東京都文京区の東京ドーム近くに旧陸軍の兵器工場跡のレンガが残る。東京の戦争遺跡を歩く会の長谷川順一さん(73)は、この夏もこうした都内の戦跡をめぐり悲惨さを伝える平和案内人のマイクを握る。東京生まれの長谷川さんが新宿区議を経て、戦跡ガイドを始めて10年。ガイドはこれまで約400回、案内した人は延べ約6000人に上った。
長谷川さんの父は旧陸軍兵士として2度出征し、砲弾や物資輸送を担当する輜重(しちょう)兵として中国大陸を転戦した。父は軍隊経験について多くを語らず、長谷川さんが16歳の時、急逝した。「旧日本軍は父が運んだ砲弾・銃弾で中国人を殺害した」。長谷川さんが平和案内人を続ける原点には戦争にかかわった父の罪の償いを果たしたい思いがある。案内の際は父の出征時の写真も見せながら平和の大切さを伝える。「今日の案内でみなさんに平和のバトンを渡したつもりです。しっかりつないでください」。長谷川さんは若者相手のガイドはこう締めくくる。猛暑の夏、平和のバトンがつながれる。【遠山和彦】
1988年9月、千葉市の路上。千葉県土地収用委員会で会長をしていた小川彰氏が襲われた。襲撃者は数名で小川氏は両手両足を複雑骨折させられた。鉄パイプやハンマーなどで肘や膝を砕かれていた。支那伝統の拷問処刑「車裂き」だ。
周囲の電話線があらかじめ切られており、以前からも収用委員会の各委員の自宅や車は放火の被害に遭っていた。委員会の親玉を再起不能にした中核派は「革命軍軍報」で犯行声明を出した。小川氏は2003年、後遺症と治療を苦に自殺している。
この土地収用委員会は当然のことながら「成田国際空港」の収用手続きもしていた。事件はまさに「10.20成田現地闘争」の3年後だった。このとき「報道関係者は警察の検問を受けない」というマスコミの特権を悪用し「TBS」は取材器具を積んだ車に武器を乗せて運んだ。中核派ゲリラや、それを支援する極左グループの手にコンクリート片や火炎瓶、鉄パイプが配られた。TBSとは東京放送、毎日新聞の関連会社である。
この「平和のバトン」のお爺さんは、旧日本軍陸軍兵士だったお父さんに対して「旧日本軍は父が運んだ砲弾・銃弾で中国人を殺害した」と糾弾し、自身を「平和案内人」と称して現代の日本人に平和を説いて回っているそうだ。それを「戦争でもないのに極左ゲリラに武器を渡していた新聞社」が記事にしている。お父さんは「中国人殺害のための弾薬を運んだ」と未だに言われ続け、その息子である長谷川さんは「平和案内人」で「平和のバトン」だそうだ。
長谷川さんは73歳とのことだ。敗戦の日は7歳か8歳だった。お父さんは、祖国で生きる息子のために、命を賭けて砲弾を運んだんだろう。「平和のバトン」ならぬ「命のバトン」を繋げたい一心で、蛮族が跋扈する危険な支那大陸で軍事行動を果たしていたのだろう。まさか戦後、その平和になった日本で我が子から「戦争にかかわった父の罪の償いを果たしたい」と言われる日が来るとは思いもしなかったのではなかろうか。これほどの無念があろうか。しかも、その子は極左ゲリラに武器を手渡す新聞社にて紹介されている。その新聞は「100人斬り捏造」をした新聞である。
「みなさんに平和のバトンを手渡したつもりです」
長谷川さんは若者に言う。血涙を流す父親が、その背中に立ち尽くしている。
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久代千代太郎
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