忘憂之物

目に見え始めた売国党


安倍さんは「空気が読めない」と叩かれ、麻生さんは「漢字が読めない」と叩かれた。今度は政府与党の幹事長が「憲法を読めない」と、もっと叩かれるべきだ。KYだし。


日本のマスコミに睨みを利かせ、テレビカメラの向こうの日本国民の視線など歯牙にもかけず、前代未聞の逆切れ会見をした「大物幹事長」は、共産党の志位委員長にまで「小沢さんこそ憲法をよく読んだほうが良い」と馬鹿にされた。また、記者に対して「(30日ルールを)だれがつくったの?ねえ?知ってるの?」と偉そうに突いていたが、これを作ったのは自社さ政権時代の村山内閣であった。そのときの「さきがけ」の幹事長は鳩山由紀夫だ。噛みつかれた記者は、それを知らなかったか、もしくは優しかったのだろう。あの場で「鳩山総理は知らないはずないんですよね?」と返されていたら、あの選挙屋ヤクザは何と答えていたのか。言い返した記者は友愛されたかもしれない。


そして、巷では当然の反応が起きている。

http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091216/stt0912161917011-n1.htm
<小沢氏の言動、民主党などに批判殺到>

1946年、戦後も戦後、GHQまっ盛りの頃に総理に就任したのは吉田茂だ。就任当初、最悪の食糧事情の中、皇居前広場には「米よこせデモ」ということで25万人が集まった。それを窓から見た吉田茂は「招きもしていないのにこんなに集まるとは、俺の人気もまんざらではない」と語ったというエピソードがある。まさか小沢も「俺がちょっとテレビに出たら1000件も電話があるなんて、俺の人気もまんざらではないな。悪名は無名に勝るだな」と喜んでいるのではあるまいな。吉田茂は在日朝鮮人から総理官邸を襲撃されたが、あんたのところには祝電が届いているのではないか?まんざらでもない人気は、日本国民にではなく、どうやら在日朝鮮人や在日支那人にあるようだが?

ところで、今回の「小沢軍団・朝貢訪中」のニュース映像を見ていると、笑顔で待つ胡錦濤にスタスタと早歩きで歩み寄ったのは、ニヤニヤした小沢だった。そのあとの民主党議員の「握手会に並ぶ不気味な姿」が圧倒的違和感だったため、その行為自体は違和感なく見ていたが、しかし、アレもよく見ると実に不気味である。吉田茂は駐イタリア大使時代、ムッソリーニ首相に挨拶に行った際、イタリアの外務省から「あなたから首相に歩み寄って握手するように」と言われていたが、それを見事にスル―して直立不動、その場でムッソリーニを待ったという逸話もある。

それもそのはず、だ。国際慣例上、この場合は「迎え入れる」わけだから、ムッソリーニが歩み寄って「ようこそ」とやるのが通例だ。それを敗戦国の大使ごときということで舐められたのだろう。それを察知してかどうかはともかく、吉田茂は動かなかったらしい。


吉田茂に動く気配がないから、仕方なく、ムッソリーニ首相から歩み寄って手を差し出して握手をした。ムッソリーニは激怒していたらしいが、それ以来、吉田茂には一目置くことになる。堂々たる外交姿勢とはこういうのを言う。

そう考えると、やはり、あの訪中団は「招かれた」のではなく「呼びつけられた」とか「ご機嫌伺い」だったということがわかる。訪中団の団長がヘラヘラと歩み寄り、その子分どもは人気の餃子店に並ぶ客のごとく、不気味なほど「良い子」に並んでいた。



ま、

今更、こんなことを言っても、もう、開き直って「そうですが、なにか?」と言われそうだ。むしろ、今なら「天皇陛下もそうじゃないか。オバマに歩み寄って行かなかったでしょ?」とか言われそうだ。もう、ある意味、民主党も小沢も支那共産党の傀儡であることを「隠していない」気がする。どころか、誇っているように思える。ならば、小日本に住む倭人ごときが怒って電話しようが、抗議デモしようが、鼻で笑っていそうだ。


いや、鼻で笑っているだけならマシかもしれない。




例えば――――

東トリキスタンに「自治区」ができる前の1953年。東トリキスタンには420万人の人が暮らしていた。漢民族も少しはいたが、あとは回族、タタール族、ウズベク族、カザフ族、ウイグル族の人々だ。ほとんどが「テュルク系」だ。そもそも「トリキスタン」とは「テュルク人が住む土地」という意味のペルシャ語だから、それも当たり前の話ではある。ちなみに「西トリキスタン」とはソ連崩壊後に独立したカザフスタン、キルギス、ウズベキスタンなどの中央アジアをいう。これもテュルク人が住んでいる。

そして、この時点では5%に満たなかった支那人が、現在は60%を超すという。いわゆる「人口侵略」である。日本も決して「他人事」ではなくなっている。


本格的に漢民族が増え始めるのは1957年からだ。「移民」と称して人民解放軍と共にやってきた。もちろん、彼らは海や川に住むわけではなく陸地に住む。「テュルク人が住む土地・トリキスタン」に大量の漢民族が住みついて自分の土地にし始めるころ、トリキスタンは「新彊ウイグル」と呼ばれることになる。

「雪解け水」を使うウイグル人は、山頂を軍隊に抑えられる。耕作地も原生林も、すべて彼らが抑えている。支那人が自然を触るとどうなるか。お陰で、故郷の川は汚染され、自然豊かだった原生林は乱伐されて死に絶えた。もちろん、ルールも変えられた。ウイグル人は森でクルミを取って喰っただけで牢獄に放り込まれた。必然的にウイグル人は生きていけなくなる。だから漢民族と衝突する。これを北京では「暴動」と呼んで武力弾圧する。


日本にも「日中友好!共生できるはず!」と目をキラキラさせる人がいる。無論、チベットのダライ・ラマ14世のように「自治権の拡大さえあれば」という諦観の極致といえる妥協案で民の暮らしを護ろうとするウイグル人もいた。「よそ者に親切」と言われる、どこかの極東地域に浮かぶ海洋国家のような民族のことだ、それでも、なんとか、“共生”とやらの可能性を探る。しかし、もはや、これは常識だが「そんなことが通じる相手」ではない。


1990年に入ると、この土地には天然ガスや石油があるとわかった。江沢民は「西部大開発」として、さらに支那人を「労働者」としてピストン輸送する。地域によれば9割以上が漢民族となる。そしてもちろん、そのトップが漢民族だから、必然的に漢民族は優遇されることになる。政府高官もほとんどが漢民族、企業のトップは漢民族、地域の有力者は漢民族、社会の上のほうは漢民族で占められる。だから、手ぶらで来た漢民族は2年もすれば成功するも、その土地の主であったウイグル人は10年頑張っても夢のまた夢、同じ「共産党」ながら、日本共産党のように「労働差別はダメ」とかやってくれない。派遣村もない。

これだけでも身の毛がよだつが、支那人の怖さはそれだけではない。

しかし、それでもウイグル人はこんな目に遭いながらも自爆テロもせず、平和的な抗議集会を開くことしかしなかった。いや、「しか」というのは失言だ。支那人蔓延るところ、集まって民主化を叫ぶだけで命懸けなのである。日本で「自衛隊反対」を叫ぶ連中とは根本的に違う。ともかく、チベットなどと同じく、ウイグルも「人口侵略された」からといって、いきなり暴力という手段は使わなかったのである。




1997年2月5日。ウイグル人青年「アブドゥヘリル」の呼びかけで街頭に集まった人は、午前中には1000人を超える。支那人と共生するということは、捕まればどうなるかわからないデモに、我先にと参加するほどのことなのであろう。そしてデモ集団は、どこぞの下品な保守団体とは違い「支那人はウイグルから出ていけ!ゴミはゴミ箱に!」とやったわけではなく「民族平等」と「民主化」を挙げただけだ。それだけなのに当局は武装部隊を展開、これを武力で鎮圧する。さすが支那である。

あの国のことだから「何人死んだかは」定かではないが、捕まったのは700名だという。支那人が跋扈する地で「民族平等」と叫んで捕まったらどうなるかというと、先ず、イリ州の「監獄ゲート」という広場に集められる。そこから数十人ずつバスで移動。「ど左翼」どもは、ここまで読んで「きゃ♪旅行みたい❤」とか言っているかもしれない。そうそう、旅行みたいなもんだから、是非とも参加すればいい。がんばって❤


ンで、

コンクリートで囲まれた9平方メートルの部屋にそのまま「立たされて」放り込まれる。あの辺りの2月はマイナス30度とか40度になるらしい。そこに立たされたまま放置され、深夜を過ぎてから取り調べが始まる。もう、拷問は始まっている。


「中国を追われたウイグル人」(著・水谷尚子)によれば、

「公安は警棒や棍棒で力の限り殴ってくる。使っていた棍棒が二つに折れて飛んでいってもすぐに新しい棍棒がある。3本は用意されている」

などとある。もう「棍棒で殴る」など支那人の警察からすれば、朝起きて人にあったら「おはよう」というくらいのものだ。「殴るか殴らないか」は、「ランチは肉まんにするか餃子にするか」というくらいのものなのだろう。だから、拷問を受け続けるウイグル人は、支那人の警官が棍棒を振りかぶると、わざと「頭を差し出す」という。顔面や肩を狙って振り下ろされる棍棒に頭を合わせるのだという。

理由は「頭に直撃を喰らえば死ねるから」である。


雪の中、服を着ることが許されず、四方を犬と警官に囲まれて立たされる。ただそれだけで凍死する極寒である。足の指をちぎられたり、不自然な姿勢で何日間も放置され、いずれは気が狂って死ぬならば、いっそ頭を割られて死んだほうがいいと、この暖かい部屋の中で満腹で寝ていても想像に足る。


とくに「女性」がどうなるかは想像を絶する。人間から理性を取ったら獣なのだと理解もできよう。まさに血の気が引くほどの鬼畜の所業である。

同著からだが、アミナという名の美しいウイグル人女性の話が紹介されている。彼女は二十歳くらいで信仰心が強く、道徳的に正しくあらんとする清い女性だったという。アミナは未婚だった。そんな美人を支那人が放っておくはずもなく、すぐに連行してレイプした。漢族の公安が次々と襲いかかって輪姦した。アミナは絶望し、正気を失った。壁に向かって意味不明の言葉をぶつぶつと呟くだけになった。漢族の公安は用がなくなったのと、不気味に思ったのと、病状が深刻化してきて焦ったのとで、夜中にこっそりと監獄から連れ出して道端に放置した。アミナは2日間ほど道路をさまよっていたが、猛スピードで走り去る車にひき逃げされて死んだ。検視したウイグル人医師は「凄まじいまでの暴行の痕」とアミナが妊娠していたことを告げたという。


今、あなたの横にいる愛する人が連れて行かれて、次の日には変わり果てた姿で木にぶら下がっていると想像する。愛する女性が連れ去られて辱めを受けて捨てられると考える。相手がだれであろうと、どんなに強大であろうとも、人はそれを許さない。許してはならない。しかし、こんな「許されるはずのないこと」を何度もやるのが支那人である。

支那はこの「クルジャ事件(イーニン・イリ事件)」から12年後の今年、2009年の5月にもやった。今度はウルムチ事件である。同規模のデモながら内容はもっと具体的で、クルジャ事件のときのように「民族平等と民主化」と遠回しに叫ぶのではなく、もう、はっきりと「他民族への弾圧をやめろ!」と訴え、支那人民解放軍のように武力で抑えるのではなく「我々は口とペンで戦う」のだと気勢を上げた。しかし、事件後に訪日した「世界ウイグル会議」のラビア・カーディル議長は「一夜にして一万人が消えた」と恐ろしいことを言った。もちろん、これが友愛政権ならばラビアさんの訪日などあり得なかっただろうが、それは7月後半、ギリギリ間に合った形か。人民日報も「もし、日本国内で暴動を扇動した主犯が、外国に招待されて訪問すれば、日本国民はどう思うのか?」と恥知らずな批判を展開したが、これを見るだけでも、まだ、その時の日本が「(今より)マトモだった」と知ることができる。あの国に褒められるとはそういうことだ。

さて、そんな友愛総理と独裁幹事長が、陛下を政治的に利用して会見させたのが、習近平副主席という支那の政治家だ。この人は「ポスト胡錦濤」などと言われているらしいが、胡錦濤がチベットのデモを武力弾圧して出世したのと同じく、ウイグルで同じようなことをしたから「ポスト胡錦濤」なのであろう。弾圧した評価で出世が決まるなど、まったく、悪の組織として恥じない評価基準ではないか。


しかしながら、だからこそ、今回のルール違反の罪は重い。天皇陛下を政治利用したどころではなく、天皇陛下を支那共産党の「用具」としたわけである。これは万死に値する。


安倍さんは「この政党はついに危険水域に入った。打倒せねばならない」とまで言った。それもそのはず、小沢は胡錦濤に向かって「人民解放軍の司令官として頑張る」と忠誠を誓っている。その「解放軍」とやらは、チベットでもウイグルでも鬼畜の所業を行った外道集団である。この理屈でいくと、もし、日本で行われている平和的なデモが、日本自治区を管理する「中国共産党委員会委員長・小沢一郎」率いる解放軍に弾圧されて、一万人規模の日本人が殺されたり、捕まって拷問されたりすれば、小沢に「支那共産党国家主席のポスト」がみえてくるのかもしれない。

剛腕と言われながらも策士でもあるらしいから、そのくらいの「狙い」があるのかもしれん。それに、日本の政治家よりもお似合いだ。
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