「お笑い」というものがわかっていないか、あるいは、そのセンスが絶望的にない人に見受けられるのだが、よく「面白いこと言って(やって)」というの(無茶ぶり、でもない)がある。西日本で2位に入る「爆笑王(京都では1位)」の私だが、いま現在の職場でも「ちよたろさんは面白い」と周知されてきたところ、難儀しているのがそういう輩だ。
それに「面白い」というのは一言で表せない。「笑う」という結果を得るまでには辿らねばならないプロセスがあるからだ。それを度外視して「やってやって」というのは、もはや、べろべろばーで笑うレベルでなければならない。また、そういう輩は「お笑いセンス」も皆無であるから、およそ、完璧だと自負される「プロセス」を辿った「笑う」という結果が自分だけ得られず、周囲の爆笑を見渡してから不思議な顔をしていることになる。
よくいわれる基本形が「ボケとツッコミ」となる。この関係が成立していれば「良いコンビ」となるのは漫才師だけではなく、夫婦や恋人なんかもそうだ。我が夫婦も例に漏れず「ボケとツッコミ」が成立している。もちろん、私が「ツッコミ」となる。だから我ら夫婦が揃うとき、その場に居合わせた人は幸せになる。読者諸賢も「自身のパートナー」を思い浮かべてみるとどうだろう。ちなみに、王道は「旦那がボケ」だ。旦那である私がツッコミ、という我が夫婦は珍しいパターンだ。
旦那が無駄遣いする・旦那がだらしないことをする・旦那が子供みたいなことをする→嫁がツッコむ、というのが王道パターンだとわかる。<上着の内ポケットからキャバクラホステスの名刺が!!→あんた、ちょっとコレなに?><携帯電話にオンナからの電話が頻繁→あんた、それだれ?>とかになる。「バレる程度の浮気は所詮がボケ。怒ってツッコミ笑って許せ」――――ちよたろです。
また、コレは職場の人間関係構築の際も意識していると使える。精度はともかく、上手な人は「ボケとツッコミ」の両方ができる。だから「この人はどっちか?」と判断してから接する。その際相手は素人、大概は「ツッコミ」となる。つまり、こちらが「ボケる」ことになるが、相手は素人、所詮がベタ、下手糞である。だから相手のレベルに合わせることが肝要。また、相手の性別、相手のポジション、年齢なども考慮する。相手が年下とか部下なら「ボケてあげる」ほうが、その後の人間関係が円滑だったりするからだ。
目上や上司には「ツッコミにくい」がそこを利用する。逆に言えば「ツッコめる」ように接することが重要だとわかる。気をつけたいのは「ツッコむ気も失せる」ような「ボケ」だ。名前を呼び間違えたり、必要ない下ネタを投下したりするアレだ。最悪なのはそのあと「ツッコメヨ~~」とか言っちゃうアレである。そういうのはもう殺そう。
しかし、それとは別になるが、とても「ツッコめない」一撃必殺のボケも存在する。換言すれば「ツッコむ必要がない」わけだ。既に完成形、出来上がってしまっているのだ。
過日の夜勤、明け方4時半ごろだったと思うが、とある認知症の女性入所者がトレーナーを下半身に付けて部屋から出てきた。歩きにくそうにしながら、ずり下がるトレーナーを手で掴みながら、そして物悲しげな眼で私をじっとり見つめ、次の瞬間、絶妙のタイミングで「わたしはいったいどこに行くのでしょう?」とボケた。寝ていない、という条件を差し引いても一撃必殺、その精密さ、その練度に私はもんどりうった。さすがは「プロ」である。
とある「別のプロ」はこうだ。早朝に起こしに行くと、寝起きとは思えぬにっこりぶりで一言、私にこう言い放った。「わたし、起きるの忘れてましたか?」
コレも深い「ボケ」だ。我々はつい「寝過ごす」とか「朝起きられない」と言ってしまう。自分の所為じゃないと。本能的な問題だと真面目にやる。しかし、この「プロのボケ」は違う。起床することを失念していたと言うのだ。私は唸った。
しかし、こちら側がちょっと「ツッコんで」あげないと成立しない場合もある。私の場合は妻で鍛錬しているから対応できる。私の職場など、相手はいろんな意味で、広い意味でボケている。速度も回数も素人の比ではない。例えば、高齢者は手が震える。その震える手でスプーンを持ち、ヨーグルトをかき混ぜている。これにもちゃんと「便利か!」とツッコむ。コレで成立する。研修で世話になった施設ではこれでOKだった。
認知症の爺さんが問うてくる。「わたしわしは、あたなが、じぶんのだれですか?」
コレに対し素人の介護職員は「なに言ってるかわからん」とか「意味不明」とツッコむ。これではボケている方も詮無いことだ。せっかくボケた甲斐もない。私はコレに「禅問答か!深すぎるわ!」とした。忙しいときは、とりあえず「哲学か!」もある。
「ジュン」という犬を飼っていたお婆さんがいる。毎日、施設内を探している。頭の固い介護職員は「適当な犬のぬいぐるみ」を持ってくる。これがジュンですよと。
もちろん、通じない。だって「ジュン」は黒色で小さな犬。これは茶色のマメシバである。お婆ちゃんは「こんなん、ぬいぐるみやんか」と逆にツッコンでいる始末だ。酷いのになれば「死んだ」とか「喰った」とかいうのもいる。なんというツッコミ下手か。それに先ず、その「ジュン」が「浜村」なのか「井上」なのか「レッツゴー」なのかもわからない。
もちろん、大昔、自宅で飼っていたという「ジュン」はもう亡くなっている。それにそれは博多の話だ。こんなところにいるわけない。それでも探すわけだから、これはもう、つまり「ボケている」のだ。ならばツッコまねばなるまい。
「さっき散歩に出たやンか!1時間で戻るとか言うてたで?」
お婆さんは、あ、そうだった?と納得する。成立だ。
「嫁はどこに?」→「今日は残業。遅くなると電話がありました」
「息子が戻らない」→「修学旅行。お伊勢さん。帰るのは2日後。お土産あるで」
「孫が見当たらない」→「明日は学校。早く寝るって言ってたよ」
「財布がないんだけど」→「娘さん(息子さん)が預かってる。落としたことあるでしょ?」
「ごはん、はまだかしら?」→「いま炊いてます。米が切れてて。ごめんね」
「ここはどこ?」→「病院です。腰が痛いから入院です」
「火事だ!」→「いま消しました。もう大丈夫です」
「お父さんがいた!!(もう亡くなっている)」→「さきほど帰られました」
私もいろんな「ツッコミ役」になる。子供、孫、旦那、石原雄次郎、宮内庁の人間、GHQ・・・そういえば、どこでも服を脱ぐお婆さんには冗談半分、周囲に露助がいます、危ないですから服を着てください、で急いで服を着始めたのがあった。笑ったが怖かった。
ともかく、私の仕事は家でも職場でも「ツッコミ」だ。このブログもそうかもしれない。「南京大虐殺はあった!」→「なんでやねん!」とかになる。民主党や朝日新聞にも「なんでやねん」を連発していた数年間となる。ちょっとだけ虚しいが、つまり、私は趣味も「ツッコミ」か。ならば今日も明日も、なんでやねん、と楽しく過ごしたいモノだ。
コメント一覧
久代千代太郎
親爺
最近の「過去記事」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事