「男は黙ってサッポロビール」というCMが流行ったとき私は1歳。まだビールは飲んでいないと思うが、そのCMに出ていたのが三船敏郎だ。「世界のミフネ」である。
私の車には普通に鶴田浩二の曲が流れたりするから、職場の若い子なんかが乗ると不思議そうにしている。一応、問うてみるも知っていた例はない。とりあえず、年寄りを扱う仕事なんだから、それは勉強不足だと威張っておいた。もちろん、三船敏郎も知らない。下手すれば高倉健や菅原文太も危うい。ちょっと年上、先輩のおネエさんだと知ってはいるが、その際は私が年齢を詐称していると疑われる。あんた、ホントはあたしより年上なんじゃ?と笑わないで問うてくる。私も早く大人の年齢になりたい。三船敏郎を語ってもおかしくない年齢になりたい無理かそうか。
というか、羨ましいのである。我々世代には碌なのがいない(武田鉄矢は別格)。「世界に通用する映画スター」がいない。いや、渡辺謙とか寺島しのぶは知っている。しかし「世界に通用する」かどうか、なんというか「反日プロパガンダ映画」に飛び付くかどうか、は重要なポイントではないだろうか。政治的に利用される木偶の棒を、海外の映画に出たから、というだけの理由で「スター」と呼ぶのは先人に失礼だ。安モン臭いのである。
例えば三船敏郎は「キネマ旬報」で<私は日本と日本人のためにこれからも正しい日本人が描かれるよう断固戦っていく>とか述べる。NHKでも「中国で頑張る日本人俳優」とか特番をやるが、その日本人像とは卑怯千万、卑劣で変態で臆病で狂信というステレオタイプ。こんなのを何の疑問もなく、それこそ「ぷろいしき」とやらで「仕事ですから」とやれるほうがどうかしている。そしてそれが<正しい日本人が描かれる>と思っているところも浅い。いとも簡単に「過去を反省しなければ」「戦争は悲惨だと思いました」みたいな小学生レベルのコメントを出して反日工作の片棒を担ぐ。
渡辺謙がすごいかどうかはともかく、米中が作った映画「シャンハイ」とか、あんなの「映画人」なら躊躇うのが普通だろう。それから先ず、申し訳ないが当時の上海に「日本人租界」はない。上海北部の虹口区は日本人居留者が多くいただけだ。いわゆる「小東京」は大東亜戦争途中まで日本の租界地ではなかったし、そこで日本人がやったのは、例えば2万人のユダヤ人をナチスから保護したりした。べつに「陰謀渦巻く上海・・・」みたいになっていない。知ったこっちゃない。
そういう意味では「キャタピラー」も酷かった。主人公、寺島しのぶの夫は支那戦線で村に火をつけて村娘を強姦する。爆撃で四肢を失った自分が妻、寺島しのぶに虐待され、そのときの記憶に重なって気が狂う。なんのことはない、これもステレオタイプの「日本軍イメージ」だ。そしてこの映画で寺島はベルリン国際映画祭、主演女優賞になった。嬉しいのだろうか。
そうえば「ザ・コーヴ」も第八十二回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門を獲ると、朝日新聞の記者が喜んでロサンゼルスから記事を書いた。そこには<年2万3千頭が不必要に殺される>とか<水銀で汚染されたイルカ肉が学校給食に使われている>というウソをそのまま載せ、受賞した理由を<環境保護映画にとどまらない味付けを加えたからだ>と解説もした。普段から記事を反日風に「味付け」したり、事実を売国で「味付け」する朝日新聞に「ドキュメンタリー映画で味付け」の矛盾がわからないのは仕方がないが、隠しカメラで撮影したり、警察官に追われることを普通の人は「味付け」とは思わない。それより朝日は<水銀で汚染されたイルカ肉が学校給食>に反応しなくていいのか。本当だったら事である。書いているのは一応、日記じゃなく新聞記事だろう。
また、えげつないのが香川照之。正直、邦画に出演する彼は嫌いではないが、少し前の支那共産党映画「鬼が来た」では2000年のカンヌでグランプリだった。反日プロパガンダ映画で日本人俳優を使い、ロビィ活動をして世界的に有名な賞をなんとかする。映画は有名になり、世界中で多くの人が観る。イヤでも日本に対するイメージは作られていく。
最近では映画「ジョン・ラーベ」があった。香川は朝香宮鳩彦王の役だ。ネットで動画も見れるが、ざっと見ただけでも酷いモノだった。お勧めはしない。映画の内容は単純だ。南京攻略戦で日本軍が残虐なことをする。それを窘める日本軍将校もいるけど、そこで香川扮する朝香宮鳩彦王が「天皇陛下の御意志である」とか「明日、生きている捕虜はみたくない」とやる。実際には殺人事件など「一件も目撃していない」ジョン・ラーベの眼前で殺戮が繰り広げられる。ただの戦争屋が支那人民の命を守るため、日本軍の構える銃の前に身を投げる。さすがに「そのシーン」には笑ってしまった。
ほとんどコミック映画だが、そのエンディングには「30万人」の字幕でオチもつく。こんな阿呆な映画に出た香川は<脚本を見た時に、この映画に出るべきだと思いました。その国際的な視点は現代の観客の反省を促すことができるからです>とか<この映画を見て、本当に日本人は残忍なことを多くしたのだということを知りました>と支那共産党が小躍りするコメントを吐く。また、偉そうに<確かにそれを受け入れることは非常に難しい。難しいですが、現代の人たちにこの歴史を語る必要があります>とか井筒みたいな上から目線で不勉強を晒す。香川が馬鹿なのは勝手だが、せめて「南京事件?さあ?仕事ですから」で済ませられないのか。歴史認識云々を問われたら「ボクは俳優ですから」とかわせないか。
案の定、香川は支那共産党から絶賛されて、北京から贈られた「ラーベ平和賞」の初代受賞者になった。意味を知っていればゴミ箱に捨てるレベルだが、本人、嬉しいのだろうか。
三船敏郎は戦時中、熊本の隈之庄基地に配属される。特攻隊の基地だ。そこで出撃前の隊員の「遺影」を撮る。少年兵の教育も任されていた。自分が育てた若すぎる兵隊は南の海に散って行く。三船はそれを見送りながら<私は日本と日本人のためにこれからも正しい日本人が描かれるよう断固戦っていく>と誓ったのだろうか。悲し過ぎる「誇り」を感じ、且つ、それが汚される危惧も覚えたのだろうか。だから「頑張っていく」とか「努力する」ではなく<戦っていく>という決意を言ったのかもしれない。
また、そういう「日本人」は世界から称賛される。国際社会の中で認められて尊敬される。「映画だからウソでもいい」じゃない。本当の映画人は「リアルさ」こそを追求するからだ。だからこそ「嘘の種類」は問われねばならない。
私が生まれた1971年に公開された映画「レッド・サン」。フランスとイタリア、スペインの共同制作だ。共演はアラン・ドロンにチャールズ・ブロンソン。いまならトム・クルーズとかディカプリオになるか。しかもテーマが「サムライ西部を行く」みたいな感じだ。観ればわかるが(ビデオ屋にGO)三船がカッコイイ。なんというか、ジャッキーチェンも西部劇の舞台でやったが、アレとはぜんぜん違う「真の迫力」がある。ファンには申し訳ないが、三船敏郎と比せばアラン・ドロンは存在が薄いし、ブロンソンはチンピラみたいになる。というのも、三船敏郎は「日本の侍」に対する「偏見」を突っぱねた。いわゆる欧米史観による「SAMURAI」の持つ紋切り型の不自然さを覆した。つまり「おかしいこと」を見つけ出し、それを摘まんでおかしいと言った。
だから世界のスターらも憧れた。「羅生門」でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞すると、世界の本物らは称賛して学んだ。様々な世界的作品に影響を与えたことは言うまでもなく、欧州では「サムライブーム」になった。映画「用心棒」はその後「マトリックス」や「ボディガード」になった。ブルース・ウィリスは「ラストマン・スタンディング」として完全コピーした。世界の一流が「一流」に驚愕した。
これも有名な話だが、ジョージ・ルーカスも飛び付いた。「オビ=ワン・ケノービ」を三船敏郎に頼んだ。それが「子供っぽい」と断られると「ダースベイダー」を頼んだ。三船敏郎が出演すれば、ベイダー卿は「素顔」という設定だった。仕方がないから日本の鎧兜をモデルにマスクをつくった。伊達政宗だ。それでもルーカスはあきらめ切れず、シリーズ最後にも「ベイダーの中身」を依頼して断られている。「ベストキッド」も断った。あんな時代考証を無視した映画には出なかった。だからリメイク版では舞台が北京になった。「カラテ」はジャッキーチェンのカンフーになる。出なくて正解だった。
それでもアラン・ドロンは三船を「神のような存在」と言った。香水の「SAMOURA」はサムライ、三船をイメージしたモノになる。世界の映画スターが「ミフネが出るなら」と脚本も見ずに出演を決めたとか、その逸話たるや枚挙に遑がない。また、亡くなったとき欧米のメディアは「トシロー・ミフネの死去」としてトップニュースだった。日本で言うと「マイケル・ジャクソン」レベルの扱いだった、と言って差し支えない。
そんな世界的映画スターの日本人は<私は日本と日本人のためにこれからも正しい日本人が描かれるよう断固戦っていく>を言った。これはナショナリズムとか、偏狭な愛国心などではなく、当時の多くの日本人が共有する「常識」ではなかったか。「職業」の前には倫理があり、その倫理感からなる「常識」こそが国際社会の中で信頼に値する根拠になり得た。世界の国々は浅薄な売名行為や金儲け、つまり「個人」のことを優先する国民がいる国は「後進国」と看做していた。要すれば「見下してもよい」ことになっていた。
三船敏郎が満州の「陸軍第七航空隊」に配属されたとき、世界は支那の「国家観の喪失」を知っていた。支那人民からすれば「ナニ人」かどうかなど、とくに問題ではなかった。どこが支配しようが関係ないし、自分らが腹いっぱい、安全安心に暮らせるならどこでもよかった。背に腹は代えられぬ、民族としての誇りとか伝統文化など二の次になっていた。だから支那は強国から切り分けられた。朝鮮は日本が併合するしかなかった。つまり、国民の「国家観の喪失」とは亡国を意味する。
妙な言い方だが、三船敏郎は「日本人」より「日本人」な日本人だった。世界のトップ、本物らは三船敏郎の「本物の日本人」に感動した。そして、三船敏郎もそれを大切にした。
これも有名な逸話だが、日本人女優の浜美枝が映画「007は二度死ぬ」の撮影でロンドンにいた際、白人男性とダンスホールで踊っていた。そこに滞在中だった三船敏郎が割って入り、刀を抜くふりをして<日本人の誇りを忘れるな>と一喝したとか。たぶん、酔った際のジョークの類かと思われるが、いまの日本人俳優の無邪気さをみるに冗談でもない。南京虐殺に皇室を巻き込む香川なんか日本刀で斬り殺されるかもしれない。
また、俳優はともかく<私は日本と日本人のためにこれからも正しい日本人が描かれるよう断固戦っていく>は政治家や外務官僚が胸に抱かねばならない言葉でもある。日本国の名誉を護ることは使命の一環であるはずだが、過半の政治家や官僚は<正しい日本人が描かれるよう>などとは考えてもいない。連中は「男は黙って」で黙っているわけではなく、黙っているほうが楽だからそうしている。もしくは、何らかの理由があって意図的に黙っている。連中は三船敏郎の「七人の侍」と「日本海大海戦」を百回観たほうがいい。香川照之は観なくていい。DVDが汚れる。
ところで―――三船敏郎はアメリカに行った際、空港税関係員に「Do you have any spirits?」と問われる。あんたはなにか、蒸留酒を持っているのかい?という意味だ。それに対して三船は「Yes! I have Yamato-Damashii!」と答えている。
三船敏郎 七人斬り
日本の心ある政治家、官僚の方々よ。
蒸留酒は持ってなくとも「大和魂」は忘れないよう願いたい。
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