忘憂之物

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女の子の誕生パーティーに4000人、交流サイトで通知

2012年09月23日 | 過去記事



女の子の誕生パーティーに4000人、交流サイトで通知

<AFP=時事】(写真追加)オランダの町で21日、ある女の子が交流サイト(SNS)のフェイスブック(Facebook)を通じて開いた誕生パーティーに数千人もの人々が押しかけ、警官隊が出動する騒ぎとなった。


 騒ぎはオランダ北部フローニンゲン(Groningen)近郊の町ハーレン(Haren)で起きた。オランダANP通信の特派員によれば、パーティーに押しかけた若者たちが石や瓶、自転車、花瓶などを警官隊に投げつけるなど、収拾不能と思われる混乱に発展したという。

 警察当局によれば、この騒ぎで数人が負傷し、うち2人は重傷だという。現場では4人が逮捕された。

 事の発端は、町に住む女の子がフェイスブックに投稿した16歳の誕生パーティーへの招待メッセージだった。当初は友達のみに送られたが、非公開設定を忘れたことからネット上に瞬く間に広まり、2万件以上の返信が寄せられたという。

 オランダのNOSテレビの報道によればパーティー当日、人口1万8000人のハーレンには若者を中心に約4000人もの人々が詰めかけたとされる。女の子は家から避難していたが、通りを封鎖した警官隊には物が投げつけられ、付近の自動車や住宅にも被害が及んだ。

 パーティーの情報がフェイスブックで広まった後、ネット上では、今年公開された米映画『Project X』に言及して参加を呼び掛けるウェブサイトが複数立ち上げられた。同映画は、ティーンエージャーが郊外の自宅でパーティーを開いたところ、とんでもない数の人が押しかけて収拾がつかなくなるというストーリー。

 あるウェブサイトではこのパーティーを「Project X ハーレン」と名付け、開催時刻までのカウントダウンを行っていた。同サイトによれば参加を表明した人の数は約15万人で、「友達を連れて参加しよう! 」とのメッセージも添えられた。

 同様の事件はこれまでにも、ドイツやオーストラリアなど世界各地で起こっている。特に米国では多くみられ、テキサス(Texas)州では若者の集団が無人の家を破壊し、10万ドル(約780万円)相当の損害をもたらす事件となった>











蒋介石は日本軍に喧嘩を売りボコボコにされて逃げる、を繰り返した。都度、世界には「このくらいで勘弁しておいてやる」と吉本新喜劇みたいなことを言ったら、白人だけはそれを信じた。しかしなぜ、そんなに何度も逃げられたのかと不思議だが、蒋介石は逃げる際、トーチカに兵隊を残して機銃を撃たせて時間を稼いだ。そのトーチカは包囲されても銃撃を止めない。出て来いと言っても出て来ない。

なんともまあ、蒋介石想いの良い部下だと思ったら、この兵士は機銃の台座に鎖で足を縛られていた。支那人民の命など塵芥に思わねばやれない残酷だったが、それでも蒋介石は支那人でやったから勝手にどうぞとなる。オランダはこれをインドネシア人でやった。

「日本軍は残虐だった」が冗談に聞こえるほどだが、彼らは300年以上も搾取し続けたインドネシアの人々を、惨めに敗走するときの時間稼ぎにまで使う。そしてまた、オランダ兵も支那人と同じく、とっても弱かった。日本軍は1942年1月にタラカンとメナド、25日にバリクパパン、31日にはアンボンと進撃した。バレンタインデーには「空の神兵」をパレンバンに降らせた。月が変わった3月1日、ついにジャワ島に上陸される。

3月3日、6名の日本軍決死隊が斬り込むとオランダ守備隊は撤退。1時間で日の丸を揚げられたカリヂャチィ飛行場を取り返すため、連合軍はバンドン要塞から戦車と装甲車を出す。何もない飛行場では若松満則少佐の第1挺身隊700名がそのままいる。この場での防御は困難と判断した若松少佐は「5万人以上」の連合軍がいると思われるバンドンに突っ込む。一角を占拠して防御するためだった。

まさかの日本軍突入。バンドン地区防衛兵団司令官ペスマン少将は腰を抜かす。部下が「若松挺身隊だけでは?やっちゃいましょうか?」と言っても「そんなわけあるか、あとからすぐ何万人も日本兵が来るぞ」とビビって降伏した。英蘭軍8千名が降参した相手は、正味の話、若松挺身隊の7百名だけだった。歴史に残る不様だった。

ジャワ島の連合軍全体が降伏したのは9日。陸軍記念日の10日には日本軍がバンドン要塞を制圧完了している。つまり、オランダ兵は日本と10日も戦わず蘭印から逃げた。ナチスには5日間だけ挑んでみたけど、怖くなってすぐに降伏した。御蔭で1945年5月4日に連合軍が解放してくれるまで、大人しく静かにしていた。

そんな日本軍が来るまでこいつらは何をしていたか。

先ず、インドネシア人はオランダ人農場で働くしか生きていけなかった。田畑はぜんぶタバコにされた。コメはビルマやタイからの輸入しかない。オランダ人に使ってもらう他、喰うモノが無い。気紛れに殺されることもあった。家族が死んでも仕事は休めなかった。病気になると休めるが、そのときは農場近くの檻に入れられる。そこで治療するはずもなく、療養するわけでもなく、ただ、そこに放り込まれているだけとなる。排泄物は土を掘って檻の外へ出す。飲み水はないから一日一度の食事を他の労働者と交換する。当たり前だが、こんなの普通にバタバタ死ぬ。その遺体は放置されて腐る。仕事に行く労働者は毎日その光景を見せられる。死ぬまで病気を隠すようになる。もちろん、それでもオランダ人農場主は罪に問われない。

インドネシア人の女性は好き放題。何人でも「現地妻」にされた。オランダ人亭主から「来い」と言われた夜だけ「床の上」で眠ることが出来た。普段は土間だった。子供が出来るとオランダ人国籍になった。「白人様の血」が入った子供のほうが偉かった。混血児は土間の上から母親をこき使ってもよかった。下女のように叱り飛ばした。これも白人の植民地統治戦略の一環だ。民族を争わせるだけではなく、親子とか家族とか、徹底的に壊す。ともかく「一致団結」とかさせない。バラバラの個体にしておく。

ここに日本軍が来た。古代ジャワ語で書かれた「ジョヨボヨ王の予言」「(第三の予言)~北から黄色くて小さくも強い軍隊がやってきて我らを解放してくれるが、ジャゴンの花が咲くころには帰ってゆくだろう」の通りだった。オランダ人がいくら馬鹿でも、340年もインドネシアにいたんだから預言書くらい解読しておくべきだった。

日本は他のアジアの国にしたように、このインドネシアでも「オランダ語を禁止」にしてから、公用語は「インドネシア語」とした。初等教育はもちろん、高等教育まで行える学校を作った。農業の改良指導をして、インドネシアの新聞を発行した。集会の禁止も解除して民族運動も認めた。今村中将は、わざわざ東京にインドネシアの独立歌「インドネシア・ラマ」のレコードを作らせて送らせ、学校でインドネシアの子供に教えるようにした。そうして日本はインドネシアの統治が落ち着いたら、日本軍政府の下に「中央参議院」を設置して各州に参議会も設置した。日本は東インド諸島に独立の気運を持ってきたが、同時に議会制民主主義も持ち込んだ。奴隷だったインドネシア人は「ロウムシャ」になった。

追い出されたオランダ人は困った。本国はナチスに盗られたままだ。日本人は憎いが戦うのは怖い。どうしたものかと悩んでいたら、日本は原爆を落とされて負けたとか聞こえてきた。オランダ人は嗚呼、連合軍でよかったと神に感謝して、敗戦した日本軍将校を236人も処刑した。これは戦勝国最多だ。

先の大戦が終わった1945年。この年にはヨハン・ホイジンガが亡くなった。賢い白人の一人だ。ホイジンガの生まれ故郷が記事にあるオランダ北部フローニンゲン州。この近郊の町ハーレーンに4000人が集まって車や家を壊したり、警官に石を投げたり。数人が負傷して2人は重傷、4人が逮捕されたとか。今流行の反日デモかと思ったら、これがなんとも16歳の女の子の誕生パーティーというからわからない。

世にも珍しい賢いオランダ人、ホイジンガは「遊び」というのを<定められた時間,空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動であり,それは自発的に受け入れた規則に従い,その規則はいったん受け入れられた以上は,絶対的拘束力をもっている>と定義した。ホイジンガが死んでから67年。未だにオランダ人の若者は意味を理解せず、中身が支那朝鮮と変わらぬ粗野粗暴のままだとわかる。

ホイジンガもたぶん知っていた。ホイジンガは高校の教師もやっていたが、教科は歴史だった。オランダ人の生徒は「面白くない」として聞かない。この少しあと、世界的な歴史家として名声を馳せるヨハン・ホイジンガに直接、歴史授業をしてもらって「面白くない」なら、もう、どうしようもない。だからホイジンガは生徒のレベルに合わせて、黒板にひとコマ漫画を描いて教えた。良い教師だ。

しかし「人類にとって愛国心は長所だが、ナショナリズムは短所である」もイラストで伝わったかどうか。「民主主義で国民が幸せになる場合は、国民が高いレベルの文化を持った場合に約束される」とか、おそらく、ひとコマ漫画では無理があった。ちなみにドイツ語でオランダは「ニーダー(低い)ラント(土地)」。つまり、そういうことだった。




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