2/15付の神奈川新聞「時流自流」のコーナーで、養老孟司さんのインタビュー記事が載っていました。テーマは「生物多様性社会について」。なんでも今年は「国際生物多様性年」なのだそうで、養老氏は、環境省の広報組織「地球いきもの応援団」のメンバーでもあるのだそうです。
養老氏の発言は、いつもハッとさせられたり、なるほどとうなづかされたりします。少しだけ引用させていただきます。
以下引用
記者「生物多様性社会に向けて、個人にできることを教えてもらいたい」
養老氏「大体、何かをすれば生物が多様化するという感覚が間違ってるんだよ。そもそも生物多様性なんて一言でいうことじゃない」
記者「では自然に触れて感覚を戻せばよいですか?」
養老氏「無理にやってもダメ。生活の中で必然的に触れないと。」
(中略)
「都市で温度も明かりも風向きも変わらない暮らしをしているから、感覚がなくなった。どうすれば生物が多様化すると頭で考えるのではなく、取り戻すべきは感覚だ」
(中略)
「緑地の面積が10倍になって、生物の種類はやっと2倍になる。生物の多様性は緑地の面積で決まる。個々に緑が残っていても生態的に意味がない。緑は切れたら意味がない」
記事中に紹介されているのは「三浦・小網代の森」。
小網代は、源流から海まで一つの流域が自然のままで残る全国でも珍しい例だそうです。降った雨が森を下って川になり、大きな湿原をつくり、干潟になる。分断する道路や住宅地はない。そんな「完璧な流域」には約4千種の生物がいるのだそうです。
養老氏「自然を人間が寸断してきたから生物が消えた。小網代はあまりにも小さい流域だから寸断されなかっただけ」
人間にはかつて、ひとかたまりの自然を感じる感覚があったと考えられ、関東や甲信越など日本古来の行政区分には、自然の分布で見ても明らかな違いがあるのだそうです。
「自然に即した状態で暮らすことが、ほかの生き物だけでなく、人間にも一番無理がない」
少々硬い話題になってしまいましたが、頭でっかちにならず、からだで感じて、感覚を研ぎ澄ませていく、という点では、登山家・戸高雅史氏の講演会で、戸高氏が言っていた、「目標や目的に向かおうとして枠に自分をはめこむのではなく、今、ここに在る自分の感覚を意識することが大切」ということと、どこか奥の奥でつながっているような気がしました。
養老氏の発言は、いつもハッとさせられたり、なるほどとうなづかされたりします。少しだけ引用させていただきます。
以下引用
記者「生物多様性社会に向けて、個人にできることを教えてもらいたい」
養老氏「大体、何かをすれば生物が多様化するという感覚が間違ってるんだよ。そもそも生物多様性なんて一言でいうことじゃない」
記者「では自然に触れて感覚を戻せばよいですか?」
養老氏「無理にやってもダメ。生活の中で必然的に触れないと。」
(中略)
「都市で温度も明かりも風向きも変わらない暮らしをしているから、感覚がなくなった。どうすれば生物が多様化すると頭で考えるのではなく、取り戻すべきは感覚だ」
(中略)
「緑地の面積が10倍になって、生物の種類はやっと2倍になる。生物の多様性は緑地の面積で決まる。個々に緑が残っていても生態的に意味がない。緑は切れたら意味がない」
記事中に紹介されているのは「三浦・小網代の森」。
小網代は、源流から海まで一つの流域が自然のままで残る全国でも珍しい例だそうです。降った雨が森を下って川になり、大きな湿原をつくり、干潟になる。分断する道路や住宅地はない。そんな「完璧な流域」には約4千種の生物がいるのだそうです。
養老氏「自然を人間が寸断してきたから生物が消えた。小網代はあまりにも小さい流域だから寸断されなかっただけ」
人間にはかつて、ひとかたまりの自然を感じる感覚があったと考えられ、関東や甲信越など日本古来の行政区分には、自然の分布で見ても明らかな違いがあるのだそうです。
「自然に即した状態で暮らすことが、ほかの生き物だけでなく、人間にも一番無理がない」
少々硬い話題になってしまいましたが、頭でっかちにならず、からだで感じて、感覚を研ぎ澄ませていく、という点では、登山家・戸高雅史氏の講演会で、戸高氏が言っていた、「目標や目的に向かおうとして枠に自分をはめこむのではなく、今、ここに在る自分の感覚を意識することが大切」ということと、どこか奥の奥でつながっているような気がしました。
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