忘憂之物

ロッキーの社交辞令

もちろん、偶然なのだが―――

先日、自宅近所の「某有名餃子店」で家族でメシ喰ってたら、隣のテーブルの3人の兄ちゃんが店員になんか言っていた。聞こえたから書くが、それは「もう、あれ、いいや」と言っていた。妻と目を合わせて「遅いから・・?」と言葉を交わした。次はひとつ向こうのテーブルのカップルだ。女性のほうが壁を叩いた。彼氏はまあまあ・・という感じで宥めていたが、それにしてもテーブルには空いたジョッキがひとつだけ、ぽつんと置いてあった。私たちのテーブルには餃子2人前とラーメンが、かなりの時間を要して運ばれてきたが、妻が頼んだ焼きそばは、これまた、そのずいぶん後だったし、それらを喰い終わると餃子がもう一つ来た。まさか、これから鶏のから揚げが来るんじゃないだろうな、と心配になって伝票を見ると、ちゃんと忘れてくれていた。さらに、だ。

映画を観に行ったのだが、少し所用があって遅い時間から出かけた。倅も一緒だったが「服をみてきてもいいか?」と聞くので許可した。時間は1時間弱あったので、妻と二人でレストランに入る。私はハッシュドビーフのオムライスを頼んだ。妻は、なんか、パフェを頼んでいた。私はその日「運命のボックス」を観ることから、トイレに行くふりをして映画グッズを売っているコーナーに行くため、一端レストランを出た。

私はいつも、妻と映画を観るときは、その映画のグッズをこっそり買って忍ばせておくのだ。「動物もの」なんかだと、必ず「主人公のぬいぐるみ」などが売られるが、それを絶妙のタイミングで妻に渡すと喜ぶから、それが恒例になっている。悪戯好きの犬なら、帰り道、私はジャンパーの背中を膨らませて「背中に何か入ったかもしれないから、ごめん、ちょっとみて」とかやる。最近では「シャッターアイランド」を観る際、あらかじめロゴの入ったペンライトを入手しておき、映画が始まる直前、こっそり手渡しながら「島の探検するから、これ持っていこう」とかやる。そんなことくらいで15年経っても喜んでくれる妻に乾杯だが、今回は「運命のボックス」だから、そのような箱があればいいなぁと思った。自宅玄関の前に置いたままチャイムを押して、妻をびっくりさせてやろうと思ったのだが、残念、なにもなかった。いや、そんなことはどうでもいい。

ともかく、5分ほどして戻ると、妻だけがぽつんと座っている。オーダーしたモノが来ていないのは当たり前だが、なんと、水もない。要するにほったらかしだ。私が深呼吸してから「水ください・・・」と言ったのは言うまでもない。

まだ、ある。これも映画だが、先日観た「クロッシング」だ。焼鳥屋でメシ喰ったことはここにも書いたが、そのとき、実は途中で出たのである。時間があるとか無いというレベルではなく、焼き鳥が来るまで30分以上かかる。活きた鶏をつぶしている気配もないし、いったい何事かと思った。それにクソ不味い。というか、これはどうやって食うのか?と思うほどのガシガシだった。妻は「子供がふざけてやってるみたいw」と笑うが、まだ来ていないメニューはもういいと言って店を出た。

なんだか最近、こんなことが続くのである。しかも、共通して言えるのは、それらの店はヒマだということだ。溢れる客がわぁわと活気付き、オーダーするのも一苦労という繁盛店ではない。とはいえ、出来の悪いどこかの国みたいに、客を待たせて話し込んでいるようなことでもない。ただ、不機嫌にダラダラといい加減なのである。また、文句を言おうものなら「気に入らないなら他の店へどうぞ」と平然と言われそうな態度なのである。

これは残念ながら、この布施にもある。しかし、昔からある酒場や洋食屋ではなく、新しくできた居酒屋チェーンやコンビニだ。何かあったのか知らないが、ともかく、不機嫌だ。声が出ていないし、表情が暗い。嫌なら辞めて家に帰ればいいし、体調が悪いなら病院にでも行けばいいのだが、どうやらそうでもないらしい。この前も、布施の「某有名餃子店」にひとりで入ったのだが、なんと、15分ほどは放っておかれた。客は数名、店員も数名である。夕方だった。私はカウンターの端に座ったのだが、そのすぐ後ろから学生服を着た女の子が入ってきた。「おはようございます」と言ったからアルバイトだ。私はすっと座ったのだが、その女の子はもう、カウンターの中の店員とぺちゃくちゃやりだしている。

片付けを終えたのか、皿とコップを持った女性店員も加わった。何が面白いのか、厨房にいるお兄ちゃんらときゃっきゃと話し込んでいる。その「楽しいひと時」を壊したのは、レジに並んだおっちゃんだ。レジの前で伝票をぶらぶらさせながら「おい」とやった。皿とコップを持った女は会話の余韻を引きながらレジに向かった。気の弱い私などは「すいません」と言ったかもしれない。

水も出てこない、オーダーも取りに来てくれない。すいませぇ~ん!とでもやればいいのだろうが、なんか、それも癪だから私は本を読んで空気となった。10分過ぎた頃にはもう笑った。私はこの店のオーナーではない。売り上げ計算しに来たわけでも、業者を待っているわけでもない。餃子を喰いに来たのである。呆れた私がしばらく厨房の中をみていると、ようやくひとりの兄ちゃんと目があった。兄ちゃんは何事もなかったように「ご注文、お決まりですか?」と聞いてきた。私は餃子と中華丼を頼んだ。もう行かないだろう。


私はそういう場合、怒らないことにしている。ただ、黙って、もう行かなくなる。しかし、このままでは、私が最も忌み嫌う「居酒屋メシ」をせねばならなくなる。もしくは接客態度の良いファーストフードばかりか、夫婦でやってるような愛想の良いフランチャイズのコンビニ、まあ、布施には美味過ぎる中華料理屋や洋食屋さんもあるし、今の代が死なぬ限りは外食も悪くないが、そのうち、そんな店ばかりになったら私は嫌だ。外国のスーパーなどのガラガラの売り場で、埃をかぶった商品の中、ダラダラと働く店員や、鼻歌交じりでテキトーに仕事している店員も旅行先だから面白いのであって、ここは日本であるのだ。ちゃんと商品は整然と並んでないと嫌だし、店員は親切で丁寧、ちゃんと働いている店でないと私は嫌だ。安くなくともいいから、ちゃんとした店が繁盛してほしい。

私がよく立ち寄る牛丼屋がある。某有名チェーン店だ。いや、もう書くが、それは「なか卯」だ。しかし、布施にもあるし、宇治市までの道のりには数件の「なか卯」があるが、私が立ち寄るのは、あの時間帯のあの店なのである。いや、もう書くが、それは「寝屋川店」だ。朝の5時半とかにいるから、たぶん、深夜バイトなんだろう。おっと、女の子ではない。

30歳くらいの小太りの兄ちゃんだ。声が高くて笑える。しかし、私の気に入っている理由はそれではなく、彼は食券販売機の清算をする際、小さな声で客席に向かって「失礼します」と言うからだ。そして、ずっと動いている。客は私だけということも少なくないが、それでも、ずっと「仕事モード」でいる。販売機の小銭を抜く際、がしゃ!っと結構な音がする。知らずにメシ喰ってる客は、がしゃ!となればちょっと驚く。だから「失礼します」なのである。マニュアルで決まっているのかどうかは知らんが、他の「なか卯」では聞いたことがない代わりに、がしゃ!どき!はあるある。あるあるのである。


パチンコ屋でも「外から店内に入ったところで黙礼する」というルールがあった。これをちゃんとやる人は、仕事帰りのコンビニでもやってしまう。毎日毎日、それこそ阿呆みたいに言うと、どんなボンクラでも癖になってくる。先ず、歩き方が変わる、口のきき方が変わる、電話の出方も変われば、他人と目があったときの表情すら変わる。

「何か終わるとちゃんと報告する」という癖がついた者は、家で風呂から出ても「出たよ」と言ってしまう。お客さんから可愛がられているスタッフは、嫁の両親ともうまくやれる。部下や後輩の悪口をいう管理職は、子供のことでも悩んでいたりする。上司に擦り寄るしか能がない腰巾着は、自分の親を軽く観ている。デスクに「仕事と関係のないもの」が置かれている奴は、自分の仕事に自信がある証拠だ。結婚記念日や嫁の誕生日を忘れる奴は、仕事における細部が抜ける。チェックが甘いのだ。

賃金を頂いて働くということは、自分を磨くということでもある。「人件費は常に先行投資の性質を含む」のである。「伸びる」ことは前提なのだ。「お待たせして申し訳ありません」が言えない奴は、将来、もっと大切な場面で大事なことも言えない。例えば、好き合って結婚した相手にすら感謝も謝罪も出来ない。些細なことから大きなトラブルになって、これまた、簡単に離婚もする。職場も同じく、些細なことからコミュニケーション不全となり、結局、すぐに辞めたとなる。すいません、ごめんなさい、ありがとね、わるいね、いつもすまんね、日本人は白人みたいに浮いたセリフは吐けないかもしれん。白人は「不器用」が売りのロッキーでさえ、中年過ぎたエイドリアンに「出会ったころのようだ」とか言える。アメリカ映画の中、ロシア人のボクサーをボコ殴りにした後で「戦争反対」とも言える。

しかし、日本人とは日々、小さなコミュニケーションの言葉こそ大切にしてきた民族である。また、コミュニケーション下手だからこそ、ちゃんとした所作を心掛けてきた。あらぬ誤解を受けぬよう、媚を売らずに済むよう、やるべきことは、ちゃんとするように躾けられてもきた。チンタラした顔で、ダラダラやれる仕事などなかった。

「某有名餃子店」で料理が来ずに怒っている女性を見て、口を尖らせ首をかしげる茶髪くんは、未来永劫、口から出るのは文句や不満ばかりだろう。常に自分は悪くないけれど、現実としてうまくいかないわけだから、それは必然的に「他の何かの所為」となる。そして、言うまでもないが「発生する問題」のほとんどは自分に起因する問題のことだから、これまた、未来永劫、解決策など出てくるはずがない。

布施の酒場にいる支那人娘は、半年ほど前、ほとんど日本語を理解できていなかった。昨日行ったら結構な人数の客だったが、私がグラスを飲み干す仕草だけで寄ってきて、にこやかな表情を浮かべて「おかわりですか?」と聞いてきた。視線はすぐに私の手元に移動して、「失礼します~~」と空いた皿を引きながら「今日は鶏のチューリップじゃないんですね」と笑った。私はおかわりとチューリップを頼んだが、実に複雑な気持ちになった。

コメント一覧

久代千代太郎
>空飛ぶカラスさま


ま、人材育成に力入れてる企業もあるんですけどねーそこが支那朝鮮人を重宝してしまうのも無理ないかと・・・
空飛ぶカラス
こんにちは

非常に考えさせられる話しですね


名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「過去記事」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事