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性暴力の加害者となった君よ、すぐに許されると思うなかれ──被害者と加害者が、往復書簡を続ける理由

斉藤章佳・にのみやさをり,2024,性暴力の加害者となった君よ、すぐに許されると思うなかれ──被害者と加害者が、往復書簡を続ける理由,ブックマン社.(10.16.24)

加害者は、被害者のことを知らない。国内最大級の依存症専門クリニックで、性加害者への再犯防止プログラムに取り組む斉藤章佳。彼らが自らの加害行為の責任に向き合うためには、性被害者の「その後」を知る必要があると気がついた。そんなとき、当事者のにのみやさをりと出会う。にのみやは、斉藤に単刀直入にこう言った。「私は加害者と対話したいのです」―そこから始まった前代未聞の修復的対話。本書はその貴重な記録と考察である。

 性暴力は、加害者にとってはひとときのできごとに過ぎなくとも、被害者にとっては、一生背負い続けることになりかねない、長期にわたる苦しみの始まりだ。

少なくとも私の加害者は、私への加害行為、その行為だけを取り上げて謝罪していたと私は感じました。だからこそ、被害後人生そのものが丸ごとひっくり返ってしまった被害者である私にとって、納得がいかないものだったんだと思います。
加害行為は、いってみれば一瞬ですよね。一瞬の出来事、です。でも。被害者はその後の人生がたとえば五十年残っていたとして。その五十年を丸々、ひっくり返ったまま滅茶苦茶なまま、生き続けていかなければなりません。それがどんなしんどいことか、とてつもない残酷なことなのか、きっと今のHさんなら想像できますよね? 
──2019年4月にのみやさんからの手紙

(pp.196-197)

 にのみやさんは、性暴力被害に遭ったあと、30年近くのあいだ、苦しみ続けた挙げ句、性暴力加害者と対話し、彼らがなぜ性加害をなしたのか、知り、理解しようとする。

 性暴力加害者は、被害者を「人」ではなく「モノ」とみなす。

 自らの脆弱な自尊心を回復させるために、被害者をモノとして傷つける。

(前略)
人をモノとして扱えば、傷付くことはよく分かっています。だからこそ、人をモノ化することが、最上の悦びにつながるのだと思います。人を支配することで、傷つけられた自尊心は回復するし、自分は生きていていいんだなとも思える。モノというよりは、私の人生を豊かにする生贄という方が正しいかもしれませんね。
──2021年7月 にのみやさんへの手紙
(p.138)

 人を傷つけて回復する自尊心とは理解に苦しむほかない。
 歪みに歪んだ認知の枠組みに戦慄する。

 性暴力加害者には、自らもかつて虐待や暴力の被害を受けた経験をもつ者が多い。

 人間ではない、人ではない・・・・・・から「ひとでなし」。それがモノ化なのだということです。実際、加害行為を繰り返してきた人たちの多くが、過去になんらかの被害を受けた経験があったのは先述のとおりです。自己を否定され、踏みにじられ、ないがしろにされてきた経験です。子ども時代のものもあれば、大人になってからのものもあります。壮絶ともいえる被害に遭った人もいます。そこには性被害も含まれ、子どもの頃に家族から性虐待を受け続けてきたという告白もありました。
(p.144)

 もちろん、だからといって、加害行為が免責されるわけではない。

 「男は自らの弱みや苦しみ、痛みを表出してはいけない」、「男は援助を希求してはいけない」といった「男らしさ」の受容が、他者の「弱みや苦しみ、痛み」を想像する感受性を著しく減退させる。

 なぜ、男らしさの押し付けも被害体験に数えるのか。回答を見ていると、男性という性で日本社会を生きてきた彼らにとって、自分が踏みにじられたのだと認めることに、高すぎるハードルがあると感じるからです。我慢強くあらねばならぬ、弱みを見せてはならぬ、泣いてはならぬ──痛みを否認し〝男らしさ〟に適応してきた彼らには、被害を受けたこと自体が弱さの証となり、それを口にして助けを求めることは甘えになります。
 このように、痛みを痛みとして承認されずに育ってきた男性は多数いるでしょう。私自身もかつてはそうでしたし、子育て中の今、息子が感じる痛みをつい否定してしまったこともあります。対話プログラムに参加している彼らも同じく痛みを否定され、もしくはその痛いという感覚に「痛み」という言葉を与えられず、感覚の主体を周囲の大人たちに奪われてきたのかもしれません。
(pp.145-146)

 男性による性暴力を抑止していくのに必要なのは、男性が「感覚の主体」としての自分を取り戻していくことだ。

 自らの被虐経験を否認する加害者もいる。

 否認するのは、それを認めると「男らしさ」がそこなわれてしまう(と思い込んでいる)からであり、被虐経験により傷ついた自尊心は、女性を性暴力により支配することでひとときの回復を果たす。

 自分が踏みにじられたのだと気づきにくいという現象は、家庭内性虐待の被害者男性にも顕著に現れていました。彼は自身の被害体験について話した後、「そんなこともありましたけど、別に被害ってほどの大げさなものではないです」と締めくくりました。彼の体験を具体的に聞けば、誰もが過酷だと感じるであろうにもかかわらず、です。
 子どもの頃の性暴力は性別を問わず、「被害に遭った」と認識しにくいものだということは、すでに世界中の研究であきらかになっています。自分がされていることの意味がわからなかったり、性的グルーミング(手なづけ)によって愛情だと思わされていたり、被害時に解離していてそのことが一時的に、ときに長期にわたって記憶から抜け落ちていたりするためです。男性の場合はそれに加えて、「男性は性暴力の対象にならない」という思い込みが強くあったり、被害に遭うとは男らしくない、自分が弱くて情けない人間だからだと感じていたり、自分は同性愛者なのかもしれないと混乱したりすることで、被害を「認めない」という方向に働きます(『男性の性暴力被害』宮崎浩一、西岡真由美 集英社 2023年)。
 「男性とはそういうものだ」というイメージが先にあり、それが被害認識を持つ邪魔をするのです。女性の被害者はレイプ神話によって認識を持つのが難しくなり、男性の被害者は男らしくあらねばならぬという思い込みから認識を持つのが難しい、という傾向が強いように見えます。
 自分の被害を被害と認められない男性の場合、フラッシュバックや自傷行為といった症状として表れることは少ないように見えます。しかしそれは決して、平気という意味ではありません。心の奥底にある箱のようなものに傷を押し込め、重しを載せ、封じ込めているだけでしょう。箱を未来永劫閉じておくことはできません。気づかぬままに本人を蝕み続け、そのはけ口として新たな被害者を生む――この連鎖は、早めに断ち切らなければなりません。

 対話プログラムの参加者に被害体験を尋ねたところ、「ない」という回答も多くありました。本当に「ない」のか、認識できていないだけなのかは、簡単に判断できないところがあります。「本当は被害を受けていますよね」と聞き出すことは賢明ではありません。加害者としてのその人が回復のどの段階にいるかによっては、被害者性にアプローチするのが危険な場合もあります。私の経験上、あきらかな症状を呈している人よりも、自分の感情を凍らせて男らしさに過剰適応し、「自分は被害なんて受けたことがない」と否認しなが生きてきた人のほうが、慎重にアプローチしなければいけないと思っています。
(pp.146-148)

 性暴力のなかでも、痴漢や盗撮は、性依存症の典型であるが、それは、「負の強化」、「不適切なストレスコーピングが習慣化した」ものである。

 人は辛くて辛くて仕方がないときに、アルコールやドラッグ、ギャンブルといったものに助けを求めます。それらをストレスへのコーピング(対処法)とすることで、生きているのもしんどいという状態を一時的に紛らわすことができるからです。つまり苦痛の緩和のために、ある物質や行為に耽溺するのです。これを自己治療仮説といい、繰り返すうちに行為がエスカレートしていき頻度や量が増え、やがて気づいたときにはコントロールできなくなっています。つまり「負の強化」、不適切なストレスコーピングが習慣化した状態が、依存症なのです。
 依存症は、周囲を恐ろしい力で巻き込む〝関係性の病〟でもあります。問題行動を起こすたびに周囲は手を焼き、尻拭いせざるを得ません。そこで不適切なコーピングに耽溺するのは、「助けてほしい」「自分をケアしてほしい」というメッセージを発信しているのだとする解釈もあります。このメッセージは、〝パラドキシカル(矛盾した)メッセージ〟と呼ばれています。その切実さとは裏腹に、依存症が進行するほど周囲は手を差し伸べるにも限界があると感じ、その人から離れていきます。助けを強く求めるほど本人は最終的に孤立してしまうのですから、なんと皮肉なのでしょう。依存症が〝孤独の病〝ともいわれる所以です。
(pp.152-153)

 性暴力の加害者は、行為を完遂できたとき、被害者に自らが受容されたとさえ思うのだという。

 性暴力は、他者の自尊感情を踏みにじる人権侵害行為です。それによって自身の自尊心や優位性を回復できると彼らは経験的に知っています。その認知が大きく歪んでいることは間違いありません。性加害をした自分のことを「こんなことは俺しかできない」と思い自分は特別だと感じた、成功したことで自分がレベルアップしたと感じたなど、表現はさまざまですが、「自分は無価値だ」というところから回復し、なお余りあるほどの自信を、彼らは加害行為から得ていたのです。
 加害行為をした相手が「自分のことを受け入れてくれた」と感じる、というのも多くの加害者から聞きます。自尊感情が著しく低い彼らは、こんな価値のない自分だと他者に受け入れてもらえないかもしれないという恐怖があるため、加害行為を完遂できた自分は「受容されたのだ」という強烈な感覚を得ます。自分でも数え切れないほどの被害者を出していた常習的な痴漢加害者が、「痴漢をしているあいだは、受け入れてもらっているという安堵感があった。なんとも言えない温もりを感じていた」と話していました。被害者の多くは、恐怖のあまり動けなくなっていただけ、という想像力が大きく欠落しています。

 ここまでで、彼らの問題行動の本質とは、性欲が根底にあるものではないことはわかっていただけたと思います。「受け入れられた」、そして「自尊感情が回復した感覚」は、性的快感を大きく凌駕するものなのかもしれない、と彼らの話を聞いていてたびたび感じることがあります。だからこそ耽溺する、虜になる、生きがいになる。しかもそれは、逮捕という「社会的な死」と常に背中合わせ。いつか必ず破綻するのだとどこかでわかっているからこそ、今やめられないのです。
(pp.161-162)

 あらためて、歪みに歪んだ認知の枠組みに戦慄する。

 斉藤さんは、歪んだ認知の枠組みと承認欲求を、さらに深堀する。

 女性に受け入れられなかったことで傷つき、女性を恐れたり恨んだりするのは、子どもに性加害をする人にもよく見られる現象だと感じます。拙著『小児性愛という病 それは、愛ではない』(2019年 小社刊)発売直前、SNSでこんな投稿がバズりました。「同世代との関係性で挫折したボクたちから、子どもを性の対象として消費する権利まで奪うのか」
 この投稿には数万もの「いいね!」がつきました。同年代の女性との恋愛に挫折し、そのことで女性を恨み、ミソジニー(女性嫌悪)といっていい状態に陥る人は現実社会にー定数います。その全員が全員、「小さい子どもなら拒絶されない、自分を受け入れてくれる」という偏った認知を持ち、性加害に至るわけではありませんが、これまで私が、小児性愛障害の診断がついた人、実際に子どもに性加害した人の多くから、同様のエピソードを聞いてきたのも事実です。
 小児性加害者でなくとも、女性への逆恨み、嫌悪感が問題行動につながっている人が少なからずいると感じるのは、参加者から「女性が傷ついたことがうれしい、興奮を覚える」という発言があったときです。
 あるとき対話プログラムで、「女性を傷つけることで満たしたい欲求とは何か」を尋ねたところ、次のような回答が集まりました。

●対戦ゲームで勝利するような感覚
●何でもいいから誰かに勝ちたい
●「さびしい」「取り戻したい」
●女性に対する劣等感の払拭や復讐心
●ざまあみろという感じ
●女性になんらかの影響を与えたという満足感
●自分の男性としての立場を保証できる安心感を得ること
●支配欲
●自分を認識させる手段、承認欲求

 自分を承認しない女性を恨む、それによって女性に復讐するかのごとく性加害をし、傷ついた女性を見て歓びと興奮を感じる。ここにも歪んだ承認欲求が見て取れます。こうして得た充実感は、すぐに消えてなくなるでしょう。彼らが抱えている承認欲求の問題は、何も解決されていないからです。そうして次のターゲットを探すことになる・・・・・・やはり彼らが自身の承認欲求を自覚しないと悪循環はいつまでも続き、行動変容につながっていかないと思います。(後略)
(pp.183-185)

 にのみやさんは、性暴力加害者たちに呼びかける。

(前略)
性犯罪加害者になってしまった君よ、すぐに被害者に許されようとか思わないでくれ。そうではなく、ここからどう生き直すのか、そもそも自分がなぜこんな罪を犯したのか、それはどれほどのひとや時間を巻き込み、誰かの人生を薙ぎ倒したのか、等々、他人に問うのではなく自分で考えていってほしい。問うて誰かが応えてくれる、それで安心してしまってはならないんだ。常に自問自答を続けること、それが、いかに生きるかに繋がるのだから。その姿を、生き様を、被害者はじっと見つめている。
更正、じゃない。更生、なのだ。
罪を犯したその先にあるのは更正じゃない。更生、だ。私はいつもそう思っている。だからこそ、今ここから何ができるのか、どう生きるのか、実際どう生きているのか、が常に問われていると思う。生き様で示せよ、赦されたいと本気で思うのならば。
赦されようと赦されまいと、自分はこう生き直すのだ、こう生きるのだ、と。懸命になってくれよ。
そう言いたくなるくらい、被害者は日々、一瞬一瞬、綱渡りの生を生きてるんです。
──2021年11月 にのみやさんからの手紙
(p.205)

 なぜそんなひどいことをするのか、できるのか──これが性暴力加害に対する多くの人の疑問だろうが、本書は、加害者の歪んだ認知の枠組み、自尊感情、承認欲求に深くメスを入れた好著であるように思う。

 加害者の更生プログラムが遂行されないことには、性暴力は抑止されない。
 被害者支援の充実ともども、加害者が性暴力をはたらかなくとも生きていくことができるための支援が必要だ。

目次
第1章 被害者の“その後”を語る対話プログラム
「忘れられないから」苦しむ
自分の加害行為を過小評価する加害者 ほか
第2章 性加害を自分の言葉で語ることの難しさ
あなたの「弱い話」が仲間の強さになる
語らずに身を潜める加害者 ほか
第3章 「認知の歪み」を理解するために
レイプ神話は誰がつくるのか
なぜ自分だったのか、の答えを探すのはいつも被害者 ほか
第4章 性暴力の加害者となった君よ、すぐに許されようと思うなかれ
謝罪というパフォーマンス
許されることを前提としている傲慢さ ほか


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