菅野久美子,2023,生きづらさ時代,双葉社.(3.1.24)
(著作権者、および版元の方々へ・・・たいへん有意義な作品をお届けいただき、深くお礼を申し上げます。本ブログでは、とくに印象深かった箇所を転載していますが、著作権を侵害する意図はまったくございません。それどころか、これを読んだ方が、この素敵な本を買って読んでくれるであろうこと、そのことを確信しています。)
(自分語りが多くなってしまいました。ブックレビューとしては不適、かもしれません。読むのは時間の無駄かも、です。)
菅野久美子さんは、『孤独死大国──予備軍1000万人時代のリアル』、『超孤独死社会──特殊清掃の現場をたどる』、『家族遺棄社会──孤立、無縁、放置の果てに』等、「特殊清掃」の現場に身を置き、優れたルポルタージュを手がけてきた、その人である。
菅野さんが、経験した「孤立死」の諸事例は、自らの受苦経験にダイレクトに結びつくものであった。
だけど、今ならいえる。それは私自身が、この社会に対して生きづらさを抱える当事者だからだ。本当の私は人一倍もろくて、弱い、怖がりの人間だからだ。私は幼少期にいじめに遭い、不登校になり二年以上、ひきこもった経験がある。そしてつい最近まで毒親に苦しめられてきた。
取材をしていると、死者との共通点を見つけることがよくある。ごみの中から写真やメモなどが出てきて、故人の不安や悩み、人生に対する絶望にふと触れてしまう。そんなとき、とてつもない「痛み」が、電流のように心と体を駆け巡る。私の「傷」がパックリと口を開き、疼きだす。誰かの生きづらさの痕跡が、私のこととして迫りくる。長年の現場取材でわかったのは、生きづらさは個人的な問題のように見えて、放射状に様々な社会問題と繋がっているということだ。つるつるとした社会の片隅で、一度の挫折によって生きる力を無くし、安々と命を奪われる人々―。それは、「在りし日」の私だったのかもしれない。だからこそ、そんな思いが原動力となり、取材者としての私を突き動かしてきた。
私のことを「炭鉱のカナリア」と呼んだのは、トークイベントなどでよくご一緒している社会学者の宮台真司さんだ。恐れ多いが、言い得て妙な表現かもしれない、と思う。
私が時代の危機を知らせる「炭鉱のカナリア」であるならば、それはこの令和という時代特有の生きづらさと、私個人の生きづらさが、どこかで響き合ってやまないからなのだろう。
(pp.6-7.)
母の顔色ばかり見て生きてきたこともあり、私は自己肯定感が低く、常にオドオドした性格となった。まるでピエロのように人の前でへらへらして、誰にでも媚びへつらってしまう。たとえ自分の人格を貶められても、素直に怒りを表明することができない。これは今でも変わらない。
家庭で人格のない存在として扱われることには慣れっこだった私が、学校でいじめの餌食になるまでさして時間はかからなかった。
学校という閉鎖空間は、弱肉強食の社会だ。弱い人間はすぐに見抜かれ、格好のターゲットとなる。小学校中学年になると、私はクラス全員から無視され、少しでも誰かに近づくと「死ね」「クズ」「キモイ」と罵られるようになった。いじめは人の心をじわじわと殺す行為で 精神的、肉体的になぶり殺しにされた私は、ついに不登校になった。そして家にひきこもるようになる。
(p.18.)
わたしも、菅野さんと同様の経験をしている。
親から受けた虐待については、すでに書いたことがあるので繰り返さない。
わたしは、中学二年時に、KM市のKR中学から、KK市のKK中学に転校した。
親の転勤にともなう転居によって、である。
KK中学は、温泉街のあるひなびた地方都市にあった。
ヤクザの息子がその中学を牛耳っていた。
教師も報復を怖れてすべてのことに無関与、であった。
「都会から来た生意気な奴」、「女みたいな奴」、ということで、いじめの標的となった。
ヤクザの息子は、土下座すれば許してやる、と言った。
へ?許すもなにも俺お前になにもしてねえし。
土下座を断った後、壮絶ないじめが始まった。
休み時間になると、10人以上の男子生徒が、わたしに、襲いかかる、、、
手足を押さえられ、ベルトを剥ぎ取られ、ズボンと下着をを脱がされる、、、
下半身がすっぽんぽん、となる。
女子生徒たちが、キャーキャー言いながら、それを見てる、、、
中学二年生にとって、剥き出しのおしり、股間、外性器を、女の子に見られてしまうことが、どんなに、恥ずかしいことなのか、屈辱であるのか、、、
毎日毎日、何度も何度も同じことが繰り返された。
自殺していてもおかしくなかっただろう。
しかし、母親方の血統だろうか、わたしは、とてもメンタルが強かった、のかもしれない。あるいは、たんに、自殺念慮がなかっただけ、なのかもしれない。
いつのことだったろう、いじめの首謀者の一人で、剣道部主将のI という奴が、首吊り自殺、した。
たしか、叔父かなにか、親族の教師がいて、悲痛に沈んだ表情をしていたのを、覚えている。
いじめの加害はけっして許さなかったが、いじめる側も、辛い思いをしていて、もしかしたら、それに耐えられなくて、ひどいことをするのかもしれないな、子どもながらに、そんなことを考えたことを覚えている。
わたしは、幼少期から、道化、だった。
人を笑わかすこと、喜ばせることが大好きで、そのためだったら、どんなことでもした。
中二か中三だったか、忘れてしまったが、運動会の余興で、「おまえ女みたいだから女装して出ろ」ということになって、ふだん、あんなにひどいことをされているのに、所詮は、道化、わたしは、女装し、リアカーの上から、やんやとさざめく人々に手を振り続けた。
と、書いてきて、あまりに、情けなくて情けなくて、そうとう、辛くなってしまった。
記憶は封印しておいた方が良い、そんなケースもあるのかもな。
虐待、性暴力、パワハラ、セクハラ等で傷つき、自己肯定感が低く、また、孤独に沈む女性たちのあいだで、女性向け性風俗が人気、なのだという。
女性たちの「買う」動機は様々で、単なる性風俗という枠には収まらない多様さがある。
例えば、取材したある女性はハグをしてほしくて6時間にわたってセラピストとときを過ごした。また、ある女性は最愛の母親の死後、襲いくる孤独感や寂しさに耐え切れず、セラピストを何日も続けて呼んだ。そこには単なる性欲解消という単純な目的では割り切れない女性たちの生きづらさが横たわっている。
(p.50-51.)
現に女性用風俗の世界をテーマにした私の連載では、「沼落ち」の記事が公開から時間が経ってもアクセスランキングの上位に入っている。きっと「沼る」ことに思い当たる人が多いから、ずるずると読まれ続けているのだろう。私がインタビューした女性たちは、「沼」にハマって心身ともに病み、金銭面でもボロボロになった自身の経験や、知り合いの末路についてとめどなく喋った。彼女たちは、本当は寂しさを埋めてくれる心が通じ合う唯一無二の誰かを求 めていた。だが、それは容易には手に入らない。そんな女性たちの苦悩に触れていると、いつも心がヒリヒリして辛かった。
(p.122.)
シャワーを浴びてベッドで起きたセラピストとの体験は、麻衣さんにとって一言でいうと 「感動」そのものだった。麻衣さんは口でしてあげたり、舐めてもらったり、自分の体に指が入ったりする未知の体験をした。
(p.54.)
なんか、わかる。
「女が女を買う」ということについては、あまり嫌悪感を抱かない。
おそらく、そこには、暴力というものが介在しないだろうから。
しかし、「男が女を買う」のはどうか、、、
わたしは、激しい嫌悪感を抱く。
なぜなら、セックスという行為自体が、男性から女性への暴力を内包するものであるから。
嫌悪するもう一つの理由は、男と女の間に、大きな経済格差があるからだ。
とくに、ネオリベに席巻された社会においては、一部のオヤジに富が集中し、オヤジが若い女を買う、という最悪、醜悪な構図ができあがってしまった。
言っておくが、わたしは、セックスワーカーを蔑視しているわけではない。
金銭のために、「制限時間内に性的サービスをすること」は卑しいことでもなんでもない。
それにしても、自分が実際に女風を体験してわかったのは、性は人間の実存と切りはなせないということだ。麻衣さんや、香織さん、そして私が辿った道は、それぞれに違う。しかしコンプレックスを抱えた自分が、何らかのアクションを起こし、ある境地に達したという意味では共通している。きっと人生に正解なんてない。
(p.62.)
そうだよね、「性は人間の実存と切りはなせない」、たしかにそれは真実だ。
わたしは、長いこと、そのことを無視してきた。
セクシュアリティの問題に深入りすると、自らの体験質が明るみに出てしまう、そのことが恥ずかしかったのだろう。
しかし、『実存的貧困とはなにか──ポストモダン社会における「新しい貧困」』を読んで、考えが変わった。
そして、わたしは、いま、ネオリベ批判、エロス、ケアを語り尽くせるような、そんな書物を書く野望に、萌えて、いや、燃えている。笑
結婚で傷つき、離婚後の婚活でもまた傷つく女性もいる。
涼子さんもその一人だ。
暗澹たる気分になりながら、ふと何気なく私は視線を後ろの席にやった。
そこには大学生と思われるスレンダーな黒髪ストレートの女の子と、髪の薄い50代くらいの男性がゴージャスなスイーツタワーを囲んでいた。二人は初対面のようでどう見ても、父と娘には見えなかった。きっと今流行りのパパ活だろう。これからあの女の子は、男とこのホテルの一室でセックスをするのだろうか。ぼんやりとそんなことが脳裏をかすめる。パパ活に慣れていないのか、女の子はどこかぎこちなく、幼さが残る横顔が引きつっている。
涼子は、結婚しているときの自分を「売春婦のようだった」と振り返り、「結婚生活で、心が死んでいった」と表現した。 そして、またそうなろうとしている。あのパパ活女子と目の前にいる涼子は、どこか似ているような気がした。
(pp.70-71.)
涼子さんは、婚活で知り合った、高収入、安定職の二人の男の言動に、深く、傷つく。
一人はマザコン、一人は変態セックスプレーを強要する、どちらもクズである。
しかし、涼子さんは、けっして高収入とは言えない、50代後半の職人と出会う。
「ねぇ、久美ちゃん!私ついに良い人見つけたんだ!」
そんなLINEが飛び込んできたのは、涼子とホテルで会った日から数か月後のことだ。平日の昼下がり、彼女の夜勤明けに、私たちはZOOMの画面越しに向かい合った。婚活を始める前のように、目にキラキラとした輝きが宿り、生き生きした表情に変貌している。
彼女に何があったのだろう。私は身を乗り出した。
(p.71.)
「ねえ、聞いて聞いて。彼はすごくピュアな人なの。会った瞬間から優しくて絶対にこの人は私を裏切らない、大切にしてくれるってすぐにわかった。そこにたまらなく惚れたんだ。彼とならこれからの人生、ずっと笑ってられると思ったの。だから私は二人で生きていきたい」
そういって微笑する彼女は、とてつもなく幸せそうなオーラに包まれていて、眩いばかりである。
(中略)
彼と一緒にいると、経験したことのない温かな優しさに包まれ、心が満たされるのがわかった。
涼子が本当に求めていたのは、彼女を心の底から抱きしめてくれる男性だった。だから彼と出会ってから、結婚の候補者だった「肩書き」のある男性たちとはおさらばした。涼子は清々しく何か憑き物が落ちたような顔をしている。
(pp.72-73.)
「じゃーん!久美ちゃん、ほら、これ見て!」
「なにそれ。かわいい!」
私は突然現れた愛らしい生き物にくぎづけになる。それは、手の平ほどの白くて小さなうさぎだった。よく見ると、うさぎの形をしたルームライトで、丸くて、クリクリとした愛らしい目をしている。真ん中には電球が埋め込まれていて、スイッチを入れるとオレンジ色の暖色で 温かく周囲を照らしている。彼女はうさぎを撫でながら言葉を続けた。
「私ね。実は夜一人になって部屋が真っ暗になると、怖くて寝られないんだ。ねぇ、子どもみたいでしょ。だから、いつも電気つけてるの。それを知った彼が、『これと一緒に寝たらいいんじゃない』ってくれたの。よく探したよね、こんなかわいいの。100万円もらうより、彼のこのプレゼントは最高だって思わない?」
「うん、最高だと思う!」
(中略)
彼女は少女のように、嬉しそうで屈託のない笑顔に包まれている。私たちは、まるで女子高生に戻ったように、いつまでもキャッキャと笑いあった。そう、私はずっとずっと、こんな彼女の笑顔が見たかったのだ。待ち望んでいたのだ。
(中略)
「結局私が欲しかったのは、信頼できる相手だったの。お金は二人で頑張ればどうにかなる。だけど目に見えないものは絶対何とかならない。それは婚活をして、やっと気づいたこと。お金のある男性をターゲットにして婚活しているときは、自分をよく見せようとアップアップしていて、自分が幸せか幸せじゃないかは全く考えなかった。自分のことをないがしろにしていたんだと思う。だけど自分に嘘をついて誤魔化しても、きっと続かなかったよね。心に原石を秘めた人こそが、本当は私が一番大切にしなきゃいけない人だったのにね」
(pp.74-75.)
アロマンティックの人からすれば、わかり得ない感情なのかもしれないけれども、やはり、「一緒にいて楽しい、安らぐ人」がいちばんで、人間の性愛には、ロマンティシズムであるとか、センチメンタリズムであるとか、やっぱり、必要なのではないかな。
ロスジェネ(就職氷河期世代)には、不安定、低賃金、ブラック処遇に加えて、買い手市場ゆえの、パワハラ、セクハラで苦しんできた人がたくさんいる。
取材を通じて、正社員に戻れず今も非正規で働くロスジェネの声を聞いた。その中で漏れ出てきたのは、「正社員に戻るのが、怖い」という言葉だ。たとえ正社員としての道が開かれていたとしても、かつてのトラウマがよぎってしまう。それはまさに私が新卒のアルバイトで、自信喪失したときの感情とそっくりだった。取材で感じたのは、ロスジェネたちの目に見えな い「傷」の深さだ。小さな傷でもそれが積み重なれば、いつしか再起不能なほどの致命傷となる。
(p.96.)
赤木さんの話に耳を澄ませながら、私はあるロスジェネ女性を思い出していた。彼女は目の前で履歴書を破かれる圧迫面接に苦しみ、就職できたのはIT系のブラック企業だった。当時の手取りは13万。梱包材のプチプチにくるまり、週に何回も会社に寝泊まりした。 過労でけいれん発作を起こしたこともある。ブラック企業を転々とし、あるとき上司のセクハラに耐えかねて会社をやめると、一番味方でいて欲しい親に「仕事まじめにやってんのか!」と罵倒された。
(p.105.)
わたしも、仲間と一緒に、ブラックな職場を許さない労組連合の活動を、これからも続けていくつもりだ。
「ロスジェネ問題が難しいのは、みんながみんな苦労したわけじゃないところだと思うんです。今も勝ち組ロスジェネ男性とは話が合わない。ロスジェネでも俺たち頑張ってるからすごいという人もいる。でもそれはあなたの実力以外のところもあるよねと思う。一歩間違えば自分も私みたいになっていたかもしれないという想像力がない。勝ち組と負け組がいて、同世代でも色分けされている。人によってケースバイケースで、そこには深い分断がある」
恵子さんの言葉に、深く頷かされる私がいた。確かに就職戦線に勝利して、安定的な企業に就職したロスジェネたちは、経済的恩恵やキャリアを当たり前のように手にしている。その一方で貯金もできずに結婚を諦めたり、非正規でギリギリの生活を送っていたり、ひきこもりになった人もいる。恵子さんのいう通りその運命の分かれ道は、投げられたコインがたまたま表か裏かという偶然性に過ぎない、と。それならば私たちは、自分が生きたかもしれない他者の人生に、もっと自覚的に耳を澄ますべきではないだろうか。
(pp.98-99.)
わたしは、就職も難なくできたし、職場環境にも、まあ、恵まれてきた方だと思う。
でも、それは、自分の能力、努力のおかげなんかじゃ全然なくって、たまたま運が良かった、とか、周りの人たちの力、好意あってのものなんだと思っている。
たいしたことない、能無しのくせに、自分の力を過信しているバカが、多すぎるよね。
読んでいて、辛くなったり、ほんわり癒やされたり、何度も、涙ぐんだ。
とても良い本です。
ぜひ、お読みください!
数々の孤独死現場を取材してきた著者が直面した現場には、家族やパートナー、社会との関係に苦しんだ「生きづらさ」の痕跡があった──。他の人のように上手く生きられない。現代人が抱えるどうしようもない辛さを様々な角度と視点から探る、著者初のエッセイ。毒親、引きこもり、婚活、女性用風俗、就職氷河期世代……複雑に絡み合う現代の「B面」から、私たちの生き方を考える。
目次
第1章 私が生きづらいのはなぜか
母親と生きづらさ
事故物件に刻まれた「生」の証 ほか
第2章 私たちを縛りつける「性」
女性用風俗の現場から
婚活戦線で傷つく女性たち ほか
第3章 いまの時代の生きづらさ
Z世代の繋がり
年収400万円時代の生きづらさ
第4章 生きづらさを越えて
喪失感が生む生きづらさ
SNS依存から抜け出す ほか