忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

ガチコメ的「最近の若いおかあさん!!」

2008年04月04日 | 過去記事
■2008/04/03 (木) ガチコメ的「最近の若いおかあさん!!」1

「上の子供が3歳で、下はまだ1歳なんです。」

と、半分笑いながら言うこの女性はまだ21歳。親元に子供を預けて働きたいと面接に来る。当然、この業界の「時間給」が良いということがその動機である。

安易に子供をつくり、安易に結婚して、安易に離婚して、安易に実家に戻り、安易に仕事を選ぶ。もちろん、私も他人事ではない。現在、離婚はしていないが、我が娘も同じようなもんだ。だからもう、心配で心配で・・・いつ戻ってきてもいいようにしてある(笑)。

しかしながら、アルバイトの募集なんかすると、これがまた、呆れるほど多いのだ。相手は、「こんなに若いのに子供がいるなんて意外でショ?」と薄ら笑いを浮かべながら、こちらの反応を窺うのだが、残念ながらもう、珍しくも何ともない。逆に20才かそこらで「彼氏もいないんですぅ~お父さんが厳しくてぇ~~」という女性に希少価値と、かすかな希望を見出してしまうほどである。

そして、そういう幼き母親から、さあ、これからこの子を女手ひとつで育てなければ・・・というような覚悟も、若くして「片親」となってしまった・・・という悲壮感も見ることはない。それどころか、実にあっけらかんとしているのもその特徴である。

しかしそれは、理由はどうあれ「子供を生む」という大役を終えた女性の貫禄などではない。なにか、もっとこう、頼りなげな、状況を掴めていないような、弱々しい感触である。まるで、近視相姦に遭いながらも、自分に何が起こっているのかがわかっていない幼女のような、実に天真爛漫な(悪い意味で)素っ頓狂で呆けたような・・・

「結婚なんてこんなもんだ」
「出産なんてこんなもんだ」
「子育ても何とかなるだろう」

などという「甘さ」が滲み出ているような気がするのは、私が何度か離婚を経験したからであろうか。実家にあると思われる「二人の門出に・・・」という、婚姻届を出すと東大阪市がくれるアルバムも2冊あるしな。オカンに「2冊もどうするねん?ああ?3冊目はあるんか?ああ?」といわれて返す言葉もなかったもんだ。でも、オカンよ。3冊目はない。婚姻届は京都で出したからな。心配せずとも、もう予定終了だ。次は無い。うほうほ。

「2」へ

■2008/04/03 (木) ガチコメ的「最近の若いおかあさん!!」2

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いや、私のことはどうでもいい。

それよりも・・・だ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080403-00000962-san-soci
<また母親が…4歳の長女絞殺し逮捕 育児で悩み>
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/134959/
<知的障害の小2長男と心中未遂 母親を逮捕「美容院経営苦しく育児に悩み」>
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/134910/
<トイレに赤ちゃん捨てた母逮捕・埼玉>
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/134767/
<母親に絞殺された小4長男の「母への詩」>
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/134097/
<長男の頭刺した母逮捕 意味不明なことを叫ぶ 茨城>
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/128975/
<「死ね」「ブタ」…逮捕の母親、乳児の腹に赤ペンで落書き>

この1週間ほどを見るだけでもコレモンである。

更に「児童虐待」だけについて言えば、去年、全国の児童相談所に寄せられたものは、その「相談件数」だけでも「3万7千件」を超えるらしい。ったく、世も末だ。

これを見るに、「赤ちゃんポスト」などという「捨て子箱」はいらん!!と正論を吐く根性は私にはない。虐待するなら、殺すなら、「ポスト」でも「ゴミ箱」でも、名前なんぞなんでもいいから、その児童が「死なない」ことを前提にしたシステムは設置してほしい。やはり、「赤ちゃんポスト」には無念ながらも賛成だ。残念ながら必要だと思う。

とはいえ、このような虐待やネグレクトにおいて「必ずしも離婚が原因」となっていないということも言うまでもない。もっといえば「貧困」も「病気」も何ら関係しない。つまり、このような事例に関して言えば、

「そんな理由はない」

ということに尽きるわけだ。子供を虐待したり、殺したりするような理由は、どのような場合においても存在しないということだ。考えるまでもない。

そして、子供が生まれたというだけで、誰でもが自動的に「親」として自覚できるわけでもない。その子の成長と共に「親」になっていくということも想像に容易い。

そう、問題は「そこ」である。

「3」へ

■2008/04/03 (木) ガチコメ的「最近の若いおかあさん!!」3

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ずいぶん前の話だから書く。

30を過ぎた女性スタッフだった。ある日、私のところに相談に来る。

「子供が万引きしたんですよぉ~~もう、何回かされてぇ~~」

この「母親」は子供が2人いる。離婚はしていないが、ご主人とは別に「彼氏」がいると公然と話す不思議な主婦だった。私がネタかと思っていたら、ある飲み会の席上で、とても若い男性とラブホテルと思しき風景の中、中睦まじくベッドでVサインしながら写っている写真を携帯電話で見せてくれた。とくに興味もなかったので「ふうん・・・」というリアクションしかとれない。が、しかし、さすがにちょっと引いた(笑)。

その子供が万引きの常習犯だというのだ。それはもう、間違いなく、おまいの所為だろう?と突き放すこともできたのだが、まあ、とりあえず聞いてみる。

何度も「もうしないでね?」頼んだという。
中学生になる娘に何度も体罰をしたという。

私は聞く。

『(頼んだり、体罰をする)場所は?』

「えぇ~~っと・・・その店?事務所とか・・・」

原因はこれである。この母親の「無責任さ」こそが原因である。

『次もやると思う?』

「絶対、やると思う。反省なんかしてないと思う。」

『次やったら、子供を責めるんじゃなくて、店の人に弁償してから、土下座してみろ。』

嫌そうな顔をした。やはり、原因はそうだった。

『親が子供したことに責任とらんでどうするの?』

「お金は払うし・・・やったのは子供やし・・・甘やかしてるみたいになると・・・」

『“払うからいい”というわけではないということはわかるな?“やったのは子供”ということは親の責任はあるな?そして、自分の母親が、見ず知らずの店の人に泣きながら土下座しているのを見て、その子供が何も感じない、もしくは“ザマミロ”と面白がっているというなら事態はもっと深刻だ。これからは万引きでは済まん。それなりの覚悟をしていたほうがいい。そのときにも“やったのは子供”と言えればたいしたもんだ。』

「4」へ

■2008/04/03 (木) ガチコメ的「最近の若いおかあさん!!」4

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これも「個人主義」の弊害なのだろうか。

つまり、この母親は、

「子供はもう中学生なんだから、自分のやったことは自分で責任を取るべき」

であり、いくら母親であろうとも「弁済すること」と「形だけの謝罪」があれば問題ないだろうというのが言い分なわけだ。それに「もうするなよ!」と指導もしていると胸を張るのである。この母親の「責任の範囲」とはその程度のモノなのであった。この先、必ず苦労すると思われる。テレビのニュースを見て他人事だと思わんことだ。御愁傷様です。

読者諸賢はお気づきであるかと思うが、この母親からは「親の責任」が抜け落ちている。あくまで「対等」な「個人」の権利を持っていると錯覚しているのである。

それは、最近、生意気になってきた子供の態度からかもしれない。大人に交じって一人前の「遊び」を覚えだしたからかもしれない。しかしながら、いくつになっても「親としての責任」は免れないということが理解できないのである。

「5」へ

■2008/04/03 (木) ガチコメ的「最近の若いおかあさん!!」5

それはもちろん、世間様に対する責任のことである。

「万引き」が悪いことであり、本来はただの「窃盗罪」であることは周知である。そして、その弁済など「させてもらえる」という立場であることも知れている。通報されて逮捕されるという結果も、当たり前にあるのだということも忘れている。

あくまでも「出来の悪い子供」の被害者のひとりであると振舞おうとするその「無責任さ」が子供の心を凍りつかせる。その親の他者性を子供は理解できないのである。

普通の親は自分の子のことを「分身」と表現する。すなわち、自分自身であるというわけだ。とくに己の体内に十月十日も宿らせて、さすがの私も未経験ではあるも、この世のものとは思えぬ激痛に耐え抜き、やっとの思いでこの世に送り出すという荒技を体験した母親ならば、その想いはアワアワと慌てるだけの父親と比して、その気持ちは強固なものになるであろうと予測はできる。つまり、「母は強し」というのも得心がいく。

万引きなど、

「なぜ、してはいけないか」

をワザワザ説く必要などない。
親が責任を持って姿勢で示すことが肝要であろう。まさに、

「我がこ(子)とのように」謝罪する姿を見せるのが最も効果的である。

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別に若い年齢で「子供を生む」ということが問題なのではない。昔はもっと若かった。

「親になる」ことができないのが問題なのである。

ましてや、我が子を殺すなどというのは既に「人」ですらない。

「親」は「子」を育てる。護る。
ただ、理屈抜きの愛情を持って接するだけである。

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