忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

牛、うしをまもりたいのです・・・うしのにくを・・

2010年05月10日 | 過去記事
昨年、ついにサラリーマンを辞めてからもうすぐ半年になる。早いもので、もう、貯金がなくなdhうぇふh(泣)。サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ~♪という流行歌があった時代ではないが、まあ、実際はそんなこともなかった(笑)。もちろん、大事なことは「どこでするか」ではなく「なにをするか」であるから、自営業でもちゃらんぽらんはいるし、サラリーマンでもしっかりしている人もいる。

しかし、やはりもう、懐かしいと感じてしまう。以前の部下が来てくれたりするから、余計に思い出してしまうのだろう。「いま、どうしてるの?」などという会話をすれば、もう随分と昔に感じるが、まだ、半年なのである。だから、まだ「無職」も多いww

そして、私が懐かしく感じるのは何かと言えば、それは毎月頂ける給与ではなく、もうすぐもらえる賞与だけではなく、なんというか「仕事そのもの」だったりする。もちろん、まったくの畑違いの仕事であるから、新鮮なこともあったし、新しいことも少なくない。だが、それはそういう類のものではなく、とくに「パチンコ屋がまたやりたいなぁ」などとは全く思わない(嫌だからではない)。ともかく「仕事」という「そのもの」に対する「感覚」が懐かしいと感じるのである。ちょっと説明してみよう。

先ず、いまは「独り」である。これが決定的に違う。上司も部下もいない。先輩も後輩もいない。ちょうど、団体競技に慣れ親しんでから個人競技をする感覚だろうか、よく考えると、私は生まれて初めて「独り」で「(経営ではなく)仕事」をしていると気付く。

チーム練習は無く、それらはすべからく「鍛錬」となる。極論すれば、誰にも相談しないし、誰からも相談が無い状態だ。しかしながら、それは過日「元店長」が愚痴っていたような「人と話がしたいんですわ!」でもない。彼が言う通り、山田バーにはお客さんとして誰か来るから「話し相手」には事欠かない。隣近所さんにも可愛がってもらっているし、配達や冷やかしも来るから、お陰さまで「誰とも話をしない日」は無い。というか、以前と比して「私にはちょうど良い量」なのかもしれないとすら思う。楽でいい。

しかし、例えばこういうことがなくなった。

「一死2塁3塁でショートにゴロが来たらどうする?」

「7回表の攻撃、3点リードで一死走者2塁、次の打席は9番だが、今日は当たっている」

とかね。ま、などと思い出すに、私は自分のポジションとか力量なんかを思い出すのである。やっぱり捕手だったとかww
チーム一の俊足とかじゃない。長打力があるか・・・といえばそうでもない。守備範囲が・・広くない。速球は・・・120キロで変化球なし。バントも上手くないし打率も低い。

私はようやく自認する(遅いけどw)。

私はおそらく「ケース・バイ・ケース」に強い。臨機応変、そのときそのとき、うぅ~~ん、どうしよう・・が大好きなのである。「何か」が起こった時、先ずはそれを認識する。その後、優先順位を組み立て、必要な措置を考えて段取りしていく。ゴロは取れないけど、ゴロを取るのが上手い奴を知っている。そして、そいつが懸命に取ったボールを何処に投げようかと逡巡することを予期して、正誤は結果論だが、ともかく、そのときにはもう指をさして声を出す。いわゆる「流れ」というやつだ。

http://sankei.jp.msn.com/economy/business/100508/biz1005082045006-n1.htm
<過去最悪の6万匹殺処分、広がる口蹄疫の影響 宮崎>

上手い下手ではなく「現場感覚」というものがある。長年、そういう現場にいると、自ずと皮膚感覚で覚えてしまうことだ。私はそれが少しだけ上手かったのかもしれない。決してスーパープレイヤーではないが、なんとなく健康で毎日来る、いつも元気で機嫌が良い、頭の中は常にマイナス思考だが、口から出す時にはプラスに変容させる。それだけだったが、まさにそれこそ「loopy」ではなく「simple」なのだ。また、好奇心をもって「職務以外」や「職責以外」にも目を向ける。無論、それらの応用も必須だ。スーパーの店長や飲食店での店長の経験も役立つことになった。それに底意地が悪いから、人の仕事にも興味を持つ。「友愛」などとはほど遠い「疑念」から再確認も躊躇わない。ま、自画自賛が過ぎる言い方をすれば「その仕事観からなる応用術」は私の長所だったのかもしれない。

今の民主党を見ていると「そこそこの選手」もいるに違いなかろうと思う。とくに2軍や新人には素晴らしい選手もいることだろう。しかしながら、まったくチームとして機能しない。最近、もはや「OBチーム」のような政党が出来て、周囲の口が悪い人間はいろいろ言うが、明らかに民主党の「チーム力」は劣っているのではなかろうか。いや、あくまでも「政権政党として」の話である。

<宮崎県で家畜感染症の口蹄(こうてい)疫が拡大している。殺処分される牛や豚は計約6万匹に上り、国内で過去最悪の事態だ。感染拡大防止のため県内7カ所の家畜市場が閉鎖されたほか、県外で肥育され、各地の地元ブランド牛として商品化される子牛が出荷できないなど口蹄疫の影響が広がっている>

まあ、畜産業でもない限り「口蹄疫」と聞いてもピンとこない。私も初めて知った。しかし、農林水産省の官僚や関連施設の専門家はそうではない。支那朝鮮で口蹄疫が発生した時点から危機感を持っていたはずだ。それが現実の問題として宮崎県で発生したという報告があった際も、然るべき部署が然るべき対応を取る必要に迫られたことは言うまでもない。2000年にも発生したらしいが、そのときは即座に100億円の予算を作り、全力で抑え込んで功を奏した。感染は最低限に抑制された。また、今回はとくに感染するスピードが速い「豚」の汚染を許してしまっている。


<農林水産省によると、過去に口蹄疫が発生した際に処分された牛の数は明治41年に東京などで約500匹、平成12年に宮崎県で35匹、北海道で705匹。今回は、4月20日の1例目から5月7日までに、感染疑いが見つかった農家や施設は川南町を中心に計43カ所。国内で初めて豚の感染疑いも見つかり、処分対象は約5万9千匹、うち5万匹以上を豚が占めている>


テレビ報道はほとんどないようだが、宮崎のメディアを含め、報道された経緯を追うと、ウィルスは韓国と同じ血清型のO型、感染経路は支那から来た「稲わら」ではないかと言われているが、こういうときはデマも飛び交うのでなんとも言えない。ただ、だからこそ、いまさら「感染の恐れがあるため報道を自重している」といわれても、マスコミ関係者が電話を知らないとは思えないし、空気感染するらしいが、ホラー映画じゃないんだから「電話感染」はしない。つまり、これは自主規制というか、報道規制がなされているのではないかと邪推するのである。

まあ、最悪なことは最悪の時に起こったりするものであるから、民主党政権に上海万博となれば、なかなかテレビも扱い辛いことだろう。イギリスで発生した時は、空港で消毒液のプールで足を洗わされて、荷物から体から全部消毒されたというが、そんなことをすれば、なにもなくとも「7000万人も入るわけない」上海万博の集客に影響するかもしれない。そんなことになれば、支那共産党の野戦部隊隊長率いる友愛民主党が叱られることになろう。現政権からすれば、口蹄疫を抑え込んで日本国民から評価されるより、支那の皇帝に抑え込まれている方が賢明だと判断したのかもしれない。ま、邪推であるが。


宮崎県で発生したとわかったのは4月20日だが、この国の農林水産大臣は「だいじょうぶ」だと判断したのか、そのまま10日後の30日に「外遊」に行った。もちろん、外遊だからといえ外国に遊びに行ったわけではない。ま、キューバが予定に入っていることは不思議だが、それでも日本の国益を計るために成田空港から南米に飛んだのであろう。しかし、現実としてその間、口蹄疫は絶大なる広がりを見せた。まさに過去最大、過去最悪の被害が想定される。政治は結果責任であるから、いずれにせよ責任論は浮上するだろうが、それにしても最悪に過ぎるタイミングだったことは否めない。



冒頭、サラリーマン時代の話を書いたから続けるが、こういう困ったことは「最悪のタイミングで噴出する」場合がままあるということだ。誰にでもありそうな経験だが、例えば「転勤初日に発生するトラブル」なんかもそうだろう。なにがどこにあるのかもわからないまま、次々と連続するトラブルに「場当たり的な対応を取らざるを得ない」ようなことがある。それによって問題は悪化して拡大するも、どうにかそれを軟着陸させた経験などは、その後の「赤提灯研修」などの掴みネタになったりもする。

しかし、だ。現場と経営者との指針における乖離、問題意識の齟齬、あるいは認識レベルの差異などが顕在化するとき、それは企業であれ国家であれ、時にそれは致命的となる。

管理職とは普段、極端な言い方をすれば「何もする必要が無い」場合もある。スムーズに現場が稼働していて、トラブルもなく、平穏無事に仕事が進んでいる奇跡のような瞬間のことだ。私の口癖は「発生しているトラブルは常に二つと想定して動け」だったが、これは「そういう瞬間」が続くという錯覚を戒めるためでもあった。緊張感の弛緩が慢性化すると、くだらぬミスから問題を悪化させ、痛恨のミスにつながる危険が常にあるからだ。遵って、そのような「奇跡の瞬間」は瞬間に過ぎず、継続的に続くことはあり得ないのである。状況は常に変化するから、体は動いていなくとも、管理職の思考は常にぐるぐる回っていないと困ることになる。多少、腹が出ていてもいいから、頭と心だけはすっきりさせておかねばならない。仕事なんだから。

また、よく「悪い報告こそ早くせねばならない」と言われる。初動が遅れると取り返しがつかない場合があるからだ。現場や管理職が「判断」して報告に来た際、トップがすることは「決断」であるから、その一連の「仕事」がスムーズに運ぶようなシステムを具備している必要がある。これは人が変わったり、状況が変わったりするから、定期的なリメイクと関連する部署には周知させておくことも肝要だ。「こうなったらどうするのか?」はいくつも議論されていなければならない。ある一定数の「こうなればこうする」は、何もなければ無駄に見えるが、何かあった時には絶大な威力を発揮する。そして、管理職とは「何かあった時」にこそ真価が問われることになろう。

まあ、これは「普通の会社」での話だ。それこそ「そんなもん、普通にやってるわい!」と叱られるだろう。しかし、ごく稀に「そうじゃないとこ」もある。残念ながら。

簡単に言うと「トップが愚か」な場合だ。例えば、こんなことがあった。

きっかけはケアレスミスだ。パチンコ屋で入れ替えをする際に必要な書類がいくつかある。詳しく書くつもりもないが、まあ、そこで発生したケアレスミスだ。ここを読んでいる「元店長」や「元副主任」は目が痛いかもしれないが、要するに「メーカーの開店日」と「店のチラシ」の日付にミスがあった。例えば、所轄警察に提出する書類には「15日」と書いてあるのに、店のチラシには「7日導入!」となっている。チラシはもう刷り上がっている。無論、その数は1枚や2枚じゃない。それが丸々無駄になるわけだから、ンなもん、レンホーがいたらめちゃ怒られるだろう。仕分けされるかもしれない。

私は休日にも会社に何度か電話を入れた。台湾には携帯電話を持たずに行って後悔したから、国内旅行はもちろん、パラオにもちゃんと持って行った。松下幸之助の真似で「なにかないか?」と電話するのだ。まあ、「なにもないです」と返されることを期待して電話をかけるのだが、その日は電話がかかって来た。ということは「ろくでもない話」だと知れている。休日にわざわざ「良い天気ですね」などと電話をかけてくる阿呆はいまい。

私は映画を観ていた。それは報告だった。

また、先のトラブルでは、およそ大きく二つの選択肢がある。

1:所轄警察に説明して書類を出し直し、チラシ通り「7日」にオープンする
2:所轄警察の信用を落とさぬため、チラシ代はあきらめて「15日」にオープンする

無論、いずれにせよ「メーカー」と「会社」と「広告会社」を交えて相談せねばならない。しかし、往々にして「こういうときは時間が無い」わけだ。こんな阿呆みたいなことは想定の範囲外だっただろうし、これは必ず、あとで責任論が沸き上がる話だ。どこかが安くはない金を損するわけだから、みな、話し合いも慎重にならざるを得ない。しかし、無駄に時間をロスすると、選択肢は「最悪なものが残る」のが常である。だから急がねばならない。急がねばならないが、急いては事をし損じることもある。急がば回るが、最短距離を最高速度で走り抜けるのが最善ということもあったりする。ま、要するに「判断から決断」への移行のことだ。

もちろん、誰も責任を取りたくない。本来、絶対にあってはならない見逃しをした「店側の管理職」はメーカーの所為、本来、絶対にしてはならない記載ミスをした「メーカーマン」は開き直る。なんちゃって大手は「態度が大手」なのだと知る。私は映画を見ている。会社にはもう「社長マン」しかいない。「藁をも掴む」思いで「元店長」は社長室に行く。

私が受けた報告は次のようなものだった。

・店側が書類の確認を怠り、日付の記載ミスに気付かなかったことにして「7日」にオープンさせる(メーカーマンは会社から咎められない)
・立ち入り検査の際、所轄警察が書類の日付に気付いたら白々しく振舞う(それくらいで検査を中止にはされないだろうという憶測)
・メーカー担当者はミスを認めるがメーカーに報告はしない(見返りに次の入れ替えでは優先的に新台を提供してくれる。大手メーカー担当者に恩を売ることは得策※社長マン)
・結果的に「地域最速導入」になってしまうため、社長マンがメーカー本社に行って「我が社が間違えてオープンしてしまった」と詫びる

これが自叙伝を出そうかという「辣腕経営者」が出した「決断」であった。私が電話を切ったあと、家族との食事を中止して大阪に走ったことは言うまでもない。

このとき、社長マンが繰り返したのは「自分が責任を取る」とか「最後は自分が決める」とか「ベストを尽くす」などの抽象的な精神論ばかりであった。無能なトップは似るのである。社長マンは自社の管理職にも「任しておけ」と言いたかった。大手メーカーマンにも器量があるところを見せたかった。要するに八方美人に過ぎぬ無策を晒していたのである。無能なトップは「それしかない」のである。

私は会社に向かう車の中で考え、到着したら情報を再確認し、再度計算した結論を持って社長室に向かった。結果から言うと、全てひっくり返した。「検定書類」に記載されている通り「15日」にオープンさせた。社長マンは当初、不満だったらしく、私にすら「責任は俺が取る」と恰好をつけた。私が「どうやって責任を取るのか?」と問うも、まったく具体的な説明は出来なかった。当たり前である。理解が足らないことを自覚せず、己の不勉強を自覚せず、その立場だけを利してモノを言うレベルの人間にある「責任」など、その根本が瓦解している。だから、この程度の人間は「下げる頭の方向を間違う」のである。

どこかの総理大臣が沖縄や徳之島に頭を下げているのと同じく、この社長マンはメーカーに頭を下げようとしていた。お門違いも甚だしいのである。総理大臣が頭を下げるべきは国民であり、この社長マンが下げる頭は顧客に向いてねばならない。これくらいのことが、こいつらにはわからない。阿呆なトップは似るのである。

問題を解決した後、先ず、口を尖らせる部下を叱った。大手であろうが阿呆は阿呆だから信用するなと怒鳴りつけた。なんのために管理職がいるのかと述べた。メーカーマンには皮肉を言った。無理な穴埋めなどせんでいいから、頼むからちゃんと仕事をしてくれと頼んだ。広告会社には謝罪して作り直してもらった。お客さんには管理職を入口に立たせて説明させた。謝罪文を作成して各箇所に貼付した。元店長には頭を下げて、1日そこで立っていろと告げた。疲れたら代わってやると言ったが、彼は疲れなかった。

メンツや体裁を繕うことから「決断」はブレる。都合のよい情報しか頭にないか、もしくは、情報自体が頭に入らないかで「判断」は狂う。すなわち、事の本質を見誤る。

トラブルが「起こるべくして起こった」のなら、その解決策とは「すべきことをする」ほかないのだが、そこにいらぬ見栄や虚勢が混じるから周囲をも巻き込んで問題をこじらせる。

本来、大したことのない問題でも阿呆がかき混ぜると致命的なミスとなることもある。日米で合意が済んでいた「普天間基地問題」を政局に利用して追い込められている友愛脱税も同じく、初動が肝心要である「危機管理」の杜撰で被害が止まらぬ口蹄疫も、優秀な官僚が動けぬ環境を作っている民主党執行部の所為である。鯛は頭から腐る。腐った頭に挿げ替えた悪影響は、日本の背骨を腐らせるまで止まらない。

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