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十王・六道・観音信仰 十善戒・六波羅蜜・四弘誓願 

死んだあと、初七日から始まる回忌は実は冥界の審理と重なっている。十王とはそのときの審理をつかさどる王さまを指す。閻魔さん(閻羅王とも書かれる)と会うのは死後35日目。そして初七日は不動明王、四十九日は薬師如来というように本地仏もそれぞれ振られているから、厳密には拝んですがるべき本地仏は法事の日によって違う。このお話は中国で様式化されたという(末木文美士「日本仏教史」新潮文庫, 1996年, pp.282-283)。さて審理の結果、天界か地獄かのどちらかに行く、つまり天国か地獄かの確率は2分の1と勝手に決めていたのだが、因果応報の衆生の生まれ変わりを表す六道という図によれば、死後悪い状態になるお話の方が多い。死んでからも楽はできないということだろう。
 六道とは天道、人道、阿修羅道、畜生道、餓飢道、地獄道。初めの2つ以外は結構つらそう。天道に行ける確率は低い。四十九日目に死者は6つの鳥居の一つを選ばされます。その鳥居の先に六道の世界があります(ひろさちや「お葬式をどうするか」PHP新書, 2000年, p.171)。つまり天道に行ける確率は6分の1。
 日本では古来、死者が持っている穢れ(気枯れという意味と不浄という意味とがあります)は必ず死者の肉親や周囲の人たちに伝染すると考えていました。平安時代初期に定められた「延喜式」ではその穢れの期間が49日と規定されている(ひろさちや「お葬式をどうするか」PHP新書, 2000年, pp.25-26)。日本にもともとある穢れの考え方に着目しますと、四十九日あるいは百カ日までは「忌」つまり穢れのゆえに死者の遺族は他人との接触を避け、そのあとは喪に服するのですが、喪については儒教の影響があります。また日本人は死んだ直後の霊魂は荒れた状態にあるとみた。中でも一番荒れているのが死後四十九日までの霊魂だとのこと。そこで荒れた魂を静める追善供養が行われる。他方、インド人は、霊魂は四十九日の間ちゅうぶらりんの状態にあり、その期間を過ぎると地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天界という六道のいずれかに生まれ変わるとした(輪廻転生)。三十三回忌の三十三年という年数というのは神道で、故人の霊魂を丁重に扱った結果として、霊魂が和御魂(にぎみたま)、つまりカミになるのに必要な年数とのことです。儒教では、父親や母親が死んだ場合は、3年の喪に服するように教えるがこちらから3回忌という年数が出てくる。江戸時代にこのように様々な異なる起源の考え方を取り入れ組み合わせて、法事の理論化が行われたとされている。(ひろさちや「お葬式をどうするか」PHP新書, 2000年, pp.52-55)仏教とお葬式との結びつきは江戸時代以降のこと、仏さまを拝むべきところを私たちは、死者や先祖を拝んでいる。私たちは仏教徒として仏さまをおがむべきだとひろさちや氏はいう。(ひろさちや「お葬式をどうするか」PHP新書, 2000年, pp.62, 89 村井幸三「お坊さんが困る仏教の話」新潮新書, 2007年, pp.90-99.)
死後の輪廻転生にからんで、庶民の間で、信じられてきたのは般若心経を唱え、観音菩薩(救世観音)に頼ること。このような観音信仰のやや古い形(平安期)が六道の衆生を救済する、聖・十一面・千手・不空検索・馬頭・如意輪の観音さま。六道に戻ると六道に対応して六つの観音さま(六地蔵というのも同種の信仰である)が考えられてそれを拝むべきとされた。中国の「摩詞止観」という本によれば、人は死後、六道の間を輪廻してさ迷い続ける。そこで六道に対応する観音様に祈ることで(たとえば地獄界に対しては聖観音菩薩、餓鬼界に対ししては千手観音菩薩など)救われるという。観音菩薩は三十三の姿に変化して衆生を救うともあり、三十三か所の霊場参りとは、そのことを指している。ともかく怒ったりしないでひたすら救いの手を出して下さるのが観音さま。三尊形式で仏さまをまつるときは、よく仏様の脇に観音様がおられる。
 三尊の中心にいるのは、釈迦如来はいわゆる仏教の始祖であるお釈迦様。これに対して大日如来とか 盧舎那仏というのは真理が擬人化されたもの。死に直面して祈る阿弥陀仏は教えが擬人化されたもの(浄土宗、浄土真宗ではこの阿弥陀仏を拝んでいる)。現世の苦しみから逃れ現世利益を祈るときの対象は薬師如来となる。このように仏様にはそれぞれ実は役割分担がある。

梅原猛さんの仏教論
 以上のような仏教観は、ひたすら観音さまにすがり、あるいは仏様にすがり念仏を唱えるもの(他力念仏)。少し心配なのは日々の生業を律する原則がこのお話のような信仰からはでてこないことだ。そこにいわゆる念仏仏教への不満が残る。他力念仏では、仏教がもともとは持っていたはずの道徳律のようなものが消えているように思える。仏教の教えの中の要素のうち、何かが失われているとの反省がそこで生まれる。これを繰り返し説いているのが梅原猛さんだ。梅原猛さんは近代の仏教が戒を捨ててしまったのは大きな問題だとして、仏教は道徳を大事にするべきだと説いている。そして一人ひとりが仏になろうと努力することに戻ることを説いている。そのように努力する中に日々の生業を律する原則が浮か上がる。梅原さんはなかなか優れた僧侶、教師といえるのではないか。
「梅原猛の授業 仏になろう」朝日文庫2009年
「梅原猛の授業 仏教」朝日文庫2006年

 そもそも仏教でしてはならない十善戒があります。
 不殺生
 不偸盗(ふゆうとう)
 不邪淫
 不妄語
 不綺語
 不悪口
 不両舌 
 不慳貪
 不瞋恚(ふしんい)
 不邪見

 この世の苦しみ(四苦八苦)の原因となる愛欲を滅ぼすために戒律を守り心を落ち着け(禅定)智慧を磨きなさい
 貪(とん)瞋(じん、嫉妬や憎悪)痴(無知)を抑制する
  生(しょう)病老死
  愛別離苦
  怨憎(おんぞう)会苦

 釈迦の思想として四諦(したい)がある
 人生は苦しみであると悟ること=苦諦(くたい)
 苦の原因は愛欲であることを悟ること=集諦(じったい)
 愛欲をコントロールすること=滅諦(めったい)
 愛欲を滅ぼす方法である戒、定、慧を悟ること=道諦(どうたい)
 規則を守り、集中力を養い、知恵を磨いて人生を生きよ

 戒律を守り徳を積みなさい
 六波羅蜜 修業するものがその仏になるという理想を完成させるために積極的に行うべき六つの徳
 布施
 持戒
 忍辱(にんにく)辱めに耐える
 精進 こつこつ努力する 
 禅定(ぜんじょう)心を静める 定(瞑想のこと) 
 智慧 人間が愛欲によって苦しみを起こすという世の理(ことわり)を知る

 また八聖道(はっしょうどう)というのもあります
 正見(しょうけん)正しい思想
 正思惟 心の正しさ
 正語 正直であれ
 正業
 正命
 正精進 集中力を養え
 正念 きちんと目的をたてる
 正定 心を集中させる
 人生をどう生きたいか はっきり目的をきめてそれに向けて努力すること

 そして四弘(しぐ)誓願を紹介している
 衆生無辺誓願度
 煩悩無数(むしゅ)誓願断
 法門無尽誓願学
 仏道無上誓願成(じょう)
 すなわち十善戒と六波羅蜜をしっかり守って四弘誓願を自分の願いとして生きる そのようにして生きることができれば仏道は八割方成就していると梅原さんは説いています。(衆生の救済を掲げる大乗仏教は釈迦のもともとの教えとは別物の後世の考え方に過ぎないという言い方があります。例 村井幸三「お坊さんが困る仏教の話」新潮新書, 2007年, pp.77-89.私は釈迦の教えをそのように狭く解釈する必要はないというのが大乗仏教の考え方で、わたしたちにはそのような大乗の教え方の方を支持しているように考えます。村井さんが年配の方ですが、「悟り」に至ることはむつかしいとしながら、釈迦仏教と大乗の教えとは違うと得意げに語るのはお話としては筋が通っていない、つまり大乗の教えが必要だったことを認めず、大乗の教えをおもしろおかしく批判するのは記述として浅い印象があります。)


originally appeared in Sept.27, 2010
corrected and reposted February 23, 2011

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