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忘憂之物

さっさと死ねるよう…麻生氏、終末医療巡り発言




さっさと死ねるよう…麻生氏、終末医療巡り発言

<麻生副総理は21日、首相官邸で開かれた社会保障制度改革国民会議で、終末期医療の患者を「チューブの人間」と表現し、「私はそういう必要はない、さっさと死ぬんだからと(遺書を)書いて渡してある」と語った。

その上で、「死にたいなと思って、生かされるのはかなわない。政府の金で(延命治療を)やってもらうなんてますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと解決しない」と述べた。

 麻生氏はその後、財務省内で記者団に対し、「私の個人的なことを申し上げた。終末医療のあるべき姿について意見を申し上げたものではない」と釈明した。また、「公の場で発言したのは適当でない面もあった。当該部分について撤回し、議事録から削除するよう申し入れる」とするコメントを発表した。(2013年1月22日07時31分 読売新聞)>









超党派の議員連盟「尊厳死法制化を考える議員連盟」が「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案」の成立を目指すと、すぐに「尊厳死の法制化を認めない市民の会」が発足して抗議の記者会見をした。

賛同人は自らを「インテリ・リベラル・おじさん」と称する思想家の内田樹ら。呼びかけ人は平川克美。ここにあと2人、2009年の自民党敗北は「ネトウヨの主張を真に受けたことが原因」と真に受けた分析をした小田嶋隆。町山智浩はアメリカ在住の韓国系日本人。ややこしいが職業は映画評論家。持論は「天安門広場での虐殺はなかった」。

多数の写真やら外国人メディアの報道は支那を陥れるための「捏造」。南京虐殺記念館の時代じゃないんだから、あれほど「生」の情報量相手に「なかった」とは恐れ入るが、広場以外では人民軍兵士含む300人が死んだ(共産党発表)そうで、それは「学生側リーダーが呷ったから」という支那共産党の言い分そのままの御仁である。これらを足せば、あら不思議、福島瑞穂も大好きな「9条どうでしょう」の著者らになる。

また、同法案はべつに「終末医療の患者は金がもったいないから死ね」と言っているわけではない。簡単に言うと患者本人が「尊厳死」を望み、2人以上の医師が「終末期」と判断した際、延命措置を中止しても医師や医療関係者の刑事責任が問われない、ようにする法案だ。つまり、いままでどおり、わしゃ延命措置を望むぞい、という長生き爺さんは勝手にすればよろしい。もうすぐ後期高齢者になる麻生副総理もそう言っている。

しかし、この「市民の会」は許してくれない。「同法案は人間の個人的な死に関して国家が介入するという政治的なもの」と批判する。それから「増大する医療費の圧縮や臓器移植への期待」があるんじゃないの?と皮肉ってから、彼らには使って欲しくない言葉「死の尊厳」を掲げて反対する。あんたらは「生の価値」とか「命を守りたい」とか言っていればよろしい。特攻隊は無駄死に、沖縄戦で死んだ県民は犠牲者、戦犯は戦争犯罪者だから処刑されても仕方ない、という認識のまま「死の尊厳」を扱うのは危ない。

しかし、でもそれなら、と質問される。「本人が意思を表明しても?」には「本人がそう希望しても、体のどこかは生きたいと思っているかもしれない」(平川)。

つまり、私が終末期を迎え、妻や子、孫や友人に「さよおなら」としても、私の腹やケツは「生きたい」と思っているかもしれないじゃないか、ということである。足の裏は死んでもいいと言うけれど、足の甲は「まだ生きていたい」と言うかもしれない。右足の意見はどうだ?左前腕はそれでいいか?右足の親指の爪よ、お前は聞いてるのか?と独り言なら、それはそれで「本人の意志」が尊重に値するかどうか、また、別の問題が出てくる。アタマかココロの病気かもしれない。それに「五体不満足」の著者ならどうする。まあ、ここで左腕の意見を・・・おらんのかい!という自虐ネタが出来る。

同じく賛同者のひとり、作家の大野更沙も「一度、死を自己決定した人も、やっぱり死にたくない、生き残りたいと思うかもしれない」と心配する。車を買いに行くがいい。車種を選んで色を決めて、契約を済ませてから納車の段階で「やっぱいらない。お金返して」と言えばいい。たぶん「ああそうですか」で済まない。それなりの費用は請求される。「自己決定」を馬鹿にしてはならない。そこを侮るなら「尊厳」など無意味化してしまう。人生でたった一度、且つ、最後の自己決定である。そんな「気が変わったらどうする」みたいなイチャモンを挟む余地はない。その決定こそ「尊重」されねばならない。

延命措置をしてくれ、と言う人はいて良い。でも、そうじゃない人も許してほしい。そして「そうじゃない人」はそうならないから困っている。世話になったお医者さんに迷惑がかかる。下手すれば訴えられて刑事罰を問われる。身内が承諾しても、不気味な「市民団体」が許してくれない。それは困るから「法制化」してくれと言っている。

私も今年42歳になる。気が早いけれど、妻とも意見交換している。私は「延命措置は勘弁して」だ。最後の最後、妻は「私の意志」を尊重してくれると信じる。「チューブおとしゃん」になっても嫌いにならない、とは言ってくれるが、それでは私の気が済まない。金の問題でもないが、現実問題としてまったく無関係でもない。実際に安くない金も必要だ。

最近は「延命治療」という矛盾した言葉も跋扈する。内田樹は「憲法9条と自衛隊の矛盾は矛盾しない」と著書でも言うが、治療とは延命も含意する言葉だ。つまり「平和軍隊」みたいなものか。本当は「平和を維持するための軍隊」でもあるから矛盾しないが、こういう言葉遊びは往々にして「重複」という誤用になる。右に右折、馬から落馬、頭痛が痛い、男のオッサン、民主党は嘘つき、社民党は阿呆、と同じことだ。

さて、売国メディアが「失言」にしたい麻生副総理の発言。ちなみに全文はこうだ。



 やっぱり現実問題として、今経費をどこで節減していくかと言えば、もう答えなんぞ多く(の方)が知っておられるわけで。高額医療というものをかけてその後、残存生命期間が何カ月だと、それに掛ける金が月一千何百万(円)だ、1500万(円)だっていうような現実を厚生(労働)省が一番よく知っているはずですよ。
 
チューブの人間だって、私は遺書を書いて「そういうことはしてもらう必要はない、さっさと死ぬんだから」と渡してあるが、そういうことができないと、あれ死にませんもんね、なかなか。
 
死にたい時に、死なせてもらわないと困っちゃうんですね、ああいうのは。いいかげんに死にてえなと思っても、とにかく生きられますから。
 
しかも、その金が政府のお金でやってもらうというのは、ますます寝覚めが悪いんで。ちょっとさっさと死ねるようにしてもらわないと、いろんなこと考えないと、これ一つの話だけじゃなくて、総合的なことを考えないと、この種の話って解決がないんだと僕はそう思っているんです。(2013/01/21-19:27)



<僕はそう思っているんです>ということだが、私もそう思っている。それだけのことだ。法制化してくれると安心する。ちゃんと言を遺しておく。一応、ここにも書いておこう。

私の予定では80歳か85歳。体が元気というか、動けるうちに、どこか山奥の小屋にでも行く。もちろん、その前には世話になった人への感謝の手紙などを書いておく。それから宴会だ。「さよおならパーティ」を開催する。費用は無論、全額私が負担する。命一杯、贅沢な催しをやる。そこで直接、いやぁどうも、お世話になりました、とか挨拶を済ませる。

次の日、お好みの肴を用意。相棒はもちろん「サントリー山崎」だ。最後だし「50年」を購入する。とっておきのグラスも忘れないよう、ちゃんと確認してから出発。本も好きなのだけ持って行く。読めるかどうか、わからないけど、それでもそばにおいておきたい。

山を歩いて疲れておく。なんのこっちは80歳以上。すぐにバテる。それから自然の空気を思いっきり吸って山小屋に。そこで最後の「しみじみ」を飲る。飲み過ぎたってかまわない。どうせ酒は残らない。念のために睡眠剤もごくんごくん。人間は5度を下回るところで長くいると、先ず、低体温症になる。深部体温が32度以下になれば重症化、死亡率は5割から8割を超え始める。26度を切れば痛覚もなくなる。脳波も安定する。つまり、もう目覚めないほどよく眠る――――というのがベストだが、世の中、なかなか思うようにならないのも常だ。だからせめて「延命措置は勘弁」の意志表示は尊重して欲しい。それから安心できるように「法制化」もしてもらいたい。

左巻きのくるくるぱーは勝手に「チューブの人間」で長生きすればいい。そこで「これが死の尊厳か」とか思いながら、ベッドで息をしていればいい。ある意味、とても似合っている。


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