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本と音楽とねこと

【旧作】もうひとつの青春──同性愛者たち【斜め読み】

井田真木子,1997,もうひとつの青春──同性愛者たち,文藝春秋.(11.5.24)

「変態」でも「性風俗業者」でもない普通の同性愛の青年達の青春群像を通して、エイズと日本の社会的認識を描いたノンフィクション。

 アカーというゲイの当事者団体に集った若者たちの人物群像劇。

 それぞれの若者たちが、同性愛者ゆえに差別、抑圧され、一方で、金銭で買われたり、行きずりの相手でなければ、自らの性欲を充たされない不自由さに悩みながら、サンフランシスコのゲイの当事者団体と交流し、国際エイズ会議に参加して、「府中青年の家」裁判を闘う。

 故井田さんは、異性愛者でありながら、こころを閉ざしがちな同性愛の若者たちから、全幅の信頼を得る。
 それは、自らの異性愛者としての実存を問い直す、真摯な態度があってこそのものだったのだろう。

 井田さんは、自らを同性愛者という鏡に映して、自らの、醜悪で、汚らしい異性愛というクィア性に気づく。

 私は、異性愛者という耳慣れぬ日本語を初めて聞いたときを思い出した。それはほんの三カ月前、アカーに連絡をとり、同性愛者であることを公言する何人もの若者と話して以来のことだった。自分のことを異性愛者だと口に出せるようになったのは、それから二カ月後だ。日本語になじまない武骨な語感に辟易したせいでもある。だが、率直に言えば、恥ずかしかったのだ。異性愛者というと、まるで自分が異様な性癖を持った人間だと告白しているようだった。性をむきだしで顔に押しつけられたような気分に陥った。異性を性的対象にしているという事実が、これほど羞恥を呼ぶものだとは予想もしなかった。それなのに、同性を性の対象としている人たちのことは、これまで同性愛者と呼んで平然としていた。彼らは同性愛者であり、自分は゛普通゛の人間だったのだ。
(pp.50-51)

 アカーに集う若者たちが求めたもの、それは、いとおしくもあり、うっとうしく、うとましくもある、かけがえのない「他者」であった。

 つまり、人間は血縁によるつながりだけで生きるというわけではないんだ。古野はこう考えた。同性愛者だということは、束縛はないが、同時に果てない孤独の荒涼を生きることだと思っていた。しかしそれはまちがいみたいだ。なぜなら、僕は大石を一人の家族として感じているからだ。
 大石に対してそう認めたあとでは、他の気持ちの通じ合う同性愛者の何人かへ、その認識を広げることはたやすかった。彼らはときにはいとおしい存在だが、一方でうっとうしくもあり、ときには疎ましい存在でさえある。だが、やはり一緒に生きていたい。これは、まさに家族に対する感情に似たものではないか。同性愛者も、家族や共同体を求めるのだ。日常をともに生きる他者を求めるのだ。
(p.288)

 エイズ禍のなか、苦悩しながら時代を疾走した若者たちがまぶしい。

 ひとつの社会運動の記録としてもたいへん興味深い作品だ。

NPO法人 アカー

同性愛者の権利とエイズ―大石敏寛さんは語る―


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