忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

「母親の彼氏」

2010年12月03日 | 過去記事
「母親の彼氏」

ひと昔前には「継母(ままはは)」と呼ばれる「養子縁組をしていない母親」の虐待が主流だった。「ままはは」で「カギっ子」とは不良になっても仕方がない不遇な環境だと思われていた。いい加減な大人が「だんらん」とか「ふれあい」など怪しげな平仮名を普及させてもいた頃だ。ま、私の場合は「継父(ままちち・ママパパ)」といわけのわからぬ存在となる。それでも子供は育つモノで、娘は嫁に行ったし、倅は来年から大学生だ。コツはサボテンと同じだ。忘れた頃に水をやっていればいい。これまたウマく育つモノで「あねご」からもらったサボテンなど、妻が育てると魔界の植物のように巨大化して、毎年、真っ赤な花を咲かせる。もらったときは可愛らしい植木鉢にポツンとあったサボテンが、今や巨大な植木鉢2つを占領し、そのまま我が家の大きいほうのベランダを占拠し始めている。

ま、ところで、この「継母」を「ままはは」と読むのは「まままま」とするのも「はははは」とするのもおかしいからだと思っていたが、どうやら昔は「摩々母」としたらしい。なるほど、これなら「ままはは」である。ンで、この「摩々」というのは平安時代末期、源頼朝の乳母だった女性の名前だとか。産みの母ではないが、育ての母ということだ。また、最近ではあまり聞かなくなったが「内縁の夫・妻」という言い方もあった。そして、いま、子供を殴ったりして殺すのは「母親の彼氏」が多いとマスコミがやっている。そう言えば私も「元・母親の彼氏」だったと思い出した。

もっとも、最近は日本人も落ちぶれてアメリカ人レベルで離婚する。だから内縁関係にある夫や妻が珍しくもなくなった。「出来ちゃった婚」も同じようなもので、個人主義とカラスの勝手が同じレベルになったとき「他人に迷惑かけてない」という理由はどこでも通ることになった。偉い学者先生はこれを「人生の多様化」とか言って難しくした。御蔭でバカにはもっとわからなくなったが、とりあえず、悪いことではないと安心したわけだ。

そんなことで、私も含めた「母親の彼氏」は大いに迷惑している。ちゃんと真面目に働いて、家族を養っている元・母親の彼氏、ちゃんとした旦那もいるのだ。ま、しかし、私も実際に妻と子供らと住むことになったとき、名古屋の妻の母親は孫娘の心配をした、とこっそり妻が教えてくれた。でもまあ、無理からぬことだろうと思う。

要するに、だ。いや、というか、ニダ。むっしゅむらむらした私が血の繋がらぬ幼い娘をみたとき、私は私の中の誇らしい祖国の血に目覚め、満月の夜、切れ長の細い眼はどんどんつりあがり、下顎骨は不自然な感じで横に広がり、サングラスが持ち上がるほど頬骨が突き出し、そして祖国を見据える日本海、じゃなかった「とんへ」に浮かぶ李承晩ラインに向かって「しゃざいセヨー!ばいしょうシル―!」とでもひと吠えして、それから娘に襲い掛かるかも、と本気で心配されていたのである。ったく、冗談じゃない。


―――問いたいのは、だ。

「母親の彼氏」でも「内縁の夫」でもなんでもいいが、先ずはちゃんと「母親」なり「彼女」なりに惚れているのか、ということだ。子供はともかく、その彼氏や夫は妻である彼女であるあなたに対して、好きだ嫌いだだけではなく、ちゃんと誠意を持って接しているのか、あるいは、責任を果たそうとしているのか、という根本的な疑問である。惚れた女が腹を痛めて産んだ子と「一緒に暮らす」という決意があるかないか、これを慎重に見極めねばならない。殴らないから虐待はない、とすることはできない。

「母親の彼氏」とやらは、子供を連れた女性に惚れて一緒に住む、ということは、無条件でそのオプションである「子供」もセットで喰わせることを意味するということを知らねばならない。つまり、それを理解しているのか、ということだ。しかし、いくら惚れた女の子とはいえ、ある日突然「見知らぬ子供」を紹介されて、嗚呼ぁ、なんて可愛いんだ、オレはこの子のために一生を捧げるぞ、と思えるはずもない。そして、はっきり書くが、それは思えなくて当然なのだ。でも、そこで「父親失格」などと落ち込むのはお門違い、思い上がりも甚だしいのである。だから「なつかない・言うことをきかない」といって感情的になる。自分を否定されたような気になる。つまり「育児ノイローゼ」の亜種だ。


ここを曖昧にしたまま、そのときの感情か勢いか知らんが、ともかく何かに流されて「対象者」の生活力が乏しく、経済的、社会的に疑問が残るまま「母親の彼氏」と同居し始めることは、あらゆる面で「子供」が犠牲となる。当然、悪影響が懸念されるのだ。

また、テレビや新聞などで学者先生が出てきて「野生の雄はそうなんですね、例えばライオンなんかも“前の雄の子供”は殺してしまいます。人間も動物ですから、本能的なものかもしれませんね」とかいうが、あれも馬鹿みたいだから止めたほうがいい。惚れた女の子供一人、マトモに育てられぬホモサピエンスのオスと百獣の王を比べるのは失礼である。

人間ならば「縄張りを守る」というのは特殊な仕事に限られるが、野生のライオンのそれは死活問題である。オスはこれを守る。人目に立つためにはタテガミも蓄える。オスは速くは走れないからメスが狩りをする。そして「縄張り争い」で敗れたオスは黙って群れを去り、サバンナのどこかの岩陰でひっそりと死んでいく。メスは決して、それを追わない。

群れを率いる権威は戦いと孤独の中で証明される。小知恵を働かせて生活保護をタカリ、野生で(社会で)負けてばかりのカスのような人間のオスは本来、どこぞの岩陰で死なねばならぬ。その覚悟もなく、器量もなく、実力もなく、その小さな集団の中で威張りたいというだけで、女子供相手に「暴力」という唯一有利なモノを使って、その地位を確保するだけのくだらぬ生き物なのである。そんなのは追い出した方がいいと知れている。

母親はある日「彼氏」が出来たならば、この男は自分の子供に対して真摯に接してくれるだろうか?と考えなくてよい。そんなことは結局、一緒に住んでみなければわからない。それに、子供からすれば大きなお世話だ。「母親の彼氏」とは「自分らの父親」とイコールしないからだ。あくまでも「自分の母親の恋愛対象者」のことであり、気の良い男ならば「自分らを養育する」ことにも尽力してくれるだけのことだ。判断基準はそこにある。

女手ひとつ、子供を育てている女性はすべからく「この男は自分に対してどうなのか?」だけを評価すれば良い。バカではわからない。その男の人生観や仕事観も考慮したい。しかし、なかなか現実問題として難しいこともわかる。だから、自分なりに要点を確認しておくことだ。その評価基準における採点に妥協はしない方がいい。それこそ「我が子の顔」を思い浮かべながら、大人の女性として、また、母親として、毅然と確認したい。

私が思う要点は下記の通りだ(参考)。

・簡単に仕事を辞めない(仕事も続かぬ未熟者に、他人の子まで喰わせるのは不可能)

・暴力は振るわれたことがない(女を殴るのは最低。無条件で追い出すべき。次に手を出したら離婚、などとする女性は殴られ続ける覚悟をすべし)

・感謝してくれる(謝罪は馬鹿でも民主党でもする。ウソでもできる。ありがとう、にウソを感じたら逃げるべし。危険である。)

・手取りの10分の1以上の小遣いを要求する(身の丈を知らぬ愚か者はいつか滅びる。とはいえ、そのくらいの金も使えぬ小モノはつまらない。)

・悪い意味で「若い」と感じる(頭の中が幼稚なだけ。社会に興味のない男は芸術家だけで良い)


連れ子に接する姿勢における動機が「惚れた女を喜ばせるため」であってよいのだ。「安心させるため」でもいい。それを続けていくと、なんとなく「親子」のようになる。その子の将来のことで真剣に悩み、真面目に叱り、責任を持って突き放すこともできるようになる。そのときこそ血の繋がった親子と比して変わらぬ「愛情」へと昇華する。

また、世の中にたくさんいる同士、私と同じく「母親の彼氏」になるという男性諸君に対しても書いておきたい。無理をするな。気にするな。白々しいことは止めろ。

仕事が終わって帰宅して、子供を抱き上げる必要などまったくない。代わりに嫁さんに抱きあげよ。見知らぬおっさんから抱き上げられる子供は迷惑だ。風呂に一緒に入ることもない。嫁さんと入れ。子供と入ってもお互いに疲れるだけだ。もちろん、気が向いたらすればいい。子供から頼まれたらすればいい。休日に無理をして「家族サービス」とやらもするな。それなら子供を預けて嫁さんとデートすればいい。それなら疲れも癒えるだろう。

子供に手をあげるときには「親しい友人との喧嘩」を意識せよ。「なぜ怒ったのか」をあとで説明できるようにするのだ。「叱る理由」は明確にする。根は他人である。綺麗事では通じない。配慮が必要である。我が子のケツを張り飛ばされる嫁さんの気持ちを考えよ。

子供の最大の評価ポイントは「自分の母親を大切にしているかどうか」である。これで敵か味方を判断する。嫁さんは「家庭に対する裏切り」さえなければ信じてくれる。


今でも覚えているし、たまに本人らに対してからかうこともあるが、最初、外でメシを喰っても私の横には倅も娘も座らなかった。私も「こっちに座りなさい」と言ったこともないのだが、それがいつからか、競って私の横に座るようになる。風呂もそうだ。娘は中学生になっても妻と一緒にウィスキーのロックを持って入ってきた。旅行に行った際も家族4人で露天風呂に入った。旅館の人が「はじめてみましたw」と驚いていた。倅は日本酒を持ってきて、湯船で酒を注いでくれた。そこで家族は「本当の家族みたいw」と笑う。

倅は18歳になるが、今でも私と二人で出掛けることがある。先日の大阪での「尖閣デモ」も一緒に行った。娘も倅も犬も、私のことが大好きなのだと、妻は言ってくれる。その理由は実に簡単、明白だ。私が妻をそれよりも大好きだからだ。私は妻のことしか頭にないから、妻が喜ぶことはなんなのかと、悲しむことはなんなのかと考える。それは必然的に「妻の周囲を大切にする」ことだとわかる。そして、その周囲とは「私の周囲」も含まれている。私の人生を大切に考えることと、妻の人生を大切に想うことはイコールする。

そして、そのためにすることとは、それほど多くもない。

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