日本で、医師であって医師以外の面で活躍した人の代表は文豪森鴎外(1862-1922)だろうか。島根県の津和野の生まれ。鴎外は軍医としてドイツで学び(1884-88)陸軍の軍医総監という最高位を極めた。
ただ脚気beri-beriの細菌説にこだわり、日清戦争と日露戦争において脚気の予防に役立つ麦飯の支給を拒み続けたことは鴎外の医師としての評価を傷つけるものとなった。とくに日露戦争においては25万の将兵が脚気を発症し、3万近い死者が出た。
すでに1884年に当時海軍医務局長だった高木兼寛(1849-1920)は、食事を変えるだけの条件の違いから脚気の発生率が違うことを実証していた。その後、高木は海軍軍医総監(1885-92)として白米に大麦を混ぜた麦飯によって脚気の発生を抑えることに貢献した。高木はイギリスのセントポール医科学校に留学して、最優秀学生として卒業、医師免状・教授資格を受けており、極めて優秀だったことが伺える。森鴎外の主張は、このような目の前の脚気克服の事実を頑強に否定するものであった。
後に明らかにされた結論からいえば、脚気はビタミンB1の不足で起こる。まさに栄養障害である。ビタミンB1は鈴木梅太郎によって1910年に発見されるが、これは最初に発見されたビタミンとされている。このようなビタミンのような栄養素についての知識も当時は確かに不足していた。なおビタミンCの不足で起こるのが壊血症scurvyである。しかし森の言動はやはり異様に頑なである。森鴎外の行動の今一つの背景として指摘されているのは、森の師匠にあたる東京帝大医学部教授緒方正親による脚気の病原菌説(1885)への忠義である。一種の信念になっていたのだろう。この森の行動から強固な信念は、人間を誤らせることがあることが感じられる。
この緒方ー森の主張に対して、敢然と批判したのが同じくドイツに留学(1885-1891)した森の後輩にあたる北里柴三郎(1853-1931 東京帝大を出てから内務省衛生局)である。この結果、帰国直後の北里(内務省)は東京帝大医学部と対立して立場を失う。北里はドイツ留学中の1890年に血清療法を発見し、その後も1894年には香港でペスト菌を発見するなどの成果を挙げてゆく。しかしその栄誉を森は徹底して揶揄批判してゆく。
緒方ー森も、北里も実はドイツに留学したという点は同じである。しかし緒方―森が師事したのはミュンヘン大学のマックス・フォン・ぺッテンコーファー(1818-1901)。北里が主に師事したのはロベルト・コッホ(1843-1910)である。このぺッテンコーファーとコッホは、コレラの原因について激しい論争を展開していた。コッホは1876年の炭そ菌の発見に続いて、1886年インドでコレラ菌の発見、1890年には結核に対するツベルクリン療法の発見に成功している。しかし当時はこうした細菌原因説については、なお懐疑の声があり、ぺッテンコーファーは、公衆衛生とくに下水道の整備を主張し、コッホと論争を行う状況にあった。ぺッテンコーファーがコレラ菌を自ら飲んで自説を証明しようとする衝撃的な事件がこの中で生じている(1892年)。この経過をみると、脚気ー細菌説は、当時のホットな論争の一部であることや、形の上で細菌原因説をとることで緒方ー森は北里と攻守の立場を師匠とは変えているようにも見えること、などは大変興味深い。
北里の窮地を救ったのが福澤諭吉(1835-1901)で、諭吉の支援により北里は伝染病研究所(1892)を設立して、それがペスト菌の発見(1894)につながる。北里と東京帝大医学部との確執怨念はその後も深まり、1914年伝染病研究所が東京帝大に統合されることが決まったとき、北里以下、赤痢菌の発見(1897)で知られる志賀潔(1871-1957)をはじめ所員全員が伝染病研究所を辞職する事件につながる。北里はこのあと私費で研究所を起こす。そしてこの私設の北里研究所の流れが、今日の北里大学や慶応大学医学部(1917)につながることが知られる。
Written by Hiroshi Fukumistu. You may not copy, reproduce or post without obtaining the prior consent of the author.
Originally appeared in Oct.23, 2008.
Reposted in Oct.9, 2009.(2016-06-01改定)
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