中村うさぎ,2006,私という病,新潮社.(6.1.24)
雨宮まみさんに先駆けて、「女子をこじらせた」中村さんであるが、買い物依存、ホスト依存、整形、性風俗等、こじらせを行動化(Acting Out)したという点では、中村さんの方がはるかに過激だ。
雨宮さんは若くして死んでしまったが、中村さんはしぶとく生き続けている。
こじらせて鬱屈していった者と、こじらせを積極的に行為で解消しようとした者のちがいだろうか。
中村さんの呪詛にも似た魂の叫びは強烈だ。
長々と引用する。
私の「買い物依存症」も、まさにそれだった。最初にシャネルのコートを買った時の恍惚は、その後、何度買い物を繰り返しても、もっと高価な物を手に入れようとも、二度と味わえなかった。「私は成功した。シャネルを買える女になった。離婚の傷(私が買い物依存症になったのは、最初の夫との結婚生活が破綻した二年後であった)も癒え、別れた夫も嘲笑った世間も見返してやった」という自己肯定の強烈な快感は、最初のシャネルだけが明確に与えてくれたのだ。それ以来、不安になるたびに高価なブランド物で自己肯定の快感を取り戻そうと必死になったものの、同じ興奮も達成感も手に入らなかった。必死になって繰り返せば繰り返すほど、それは「いつもの儀式」になるだけだったのだ。
ガス漏れの不安からガス栓を何度も何度も確認し、ついには外出できなくなる病を「強迫神経症」と呼ぶ。「依存症」は、その「強迫神経症」に「快感」がプラスされた病だ。先ほどのセックス依存症の彼女の場合は「不倫」、私の場合は「高価な買い物」という、己の不安を解消するための思い切った行為が強烈な快感を呼び、以後、ガス栓を確認するようにその行為を何度も何度も繰り返すのだが、それは「不安解消と恍惚感の確認の儀式」に過ぎず根本的な問題解決ではないから、あっという間に形骸化し、しかも儀式であるがゆえに何やら呪術的な強迫観念が生まれて、止められなくなってしまうのだ。
私たちは、自分を肯定したいのである。社会的にも性的にも人間的にも、「私はこれでOK。ちゃんと、周囲の皆に認めてもらってるわ」と安心したいのである。仕事場の上司や同僚や後輩たち、取引先の人々、友人、恋人、家族から、自分の「存在意義」をそれぞれ肯定されて、初めて私たちは自分が一人前の人間であることを確認する。人間は、ひとつの役割だけで充足できるものではない。「社会的な役割と価値を持った私」「プライベートなコミュニティ(家庭や友人関係)での役割と価値を持った私」「性的な役割と価値を持った私」と、さまざまな方向から多角的にアイデンティティを承認されることで、私たちはようやく一個の完全な人間としての存在を達成した気になれるのだ。
むろん、それぞれの役割の比重は、年齢とともに変わってくる。学生時代はプライベートでの役割や性的な役割が大きいけれど、年を取れば社会的な役割や家庭内での役割が大きくなって性的な役割は薄くなっていく。とはいえ現代は、男はバイアグラで、女はプチ整形で、機能的あるいは表面的な若さを人工的に取り戻し、いつまでも性的な役割を諦められなくなってきているのだ。私たちは、若い頃と変わらぬ「性的役割と価値」の確認を求め、そのうえに「社会的役割と価値」「プライベートな役割と価値」も必要とし、年を取れば取るほどきわめて欲深な自己確認欲求に身を焦がす羽目になっているのである。特に、男に比べて「性的役割と価値の確認」の場が少ない女は、不自由な枷の中でもがき苦しむことになる。
(pp.86-88)
高価なブランド品を買っても、男(女)に入れ揚げても、刹那的に自己愛は充たせても、持続的な自己肯定感なり承認欲求なりは充たせない。
それがわからないからこそ、人は狂う。
私のデリヘル体験記を読んでイタズラ電話をかけてきたヤツと、まったく同タイプのバカ男である。「そうかそうか、そんなに男のチンコが欲しいのか。そんなに男を誘惑したいのか、おまえは」という的外れなエロ幻想で盛り上がり、その一方で「おまえみたいな下種な女には何をしてもいいんだろ。セクハラされたくて、そーゆーこと言ってんだよな」という侮蔑を土台とした一方的な決め付けによって、ストーカーだのイタズラ電話だのという最も卑怯な反社会的行為を正当化してしまう男。女を自分と同じ生身の人間として見ることのできない、こういう男たちが、多くの女たちを性的に傷つけているのである。そうして、このような男たちの存在こそが東電OLを追い詰めたのかもしれない、とすら私は考えている。
それにしても、この手の男たちは何故、自分を誘惑する(と、彼らが考えている)女たちに対して、これほどアンビバレントな気持ちを抱えているのだろうか。つまり、そういう女たちの「誘惑」を喜びながらも軽蔑し、執着しながらも排斥しようとするのか。「男は女の性欲が怖いのだ。何故なら、男にとって、女は『母』であるからだ」
と、このように述べた男性がいるが、それが本当だとしたら、もはや男に対して何を期待しても無駄という気がする。彼らの女に対する差別意識は、ここまで根深いのか。「差別ではない、リスペクトじゃないか」と反論する人もいるだろうが、私に言わせれば、とれもまた、女を人間として見られない男たちがよく使う「欺瞞」なのだ。己の中の差別意識を正当化しようとして、逆に女を「神格化」するワケよ。「母」という聖域に祀り上げて、パンパンと拍手を叩いて、「よし、これで文句なかろう」なんて思ってるんじゃないでしょうね。人間性を認めない、という点では、露骨な男尊女卑論とまったく変わらん。下のものを上に持って来ただけじゃん。
何度も申し上げて恐縮だが、女は、「人間」なのである。あなたの母も妻も娘も、お嬢様も売春婦も女子高校生も、すべての女は「神」でもなければ「獣」でもない、あなたと同じ生身の「人間」なのだ。女性差別について私が語ったからといって、そんじゃ格上げすれば私が得々とするとでも思っているのか。この男性以外にも、つい最近、私に向かって「僕は女の人をリスペクトしてます。女性という存在に対して、超越者のように荘厳なイメージを持っています」と熱く語った人がいて、私に水のような絶望感をもたらした。あのね、そういうこと言われると、「俺は女を軽蔑してるよ。女なんか下等動物だと思ってるね」と言われてるのと同じ怒りを、私は感じるの。ねぇ、お願いだから、女を「人間」として、対等な目線で見てちょうだい。相手を人間として見ない限り、「理解」も「共感」も生まれないでしょう?
女に「母」を投影した途端に女の性欲が怖くなる、と言うのなら、それはすなわち、その人が自分の母親を人間として見てない証拠であろう。母親だって生身の人間なんだから、性欲だってあるしセックスもするだろ、という当たり前の常識が受け容れられないのだ。「大人になる」ということは、「親を人間として見られるようになる」ことだと、私は考える。親だって人間だ、神様じゃないんだから完璧じゃないのは当たり前じゃん、と思えるようになって初めて、人は親に対する過剰な期待や失望や恐怖から逃れられるのだ。それは、「親を許す」という行為でもある。同じ人間として対等な目線にならなければ、我々はいつまでも「親を許す」こともできず、したがって「親に支配される」ことからも逃れられない。要するに、「自立できない」のだ。女に母親を投影した途端に相手を人間として見られないのは、すなわち、その男がいい年こいても自立できていない幼稚な人格であることの証だとしか、私には思えないのである。したがって、「男はいつまでも自立できないマザコン少年なんだから仕方ないですよね」みたいなことを言われても、「じゃ、自立しろよ」と思うだけだ。少なくとも、自立するよう、努力しろ。まったく甘えんじゃねーよ、なのである。
たいていの男にとって、人生で初めて出会う「女」は母親である。したがって、母親を通して「女」を認識した男たちが、世の中の女たちを見る時に自分の中の母親像に影響されてしまうのは、こりゃまあ致し方ないと思う。そんなこと言ったら、女だって、「男」というものを父親を通して認識するのであり、その概念が我々の恋愛パターンに強く影響するのは間違いないのである。だから、「男が女に母親像を投影する」こと自体を、私は批判するつもりはない。問題は、母親から自立できてない未熟な人格であることの正当化に、その理屈を持ち出すことだ。母親を人間として見れない男は、女という存在を人間として見れない。母親に甘えることしか学習して来なかった男は、すべての女に甘えていいと思っている。この呪縛から己を解放するのは、自分自身なのである。これは、男にも女にも言えることだ。
「女の性欲が怖いのは、自分が母親の性欲を恐れているからだ」と言うのであれば、「何故、自分は母親の性欲が怖いのか」というところまで論を掘り進めるべきであろう。だが、多くの男は、「俺にとって、すべての女は母なのだ」という結論で、思考停止してしまう。それゆえ、「性的な匂いのする女」に欲情しつつ、「母親に欲情する自分」に恐怖や嫌悪を覚え、それを己の中で論理的に処理する能力もないものだから「欲情させる女が悪い(←「悪い母親」像の投影ってヤツですね)」という他罰に転じるのだ。違いますかね?女が悪いんじゃなくて、おめぇの問題なのにな。
性風俗に従事する女、性的欲望を刺激するような服装の女、恥じらいもなく性的な話題を口にする女・・・・・・これらの女たちに対して、男たちは半勃起したチンコを手で隠しつつ、「下品な女め」と唾を吐きかける。そのくせ、誰も見てない場所では、そのチンコをこすりつけて来て、「おまえが悪いんだぞ。俺を誘惑したんだからな」と囁くのだ。昔、とある連続レイプ殺人犯が、女をレイプしながら「おまえが悪いんだぞ」と言ったという話を小耳に挟み、これは意外と多くの男たちの本音ではないかと思ったことがある。そして、そう思った瞬間、脊髄をズザザッと駆け上ってくるような悪寒と恐怖を感じたことも、鮮明に憶えている。
(pp.109-113)
女を、メシを食えばクソもする、トータルな人間として捉えることなしに、「聖母」にまつりあげる一方で、「売春婦」として蔑む、幼稚なマザコン男の心性を、これほど的確に描き出せた人を、わたしはほかに知らない。
それにしても、鋭いし、痛快だ。
とはいえ、痴漢やセクハラは、その後も何度も体験した。痴漢はともかく、セクハラに関しては、「セクハラ」という概念自体がなかった時代である。男たちの、人を人とも思わない仕打ちには、本当に煮え湯を飲まされた。特に二十代後半、フリーランスで仕事をするようになってからは、男たちは何の罪悪感も羞恥心もなく、当たり前のように「仕事が欲しかったら、ひと晩付き合え」と要求したり、酔ったふりして身体を触ったりキスしようとしたりホテルに連れ込もうとしたり、現代では考えられないような行為を平然とするのだった。私はこの頃、本気で「男」を憎んでいた。犯罪にならないのなら、散弾銃をぶっ放して、こいつら皆殺しにしてやりたいと思っていたほどだ。酒席で無遠慮に伸びてくる手を振り払い、キスしようと近づいてくる顔を両手で防ぎ、息を切らして家にたどり着いた途端、必死で抑えていた悔し涙がこぼれたことも何度かあった。自分という存在をあからさまに侮辱されて、悔しく思わずにいられるだろうか。仕事に性的な関係を持ち込むヤツらを軽蔑しつつも、そんなヤツらから貰った仕事で食っている自分にも嫌気がさし、ひたすら「女であること」を呪う毎日だった。
(pp.117-118)
女である以前に、人間として尊重してほしい、そんなあって当たり前の願望さえかなえられない現実が、女をこじらせる。
それは同時に、ホストだけでなく、セクハラや痴漢行為によって私に屈辱を味わわせたすべての男たちに対する雪辱戦であったのかもしれない。「仕事やるから身体を差し出せ」なんていう要求は、当時のおまえの身体の商品価値を証明する申し出であり、すなわち「性的強者」ならではの扱いではないか、と、人は思うかもしれない。確かに、そのとおりであるが、当時の私は「性的強者」でありながらも、同時に「社会的弱者」であったのだ。セクハラを働いた男たちのほうが、圧倒的に、社会的立場が上だったからである。私は彼らを拒みながらも、仕事を失う恐怖に常に晒されなければならなかった。それでなくても弱い立場なのに、女だからって、こんなにストレスを与えられる筋合いがあるの?その屈辱感と敗北感は、自分が「性的強者」であることすら疎ましく思うほど、私の人間としてのプライドを傷つけたのである。
女であるがゆえに受けるセクハラも、女でなくなったがゆえに受ける杜撰な扱いも、ともに、女を人間として見てない男たちならではの行為である。相手の女にも痛みや苦しみや屈辱という感情があるのだという、そんな当たり前のこともわからず、共感も感情移入もせずに「物」として扱うからこそ、我々のプライドは傷つくのだ。金でもなく、性欲でもなく、ましてや、「男のチンコが大好き」なんて動機でもなく(大好きどころか憎んでるわ)、人間としての飢餓感と欠落感から性風俗に飛び込もうと考える女がいる、という謎を、これでいくらかでもご理解いただけるだろうか。我々の飢餓感と欠落感とは、何か。我々は、何を失い、何を取り戻したいのか。それは、「金で男のチンコをしゃぶる下種な女」というレッテルを貼られることなんかより、もっと痛くて屈辱的な痛手を、我々の魂が抱えていることの証明なのではないか。
だからこそ、女たちは私のデリヘルや東電OLの売春行為に、他人事ではない匂いをか当てて関心を寄せる。そして、そこまで我々を追い詰めた当の男たちはといえば、相変わらず女を人間とも思わず、したがって我々の言葉に耳を傾けようともせずに、己の中のアンビバレントな「欲情」と「侮蔑」を、一方的に浴びせかけるのだ。イタズラ電話や馴れ馴れしいボディタッチや社会的制裁という、いかにも男的な遣り口で。
(pp.120-122)
中村さんは、ゲイの男性と一緒に暮らしている。
中村うさぎ、ゲイの夫と暮らしてやっとわかった「結婚の意味」と“トイレにも行けない要介護生活”を経て思うこと
異性愛者の男が、ありのままの自分を肯定してくれないのであれば、ゲイの男性なり、同性の友だちなりを承認の錨とすれば良い。
異性愛の男に執着する必要などない。
私は、女たちが好きだ。たったひとりで頑張って働く女も、主婦という孤独な立場で必死に踏ん張っている女も、道に迷ってへたり込み絶望している女も、泳ぎ続けてないと死んでしまう魚みたいに暴走し続ける女も、すべての女が私だから。私は、私を救いたいのよ。だから、彼女たちに向かって語り続けるの。そうよ、私はいつも女とオカマに向かって書いている。疎外され、打ちひしがれた彼女(彼)たちに、「私を見て、私から学んで、私と一緒に考えて」と叫んでるのよ。だから、そんな私のメッセージをちゃんと受け止めてくれる男もいるんだと知った時、涙が出そうにホッとしたわ。こんな男たちがいてくれるなら、私たちも地獄から這い上がれるかもしれないじゃない?助けて欲しいって言ってるんじゃないの。どのみち、自力で這い上がってみせるから。ただ、這い上がろうとする私たちの手を、泥靴で踏み躙らないで欲しいだけ。這い上がって来た私たちに、笑顔で頷いて欲しいだけ。そういう男たちが、少な過ぎるのよ。
女たちは、自分を必要としてくれる存在を欲する。その存在にだけは自分を理解して欲しいと願う。だが、自分を必要としてくれているはずの男たちは彼女たちを理解できない。子どもを産んでも、その子どもたちもまた彼女を必要とするものの、理解はしてくれない。女たちは孤独である。彼女たちを理解し共感してくれるのは、おそらく同性の女友達だけだ。だから、現代の若い女の子たちの間で、恋愛よりも女の友情をテーマにした映画や漫画がヒットする。『下妻物語』や『NANA』は、その典型である。
女たちはもはや、男たちに絶望しかけているのかもしれない。古い世代の女たちはいまだに理想の恋人(自分を理解し必要としてくれる男)を夢見て『冬のソナタ』にハマるが、下の世代の女たちはもっと醒めている。自分を救ってくれるのが王子様なんかじゃないととに、薄々気がついているから。自分を救うのはあくまで自分自身であり、その際に力になってくれるのは自分と同じ地獄に暮らす女たち(いわば自分の分身)なんだと、彼女たちは心のどこかで悟っているのだ。
(pp.122-124)
私は、幸せなはずだ。私を理解し愛してくれる夫や友人たち(全員、オカマと女だけど)に支えられ、一部の熱心な読者たちからも必要としてもらえ、一個の人間としてはとれ以上望めぬほどに充足しているのだ。それは本当にそう思うのだけれど、私の中の「女」の部分が、その幸福を根底から覆す。女やオカマからは愛されてても、おまえを愛する男はひとりもいないじゃないか。そんな女に何の価値があるもんか、イタいだけなんだよ、ババア、と、私の中の「眠れる姫」が嘲笑する。彼女にとっての私は、女である自分に呪いをかけて城に幽閉した醜い魔女なのだ。以前、前夫に押し込められた塔から救出してもらったことにすら、彼女は感謝もしていないようだ。自力で塔から抜け出せないほど弱虫だったくせに、「あんたがそんなに男勝りで強くなっちゃったから、王子様が寄って来ないじゃないの」と、私を非難する。私は、彼女が憎い。私の幸福を全否定し、男の評価だけが女の価値だと言い張る彼女の無知蒙昧な魂が、私の人生をいつも矛盾に満ちた虚しく苦しい戦いの日々にしてしまうから。私は、彼女を殺したい。彼女を殺して、「女であること」から解放されたい。
(pp.128-129)
私たちは、分裂した自己を抱え、矛盾に苦しみながら生きている。分裂した片割れを必要としながらも、互いに憎み合ってしまい、仲良く同居することができない。だから私たちは、「分身としての他者」を求めるのだ。己の中に抱える「分裂した片割れ」を投影し、かつ、憎み合うこともなく理解と共感の絆で結ばれて、一緒に支え合いながら暮らすパートナーとなるために、私たちは「分身としての他者」を捜し求める。かつて、私たちはそのパートナーを男たちに求めてきた。だが、男たちは女たちの分身にはなれない。愛やセックスで一体感は味わえても、根本的な部分での同一化は不可能なのだ。だから、『NANA』のような漫画が、女たちに支持される。己の分身を見つけ、理解と共感の絆で深く結ばれ、一緒に暮らすパートナーとなる物語こそが、一部の女たちの「引き裂かれた自己」の問題を解決し、生きる苦しみから救うためだ。
九〇年代から、女たちはずっと「自分探し」をしてきた。おそらく、その「自分探し」は、これから「分身探し」へと発展するだろう。男ではなく、女やゲイといった他者たちが、私たちの分身を引き受けてくれるかもしれない。「恋愛」ではなく「家族愛」や「同志愛」の絆で結ばれた分身こそが生涯を共にするパートナーとなり、男たちは家の外で恋愛やセックスをする相手としてだけ機能する。彼らは家を訪ねて来るけれども、そこには住まず、自分の家に帰って行く。恋愛とセックスの相手であるから、彼らはいくらでも代替がきく。けれども、パートナーであり分身である相手は、永遠に変わらない。どちらかが死ぬまでその関係は維持され、「死を看取る相手」という役割を共有することで、互いに孤独から救われるのだ。
(pp.130-131)
しかし、人間には、内から湧き起こってくる衝動、リビドー(欲動)──G.H.ミードの言う「I」(主我)がある。
皮肉なことに、それは、男が女に期待する「娼婦」役割に重なり合う。
それは、買い物依存なりブランド信仰なりが、消費社会における役割期待に過剰同調したものであるのと同じだ。
「こじらせ女子」は出口なしの袋小路に追い込まれる。
中村さんは、売春という強迫行動に駆られた東電OLの心情を自らのそれと重ね合わせる。
私たちは、分裂した自己を抱えて生きている。ひとつの心の中に何人もの自分が同居してて、互いに相手を責めたり嘲笑ったり憎んだりしている。なかには手綱を放すと暴走しそうな自分もいるから、そいつを注意深く抑えつけ、他人に気づかれないよう気を配りつつ、表向きは「きちんと一貫性のある私」を維持しているけど、心の内側は葛藤の嵐だったりすることもある。社会に適応するということは、そういうことだ。自分をすべて曝け出して本音で生きる、なんて言う人がいるけど、すべての自分なんか解放しちゃったら会社とかで働いてらんないわよ。人格に整合性のない人間や、逸脱した行動を取る人間は、必ず周囲から弾かれる。そんなの、既に学生時代から、「イジメ」という形で、私たちは経験済みでしょ。
社会の中に居場所を与えられるためには、周囲から引かれたり警戒されたりする「自分」は押さえつけなきゃいけないの。でも、時々、押さえつけられた「自分」が、手綱を振り切って暴れだすことがある。私の「買い物依存症」が、そうだった。私の場合は幸いにも、「暴走する自分」と「それをせせら笑いながら観察する自分」という分裂したふたつの人格が、それぞれ固有の名前を持つことができた(←コスプレ効果ね)から、結果的にはそのふたつの人格が車の両輪のように私自身を支えてくれることになった。でも、それは本当にラッキーなことだったと思うのよ。もしも、ふたつの人格が分裂して暴走したままハンドリングできなくなってたら、私は間違いなく破滅の淵にダイブしていたはず。そう、あの東電OLのようにね。
東電OLのたった一人の戦い
東電OLが渋谷道玄坂の廃屋のようなアパートの一室で死体となって発見され、彼女の「昼は大企業のエリートキャリアウーマン、夜は通りすがりの男に身体を売る街娼」という二重生活が世間を驚かした時、「東電OLは私だ」と直感した女たちは少なくなかった。その女たちが東電OLと同様の二重生活を送っていたワケでは、もちろんない。たいていは、ごくごく真面目な普通の社会人として生きている女たちだった。なのに何故、彼女たちは「東電OLは私だ」などと感じてしまったのか。それは、東電OLが象徴する「分裂した自己」を、彼女たちも同じように心の底に抱えているからだ。手綱を放した途端に暴走し、破滅の淵へとダイブしそうな「危うい自分」を、女たちの多くが己の中に意識し、恐れ、ヒリヒリした不安に身を焦がしながら生きているからだ。東電OLは、我々のグロテスクな鏡像であったのだ。
会社の帰りに駅のトイレで濃い化粧をしていた「夜の出勤前」の彼女の姿を見かけた、という証言を耳にしたことがある。コスプレだ、と、瞬時に思った。「あんなに濃い化粧をするなんて、やっぱりちょっと頭がおかしかったのだ」という文脈で語っていた人もいたように思うが、彼女には「濃い化粧」が必要だったのだ。だって、コスプレだもん。非日常的な衣装や化粧で自分を別人格に変える儀式だもん。そりゃあ、過剰にもなるわよ。普通のメイクじゃ、別人格にも非日常にもならないじゃない?
コスプレしなきゃ、表現できない「自己」がある。コスプレしてまでも、表現せずにはいられない「自己」がある。私のシャネルだって、今にして思えばコスプレだったわ。「シャネル」という記号を身にまとうことによって、私は今まで押さえつけていた「もうひとりの自分」になることができた。見栄っ張りでスノップで、お恥ずかしいほど権威主義な「私」。それは、私がずっと軽蔑していた人種だった。なのに、そんな女にコスプレしてみたら、あまりにも気持ちよくて、やめられなくなってしまった。だって、その愚かで俗悪な「私」の野望とそが、この私を突き動かして来たんだもの。
社会的な成功が欲しかった。離婚した夫(同業者)や、地位と権力を振りかざしてセクバラした男たちに、吠え面かかせてやりたかった。だから、まとまった金が入った途端に、自分の成功をブランド物でアピールするような人格が急激に表面化してきたの。それは押さえることもできないほど強大な衝動となって、私をシャネルのブティックに走らせ、そとで初めて「自己実現の快感」に脳天を貫かれたのよ。あの時に「自己実現」したのは、それまでの私に抑圧されていた「もうひとりの私」だった。ずっと私の中で軽蔑され無視され閉じ込められていた「下品な私(そう、「下品」よ。私はブランド狂いの女たちを、ずっと下品だと思ってた)」が、シャネルを着た途端に、私の身体を引き裂いて現れ、勝ち誇った鬨の声を上げたのよ。
東電OLの身に起きたのも、それと同じような現象だったと私は思う。濃い化粧をして男に身体を売る娼婦・・・・・・それまでの彼女の人生にはあり得なかった「もうひとりの自分」が、殻を突き破って躍り出てきた瞬間、彼女は凄まじい恐怖と快感を同時に覚えたはずだ。「こんな私がいたなんて!」という恐怖、「ついに私は自分になれた!」という悦び。それは、どちらが本当の自分なのか、などという疑問が愚かしくも空疎に感じるくらい、生々しくリアルな快感であり恐怖であったのだ。
おそらく東電OLは、私と同様、自分が「女」という性的存在であることに、嫌悪感や罪悪感を抱いていたタイプだと思う。とはいえ、べつに彼女が特別に抑圧的な家庭に育ったとは思わない。それは、ごくごく普通の感情だからだ。前にも述べたとおり、女が「女であること」に嫌悪感や罪悪感を抱くよう、周囲の男たちが仕向けることもあるからだ。露骨なセクハラをしておいて、悪いのは女のほうだと決め付ける、男たちのエゴイズムによって。しかも最悪なことに、そんな男たちのエゴイスティックな価値観を女たちも無批判に受け容れて内面化させてしまうため、たとえば母が娘に「性的に放埓そうな女は、下品で不潔で、男に何をされても仕方ない。男に大切にされるためには、極力、性的な匂いをさせない清潔な女になりなさい」などといった価値観を植えつけることも、当たり前のように行われているのである。したがって娘たちは、自分の身体の「性的記号」に罪悪感と嫌悪感を抱き、膨らんできた胸を恥ずかしく思ったり、月に一度の生理を汚らわしく感じたりするようになる。
東電OLは摂食障害だったと言われているが、摂食障害の女たちには根源的な「女性鎌悪」があるように思える。痩せ細った肉体は「豊満さ」という女性の記号を拒絶しているし、拒食や嘔吐で生理が止まることすら、彼女たちにとっては密かな悦びであったりすることもあるらしい。摂食障害は「成熟したくない」という願望の表現だと言われるが、それは「大人になりたくない」というよりも「女でありたくない」という願望ではないかと、私は思うのだ。東電OLの摂食障害も、例外ではあるまい。痩せ細った手足、ぺっちゃんこの胸、生理のない清潔な肉体・・・・・・「女」の性的記号を極力排除した存在に、彼女はなりたかったのではないか。
しかし、「女であること」をどんなに拒否しようと、押し込められた「女の部分」は、虎視眈々と狙っている。堅い抑圧の殻を破って表に飛び出し、歓喜の声をあげる瞬間を。何故なら、我々は「女」だからだ。
女であって何が悪いのよ、と、彼女たちは叫ぶのだ。セックスだってしたいわ、うんとセクシーな身体になりたいわ。たわわな胸や、綺麗な脚を露出して、自慢げに街を歩いてみたいわよ。道行く男たちが振り向いて、「いい女だなぁ」と惚れ惚れするような存在になりたいの。女であることを拒否して、あんた、生きてて楽しいの?どんだけお勉強できるのか知らないけどさ、そんなゴツゴツした身体で、男と肩を並べて働いて、あんた、ちっとも魅力的じゃないよ。皆が陰で何て言ってるか、知ってる?男たちは「あの女とだけはセックスできねぇよ」とせせら笑い、女たちも「いくら総合職のエリートったって、あんな女にだけはなりたくないよねぇ」なんてクスクス笑ってるんだよ。あんたは、笑い者だ。どんなに出世したって、男に相手にされなきゃ、女には何の価値もないんだよ!
(pp.139-145)
私は、ちゃんと「人間」として扱われたかったのよ。どう言えば、いいんだろう。今まで私は、周囲から「一個の人間」として扱われたことがなかったような気がする。「女」という視点で私を見る時、人々は、まるで私がそこに存在しないかのように無視するのだ。大学の合コンや会社の飲み会で、かわいい女の子たちには露骨に擦り寄り、何とか歓心を買おうとみっともないほど下心丸出しで振る舞う男たちは、傍にいる私を見事に黙殺し、愛想笑いすら向けようとはせず、話しかけても返事もしない。そういう惨めな扱いを受けたくなくて、私は彼らの飲み会とやらに絶対に参加しないと心に決めたのよ。
その一方で、職場での私に向けられる視線というのも、「エリート総合職一期生」というレッテルを貼られてひと括りにされた、何か色物や珍獣を見るような特別扱い。自分より優秀な女に対して、男の視線も女の視線も、同様に冷たい。心からの賞賛やリスペクトなんて、浴びたことないわ。「さすがですね」なんて言われても、その口調には必ず何か嫌らしい不純物が含まれてるの。私も彼らと同じ人間で、人並みに傷ついたり悲しんだりするのだということが、彼らにはわかってない。私はいつも、間違って地球にやって来た異星人のような所在無さを感じていた。大学でも会社でも、ずっと・・・・・・。
(pp.150-151)
異性愛者としての女をあきらめきれない場合、男の幼稚で身勝手な欲望に従うことで「客体」化されてしまうことを回避しながら、「性的主体」としての己を確立し維持するという難題が待ち受けている。
「自分の言動には、すべて自分が責任を引き受けなくてはならない」と考える、ある意味、責任感の強い人間(別の言い方をすれば、強迫神経症的に自己にこだわり過ぎる人間)は、「自分は、こうあらねばならない」「他人の前で、このように振る舞う人間でなくてはならない」という自意識の枷に縛り付けられて、そこからはみ出す自分をどうしても許すととができない。他人が許しても、自分が自分を許せないのだ。そういう人間は、コスプレして他人に化けるか、匿名性の高い場所で何者でもなくなるか、そのような特殊な儀式を経ないと、自意識の檻の中から出られないのである。おそらく東電OLも私も、「他人の顔で女自意識を剥き出しにすること」を堅く自分に禁じ、そこの部分に対して常に厳しく視の目を光らせているようなタイプの人間である。うっかり監視の目を緩めて「女自意識」がダダ漏れになってしまうと、たちまちナメられたり付け込まれたりするのではないかという恐怖、さらに、そんな自分をたまらなく恥ずかしく感じて糾弾する自己嫌悪システムが発動して、抜き差しならない自意識の泥沼にハマってしまうのだ。
だから我々は、日常生活(特に仕事の現場)において、注意深く「女自意識」を抑制している。すると、それが「素の自分」になり過ぎて、「女自意識」を解放すべき恋愛やセックスの場面で、どうにもスムーズに振る舞えなくなってしまうのだ。他の女たちはいったいどうやって上手く切り替えているのだろう、と、我々は不思議に思う。自分が不器用過ぎるのか、あるいは、他の女たちが知っている特殊な作法やルールを自分だけが知らないのか。そんな自意識過剰で強迫的な我々が、「女自意識」を解放できる手段はただひとつ。別人にコスプレしてしまうことだ。名前を変える、衣装を変える、場所を変える・・・・・・どれかひとつでもいいから、自分を別人格に変換する「装置」を作ることなのである。さらに、このような強迫的自意識の持ち主は、「自己への強いこだわり」があるため、何事に関しても自分が「受動的」な立場を取らされることを許さない。他人に翻弄されたり、他人に支配されたり、他人に利用されたりすることを、「恥」や「屈辱」と感じるのである。私が、その典型だ。今回のデリヘル体験は、前にも述べたとおり『新潮45』のナカセ編集長とともに企画したものであるが、それを「ナカセにノセられた」とか「作家を煽ってあんなことをさせるナカセは女なのか」といった文脈で語る人々に対し、私は烈しい怒りと反発を感じた。それは決して、ナカセを庇う気持ちからではない。むしろ、自分のプライドを傷つけられたからだ。「編集長にノセられて、心ならずもデリヘルをやらされた」ような意志薄弱な人間であると思われることに、ものすごい屈辱感を覚えるからだ。以前、ホストにハマった時にも、「中村は明らかに周りの編集者に煽られてやっている」といった論調で語った書評家に対し、激烈な怒りを感じた。私の行為や作品を批判するなら構わないが、私の人格を「周囲の意向に唯々諾々と従う受動的人格」だなんて誤解するのは許さない。私は、いつ何時も、自分の意志で己の行動を決定している。特に仕事に関しては、絶対にその姿勢を崩さないよう心がけている。そうでないと、私は自分の言動や文章に、責任を取れないではないか。
このように己の「主体性」にこだわる人間であるからこそ、男たちから一方的に性的対象として扱われることに対して、怒りや屈辱を感じるのである。それは、無理やり自分が受動的な立場に置かれることだからだ。私の意志を無視し、私の許可も得ずに、私の肉体を性的対象として扱うことは許せない。痴漢やセクハラをされた時、「人間性」を踏みにじられたかのような屈辱を感じるのは、そのためだ。彼らが私の「意志」を無視して扱うからだ。私の身体は私のもの。他人が許可もなく触ったり、私の意志を尊重せずに性的行為を強要していいはずがない。その代わり、私が自分の意志に基づいて「性的対象」となることを選んだのであれば、彼らが私の肉体を性的欲望の処理に利用しても一向に構わない。デリヘルという職業は、そういうことだ。私が自分の意志でこの仕事を選んだのだから、私の肉体は一方的に男たちの性的欲望の器になるのではなく、私の「主体性」の下に彼らの欲望を受け容れるのだ。「デリヘルなんかやる女は、男から欲望の対象にされたいんだから、何をやってもいい」なんて、とんでもない勘違いである。そこに私の意志、私の主体性が存在しているかどうかが、すべての要になっているのだから。
世の中には、「身体を売る女たちは、きっと心ならずもやっているのであろう」という思い込みがある。もちろん、経済的理由やその他の事情によって、本当に心ならずもやっている女たちだって多数存在する。が、その一方で、私のように「自分が男の性的欲望の対象になることに関して、自分自身の主体性を確保したい」という動機を持つ者もいるのではないか。少なくとも東電OLは、そういうタイプの売春婦だったのではないかと私は思う。相手の許しもなく勝手に自分の性的欲望をぶつけておいて、「俺を欲情させるような服装をしてるおまえが悪い」などと責任転嫁するような男たち。あるいは、性的対象になりにくい女に対して、まるで「俺の欲望を刺激しない女は存在してる価値がない」と言わんばかりの露骨な揶揄や侮辱的な振る舞いをしてみせる男たち。どちらにしろ、それは相手の主体性や人間性を無視した自分勝手な視点である。目の前の女が自分の欲望を刺激するような(そして欲望を刺激された自分に自己嫌悪をもよおさせるような存在であろうと、または逆に自分の欲望をちっとも刺激してくれない存在であろうと、その女を断罪したり罰したりする権利など、男にはない。何故なら、女の存在や肉体は、その女自身のものだからだ。
(pp.157-161)
東電OLが、周囲の男たちからどんな扱いを受けていたのか、私は知らない。だが、どんな扱いであろうと、彼女が自分の主体性を無視されて一方的に「女」としての価値評価を下されることへの怒りと屈辱感を密かに抱えていたのは、いかにもありそうなことだと思う。負けず嫌いでプライドが高く、自己の主体性や責任に極端にこだわる強迫神経症的な自意識の持ち主であれば、こうした男たちの身勝手な理屈に苛立たないはずがないからである。「バカな男どもが!」という唾を吐きかけるような侮蔑の念と、そのバカ男たちにセクハラされたり露骨に拒絶されたりという屈辱的な扱いを受ける自分自身に対する怒り。こと性的な問題に関して、彼女は自分のポジショニングがどうしても納得できなかった。そして同時に、自分の中に厳然とある「女自意識」についても、彼女はその取り扱い方がわからず、持て余してしまったのではないか。
「女である」ということは、男の性的対象となることに関して、自らの主体性を手放さなくてはならない、ということなのか?つまり、女はいつも「性的客体」でなければならず、それを受け容れなければ恋もセックスもままならないのか?そんなはずはない。我々の中には確かに「男に欲情されたい」という願望があるけれど、それは私の意志を無視して一方的に他者の欲望の餌食にされるのではなく、私の主体性に基づいて私のほうか「男を欲情させたい」ということなのだ。そう、欲情されたいのではなく、欲情させたいのだ、我々は。そこに自分の意志が関わっているのなら、私は喜んで男の欲望の対象となる。
(pp.163-164)
東電OLは、自主的に個人売春をすることで、自分に「性的客体」であることを押し付けようとした人々に対してリベンジを果たしたような勝利感を得たのだ。それが、彼女を夢中にさせた恍惚感の正体であった。濃いメイクをして別人のコスプレをし、「性的強者」のキャラを楽しんだ。それは、自分が「性的弱者(他者から受動的な立場を押し付けられるのは、「弱者」だからこそである)」のポジションに置かれているという認識に苛立った挙句、己の肉体の「女性性」に嫌悪を抱き、摂食障害という病を背負い込んでしまった彼女が、己の主体性を取り戻そうとした最後の足掻きであったのだ。真夜中の街で、孔雀のように毒々しい羽根を広げて、彼女は露悪の歓びに震えた。会社のヤツらは誰も、こんな自分を理解できないだろう。女に「性的弱者」であることを強要する無神経な男たちよ、自分が「性的弱者」の立場に貶められていることにも無自覚なまま生きている鈍感な女たちよ、ざまぁみろ。このゾクゾクした快感は、このうっとりするような勝利感は、ポンクラなおまえらが一生味わえない「選ばれし勝者の果実の味」なのだ、と。
(p.167)
中村さんは、最後に、「こじらせ女子」に向けて、渾身のメッセージを送る。
(前略)彼女自身は、言語化できない無意識の衝動に突き動かされて、あのような行為に走ったのだ。だからこそ、私が買い物依存症だった頃のように、自分ではコントロールできないほどの勢いで暴走してしまった。敵の正体がわかっていれば、もう少し冷静に戦うことができる。「やめられない、止まらない」状態の時は、自分でも理屈のつかない快感と恐怖に振り回されているだけである。買い物依存症やセックス依存症は「プロセス依存症」と言われるが、結論が出ないからこそプロセスに拘泥し、それが「儀式化」してしまうのだ。ブランド物が目的だったのではなく、売春が目的だったのでもなく、我々が目的としたのは「自尊心の回復」であった。そのことに気づかなければ、我々はプロセス地獄から永遠に抜け出せない。
女たちよ。自分の苦しみの正体がわからず、ただただ苦しみから這い上がろうとして、ますます泥沼にハマってしまう女たちよ。私を見よ。東電OLを見よ。我々の苦々しくもイタい戦いと絶望の轍を見よ。我々は、あなたがたのグロテスクな鏡像だ。どうか目を背けず、我々の存在から発せられるメッセージを真摯に受け取って欲しい。
(p.169)
いやはや、なんと濃密で鋭い自己分析、他者(としての異性愛の男)分析であろうか。
現在でもなお燦然と輝く名著だ。
「ああ、お願い。誰か、私に欲情して。」女としての価値を確かめるため、私はデリヘル嬢になってみた。東電OLは私だ、と感じた女たち。女が分からない男たち。性に悩む全ての読者に捧げる究極の私ドキュメント。
目次
第1章 セレブ妻・叶恭子(源氏名)のデリヘル日記
第2章 女は、女であることを確認してこそ「女」となる
第3章 男の「自己正当化」病と、女の「引き裂かれ」症候群
第4章 東電OLという病