イチロー選手のMLB3000本安打が今年達成される見込みですが、遡ること36年前の1980年5月28日。この年からロッテオリオンズ(現;千葉ロッテマリーンズ)の地元川崎球場での阪急ブレーブス(現;オリックスバファローズ)戦において、山口高志さんから日本プロ野球史上初となる通算3000本安打をホームランで達成したのが、「サンデーモーニング」(TBS系)の週刊御意見番コーナーに出演している張本勲さんです。
1940年広島県生まれ。浪商高校(現;大阪体育大学浪商高校)を経て、東映フライヤーズに入団。1959年に新人王に輝く。翌年から3年連続で3割を打ち、1961年には初の首位打者、1962年にはチームを日本一へと導く原動力となり、パ・リーグMVPに。1970年には当時の日本記録となるシーズン最高打率.3834を樹立。首位打者は4年連続を含め7回、3割以上を16シーズンに渡ってマーク。3085安打を樹立し、引退。野球評論家として活躍し、「サンデーモーニング」(TBS系)の週刊御意見番コーナーに出演中。「プロフェッショナル 勝者のための鉄則55」など著書多数。
今では張本さんのコメントが「暴言失言の3000本安打」などと言うことがありますが(言われていない? そうでしょう。私が造りました)、幼いころからの境遇などもあるようです。「やるしかない」境遇であり、時代だったんです。「ハングリー精神」と「負けず嫌いな性格」が原動力でしょう。それに私は非常に「臆病」でしたから。「今日は打てたけど、明日は打てないかもしれない」といつも自分を疑っていた。毎日素振りを300回、コツコツと続けることで開き直れたのです。「俺はここまでやったから打てる」と、自分に暗示をかけるための儀式だったのでしょう。
超一流と呼ばれる選手は、繊細で臆病です。長嶋茂雄さんや王貞治さん、落合博満さんもそうだと思います。不安を払拭するために徹底して練習しないと気が済まない。だから偉業を成し遂げられる。
張本さん右手の小指と薬指はくっついたまま、離すことが出来ません。親指と人さし指、中指の3本しか使えません。それは4歳の時、友だちと芋を焼いていたらバックしてきた軽トラックにはねられ、火の中へ投げ飛ばされ、右手に大やけどを負った影響だそうです。以来、この右手は奥さんにも誰にも見せず、唯一、引退後に川上哲治さんに見せたことがあり、川上さんは「よくこんな手で野球を続けて…」と涙ぐんだそうです。
5歳だった1945年の時、広島に原爆が投下され、小学校六年生だった一番上の姉を亡くしました。お父さん戦時中に戻った韓国で病死し、お母さんは小さなホルモン焼き屋を始め、女手一つで3人の子どもを育てました。張本さんはお母さんが眠っている姿を見たことがなかったそうです。それぐらい働き詰めで、思い出すと今も涙があふれるそうです。トイレも水道も共同の6畳1間の長屋で、お兄さんともう一人のお姉さんを家族4人暮らし。お兄さんは中学を卒業してすぐタクシーの運転手、お姉さんはゴム工場で働いて家計を助けました。
そんな時に野球と出会い、人生の目標となったそうです。小学六年生の時、読売ジャイアンツと広島カープの試合があり、スター選手を見たさに、ジャイアンツ選手が宿泊している旅館の食堂をのぞきに行ったそうです。そこでは選手たちはステーキやおにぎりをたらふく食べていて、「プロ野球選手になればこんな贅沢できるのか!」と衝撃を受けたそうです。お金を稼いだら「母を楽にできる」「大きな家をプレゼントできる」とも考え「プロ野球選手になる」と強く思った瞬間だったそうです。
中学卒業後は広島で一番野球が強い高校に入るつもりだったそうですが、喧嘩っ早かったこともあり、その噂が高校側に伝わり入学を拒否されました。結局、松本商業高校(現・瀬戸内高校)に入り、昼間は学食で働きながら夜間の授業を受けましたが、これでは練習時間が取れなかったため、甲子園の常勝校だった大阪・浪商(現・大阪体育大学浪商高校)に入ろうと、「大阪に行かせてくれ」とお兄さんに頼んだそうです。浪商の監督に最初は断られたそうですが「プレーだけでも見てください」とお兄さんが頭を下げ、プレーを見せた結果、入学・入部することが出来たそうです。
当時、大卒の初任給が1万4000円。お兄さんはタクシー運転手として必死で働き、月2万円ほど稼いでいましたが、その給料の半分を3年間仕送りしたそうです。
中学までは左手だけで打っていたそうですが、高校に入るとさすがに左手だけでは通用しなくなりました。右手でバッドを思うように握れないことは、張本さんを引退さする時まで苦しませたそうです。引退後の今でも「この右手で二度と野球はしたくない」と思うほど辛かったそうですが、ハンデがあったからこそ、右手を使って、毎日300回の素振りをし続ける努力を自分に課せたそうです。
しかし、高校三年生の時、野球部の上級生が下級生を殴り、その犯人として張本さんだけに休部命令が下され、夏の甲子園に出場出来ませんでした。張本さんは神に誓って殴ってはいないそうです(以前から折り合いが悪かった当時の部長が、高野連に事件の報告と処分を提出したとのこと)。
張本さんは彼を憎み「こんな理不尽な差別を受けるのは、私が在日韓国人だからか」と考るとともに、甲子園の夢を絶たれたことはプロ野球の夢も絶たれたのと同じであり、自殺を考えます。白球を握り、阪急電車に飛び込もうとした時、自分を犠牲にして育ててくれたお母さんに「勲ちゃん、死んではいけない」と言われたような気がしました。そして、自殺は思い留めたものの、喧嘩ばかりする自暴自棄の日々が続きます。
ですが、甲子園大会が終わった後、在日韓国人高校生で構成される日韓親善高校野球の代表メンバーに選出されます。試合会場であり、祖国でもある韓国の土を生まれて初めて踏み、胸が熱くなりました。役員の方々が温かく出迎えてくださり、いいプレーをすると大勢の観客から称賛の声と拍手が沸き起こります。そこで「野球は何て素晴らしいスポーツなんだ」と思い、「やはり野球が好きだ」「野球を続けたい」と、自分の本心を再確認し、諦めずにプロ野球選手を目指そうという気持ちにつながります。そして、高校卒業後に東映フライヤーズに入団します。
そして、若くして成功を収めるのですが、やはり、そこには失敗し、挫折することがあります。
リーグでのMVPを獲得し、日本一に輝いたプロ入り4年目。年俸はアップし、優勝ボーナスも出た。夜遊びをするようになります。当時は22歳でしたので、天狗になり、完全に舞い上がっていました。
「300回の素振り」は毎日続けていたものの、早く銀座へ遊びに行きたいから、ただ回数をこなすだけのノルマになってしまいます。以前のように、一振り一振り集中してバットを振っていません。翌年、そのツケは数字に表れました。ヒットが打てず、打率も.280という結果でした。
立ち直るきっかけは王貞治さんでした。オールスター戦でフリーバッティングしている王さんを冷やかしに行きますが、王さんの伸びていく鋭い打球を見た瞬間、冷や水を浴びせられたようになり、隣にいた山内一弘さんには「おまえも去年はあんな打球を打っていた」と言われ、愕然としそうです。
「俺は何をしているんだ」と惨めさでいっぱいになり、ホテルの部屋に戻って、明け方までバットを振り続けます。その後は心を入れ替えて必死で練習しましたが、本来のバッティングを取り戻すのに2年かかったそうです。
張本さんは、偉業を果たすには3つの共通点があると言います。素質に見合った「正しい技術を見極める力」を持ち、それを身につけるために「徹底的に努力」する。その努力を継続させる「自己管理力」だそうです。
この自己管理が徹底できるようになるには、「一番になってやる」という、何かを犠牲にするぐらいの「気概」や「目標」が必要です。これは野球やスポーツに限らず、勉強や仕事においても同じことです。何にせよ人間は楽な方へと流れますからね。
張本さんは今の若い世代に対しては練習量が圧倒的に少ないし、準備が足りないと思っているとのことです。それは「失敗したくない」という心配から始まって準備するのではなく、「大丈夫、打てる」という楽観的に思えるそうです。
生まれた時から物に溢れ、食べ物に困らないことが当たり前の中で育って来ているかも知れません。張本さんの生まれ育った時代と、現代とでは社会的環境が違いますので、どちらが正しいとか、どちらが正しくないとかは一概には決められませんけど、私も、失敗を恐れるあまり、いい子が多くなったようい思えます。だから、失敗した時に深く傷つくことを恐れ、どこか他人任せな傾向もあると思います。
「挫折もしたし、恵まれた生い立ちでもなかったので、常に不安がありました。だから必死に練習した。良い時が続くわけがないと思ってしまうから」
ただ、不安を拭うために用意周到に準備し、練習する。それが「よし、やるだけやった」という自己暗示になり、自信になるのはどの時代も同じことだと考えます。