中日ドラゴンズの浅尾拓也選手が9月26日にナゴヤドームで引退会見を行いました。
私が引退の報道を知ったのが、出社前のネットニュース。しかも、東スポWeb。大本営の中日スポーツには、引退の文字どころか、一面は貴乃花親方の記事。
アマチュア時代は、それほど目立つ存在ではありませんでした。知多市立八幡中学校中学校時代(山崎武司さんと同じ)はキャッチャーとして軟式野球部に所属し、愛知県立常滑北高校(現:愛知県立常滑高等学校)入学後もキャッチャーでしたが、ピッチャー不足の事情から二年生秋にピッチャーへ転向しています(https://blog.goo.ne.jp/full-count/e/c9954726ab8f63b40479d335a4a1273c)。
高校卒業後、日本福祉大に進学し、愛知大学リーグの2部と3部のリーグで通算53試合に登板し、21勝9敗の成績を残しました。2006年秋季の2部リーグでは名古屋産業大戦でノーヒットノーランを達成しています。愛知大学野球リーグ1部2部入れ替え戦で、同期入団の清水昭信さん(名城大)に投げ勝ち、チームを1部昇格に導きました。大学入学時には138km/hだった球速は、2年秋に140km/hを突破し、4年秋に最速152km/hを記録しました。この間、中部国際空港でアルバイトをしていたそうです。
2006年のドラフト会議で中日ドラゴンズから3位指名を受け入団。日本福祉大第1号のプロ野球選手となりました。
プロ入り後は先発でも登板していましたが、細身ながら威力のあるストレートと、縦に曲がるスライダー、フォークなどを武器に、中継ぎとして力を発揮していきました。
プロ4年目の2010年は、中継ぎで12勝を挙げ、日本新記録の59HP(ホールドポイント)をマーク。連覇を果たした2011年も52HPを挙げ、2年連続で最優秀中継ぎ投手に輝いただけでなく、胴上げ投手にもなり、中継ぎ投手としては史上初となるセ・リーグMVPに選出されました。また、バント処理などフィールディングも抜群で、これも中継ぎとしては異例のゴールデングラブ賞を受賞しています。
しかし、2012年以降は、肩やヒジの不調が原因で、武器でもあった最速157km/hのストレートが投げられなくなり、登板数も激減。2016年は、プロ入りして初めて一軍登板ゼロでシーズンを終えました。2017年は一軍復帰を果たしたものの、登板はわずか4試合に終わりました。
今季は9試合(9月25日現在)。近年はコントロール重視のピッチングへ転向をはかり、9月に登板した読売ジャイアンツ戦では、坂本選手、重信選手、マギー選手を3者連続三振に斬って取るシーンもありましたが、同じジャイアンツ戦で3失点したことが、引退を決断したとのことです。
(2017年のナゴヤ球場でのブルペン)
浅尾選手といえば、イケメンですが、それだけでなく、何事にも真面目な人柄も、人気の理由でしょうね。
日本福祉大のHPより
入団1年目から、毎年オフに名古屋市内の児童養護施設を訪問しています。はじめての時は、「僕が行って、子どもたちは本当に喜んでくれるのかな」という不安がありました。でも、子どもたちはみんな笑顔いっぱい。歌ったり踊ったりして歓迎してくれて、お礼の手紙までいただきました。球団の活動で、入院している子どもたちに会いに行った時も、病気やけがで苦しんでいる子どもたちが笑顔で迎えてくれました。 子どもたちとは普通に遊ぶだけで、特別なことは何もしていないのに、僕が行くだけで喜んでくれるんです。そんな経験を重ねて、人に喜びを与えられる自分の存在を改めて認識するように。人としても野球人としても、しっかりした人間にならなくては、と思うようになりました。野球でいい成績をあげることで喜んでくれる人がいる。だから 自分も常に一軍にいようと頑張れる。悩むこともありますが、野球は人生の一部。人生そのもので悩んでいる子どもたちがたくさんいて、それでもみんな笑顔で頑張って いることを知ると、自分の悩みが小さく感じられます。僕が子どもたちに喜びを与え、そのお返しに、僕は子どもたちから元気や生きがいをもらっています。
プロ生活11年間で、実際に輝き放ったのは4年ほどです。岩瀬選手や荒木選手とは違い、大記録を残したのではありませんが、私たち竜党にとって記憶に残る大選手の1人だったと思います。
引退は残念ですが、私たちに夢と希望を見せてもらった浅尾選手のピッチングに、「ありがとう」と言わせてもらいたいです。