このレビューは、半分、備忘録代わりに自分のために書いている。もちろん、これを見ておもしろそうな本だなと思った人にも読んでもらえたらなという気持ちもある。したがって、とことんつまらない本は取り上げないことにしているが、銭をとって読ませるにしては不誠実な、あまりに無責任に垂れ流される駄本をやり玉に挙げることはある。本書もそうだ。
語句や「てにをは」、読点の使い方、主語と述語の呼応などの文法ともに、あまりにひどすぎる。とくに、第1章はほぼ壊滅状態である。中学生レベルの文章作法さえ身についていない者が、安くないお金を出させて本を売るべきではなかろう。
本書は、立命館大学に提出された博士論文を元にしたものらしいが、このような破綻した文章で書かれたものに博士号を出すとは不見識にもほどがある。立命館や関西学院などの私学には、院生に安直に学位を出して、汚いやり口でアカポスにねじこむ、意地汚いというか恥知らずというか、要するにクソみたいなというより、クソそのものの連中がけっこういて、そんなことしてるから、社会学にしろ、社会福祉学にしろ、ますますオワコンになってしまうのに、なに考えてんだか、要はバカなんである。
大学院の指導教官は、あまりにひどい文章であれば、ひとまず突き返し、書き直させるべきだろう。どうしても学位を出したいのであれば、添削も行うべきだろう。安易に学位を出し、ろくにまともな文章が書けない御仁が、アカポスに就き、学生の論文指導をするなんて、洒落にならないではないか。
怖ろしいのは、当の指導教官自身が、まともな文章作法をわかっていない可能性があることだ。いや、むしろ、その可能性の方が高い。
こういう本を出した出版社も悪い。立命館にしろクリエイツかもがわにしろ、恥を知れ、と言いたい。
なお、本書に評価できる点がないわけではない。問題意識は悪くないと思うし、字数をかせぐためか同じことを何度も繰り返すのはいただけないが、認知症の当事者と家族、支援者等が、釧路、大牟田、町田等で展開してきた地域活動については、文章表現の瑕疵にげんなりしながらも、いくらかは学ばせてもらった。
それだけに、惜しい。立命館できちんとした文章指導をしてもらえなかったと思しき、手島さん自身を不憫にさえ思う。
認知症とともに生きるまちとは、どのような構成要素が備わり、その力がどのように発揮されるまちなのだろうか。認知症の人と家族による当事者運動の実践が果たす役割、認知症の人や家族と協働することで組織化されてきた住民活動の実践が果たす役割の2つの視点から検討する。
目次
序章 本書の目的と構成
第1章 認知症の当事者運動とまちづくりの研究動向
第2章 日本の認知症施策と当事者運動の経緯
第3章 先駆的な地域のまちづくりの実践
第4章 全国で展開されているプログラムの実践
第5章 「認知症とともに生きるまち」の考察―その構成要素の析出と推進力の把握について
終章 本書が明らかにしたこと
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