大澤真幸編著,2023,未来のための終末論(大澤真幸THINKING O),左右社.(4.23.24)
工業化により、化石燃料の大量採掘、大量消費が進行し、二酸化炭素、窒素酸化物、硫黄酸化物等が大量排出された結果、地球沸騰とも称される温暖化、海面上昇、異常気象等が引き起こされてきた。
そして、生物多様性の喪失──生物種の絶滅が進行してきたことも含めて、人間の過剰な自然収奪が進んできた産業革命以来の時代を、「人新世」と呼ぶようになった。
本書に収められた、大澤さんと斎藤幸平さんとの対談、および大澤さんの議論の下敷きとなった書物が以下の二点である。
見田宗介,2018,現代社会はどこに向かうか──高原の見晴らしを切り開くこと,岩波書店.
斎藤さんが提起する環境危機回避の手立ては、商品の「交換価値」の止揚による「使用価値」への転換である。
わかりやすいのが、「モデル」と「ブランド」だ。
自動車メーカーは、頻繁に乗用車のモデルチェンジを行う。
メーカーの狙いは、旧モデルを陳腐化させ、新モデルを消費者に買わせることだ。
そして、旧モデルは大量廃棄され、資源浪費と環境破壊が加速していく。
また、わたしたちは、しばしば、商品の実用的機能ではなく、商品のコノテーション──記号を消費する。
ブランド(イメージ)も含めた記号のバリエーションには際限がないのだから、記号としての商品の消費もまた限りはなく、大量の商品が消費され、大量に廃棄されていく。
大事なことは、どんなにニューモデルとブランド商品を手に入れようが、人が少しも幸せになれないということだ。
かえって、絶えざる欲求不満状態(デュルケムの言う経済的アノミー)に陥り、幻滅感、無力感、焦燥感にさいなまれることになる。
人間を不幸にする大量消費、大量廃棄のシステムのからくりにさらに多くの人々が気付けば、使用価値の復権もあながち実現不可能なことではない。
実際に、イングルハート等による「世界価値観調査」は、使用価値の復権を裏付ける、価値観変容のトレンドを明らかにしている。
斎藤さんが提起するエッセンシャルワークの復権も、使用価値の復権にともなうものであろう。
大澤さんが、そうした使用価値の復権に関連して注目するのが、パーソンズ=見田による、コンサマトリーな価値の復権である。
コンサマトリー(即自充足)とは、インストルメンタル(手段的)と対比されるもので、例えば、わたしたちが、「試験で良い成績をとるため」であるとか「論文や著作を書くため」といった目的のために行う読書は、インストルメンタル・アクションであるが、そうした外部に目的があるわけでなく、読書そのものを楽しむ場合、それはコンサマトリーな行為となる。
考えてみれば、音楽、舞踊、演劇、映画、美術等の文化は、人間のコンサマトリーな価値を具現化したものにほかならず、産業ロボットやAIによる労働生産性の向上が、さらなる労働時間の短縮を可能にしていることを鑑みれば、人間が環境負荷の低い文化活動をより多く享受するようになることは、環境危機回避に有効な一つの可能性である。
彼は、言語学者であるだけではなく宣教師でもあった。ピーダハーンに対する長年の布教の末、宣教師であるエヴェレットの方が、キリスト教から離脱してしまったのだ。
ピーダハーンの「精神生活はとても充実していて、幸福で満ち足りた生活を送っていることを見れば、彼らの価値観が非常にすぐれていることのひとつの例証たりうるだろう。」「魚をとること。カヌーを漕ぐこと。子どもたちと笑い合うこと。兄弟を愛すること。」このような〈現在〉の一つひとつを楽しんで笑い興じているので、「天国」への期待も「神」による救済の約束も少しも必要としないのである。
要するに、ピーダハーンは、〈現在〉を、それ自体としてコンサマトリーに享受しているのである。<現在>を手段化するキリスト教的な終末論――資本主義へと結びつくことになる未来主義的な時間の観念――を信じていた宣教師が、ピーダハーンとともに生活する中で、コンサマトリーな〈現在〉の感覚を基軸にした時間の観念に屈したのだと言ってよい。
(p.138、※ピーダハーンはアマゾン流域に住む先住民部族。)
見田先生は、資本主義、というより資本主義が実現した世界の功罪を議論したが、消費社会=情報社会の展開に、人間の環境負荷の高い経済活動の活性化という方向性だけでなく、美的情報の受容による過剰な経済活動の沈静化の可能性を見出した。
例えば、グローバルツーリズムは、主に航空機の利用による、化石燃料の大量消費、排出ガスによる環境汚染を生むが、わたしたちは、動画、画像、テキストにより、世界各地の名勝、旧跡を疑似体験することができる。
VR技術の進展は、そうした疑似体験のいっそうのリアル化を可能にしている。
アンソニー・エリオットとジョン・アーリも、そうした「情報化による空間の圧縮」に、気候変動危機解決の糸口を探っている。
AnthonyElliottandJohnUrry,2010,MobileLives,Routledge.(=2016,遠藤英樹監訳『モバイル・ライブズ──「移動」が社会を変える』ミネルヴァ書房.
人間みないつしか死ぬ運命にあること、それを覚知したときに生じる心情には、二とおりある。
一つは、「わが亡き後に洪水は来たれ」(マルクス)というもので、生きているあいだは、カネと権力の獲得、過剰消費、美食・飽食、不正な手段による性愛の享楽等をむさぼり、後続世代のことなど知ったことか、という心情だ。
もう一つの心情は、「どうせいつか死ね」のであるから、後続世代に迷惑がかからないようなライフスタイルを選択しようというものだ。
私は、未来の他者の欲していること、未来の他者の幸福/不幸に反応せざるをえないのだ。ここにあるのは、野本三吉の「福祉は衝動だ」と同じ種類の衝動である。類いまれな善意や突出した正義感などなくても、困っている人を助けずにはいられない。これと同じように、われわれは、未来の他者が感じるであろう苦難や幸福に感応せざるをえない。そうだとすれば、私(たち)は、直接の衝動としても、ほんとうは(xではなく)yを欲していたと見なすべきである。私をyへと駆り立てている欲動は、完全にコンサマトリーなものである。
どうしてこうなるのか。つまり、どうしてわれわれは未来の他者の苦しみや歓びを知ってしまったときに、それに反応せざるをえないのか。それは、われわれがはじめから、無意識のうちに、未来の他者の視点を前提にして、それを繰り込むかたちで欲望を形成しているからである。裏返しの終末論は、その潜在的・即自的な他者の視点を対自化する方法である。(後略)
(p.170)
大澤さんが言う「衝動」が普遍的なものなのか、あるいは普遍的になりうるものなのかどうかは、わからない。
しかし、そうした「衝動」の普遍性に賭けるところにしか、人間社会の持続可能性は残っていないのではないだろうか。
「破局はすでに起きてしまった」見田宗介の思想を起点に、気候危機による“世界の終わり”を回避するための真の選択を探る。
目次
対談 “脱成長”の現代社会論―「高原の見晴らし」から「脱成長コミュニズム」へ(斎藤幸平+大澤真幸)
脱成長、あるいは「高原の見晴らし」
マルクス主義の新しい道
脱するべきは資本主義か
自由の制限は許されるのか
ジェネレーション・レフトにみる階級闘争
「時間」の概念と未来の他者
マルクスが見たユートピア
日本で革命は起きるか
論文 資本主義とエコロジー(大澤真幸)
資本主義を維持すべきか、捨て去るべきか?
自然科学―味方か敵か
根を下ろす大地はない
エコロジカルな破局への対策が満たすべき二つの形式的な条件
資本主義の時間
〈今の時〉
裏返しの終末論