忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

<阪神大震災18年>震災知らぬ市民4割超す…神戸市

2013年01月18日 | 過去記事


<阪神大震災18年>震災知らぬ市民4割超す…神戸市

<6434人が犠牲となった阪神大震災は、17日で発生から18年になる。神戸市では昨年、震災を知らない市民が初めて人口の4割を超え、街並みにも傷痕はほとんど見られなくなった。一方、家を失った人たちが移り住んだ復興公営住宅は1人暮らしの高齢者が増え、一層の見守りが必要になっている。被災地の経済も低迷から脱し切れず、経済的に立ち直れない被災者の姿も垣間見える。

兵庫県内の災害復興公営住宅では、入居者の高齢化率(65歳以上の割合)が昨年11月時点で48.2%と過去最高を更新した。1人暮らしの高齢世帯は10年前に比べて9ポイント増の44.2%を占め、昨年1年間の孤独死は高齢者を中心に61人に上った。自治体が民間などから借り上げた復興住宅では20年間の契約期限が迫り、お年寄りが転居の不安を抱えている。

 震災で落ち込んだ被災地の地域経済も低迷が続く。日本政策投資銀行の分析によると、97年に復興需要が一段落して以降、兵庫県の県内総生産(GRP)の成長率は、データが公表されている09年まで一貫して国内総生産(GDP)の成長率を下回っている。

 最大350万円を被災者に貸し付けた国の災害援護資金は、約2割にあたる約1万2000人分が未返済。資金は小規模商店主らが当面の生活資金にあてたケースが多く、今も震災の影響から脱し切れない被災者の存在が浮かび上がる。

 復興事業のうち、土地区画整理事業は全て終了したが、市街地再開発事業ではJR新長田駅南地区(20.1ヘクタール)が今も続く。空き店舗が目立ち、活性化策が大きな課題だ。

 被災地の最大都市.神戸市では、震災後に誕生、転入した市民が昨年11月現在で人口の約41%となり、震災の風化も懸念されている。一方、東日本大震災を受け、阪神大震災の経験に学ぶ機運は高まっており、教訓を次代に伝えるために02年にオープンした「人と防災未来センター」(同市)は昨年、入館者が500万人を超えた。【阪神大震災取材班】>







建築関係の仕事をしている妻のお兄ちゃん。その当時はまだ現場仕事をしていて、その日も朝早くから仕事が入っていた。独り暮らしの木造アパートに泊まりに来ていたのは「仕事場の後輩」だった。田舎から出てきた若い青年で朝が苦手。

「お兄ちゃん」は5時には起きて青年を急かす。布団でもぞもぞする青年を叩き起こし、自分は顔を洗って服を着替え、さっさと仕事の用意をして外に出た。寒い朝だった。お兄ちゃんは木造アパートの下にあった自動販売機で熱い缶コーヒーを2本買った。

「5時半くらいだった」。とお兄ちゃんは言う。「一緒にアパートを出るべきだった」と、いまでも目を潤ませる。お兄ちゃんが「おら早く出て来い」と声をかけた瞬間、つまり、1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒。淡路島北部沖の明石海峡を震源とするマグネチュード7.3の揺れが襲った。自動販売機が踊る横、木造アパートが目の前で崩れ落ちた。

「どうしようもなかった」。お兄ちゃんは後輩の名を呼びながら瓦礫を手でどけるも、巨大な破片がどうしても持ち上がらない。お兄ちゃんの職場でのあだ名は「阿修羅」。怪力自慢の強面だが、所詮は人間の力だった。それからお兄ちゃんは筋肉ではなく、頭の方を鍛えて独学で建築士1級を取得した。「倒れたらどうしようもない。だけど、倒れなければいい」。

死者6434名 行方不明者3名。あれから18年経った。2011年3月11日の東北では地震と津波。死者行方不明者は阪神淡路大震災を凌駕した。合わせて福島原発事故に民主党政権。未だ30万人は避難生活を強いられている。生々しい傷痕は癒えない。

阪神淡路のとき私は23歳。中型スーパーで店長をしていたから、その時間はトラックの中だった。道路は余震で波打ったが、ラジオはまだ、被害状況を詳しくやっていなかった。「大きな地震があった」くらいの認識だった。卸売市場の中、ニュース映像を見た。想像を絶していた。コレ、仕事してる場合なの?と周囲のオッサンらと話した記憶がある。

ひと段落したところで実家やらに電話。市場にあった固定電話で安否を確認した。「電話は通じない」との噂もあったが、とくに問題なくつながった。店までは通常1時間半だったが、その日は大渋滞で11時間以上トラックの中、ようやく店に着くと閉店時間だった。携帯電話の電源はとっくに切れていた。つまり、一日中ラジオを聞いていた。

余震が来るたびに周囲を見渡した。最悪、トラックを飛び出してどこに避難するのか、そればかりだった。陸橋の上や高架は怖かった。崩れ落ちたらどうしようもない。それにラジオの緊急番組から聞こえてくるのは、予想以上の悲惨さだった。

しばらくすると、会社を辞める人が出た。中には私の直属の上司というか、仕入れなどを教えてくれた先輩もいた。震災のあと、いろいろと考えたとのことだった。30代だったが突然、仕事を辞めて「サーフィンをする」と言い出した。「だって明日死ぬかもしれない」が理由だった。こんなブラックな会社で人生を浪費するのは御免だ、と私に言った。好きなことやって何が悪い、となぜだか若干、私にも咬みついてきた。

何年後かに連絡があって、店の近所のファミレスで会った際も「いま、人生は楽しいか?明日死んでも後悔しないか?」とか、日焼けした顔で心配してくれた。私は若く、阿呆だったからわからなかったし、そのときも答えなかった。でも、なんとなく、こいつは間違えている、と思っていた。いまは確信している。

要するにヒステリー状態だった。あの恐怖、あのリアルさは正常な思考を維持し難い。人間とはあの如く簡単に死ぬのだ、という現実が目の前にあった。知人や友人、その知り合いや身内など、あそこも死んだ、ここも死んだと日常の中に「死」があった。人は死ぬのだ、というあまりにも当たり前な事実をして、私の周囲の何人かも戸惑っていた。

地震で死ぬかもしれない、と今日や明日の仕事とは直接的な関連性はない。そんなことを気にし始めると、もう、通常の生活を送ることは困難になる。言うまでもない。人間は震災がなくても死ぬこともある。病気や事故、事件に巻き込まれて死ぬこともある。「死ぬかもしれない」でみんながみんな、好きなことだけやっていればいい、となれば自然災害でなくとも社会が崩壊する。「悲惨」はだれでもわかる。「命の尊さ」とか「日々に感謝」などにも異論はない。毎日、今日も明日も平和で安全など、どこのだれも保証できない。だからこそ大事なこと、それは「繰り返さない努力」のことだけではない。

地震はなくならない。津波もなくならない。ならば備えねばならない。復旧復興もそうだが、そしてその先には「次」がある。自然災害で亡くなった人、その救助作業中の事故で亡くなった人、最後の最後まで自分の責任を全うして亡くなった人、それらの「尊い人命」は「次に備えよ」と教えてくれる。「被害者の命を無駄にしない」はそういう意味になる。

阪神淡路大震災から18年のその日、アメリカ政府高官が「偶発的な衝突の危険性が高まる」と懸念を表明した。支那の尖閣諸島に関する挑発行為のことだ。支那共産党はまさに「偶発的な衝突」を狙っていると自明である。簡単に言うと戦争しようとしている。そのために鳩山由紀夫からしょうもない「言質」もとった。有事の際には言い抜けもできるよう、いままで国際社会でのロビー活動もやった。小競り合いが生じた際、国際世論に対して「正義は我にあり」と叫べるよう、いろいろと根回しも済んでいる。

支那はアメリカと同じく、また「最初の一発」を日本に撃たせようと企てるが、今度は簡単に行かない。だから「最初の1発目」の言い分けが出来るように立ち回ってきた。つまり、挑発行動はエスカレートするし、偶発的であれ突発的であれ、なんらかの「衝突」は明日にでも起こって不思議はない。

そして、そこまで迫った脅威に対しなにもしないことは、先述した先輩の「サーフィン」と同じだ。現実から逃避し、己の人生における責任すら放擲する。「死んだらお仕舞いだ」と泣きごと半分、刹那的にすべてを放り出しただけのことだ。

無論、あまりにも強大な自然災害に対して「来るなら来てみろ」とは言えない。それは勇気でもない。しかし、次はもっと助かる人を増やす、救助活動を速やかにする、復旧復興を円滑にするという「対策」を講じることは勇気である。この先輩で言うなら、すべきことは「サーフィン」ではなかった。だから妻のお兄ちゃんは建築1級を取った。

彼が出来ることはあった。いま存在する愛すべき人のために、もっと自分を大切にして頑張るとか、ブラックな会社ながら責任ある立場、社内の風土を変えてみるとか、社長に具申するとか、マトモなことは他にもあった。しかし彼はそれらをせず、ただ子供のように「死んだらどうする?」とすべてを放擲した。私の違和感はそこから生じていた。

憲法に「地震と津波はこれを禁ずる」と書いても仕方がないように、いくら周辺諸国にあるはずの「平和を愛する諸国民の公正と信義」に信頼しても仕方がない。北朝鮮は日本人を拉致して返さないし、ミサイルに核弾頭を積んで飛ばそうとする。支那に至っては既に何発も日本に向けているし、日本に対する敵視、あるいは蔑視を国内外に隠してすらいない。やはり、自分の国は自分で護る他ない。相手が自然災害であれ、軍事独裁国家であれ、自国民を護るためには備えねばならない。

「死んだらどうする?」は根本的に質問として成立しない。死んだらどうもできない。つまり、真面目に問うなら「生きるためにはどうすべきか」でなければならない。「地震は悲惨」とか言ってもはじまらない。東北の被災地に「繰り返しませぬから」と石碑を建てても仕方がない。どうしても建てるなら民主党本部前にだが、それよりもいま、日本は強く備えねばならない。支那は絶対にあきらめない。少なくとも政治的な妥協もない。

支那のような危険な国を増長させた罪は重い。その責任は戦前なら白人列強、戦後は日本も加わった。北朝鮮なんぞがあるのもその所為だ。そろそろ育ててしまった化け物に、その化け物すら喰われかかっている。もう、知らぬ顔もできない。




コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。