌はみんな廃刊してしまった。
白井 そのネット社会の総本山が「2ちゃんねる」(現「5ちゃんねる」)でした。考えてみれば、ひろゆき(西村博之)は我々と同時代、同世代です。雨宮さんは、ひろゆきをどう評価しますか。
雨宮 うーん、私より1歳年下で彼もロスジェネですよね。好きではないですが、ああいうスタンスって同世代としてどこかわかるというか、結局自分は何もせず高みの見物をして嘲笑するというのが、もっともリスクを取らない上、自分を賢く見せられるということを熟知していますよね。新基地建設反対の座り込みがされている辺野古でのふるまいなんかも。
だって私たちロスジェネは何かを訴えて、その声がどこかに届いたことなど一度もない。どころか、無視され続けてきた。声を上げて無視され続けてる人って間抜けに見えてしまうから嘲笑されるし、すでに諦めた人間からするとものすごく目障りなんですね。こっちはとっくに諦めて思考停止してなんとか折り合いつけて生きてるのに、まだ何か変えられると期待してるのか、と。そういう人たちにとって、ひろゆき氏のスタンスは共感できるものなんだと思います。代わりにバカにしてくれる。
白井 その解釈はとても当たっていると思います。冷笑して、なにもかも馬鹿にしてきた。そこでのアイロニーは、いくら冷笑、嘲笑したところで、お腹が一杯になるわけではまったくないことですね。冷笑、嘲笑のカルチャーは、共感や連帯も生みません。
雨宮 ただ私自身、サブカルにどっぷり浸かっている時、ひろゆき氏みたいなスタンスだったと思います。で、同じサブカル趣味の人たちと地獄みたいなコミュニケーションをしていた。
白井 地獄のコミュニケーション(苦笑)。
雨宮 誰かを冷笑して嘲笑することしかしていなかった。高みの見物をして誰かを上から評価して馬鹿にするだけ。
白井 冷笑、嘲笑のカルチャーが日本の社会にもたらした害悪は、相当深刻です。ろくなもんじゃない。
雨宮 今から思い出しても、すごく不毛だったけど、当時の私には必要だった。自分がフリーターで社会の最底辺で日々踏みつけられていたから、誰かをバカにしないと生きていけなかった。そう思うと、今のひろゆき人気の理由もよくわかります。
白井 まあ、僕は中高が私立の男子校だったんで、男子校文化のなかで育ったから、それで口は悪くなり、その後大学に入ると小生意気なワナビー知識人文化(wannabe/「○○になりたい」の意)に染まった。仲間内で話していると、誰が最高に辛辣なことを言えるか競争みたいになるんですね。
早い話が誰かをバカにしたり見下したりするってのは楽しいわけです。だけど、そこにも倫理的な一線はあるわけで、社会的弱者とか貧困者とかを見下したりバカにしたりするのは醜い。逆に強者、支配者、権力者を風刺したり嘲笑したりするのは、それ自体が抵抗の1つの形態でしょう。
(pp.104-106)
反貧困運動をはじめとして、至極まっとうな主張が展開されても、わが身を重ねて共感し、自らも声を上げるということなしに、「自分は当事者ではない」と高をくくり、高所から、運動なり主張なりを冷笑、嘲笑する。
1990年代のサブカルに端を発するシニシズムが、その後の社会運動の停滞を招来したという知見は、重要だ。
雨宮 (前略)
そこで、ひきこもり当事者はなぜ連帯しないのかという話題になった時に斎藤さんが言ったのは、彼らはお互いに軽蔑し合っていて、みんながみんな、その辺のひきこもりと一緒にされたくないと思っている、だから連帯なんかしないんだ、と。それを聞いた時、まさにこれだと思いました。
困窮者支援の現場に来る人たちも、お互いを心の中で軽蔑し合っているんだと思います。「自分は派遣で必死で働いてきて、たまたま不運が重なって野宿になっただけで、怠け者のこいつらとは違う」という感覚でしょうか。
そう思うと、すべてに納得がいくんですが、それだと絶対に連帯なんてできません。軽蔑している相手と手を組むなんてできないし、それぞれの「あいつらとは違う」というプライドが、かろうじて彼らを支えるアイデンティティにもなっている。
白井 「俺はものすごく運が悪くて、ここまで落ちぶれたんだ」「同じ炊き出しの列に並んでいる奴は怠けているから、こうなった。自分とは違う」と、みんながお互いにそう考えているというのは、地獄ですね。
雨宮 誰も連帯できない関係性は、権力側からすればすごく都合がいいですよね。私はずっとロスジェネの連帯がないことに歯がゆさを感じていて、でもホームレス状態とかになったらさすがにみんなキレて連帯が生まれるかも、と思っていました。実際、山谷(東京都台東区、通称「ドヤ街」)なんかの現場では日雇い労働者たちの連帯があったし、今もそれは継承されている部分があります。
ところが、ここ数年でロスジェネには無理なようだと気づき始めました。彼ら自身が強烈な自己責任論者だからこそ、困窮している他者を「自己責任」だと思う。
(後略、pp.200-201)
そしてネオリベ──この略語は「だめ連」のぺぺ長谷川さんが考案したものらしい──のメンタリズムの中核にある、あの、すべての問題を自己責任に帰す感覚と価値観。
「自分は困窮しているけれども責任は果たしてきた。困窮が自己責任でしかない他の怠け者とはちがう。」──こうした自己の尊厳を守るための欺瞞が、連帯を阻み、分断を強化してきた。
これも、現状を正確に把握するためにも、重要な知見であろう。
わたしは、雨宮さんにも白井さんにも、むかしから注目してきたし、ずいぶんと啓発されてきた。
以下、どの著作もおすすめである。
雨宮処凛,2023,学校では教えてくれない生活保護,河出書房新社.
雨宮処凛,2022,祝祭の陰で 2020―2021──コロナ禍と五輪の列島を歩く,岩波書店.
雨宮処凛,2022,生きのびるための「失敗」入門,河出書房新社.
雨宮処凛,2021,コロナ禍、貧困の記録──2020年、この国の底が抜けた,かもがわ出版.
雨宮処凛編著,2020,ロスジェネのすべて──格差、貧困、「戦争論」,あけび書房.
雨宮処凛編著,2019,この国の不寛容の果てに──相模原事件と私たちの時代,大月書店.
雨宮処凛,2018,非正規・単身・アラフォー女性──「失われた世代」の絶望と希望.光文社.
雨宮処凛,2017,『一億総貧困時代』集英社インターナショナル.
上野千鶴子・雨宮処凛,2017,世代の痛み──団塊ジュニアから団塊への質問状,中央公論新社.
雨宮処凛 ,2010,『反撃カルチャー──プレカリアートの豊かな世界』角川学芸出版.
雨宮処凛,2008,怒りのソウル──日本以上の「格差社会」を生きる韓国,金曜日.
雨宮処凛・萱野稔人,2008,『「生きづらさ」について──貧困、アイデンティティ、ナショナリズム』光文社.
雨宮処凛,2007,『プレカリアート―デジタル日雇い世代の不安な生き方』洋泉社.
雨宮処凛,2007,右翼と左翼はどうちがう? (14歳の世渡り術),河出書房新社.
内田樹・白井聡,2016,属国民主主義論──この支配からいつ卒業できるのか,東洋経済新報社.
北田暁大・白井聡・五野井郁夫,2016,『リベラル再起動のために』毎日新聞出版.
白井聡,2013,永続敗戦論──戦後日本の核心,太田出版.
嘲笑と冷笑だけが武器!?
国境をこえ、貧乏人で連帯?
もはや焦土からの再出発しかないのか?
就職氷河期世代=ロスジェネ2000万人で「失われた30年」を取り戻す!
目次
第1章 ロスジェネ、失われた30年
出会いは映画『遭難フリーター』
とりあえず右翼に行ってみた! ほか
第2章 病み、壊れゆく、ロスジェネの闇
暇空茜というロスジェネ
「フェミを葬れ!」という恐ろしい情熱 ほか
第3章 右翼とカルトと国体と
『戦争論』と右傾化第一世代
90年代の政治 ほか
第4章 米中危機と暴走する自民党政治
露呈した安倍体制の腐ったはらわた
安倍、高市、岸田の「3人金太郎飴」 ほか
第5章 起て、ロスジェネ!点火せよ、怒りを!
ロスジェネは放置されっぱなし!
ネオリベラリズムからの自己責任社会 ほか